西国番外札所 華頂山 元慶寺へ

近江今津駅を12時10分に出た新快速電車を山科駅で下車。目的は西国番外札所 華頂山 元慶寺に行くためです。元慶寺には2006年(平成18年)8月15日の大変暑い日に行った思いでがあります。途中、道を間違えてご近所の方に道を尋ね、間違っていたことに気づいた時はには、熱中症になってました。そんな苦い思い出の元慶寺には、駅前からタクシーを利用しました。

IMG_6691.jpgJR山科駅から元慶寺まで約1.7㌔、地下鉄東西線御陵駅から1.3㌔程度あります。竹生島で階段上り下りを繰り返したので、歩いて・・・の選択は無かったです。

IMG_6713a.jpgこの狭い路地に入って、右手を曲がると2台だけ止められる駐車場があります。あまりにも狭いので、お勧めできないです。軽自動車なら摺っても良かったら・・・😊。

IMG_6712.jpgIMG_6692.jpg渋谷街道から「鐘楼門」までの道幅は大変狭いです。タクシーも入られませんでした。

IMG_6711.jpg鐘楼門の前の石碑は、文字が掠れて読めません。

IMG_6710.jpgIMG_6709.jpg帝釈天等身大立像(京都市指定文化財・平安時代)」「梵天大立像(京都市指定文化財・平安時代)」が本来なら安置されているのでしょう、現在京都国立博物館に出張されてお留守のようです😊。

IMG_6694.jpg「鐘楼門」には千社札が、ベタベタと貼られています。巡礼者が残されたものでしょう。

元慶寺は天台宗の寺院で、華頂山 元慶寺といいます。ご本尊は薬師瑠璃光如来。六歌仙の一人として知られる遍昭(へんじょう)が、第57代陽成天皇降誕(こうたん)に際し868年(貞観10年)に定額寺と称し建立した。877年(元慶元年)に第56代清和天皇の勅願寺となり、元慶寺と改めた。986年(寛和2年)外孫懐仁(やすひと)親王の皇太子即位を画策する右大臣藤原兼家と道兼父子の策謀により、在位2年で第65代花山天皇が退位、出家されることとなった。花山天皇は元慶寺で出家し、花山法皇と称した。その後、花山法皇は徳道上人が創始したのち、廃れつつあった西国三十三所観音霊場巡りを復興したため、これが縁で元慶寺は、西国三十三所番外札所となった。寺格も高く多くの寺領で栄えたが、応仁の乱で焼失。今日に残る鐘楼門、本堂(薬師堂)、五大堂、庫裏は1789年(寛政元年)から4年をかけて、妙法院宮堯恭法親王と真仁親王の御遺志に従った妙厳と亮雄惠宅が再興したものである。鐘楼門の上には菅原道真が勅命により元慶寺のために詠んだ漢詩が刻まれた三代目の梵鐘が再興され、収められている。

IMG_6695.jpg入ると正面が「納経所」です。見たところ誰も居ないようです。

IMG_6697.jpg入ると左手に「本堂(薬師堂)」があります。ご本尊の薬師如来像や開山の僧正遍昭像が安置されてますが、非公開です。

IMG_6698.jpg納経所」はお留守でしたが、庭の手入れをされてたご住職(?)に声をかけ御朱印いただきました。

EPSON135.jpg
御朱印は「西国三十三ヵ所草創1300年」の印入は無かったです。番外札所のため散華はありません。

IMG_6699.jpgIMG_6700.jpg本堂の横には小さな「五大力堂」が建っています。

IMG_6702.jpg境内から見た「鐘楼門」です。中国風の竜宮門造りですね。

IMG_6703.jpgIMG_6703.jpgIMG_6705.jpg本堂左には遍昭(左)と素性法師(そせいほうし)(右)の歌碑があります。

IMG_6706.jpgこちらは「勅願所華頂山元慶寺再興碑記」の石碑だそうです。

IMG_6707.jpgIMG_6708.jpg13時10分に出て行きました。小さな境内で、そんなに長居できません。

ここから地下鉄東西線御陵駅まで歩きました。約20分弱で着きました。少し登っているので、結構しんどかったです。今日は、これだけで帰りました。

この記事へのコメント