西国三十三ヵ所 第30番札所 竹生島 宝厳寺へ
この日、2006年(平成18年)9月20日以来、久しぶりに竹生島に来たのは、西国三十三ヵ所 第30番札所 竹生島 宝厳寺が目的でした。
今津港を出た船内で、宝厳院の由緒などビデオが流れ聞いてました。ある程度は知ってましたが、これから散策するのに参考になりました。これは良かったです。
竹生島宝厳寺は、724年(神亀元年)第45代聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう。」と告げられたことに始まります。神託を受けた聖武天皇は、僧行基を勅使として遣わし開山。行基はさっそく第一宝殿を建立し、自ら刻んだ弁財天像を安置。寺のご本尊となった弁財天像は、江ノ島、宮島と並び日本三弁弁財天の一つてで、最も古いものとされてます。また、第二宝殿観音堂を建て千手観音を祀り、それが西国第30番札所となりました。正式には、真言宗 巌金山 宝厳寺です
チケットをボックスに入れ進むと、ここから160段の石段を一気に上がります。
一気に上がる前に、右手に行けば「竹生島神社」があって、迂回して行くことも出来ますが、私は真っ直ぐに上がって行きます。
宝厳寺参道と書かれた石段を上がります。
上がると左手に湖底深井「瑞祥水(ずいしょうすい)」がありました。御本尊の弁財天の御託宣により2002年(平14年)11月に深さ230㍍(湖底下約130㍍)より掘られた霊泉です。
反対側には「手水舎」があって、その先には国宝唐門がありますが、先ずは石段を登ります。
本堂まで、もう少し石段を登ります。ただ足がもつれてきました😂。
次に左手に「護摩堂」がありますが、寄りません。
少し上がった右手には「鐘楼」がありましたが、何も説明文はありません。
石段も、あともう少しです。頑張ります😂。
10時に登り切りました。本堂前には長浜からと彦根から上陸された方で、混雑してました。正面には「手水舎」がありました。
手水舎の前にあったのが「五重石塔」(重文)です。行きのクルーズ船で知りました。高さ247㌢。 初重塔身には四仏が彫られています。鎌倉中期の作と伝わります。
こちらが「納経所」で、混む前に先に御朱印いただきました。
左の御朱印が「西国三十三ヵ所草創1300年」の印入りのです。散華もいただきました。右が本堂に祀られている大弁財天の御朱印です。
やっと人が空いたので「本堂(弁財天堂)」に向かいます。
ご本尊の弁財天像は、江戸時代までは竹生島東側の都久夫須麻神社本殿に祀られていました。しかし、明治に入り神仏分離令によって1871年(明治4年)に弁財天堂の塔頭妙覚院の仮本堂に安置され、以来66年間弁財天堂の造営は未着手のままとなっていたところ、1937年(昭和12年)6月に着工が始まろうとしたところ日中戦争の勃発により中止になりました。ただ東京在住の実業家滝富太郎氏により、1942年(昭和17年)太平洋戦争中にも関わらず完成させました。
この本堂には、西国三十三箇所の観音様は祀られていません。それは観音堂に祀られているので、後程向かいます。堂内の大辨財天にお参りして、出て行きました。
本堂を出て「三龍堂」に寄りました。御祭神は扁額から三龍善神でしょう。余談ですが、この左側にトイレがあります。
本堂の手前には「竹生島流棒術発祥之地」と書かれた石碑と、「不動明王」が祀られています。
先程の「五重石塔」(重文)の横に石段があるので行ってみます。
上がると2000年(平成12年)に再建されてた「三重塔」があります。ただ、この塔の記憶が無かったですね。現代の宮大工さんが6年の歳月をかけて建てられたようです。
こちらは「もちの木」で、1602年(慶長7年)、豊臣秀頼の命を受け、普請奉行の片桐且元が観音堂、唐門、渡廊下を移築したときに、記念に手植えされたものです。
三重塔の背後に「雨宝堂」がありました。見たところ新しいお堂のようですね。雨宝童子が祀られてるそうです。
奥には「宝物殿」があって別途料金が要るので入りませんでした。
戻る時は、こちらの石段から降りました。
降りると小さなお堂があって「行尋坊天狗堂」がありました。内容は不明です。
三重塔から降りた石段の右手には「西国三十三所観世音奉安殿」があります。最近では谷汲山華厳寺や書写山円教寺で見かけました。
次に西国三十三ヵ所の観音様が祀られている観音堂を目指します。
石段を降りると「ほけ封じ観音菩薩像」があって、その前にベンチがあったので、来ていたジャンバーを脱ぎました。寒かったけど、この石段を登ったり降りたりしたら汗出てきました😊。
汗を拭い、再び石段を降りると、次の見所が現れます。
前方の石段が、今降りて来た所で、少しバックしました。それは・・・?。
竹生島の港が見えました。私らは、そこから上陸した訳です。
国宝「唐門」です。この中に西国札所の観音堂があります。それにしても2006年(平成18年)9月20日に来た時より、遙かに綺麗になってました。
1602年(慶長7年)豊臣秀頼の命により、京都東山にある豊国廟から移築されたものと考えられます。豪華絢爛な桃山洋式の代表的な遺構と言えます。元は豊臣秀吉が築城した大坂城の遺構で、1596年(慶長元年)に建造され、1600年(慶長5年)に豊国廟に移築されたことが分かっています。竹生島「唐門」は、秀吉が建てた大阪城の現存する唯一の遺構でもあります。
入ると彫刻など豪華絢爛です。前途したとおり以前来たときより、内部も凄く綺麗にされました。
唐門を入っての壁には、以前には無かったガラスで保護されています。豪華な装飾を見ながら進むと西国札所の「観音堂」がありました。
観音堂は、西国三十三所観音霊場の第三十番札所で、秘仏の千手千眼観世音立像は、十一面四十二臂の等身仏。その名の通り千手を表した掌にはそれぞれに一眼を持ってます。観音堂も唐門と同様に豊臣秀頼の命により京都から移築そときたものです。天井板には牡丹、菊、桐が描かれ、欄間の彫刻や籠彫の木鼻など随所に桃山時代の美が最高峰が見て取れます。
観音堂でお参りを済ませると次に「舟廊下」(重文)に出ます。その足元は、「懸造り」となっています。これは後程下から見てみます。
このあと「舟廊下」を通って「都久夫須麻神社(竹生島神社)」に向かいます。つづく。
今津港を出た船内で、宝厳院の由緒などビデオが流れ聞いてました。ある程度は知ってましたが、これから散策するのに参考になりました。これは良かったです。
竹生島宝厳寺は、724年(神亀元年)第45代聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう。」と告げられたことに始まります。神託を受けた聖武天皇は、僧行基を勅使として遣わし開山。行基はさっそく第一宝殿を建立し、自ら刻んだ弁財天像を安置。寺のご本尊となった弁財天像は、江ノ島、宮島と並び日本三弁弁財天の一つてで、最も古いものとされてます。また、第二宝殿観音堂を建て千手観音を祀り、それが西国第30番札所となりました。正式には、真言宗 巌金山 宝厳寺です
チケットをボックスに入れ進むと、ここから160段の石段を一気に上がります。
一気に上がる前に、右手に行けば「竹生島神社」があって、迂回して行くことも出来ますが、私は真っ直ぐに上がって行きます。
宝厳寺参道と書かれた石段を上がります。
上がると左手に湖底深井「瑞祥水(ずいしょうすい)」がありました。御本尊の弁財天の御託宣により2002年(平14年)11月に深さ230㍍(湖底下約130㍍)より掘られた霊泉です。
反対側には「手水舎」があって、その先には国宝唐門がありますが、先ずは石段を登ります。
本堂まで、もう少し石段を登ります。ただ足がもつれてきました😂。
次に左手に「護摩堂」がありますが、寄りません。
少し上がった右手には「鐘楼」がありましたが、何も説明文はありません。
石段も、あともう少しです。頑張ります😂。
10時に登り切りました。本堂前には長浜からと彦根から上陸された方で、混雑してました。正面には「手水舎」がありました。
手水舎の前にあったのが「五重石塔」(重文)です。行きのクルーズ船で知りました。高さ247㌢。 初重塔身には四仏が彫られています。鎌倉中期の作と伝わります。
こちらが「納経所」で、混む前に先に御朱印いただきました。
左の御朱印が「西国三十三ヵ所草創1300年」の印入りのです。散華もいただきました。右が本堂に祀られている大弁財天の御朱印です。
やっと人が空いたので「本堂(弁財天堂)」に向かいます。
ご本尊の弁財天像は、江戸時代までは竹生島東側の都久夫須麻神社本殿に祀られていました。しかし、明治に入り神仏分離令によって1871年(明治4年)に弁財天堂の塔頭妙覚院の仮本堂に安置され、以来66年間弁財天堂の造営は未着手のままとなっていたところ、1937年(昭和12年)6月に着工が始まろうとしたところ日中戦争の勃発により中止になりました。ただ東京在住の実業家滝富太郎氏により、1942年(昭和17年)太平洋戦争中にも関わらず完成させました。
この本堂には、西国三十三箇所の観音様は祀られていません。それは観音堂に祀られているので、後程向かいます。堂内の大辨財天にお参りして、出て行きました。
本堂を出て「三龍堂」に寄りました。御祭神は扁額から三龍善神でしょう。余談ですが、この左側にトイレがあります。
本堂の手前には「竹生島流棒術発祥之地」と書かれた石碑と、「不動明王」が祀られています。
先程の「五重石塔」(重文)の横に石段があるので行ってみます。
上がると2000年(平成12年)に再建されてた「三重塔」があります。ただ、この塔の記憶が無かったですね。現代の宮大工さんが6年の歳月をかけて建てられたようです。
こちらは「もちの木」で、1602年(慶長7年)、豊臣秀頼の命を受け、普請奉行の片桐且元が観音堂、唐門、渡廊下を移築したときに、記念に手植えされたものです。
三重塔の背後に「雨宝堂」がありました。見たところ新しいお堂のようですね。雨宝童子が祀られてるそうです。
奥には「宝物殿」があって別途料金が要るので入りませんでした。
戻る時は、こちらの石段から降りました。
降りると小さなお堂があって「行尋坊天狗堂」がありました。内容は不明です。
三重塔から降りた石段の右手には「西国三十三所観世音奉安殿」があります。最近では谷汲山華厳寺や書写山円教寺で見かけました。
次に西国三十三ヵ所の観音様が祀られている観音堂を目指します。
石段を降りると「ほけ封じ観音菩薩像」があって、その前にベンチがあったので、来ていたジャンバーを脱ぎました。寒かったけど、この石段を登ったり降りたりしたら汗出てきました😊。
汗を拭い、再び石段を降りると、次の見所が現れます。
前方の石段が、今降りて来た所で、少しバックしました。それは・・・?。
竹生島の港が見えました。私らは、そこから上陸した訳です。
国宝「唐門」です。この中に西国札所の観音堂があります。それにしても2006年(平成18年)9月20日に来た時より、遙かに綺麗になってました。
1602年(慶長7年)豊臣秀頼の命により、京都東山にある豊国廟から移築されたものと考えられます。豪華絢爛な桃山洋式の代表的な遺構と言えます。元は豊臣秀吉が築城した大坂城の遺構で、1596年(慶長元年)に建造され、1600年(慶長5年)に豊国廟に移築されたことが分かっています。竹生島「唐門」は、秀吉が建てた大阪城の現存する唯一の遺構でもあります。
入ると彫刻など豪華絢爛です。前途したとおり以前来たときより、内部も凄く綺麗にされました。
唐門を入っての壁には、以前には無かったガラスで保護されています。豪華な装飾を見ながら進むと西国札所の「観音堂」がありました。
観音堂は、西国三十三所観音霊場の第三十番札所で、秘仏の千手千眼観世音立像は、十一面四十二臂の等身仏。その名の通り千手を表した掌にはそれぞれに一眼を持ってます。観音堂も唐門と同様に豊臣秀頼の命により京都から移築そときたものです。天井板には牡丹、菊、桐が描かれ、欄間の彫刻や籠彫の木鼻など随所に桃山時代の美が最高峰が見て取れます。
観音堂でお参りを済ませると次に「舟廊下」(重文)に出ます。その足元は、「懸造り」となっています。これは後程下から見てみます。
このあと「舟廊下」を通って「都久夫須麻神社(竹生島神社)」に向かいます。つづく。
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