西国三十三ヵ所 第18番札所 紫雲山 六角堂 頂法寺へ
10月17日(月)は、夜半に降り始めた雨が、夕方まで降り続く予報が夜まで止みませんでした。ただ、気圧配置が冬型となったので、翌日の18日(火)の日中の気温は上がりません。最高気温は21.3℃、最低気温が16.5℃と前日に比べ下がりました。北風が強かったように思えました。
そんな朝から寒いなか、この日は所用があったので家の用事を優先します😊。しかし、1時間ほど空き時間があるので、その空き時間を利用して西国三十三ヵ所 第18番札所 紫雲山 六角堂 頂法寺に行きました。
通称の六角堂で有名ですが、京都市内の真ん中にあります。我が家から見ると交通の便の良さでは西国三十三ヵ所の中ではピカイチでしょう。わざわざ行くほどのことでも無いので、この日も所用のついでに来た訳です😊。六角堂には、2016年(平成28年)11月11日「御本尊如意輪観世音菩薩像御開帳」に来て以来です。
紫雲山頂法寺と号する寺で、本堂が六角宝形造であることから、一般に「六角堂」の名で人々に親しまれている。開基は聖徳太子。587年(用明天皇2年)淡路島に漂着した如意輪観音像を念持仏としていた聖徳太子は、四天王寺建立の用材を求めて京都盆地に来て、この地に湧く泉で身を清めようと、念持仏と脱いだ衣服を木に掛けたところ、念持仏が枝から動かなくなってしまった。その夜、観音様の霊告によってこの地に御堂を建て、守護仏の観音像を安置したのが始まりと伝えられている。その時の念持仏が現在のご本尊、高さ5.5㌢の如意輪観音像である。六角堂は、早くから人々の崇敬を受け、822年(弘仁13年)には第52代嵯峨天皇の勅願所となり、また996年(長徳2年)には花山法皇の御幸があり、西国33箇所観音霊場(現18番の札所)となったと伝えられる。1201年(建仁元年)親鸞聖人が当寺に100箇日間参籠して霊告を受け、後に真宗を開宗する根源となった。本堂には、聖徳太子の持仏と伝える本尊如意輪観音像、親鸞像、毘沙門天立像(重文)などを安置する。本堂前の六角形の礎石は臍石といい、古来、京都の中心に当たるとされてきた。また、本堂北の本坊は池坊と呼ばれ、室町時代以降、多くのいけ花の名手を輩出した所で、華道発祥の地として有名である。現在も池坊華道の拠点となっている。
正面の山門が工事中のため、通用口である「東門」から境内に入ります。
入ると直ぐの所に「納経所」がありますが、今日は後回しにして、先にお参りです。
内陣の中央手前には如意輪観世音菩薩像のお前立があり、その後ろのお厨子の中に本尊の如意輪観世音菩薩が祀られていますが、秘仏のためお厨子の中で見ることはできません。内陣の左手には聖徳太子像、お前立ちの左手には見真大師(親鸞)像が祀られています。
2016年(平成28年)11月11日、「西国三十三ヵ所草創1300年」の記念事業として「御本尊如意輪観世音菩薩像御開帳」が行われ、拝観料1000円で見ることが出来ました。
境内には「聖徳太子1400大遠忌」と書かれた幟が目立ちます。10月31日まで記念事業されてました。
これから狭い境内の東から西に移動して見て行きます。先ずは「手水舎」から。
境内の西ある「一言願い地蔵」です。首を傾けて貴方の願いを聞くかどうか悩まれています😊。欲張らず一言だけ願いを言いましょう😊。
1201年(建仁元年)親鸞聖人は、毎夜比叡山から山を降りられ六角堂に百日参詣されました。そのお姿が祀られている「親鸞堂」です。
その前には修行中の「親鸞上人像」もありました。
京都のビジネス街のど真ん中にあるのが六角堂です。私の若い頃、この近くに職場がありました😊。
また、「本堂(六角堂)」に戻り、お堂の周りを東から西へ巡ります。
境内の東にあるのが「十六羅漢像」で、この中に合掌をされているお地蔵さんが居ます。
「合掌地蔵」さんです。お参りに来られた方の願いを掌にやさしく包み込んで、その願いが叶えるようにと一緒にお祈りされている姿です。
前途したとおり、ビジネス街のど真ん中にあって、近くにはビル群が建ち並んでいます。
境内北東の池の隅に浮かんでいる建物は「太子堂」と呼ばれ、六角堂を創建した聖徳太子を祀っています。
由緒にも書きましたが、聖徳太子がこの地に湧く泉で身を清めたと伝わる「聖徳太子沐浴の古跡」です。
この池には白鳥が二羽います。かみつくから注意と書いてありました😊。
この礎石は、六角堂境内の発掘調査により1788年(天明8年)の正月に焼失したと見られる遺構面から出土したものだそうです。
こちらには案内板があって、簡略すると・・・「三十二世池坊専好の立花」は江戸時代前期に活躍した家元です。この立花のモニュメントは、1630年(寛永)に立てられた水仙一色の立花を再現したものです。台座の花押は、専好自筆書状からの写しです。
このお地蔵さんは「北向地蔵尊」といい、京都御所を守るために北を向いています。
この東に向いているお地蔵さんは「わらべ地蔵」といいます。このお地蔵さんは特に小さな子供を守っていただくため、このような子供の姿をされています。
次に「不動明王堂」です。不動明王は、ふりかかる災厄を断ち切り、この世の迷いの世界で煩悩で溺れそうになっている私たちを引っ張りあげるため、しっかりと羂索を握りしめているのです。
こちらも「不動明王堂」で、石不動尊が、祀られています。この仏様に一心に願いをすると、叶えていただけると言われています。
再び「本堂」に戻って来て、探していたのが「臍石」でした。
桓武天皇の793年(延暦12年)長岡京より平安京への遷都の時、六角堂の所在が道路の中央に当たったため天皇が遷座を祈願されたところ御堂が自ら5丈(15㍍)ばかり北へ退かれたという。この石はその際に取り残された礎石であると伝わります。六角堂は下京の町衆の寄合の場であり場所も京都のほぼ中央に当たることから人体にたとえ「臍石」とも「要石」とも呼ばれいます。祇園祭の山鉾巡行の順番を決める「籤取り式」も江戸末期まで六角堂で行われてました。当時は六角通りの中央にあったが、明治期に境内に移されました。
ここで「スターバックス コーヒー 京都烏丸六角店」が入っている「West18」のビルに入り、9階まで上がり、上から六角堂を見てみます。
このように、上からだと六角形のお堂が分かります。
エレベーターで降りてきてから「納経所」に行き御朱印いただきました。
右、西国御朱印「西国三十三ヵ所草創1300年」の印入りです。散華もいただきました。左、「聖徳太子1400大遠忌」の特別御朱印で、10月31日までの限定でした。
ご覧のように、正門である「山門」は工事中のため出入りできません。
9時38分に、借り通路の「東門」から出て行きました。
帰りに、六角通り沿いにある「鐘楼」に寄りました。
1605年(慶長10年)豊太閤の家臣堀尾吉晴の嫡男、忠氏が寄進。当時は一向宗による一向一揆、賀茂川洪水や大火の際にこの鐘を撞いて、急をを市民に知らせたという。天明の大火で焼失後、1840年(天保11年)に再建するも、第二次世界大戦に献納されました。現在のものは1954年(昭和29年)に再鋳され復元されました。
このあと、烏丸御池から地下鉄に乗って所用先に戻りました。
そんな朝から寒いなか、この日は所用があったので家の用事を優先します😊。しかし、1時間ほど空き時間があるので、その空き時間を利用して西国三十三ヵ所 第18番札所 紫雲山 六角堂 頂法寺に行きました。
通称の六角堂で有名ですが、京都市内の真ん中にあります。我が家から見ると交通の便の良さでは西国三十三ヵ所の中ではピカイチでしょう。わざわざ行くほどのことでも無いので、この日も所用のついでに来た訳です😊。六角堂には、2016年(平成28年)11月11日「御本尊如意輪観世音菩薩像御開帳」に来て以来です。
紫雲山頂法寺と号する寺で、本堂が六角宝形造であることから、一般に「六角堂」の名で人々に親しまれている。開基は聖徳太子。587年(用明天皇2年)淡路島に漂着した如意輪観音像を念持仏としていた聖徳太子は、四天王寺建立の用材を求めて京都盆地に来て、この地に湧く泉で身を清めようと、念持仏と脱いだ衣服を木に掛けたところ、念持仏が枝から動かなくなってしまった。その夜、観音様の霊告によってこの地に御堂を建て、守護仏の観音像を安置したのが始まりと伝えられている。その時の念持仏が現在のご本尊、高さ5.5㌢の如意輪観音像である。六角堂は、早くから人々の崇敬を受け、822年(弘仁13年)には第52代嵯峨天皇の勅願所となり、また996年(長徳2年)には花山法皇の御幸があり、西国33箇所観音霊場(現18番の札所)となったと伝えられる。1201年(建仁元年)親鸞聖人が当寺に100箇日間参籠して霊告を受け、後に真宗を開宗する根源となった。本堂には、聖徳太子の持仏と伝える本尊如意輪観音像、親鸞像、毘沙門天立像(重文)などを安置する。本堂前の六角形の礎石は臍石といい、古来、京都の中心に当たるとされてきた。また、本堂北の本坊は池坊と呼ばれ、室町時代以降、多くのいけ花の名手を輩出した所で、華道発祥の地として有名である。現在も池坊華道の拠点となっている。
正面の山門が工事中のため、通用口である「東門」から境内に入ります。
入ると直ぐの所に「納経所」がありますが、今日は後回しにして、先にお参りです。
内陣の中央手前には如意輪観世音菩薩像のお前立があり、その後ろのお厨子の中に本尊の如意輪観世音菩薩が祀られていますが、秘仏のためお厨子の中で見ることはできません。内陣の左手には聖徳太子像、お前立ちの左手には見真大師(親鸞)像が祀られています。
2016年(平成28年)11月11日、「西国三十三ヵ所草創1300年」の記念事業として「御本尊如意輪観世音菩薩像御開帳」が行われ、拝観料1000円で見ることが出来ました。
境内には「聖徳太子1400大遠忌」と書かれた幟が目立ちます。10月31日まで記念事業されてました。
これから狭い境内の東から西に移動して見て行きます。先ずは「手水舎」から。
境内の西ある「一言願い地蔵」です。首を傾けて貴方の願いを聞くかどうか悩まれています😊。欲張らず一言だけ願いを言いましょう😊。
1201年(建仁元年)親鸞聖人は、毎夜比叡山から山を降りられ六角堂に百日参詣されました。そのお姿が祀られている「親鸞堂」です。
その前には修行中の「親鸞上人像」もありました。
京都のビジネス街のど真ん中にあるのが六角堂です。私の若い頃、この近くに職場がありました😊。
また、「本堂(六角堂)」に戻り、お堂の周りを東から西へ巡ります。
境内の東にあるのが「十六羅漢像」で、この中に合掌をされているお地蔵さんが居ます。
「合掌地蔵」さんです。お参りに来られた方の願いを掌にやさしく包み込んで、その願いが叶えるようにと一緒にお祈りされている姿です。
前途したとおり、ビジネス街のど真ん中にあって、近くにはビル群が建ち並んでいます。
境内北東の池の隅に浮かんでいる建物は「太子堂」と呼ばれ、六角堂を創建した聖徳太子を祀っています。
由緒にも書きましたが、聖徳太子がこの地に湧く泉で身を清めたと伝わる「聖徳太子沐浴の古跡」です。
この池には白鳥が二羽います。かみつくから注意と書いてありました😊。
この礎石は、六角堂境内の発掘調査により1788年(天明8年)の正月に焼失したと見られる遺構面から出土したものだそうです。
こちらには案内板があって、簡略すると・・・「三十二世池坊専好の立花」は江戸時代前期に活躍した家元です。この立花のモニュメントは、1630年(寛永)に立てられた水仙一色の立花を再現したものです。台座の花押は、専好自筆書状からの写しです。
このお地蔵さんは「北向地蔵尊」といい、京都御所を守るために北を向いています。
この東に向いているお地蔵さんは「わらべ地蔵」といいます。このお地蔵さんは特に小さな子供を守っていただくため、このような子供の姿をされています。
次に「不動明王堂」です。不動明王は、ふりかかる災厄を断ち切り、この世の迷いの世界で煩悩で溺れそうになっている私たちを引っ張りあげるため、しっかりと羂索を握りしめているのです。
こちらも「不動明王堂」で、石不動尊が、祀られています。この仏様に一心に願いをすると、叶えていただけると言われています。
再び「本堂」に戻って来て、探していたのが「臍石」でした。
桓武天皇の793年(延暦12年)長岡京より平安京への遷都の時、六角堂の所在が道路の中央に当たったため天皇が遷座を祈願されたところ御堂が自ら5丈(15㍍)ばかり北へ退かれたという。この石はその際に取り残された礎石であると伝わります。六角堂は下京の町衆の寄合の場であり場所も京都のほぼ中央に当たることから人体にたとえ「臍石」とも「要石」とも呼ばれいます。祇園祭の山鉾巡行の順番を決める「籤取り式」も江戸末期まで六角堂で行われてました。当時は六角通りの中央にあったが、明治期に境内に移されました。
ここで「スターバックス コーヒー 京都烏丸六角店」が入っている「West18」のビルに入り、9階まで上がり、上から六角堂を見てみます。
このように、上からだと六角形のお堂が分かります。
エレベーターで降りてきてから「納経所」に行き御朱印いただきました。
右、西国御朱印「西国三十三ヵ所草創1300年」の印入りです。散華もいただきました。左、「聖徳太子1400大遠忌」の特別御朱印で、10月31日までの限定でした。
ご覧のように、正門である「山門」は工事中のため出入りできません。
9時38分に、借り通路の「東門」から出て行きました。
帰りに、六角通り沿いにある「鐘楼」に寄りました。
1605年(慶長10年)豊太閤の家臣堀尾吉晴の嫡男、忠氏が寄進。当時は一向宗による一向一揆、賀茂川洪水や大火の際にこの鐘を撞いて、急をを市民に知らせたという。天明の大火で焼失後、1840年(天保11年)に再建するも、第二次世界大戦に献納されました。現在のものは1954年(昭和29年)に再鋳され復元されました。
このあと、烏丸御池から地下鉄に乗って所用先に戻りました。
この記事へのコメント
六角堂は、ビジネス街のど真ん中にあるので、交通の便は大変良いです。
たまたま、この日に行ったところ、聖徳太子1400遠忌で、特別御朱印貰えて良かったです。