西国三十三ヵ所 第3番札所 風猛山 粉河寺へ
西国三十三ヵ所 第3番札所 風猛山 粉河寺には、1989年(平成元年)10月25日、1999年(平成11年)8月23日、2006年(平成18年)8月25日はJR粉河駅から徒歩で行き、2007年(平成19年)7月28日は自家用車で行き、過去四回行ってます。ただ、あまり覚えてないのも事実で、今回久しぶりに来たので、じっくり見ていこうと思ってました。
和歌山県北部を流れる紀の川中流の北岸に粉河寺はあります。奈良時代末 770年(宝亀元年)、紀伊国那賀郡に住む 猟師大伴孔子古(おおとものくじこ)が、ある日、風猛山で獣を追っていると、光明輝く地を発見、総持寺れを見た孔子古は、日頃の行いを悔い発心してその場所に柴の草庵を建てたのが粉河寺の始まると言われています。後日、一人の童子が一夜の宿を乞い、泊めてもらったお礼に、金色の千手観音像を刻み立ち去った。その童子こそが観音様の化身と悟り祀られることになりました。その後時移り、河内国に住む塩川佐太夫(しおかわざゆう)という長者の娘が危篤の時、童子が現れ祈祷して病を治し娘は回復しました。童子は「用があれば粉河を訪れよ」と言って立ち去ったので、翌年春、長者一家は粉河を訪ねてみると、小堂に千手観音が安置され、娘が差し出した箸箱が置いてあったので、佐太夫は孔子古とともに興隆に尽くしたという。鎌倉時代には粉河寺は最盛期を迎えますが、豊臣秀吉の紀州攻めにより、伽藍の大半が焼失。現在のお堂は江戸時代中期に、紀州徳川家の保護や檀信徒の寄進により再興されました。
粉河寺入口に建つ「大門」(重文)から入ります。
規模の大きい三間楼門で、和歌山県下では根來寺、高野山に次ぐ威容を誇っています。桁行12.48㍍、梁間7.48㍍を有する規模の大きい楼門で、総欅造り。建立は1706年(宝永4年)の江戸時代中期と考えられています。。
大門の左手には「善光寺」と、その北側に「地蔵堂」がありました。
大門に安置されている「金剛力士像」は、仏師春日の作と伝わります。
見たところ境内は空いているようです。ただ駐車場はこの先なんですけど。
駐車場は、こちらで有料です。いくらかは忘れました😊。
その先が「不動堂」で、弘法大師が爪で掘った不動尊が祀られてるようです。
ここからは車が通れないので、安心して歩けます。粉河寺は本堂までの参道が長いです。
参道左手には「粉河寺案内図」があったので、参考になりました。
そのまま左手には「童男堂」があります。千手観音の化身、童男大士(童男行者)を祀るお堂だそうです。1679年(延宝7年)の建立。
こちせは「仏足石」で、お釈迦様の足跡がきざまれています。うしろの碑は江戸時代の傑僧願海上人の筆だそです。
次に「出現池」と案内版があったので、柵の中を覗いてみました。本尊千手観音の化身、童男大士が柳の枝を手に白馬に乗って、この池より出現したと伝わります。正面に童男大士石像があって見えました。
「念仏堂」です。光明殿ともいい、堂内はに阿弥陀如来が安置されています。江戸時代後期の建立で総欅造りです。
その前に「露座仏」があって、紀の川市指定文化財です。阿弥陀如来坐像で、1862年(文久2年)建立とありました。
次のお堂が聖徳太子が祀られている「太子堂」です。
右手に小川が流れるなか、参道は続きます。
その先の左手には「大畑才蔵翁彰功乃碑」があって、小田井、藤崎井という水路があって、江戸時代の早い時期にこれらの水路を造り橋本市から和歌山市の間に広がる、水田地帯を開発した大畑才蔵翁の功績をたたえ、この碑が建てられたそうです。
こちらの石碑には以下の事が書かれています。「馬の背にしてかへり見る 春暮れ方の紀伊の國 松原かげに旅びとの すげ笠あまたに行きかひて 赤き夕日はたちばなの 花咲く上に匂ふかな 紀の河 河原 河ぞひを のぼればここは粉河寺 赤き笈摺堂 白き笠 巡礼の子に打ち交り 西国三番 ちちははの めぐみも深き 粉河寺 和讃を高う誦するかな」粉河寺にて 有本芳水(日本の詩人・歌人)
こちらの水盤は、紀の川市指定文化財「盥漱盤」で、1775年(安永4年)粉河鋳物師蜂屋薩摩椽五代目源正勝の作と書いてありました。
その横には「身代わり地蔵尊」がありました。
奥の石碑は「阿野タツ乃自之像」と書かれてましたが、こちらには案内文がありません。
やっと重要文化財に指定されている「中門」までやって来ました。三間二戸の桜門として標準的な規模をもち、軒まわりまで良質の欅材で繊細な建物に仕上げています。
門に架かる「風猛山」の扁額は、紀州徳川十代藩主、徳川治宝(はるとみ)の直筆です。
中門は1832年(天保3年)の建立で、四天王(東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天)が祀られています。
この門を抜けると前方に本堂が見えて来ました。
左手には牧水歌碑があって「粉河寺 遍路の衆の 打ち鳴らす 鉦々きこゆ 秋の樹の間に」と書いてありました。若山牧水は、 明治から昭和時代前期の歌人です。
向かいには句碑がありました。右に「水も嘸や 白き粉河の 山桜」(五橘亭)、左に「風猛の 名に似ぬ里の 小春かな」(塊亭)とありました。
本堂の石段を上がる前に左に「水向地蔵堂」がありました。その横には・・・?。
1806年(文化3年)に再建の「丈六堂」があって、堂内には丈六の阿弥陀如来像が安置されてました。
これで、やって「本堂」にお参りです。ですが、その前に・・・?。
国指定名勝「粉河寺庭園」です。桃山時代の枯山水の石庭で本堂前の左右の崖地に築庭され、日本の庭園の中でも洗例のない様式です。
重要文化財に指定されている「本堂」です。現存の当本堂は1720年(享保5年)に再建された。江戸時代中期の欅材による代表的建築で西国三十三ヶ所の中で最大です。他に類例を見ない特異な形態で、一重屋根の礼堂と二重屋根の正堂とが結合した構成を持つ複合仏堂の形式となっています。
本堂の右手に「納経所」があって、ここで御朱印をいただきました。また、内陣には400円を納めると入れるので、初めて内陣に入ってみます。
御朱印は「西国三十三ヵ所草創1300年」の印入りです。散華もいただきました。印の童男さんの意味は由緒を読んで分かりました。
内陣は、撮影禁止とありました。
内陣の厨子は閉まってました。その中には秘仏の本尊千手千眼観世音菩薩が祀られています。他に本尊の両側には侍者として28部衆、内陣の背面には裏観音、東には鬼子母神、西に不動明王、大日如来、閹魔大王などが祀られていました。
堂内には徳川幕府八代将軍徳川吉宗寄進の左甚五郎作「野荒しの虎」もありました。夜な夜な抜け出して田畑を荒らしたので目に釘が打たれてました。写真が撮れないので看板での紹介です。
本堂向かって左手にあるのが、重要文化財に指定されている「千手堂」です。1760年(宝暦10年)の建立。正面に千住観世音菩薩両側の脇壇には紀州歴代藩主とそのゆかりの人々の位牌が祀られています。
次に本堂の右手に移動し「六角堂」を見ました。1720年(享保5年)の建立。西国三十三観音が安置されています。
このクスノキの大木は、紀の川市指定自然木です。寺伝では「光仁天皇の頃、大伴孔子古はこの木に踞して下を通る鹿などを・・・」と記載されています。傍らには「踞木地」の石碑が立っています。
前には「梵鐘」があって、50円で撞けるようですね。
さらな奥に進むと「薬師堂」があって、薬師如来が安置されています。眼病を初め諸病平癒祈願の仏様です。
こちらは「法華塔」で、右から「紀州藩八代藩主徳川重倫卿側室 於八百」、「水戸少将徳川治紀卿正室 方姫」、「重則卿付老女 初島」と書いてありました。
紀の川市指定文化財「石造地蔵菩薩立像」。地蔵菩薩は、閻魔大王の本地仏で、常に六道を巡って衆生を救い極楽に行けるよう援助してくれると信じられ広く信号されています。
このあと本堂に戻りました。あとで境内図を見ると、「十禅律院」と「行者堂」がありましたが気づきませんでした😂。
この本堂のうしろ・・・石段を登った所に鳥居が見えました。まだ粉河駅に戻る時間に余裕があるので、寄って行きます。
和歌山県北部を流れる紀の川中流の北岸に粉河寺はあります。奈良時代末 770年(宝亀元年)、紀伊国那賀郡に住む 猟師大伴孔子古(おおとものくじこ)が、ある日、風猛山で獣を追っていると、光明輝く地を発見、総持寺れを見た孔子古は、日頃の行いを悔い発心してその場所に柴の草庵を建てたのが粉河寺の始まると言われています。後日、一人の童子が一夜の宿を乞い、泊めてもらったお礼に、金色の千手観音像を刻み立ち去った。その童子こそが観音様の化身と悟り祀られることになりました。その後時移り、河内国に住む塩川佐太夫(しおかわざゆう)という長者の娘が危篤の時、童子が現れ祈祷して病を治し娘は回復しました。童子は「用があれば粉河を訪れよ」と言って立ち去ったので、翌年春、長者一家は粉河を訪ねてみると、小堂に千手観音が安置され、娘が差し出した箸箱が置いてあったので、佐太夫は孔子古とともに興隆に尽くしたという。鎌倉時代には粉河寺は最盛期を迎えますが、豊臣秀吉の紀州攻めにより、伽藍の大半が焼失。現在のお堂は江戸時代中期に、紀州徳川家の保護や檀信徒の寄進により再興されました。
粉河寺入口に建つ「大門」(重文)から入ります。
規模の大きい三間楼門で、和歌山県下では根來寺、高野山に次ぐ威容を誇っています。桁行12.48㍍、梁間7.48㍍を有する規模の大きい楼門で、総欅造り。建立は1706年(宝永4年)の江戸時代中期と考えられています。。
大門の左手には「善光寺」と、その北側に「地蔵堂」がありました。
大門に安置されている「金剛力士像」は、仏師春日の作と伝わります。
見たところ境内は空いているようです。ただ駐車場はこの先なんですけど。
駐車場は、こちらで有料です。いくらかは忘れました😊。
その先が「不動堂」で、弘法大師が爪で掘った不動尊が祀られてるようです。
ここからは車が通れないので、安心して歩けます。粉河寺は本堂までの参道が長いです。
参道左手には「粉河寺案内図」があったので、参考になりました。
そのまま左手には「童男堂」があります。千手観音の化身、童男大士(童男行者)を祀るお堂だそうです。1679年(延宝7年)の建立。
こちせは「仏足石」で、お釈迦様の足跡がきざまれています。うしろの碑は江戸時代の傑僧願海上人の筆だそです。
次に「出現池」と案内版があったので、柵の中を覗いてみました。本尊千手観音の化身、童男大士が柳の枝を手に白馬に乗って、この池より出現したと伝わります。正面に童男大士石像があって見えました。
「念仏堂」です。光明殿ともいい、堂内はに阿弥陀如来が安置されています。江戸時代後期の建立で総欅造りです。
その前に「露座仏」があって、紀の川市指定文化財です。阿弥陀如来坐像で、1862年(文久2年)建立とありました。
次のお堂が聖徳太子が祀られている「太子堂」です。
右手に小川が流れるなか、参道は続きます。
その先の左手には「大畑才蔵翁彰功乃碑」があって、小田井、藤崎井という水路があって、江戸時代の早い時期にこれらの水路を造り橋本市から和歌山市の間に広がる、水田地帯を開発した大畑才蔵翁の功績をたたえ、この碑が建てられたそうです。
こちらの石碑には以下の事が書かれています。「馬の背にしてかへり見る 春暮れ方の紀伊の國 松原かげに旅びとの すげ笠あまたに行きかひて 赤き夕日はたちばなの 花咲く上に匂ふかな 紀の河 河原 河ぞひを のぼればここは粉河寺 赤き笈摺堂 白き笠 巡礼の子に打ち交り 西国三番 ちちははの めぐみも深き 粉河寺 和讃を高う誦するかな」粉河寺にて 有本芳水(日本の詩人・歌人)
こちらの水盤は、紀の川市指定文化財「盥漱盤」で、1775年(安永4年)粉河鋳物師蜂屋薩摩椽五代目源正勝の作と書いてありました。
その横には「身代わり地蔵尊」がありました。
奥の石碑は「阿野タツ乃自之像」と書かれてましたが、こちらには案内文がありません。
やっと重要文化財に指定されている「中門」までやって来ました。三間二戸の桜門として標準的な規模をもち、軒まわりまで良質の欅材で繊細な建物に仕上げています。
門に架かる「風猛山」の扁額は、紀州徳川十代藩主、徳川治宝(はるとみ)の直筆です。
中門は1832年(天保3年)の建立で、四天王(東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天)が祀られています。
この門を抜けると前方に本堂が見えて来ました。
左手には牧水歌碑があって「粉河寺 遍路の衆の 打ち鳴らす 鉦々きこゆ 秋の樹の間に」と書いてありました。若山牧水は、 明治から昭和時代前期の歌人です。
向かいには句碑がありました。右に「水も嘸や 白き粉河の 山桜」(五橘亭)、左に「風猛の 名に似ぬ里の 小春かな」(塊亭)とありました。
本堂の石段を上がる前に左に「水向地蔵堂」がありました。その横には・・・?。
1806年(文化3年)に再建の「丈六堂」があって、堂内には丈六の阿弥陀如来像が安置されてました。
これで、やって「本堂」にお参りです。ですが、その前に・・・?。
国指定名勝「粉河寺庭園」です。桃山時代の枯山水の石庭で本堂前の左右の崖地に築庭され、日本の庭園の中でも洗例のない様式です。
重要文化財に指定されている「本堂」です。現存の当本堂は1720年(享保5年)に再建された。江戸時代中期の欅材による代表的建築で西国三十三ヶ所の中で最大です。他に類例を見ない特異な形態で、一重屋根の礼堂と二重屋根の正堂とが結合した構成を持つ複合仏堂の形式となっています。
本堂の右手に「納経所」があって、ここで御朱印をいただきました。また、内陣には400円を納めると入れるので、初めて内陣に入ってみます。
御朱印は「西国三十三ヵ所草創1300年」の印入りです。散華もいただきました。印の童男さんの意味は由緒を読んで分かりました。
内陣は、撮影禁止とありました。
内陣の厨子は閉まってました。その中には秘仏の本尊千手千眼観世音菩薩が祀られています。他に本尊の両側には侍者として28部衆、内陣の背面には裏観音、東には鬼子母神、西に不動明王、大日如来、閹魔大王などが祀られていました。
堂内には徳川幕府八代将軍徳川吉宗寄進の左甚五郎作「野荒しの虎」もありました。夜な夜な抜け出して田畑を荒らしたので目に釘が打たれてました。写真が撮れないので看板での紹介です。
本堂向かって左手にあるのが、重要文化財に指定されている「千手堂」です。1760年(宝暦10年)の建立。正面に千住観世音菩薩両側の脇壇には紀州歴代藩主とそのゆかりの人々の位牌が祀られています。
次に本堂の右手に移動し「六角堂」を見ました。1720年(享保5年)の建立。西国三十三観音が安置されています。
このクスノキの大木は、紀の川市指定自然木です。寺伝では「光仁天皇の頃、大伴孔子古はこの木に踞して下を通る鹿などを・・・」と記載されています。傍らには「踞木地」の石碑が立っています。
前には「梵鐘」があって、50円で撞けるようですね。
さらな奥に進むと「薬師堂」があって、薬師如来が安置されています。眼病を初め諸病平癒祈願の仏様です。
こちらは「法華塔」で、右から「紀州藩八代藩主徳川重倫卿側室 於八百」、「水戸少将徳川治紀卿正室 方姫」、「重則卿付老女 初島」と書いてありました。
紀の川市指定文化財「石造地蔵菩薩立像」。地蔵菩薩は、閻魔大王の本地仏で、常に六道を巡って衆生を救い極楽に行けるよう援助してくれると信じられ広く信号されています。
このあと本堂に戻りました。あとで境内図を見ると、「十禅律院」と「行者堂」がありましたが気づきませんでした😂。
この本堂のうしろ・・・石段を登った所に鳥居が見えました。まだ粉河駅に戻る時間に余裕があるので、寄って行きます。
この記事へのコメント
やはり紀伊徳川家の加護があったのですか。
粉河寺庭園もユニークな石庭ですね。本堂の目の前にあるなんて。
威厳や迫力があって見応えがあります。
今回、初めて内陣に入り、安置されている仏像を間近で見て来ました。西国三十三ヵ所札所巡りも四巡目、まもなく満願を迎えられそうです。