天守閣の木造復元を進めている御三家筆頭尾張徳川家の居城として栄えた名古屋城へ
10月26日(水)に、西国三十三ヵ所札所巡りで、第四番槙尾山施福寺に行き、残り那智山青岸渡寺だけとなりました。我が家から紀伊勝浦への日帰り旅行は、無理をしたら可能ですが、せっかく行くなら熊野三山にもお参りしたいので、一泊旅行でと考えており、暫く先になりそうです。そこで、久しぶりにお城巡りでもしようかなぁと、大坂城にでも行く予定にしてました。ただ名古屋城の天守には入れませんが、本丸御殿には入ったことがないので、急遽予定を変更し、2007年(平成19年)12月2日、2008年(平成20年)3月8日、2008年(平成20年)11月13日以来の名古屋城に、11月9日(水)に行ってきました。
11月8日(火)は、皆既月食が我が家からも見えました。天王星は、6等星のため肉眼では見えません。望遠鏡で見ても京都市内は明るいので、無理でしょうね。雲一つない夜空に皆既月食を見られて良かったです。ただ寒かったけど😊。晴天の夜空は、あくる日の明け方が冷え込みます。放射冷却により京都市内の最低気温が8.9℃で寒かったけど、雨の心配は全くありません。傘を持参しなくて済んだのは良かったです。
当日、京都から「のぞみ210号」で名古屋に向かいました。京都駅を7時54分に出て、名古屋駅には8時28分に着きました。2005年(平成17年)の「愛知万博」を初め、2009年(平成21年)2月5日の「岡崎城」、など名古屋駅には度々利用してますが、すっかり忘れてて・・・案内表示に従って名古屋駅北口に向かい、そこからタクシーを利用して、名古屋城に向かいました。過去、名古屋城に行った時は、地下鉄を利用しましたが、朝のラッシュを嫌って、タクシーの利用に迷いはありませでした。タクシーは名古屋城の「正門」前に、8時45分に着きました。
開門が9時のため、暫く散歩でもしようかなぁ・・・と考えていたら、後ろから観光バスで来られた団体さんが来られました。
名古屋城でチケットを購入する前に、必ず検温されます。その係の方が「100名の団体さん、もう来られたで」と。100名の団体さんの後ろになる訳には行かないので、散歩を諦め並ぶことにしました。
8時48分に、検温が始まりました。100名の団体さんの後ろに、外国人観光客の団体さん、その後ろに修学旅行生の団体さんが並ばれたので、検温が早くされたようです。
「正門」の開門は9時です。チケットの販売も9時からです。私は、昨日の間に「アソビュー!」でチケットの購入を済ませてました。元離宮二条城では開門前にチケット売場で行列ができます。その経験から名古屋城でも、行列ができるだろうと考え、事前にチケットを購入していた訳です。これは大正解でしたね。9時にチケットを購入しても、あの団体さんの後ろになる訳だし入城が遅れる訳だし、良い判断でした😊。
9時になると・・・実際は8時58分になると、太鼓が鳴って「ただいまより名古屋城開門します」と言われて正門が開けられ入城しました。
私は二組目でしたが、最初の組の方が違う方へ行かれたので、本丸に向かったのは私だけ、これなら並ばずに本丸御殿に入れそうです😊。
後で、ゆっくり見ますが「西南隅櫓」と「天守閣」を撮りました。
9時1分に重要文化財に指定されている「本丸表二の門」を最初に潜ります。
内堀から「東南隅櫓」を見ています。
同じく、「西南隅櫓」を見ています。後続は、離れているので、まだ余裕があります。
「本丸表二の門」をくぐると、そこは「枡形虎口」。その奥に「本丸表一の門」がありました。
本丸表一の門は、1612年(慶長17年)頃の建築と見られ、北側と西側の石垣上には、多門櫓が隙間なくたてられていました。南側の本丸表二の門から侵入した敵を櫓門と多聞櫓の三方向から矢で攻撃する構造となっています。このような四角形の広場をもった城の出入口を枡形虎口といいます。多聞櫓は1891年(明治24年)の濃尾地震で大破し取り壊され、本丸表一の門は1945年(昭和20年)の空襲で焼失しました。
ここを抜けると御殿の「玄関」と「車寄」が見えます。2008年(平成20年)3月8日に来た時は、工事すらされてなかった建物が、そこにありました。
玄関は、正規の来客がまず通され、藩主と対面までの時間を過ごす建物です。一之間、二之間の2つの部屋があります。車寄は、将軍など正規の来客だけが上がる、本丸御殿への正式な入口です。唐破風屋根をいただく堂々たる外観で、本丸御殿の中でも最も太い柱が使われています。
御殿に入るためには、迂回する必要があります。多分、行列ができるためでしょう。そのため久しぶりに天守閣を見ることができました。
テント内で係の方から、御殿を見学するにあたっての注意事を説明されます。それを聞いてから、「中之口部屋横出入口」から、いよいよ御殿内を見学します。
注意することは、鞄などで部屋を傷つけることを防ぐことと、写真撮影は、フラッシュを使わないことなどです。
1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家康は、1609年(慶長14年)豊臣方への備えとして、名古屋城の築城と、清須から新城下への街ごとの引越を決定。この新たに造られた基盤割の街が現在の名古屋の原型となり、町や橋の名前も現在に受け継がれています。1610年(慶長15年)名古屋城築城にあたり徳川家康は、加藤清正、福島正則らの西国大名20家に普請を命じ、これを公儀普請といいます。天守や御殿の作事は小堀遠州、中井正清らに命じられ、1615年(慶長20年)にほぼ完成しました。尾張藩初代藩主は、徳川家康の9男・徳川義直が入り、御三家筆頭として栄えました。
つづく。
11月8日(火)は、皆既月食が我が家からも見えました。天王星は、6等星のため肉眼では見えません。望遠鏡で見ても京都市内は明るいので、無理でしょうね。雲一つない夜空に皆既月食を見られて良かったです。ただ寒かったけど😊。晴天の夜空は、あくる日の明け方が冷え込みます。放射冷却により京都市内の最低気温が8.9℃で寒かったけど、雨の心配は全くありません。傘を持参しなくて済んだのは良かったです。
当日、京都から「のぞみ210号」で名古屋に向かいました。京都駅を7時54分に出て、名古屋駅には8時28分に着きました。2005年(平成17年)の「愛知万博」を初め、2009年(平成21年)2月5日の「岡崎城」、など名古屋駅には度々利用してますが、すっかり忘れてて・・・案内表示に従って名古屋駅北口に向かい、そこからタクシーを利用して、名古屋城に向かいました。過去、名古屋城に行った時は、地下鉄を利用しましたが、朝のラッシュを嫌って、タクシーの利用に迷いはありませでした。タクシーは名古屋城の「正門」前に、8時45分に着きました。
開門が9時のため、暫く散歩でもしようかなぁ・・・と考えていたら、後ろから観光バスで来られた団体さんが来られました。
名古屋城でチケットを購入する前に、必ず検温されます。その係の方が「100名の団体さん、もう来られたで」と。100名の団体さんの後ろになる訳には行かないので、散歩を諦め並ぶことにしました。
8時48分に、検温が始まりました。100名の団体さんの後ろに、外国人観光客の団体さん、その後ろに修学旅行生の団体さんが並ばれたので、検温が早くされたようです。
「正門」の開門は9時です。チケットの販売も9時からです。私は、昨日の間に「アソビュー!」でチケットの購入を済ませてました。元離宮二条城では開門前にチケット売場で行列ができます。その経験から名古屋城でも、行列ができるだろうと考え、事前にチケットを購入していた訳です。これは大正解でしたね。9時にチケットを購入しても、あの団体さんの後ろになる訳だし入城が遅れる訳だし、良い判断でした😊。
9時になると・・・実際は8時58分になると、太鼓が鳴って「ただいまより名古屋城開門します」と言われて正門が開けられ入城しました。
私は二組目でしたが、最初の組の方が違う方へ行かれたので、本丸に向かったのは私だけ、これなら並ばずに本丸御殿に入れそうです😊。
後で、ゆっくり見ますが「西南隅櫓」と「天守閣」を撮りました。
9時1分に重要文化財に指定されている「本丸表二の門」を最初に潜ります。
内堀から「東南隅櫓」を見ています。
同じく、「西南隅櫓」を見ています。後続は、離れているので、まだ余裕があります。
「本丸表二の門」をくぐると、そこは「枡形虎口」。その奥に「本丸表一の門」がありました。
本丸表一の門は、1612年(慶長17年)頃の建築と見られ、北側と西側の石垣上には、多門櫓が隙間なくたてられていました。南側の本丸表二の門から侵入した敵を櫓門と多聞櫓の三方向から矢で攻撃する構造となっています。このような四角形の広場をもった城の出入口を枡形虎口といいます。多聞櫓は1891年(明治24年)の濃尾地震で大破し取り壊され、本丸表一の門は1945年(昭和20年)の空襲で焼失しました。
ここを抜けると御殿の「玄関」と「車寄」が見えます。2008年(平成20年)3月8日に来た時は、工事すらされてなかった建物が、そこにありました。
玄関は、正規の来客がまず通され、藩主と対面までの時間を過ごす建物です。一之間、二之間の2つの部屋があります。車寄は、将軍など正規の来客だけが上がる、本丸御殿への正式な入口です。唐破風屋根をいただく堂々たる外観で、本丸御殿の中でも最も太い柱が使われています。
御殿に入るためには、迂回する必要があります。多分、行列ができるためでしょう。そのため久しぶりに天守閣を見ることができました。
テント内で係の方から、御殿を見学するにあたっての注意事を説明されます。それを聞いてから、「中之口部屋横出入口」から、いよいよ御殿内を見学します。
注意することは、鞄などで部屋を傷つけることを防ぐことと、写真撮影は、フラッシュを使わないことなどです。
1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家康は、1609年(慶長14年)豊臣方への備えとして、名古屋城の築城と、清須から新城下への街ごとの引越を決定。この新たに造られた基盤割の街が現在の名古屋の原型となり、町や橋の名前も現在に受け継がれています。1610年(慶長15年)名古屋城築城にあたり徳川家康は、加藤清正、福島正則らの西国大名20家に普請を命じ、これを公儀普請といいます。天守や御殿の作事は小堀遠州、中井正清らに命じられ、1615年(慶長20年)にほぼ完成しました。尾張藩初代藩主は、徳川家康の9男・徳川義直が入り、御三家筆頭として栄えました。
つづく。
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