「みかえり阿弥陀如来立像」を祀る散りモミジの永観堂へ
12月7日(水)は、南禅寺塔頭寺院の特別公開を予約してました。10時開門のため、その前に久しく行ってない永観堂に行って見ようと思い、9時開門に合わせて永観堂に向かった次第です。
永観堂には、記録に残っているのは、2004年(平成16年)11月13日、2010年(平成22年)5月22日の2回ですが、2004年以前にも行ってる筈で、今回で、多分4回目の訪問だと思います。
地下鉄東西線蹴上駅を出て、南に向かって歩いて行くと、「ねじりまんぽ」と呼ばれる渦を巻くような形で螺旋状にれんがが積まれている不思議なトンネルをくぐります。あとは、南禅寺に向かって歩いて行くと、後ほど訪れる南禅寺塔頭寺院の前を通りました。10時開門予定のため、閉門のままです。
南禅寺から永観堂に向かう途中には「大寂門」があって、北向き一方通行のため、結構車が通ります。
そして東山高校の前を通ると、「FIFAワールドカップカタール2022」に日本代表で出場された、鎌田大地選手母校なんですね、大きな看板が目を引きました。
南禅寺から来たので、永観堂には「南門」から9時に入りました。
南門から案内に従って、総門の方向に歩いて行きます。参道の紅葉が、まだ綺麗でしたね、あまり期待してなかったのでラッキーです。
中門前に、臨時のテントがあって、そこで先に検温されます。そのあとに、こちらも臨時拝観受付所で拝観料600円を納め、ようやく中に入れるシステムでした。ちなみに12月5日までは「秋の寺宝展」と題して1000円でした。紅葉の時期は割高になるんです😊。
余談ですが、このテント前に紅葉の真っ盛りには行列ができます。コロナ禍前のライトアップに来た時は、2時間待ちと案内されたので、入らずに帰った思い出があります。ここから総門まで、何重もの列ができて並ぶ訳です。
受付を済ませたら次に「中門」です。紅葉の時期以外は、ここが拝観受付所です。
永観堂は、聚楽来迎山と号する浄土宗西山禅林寺派の総本山で、正しくは無量寿院禅林寺といいます。中興の祖である永観律師に因み、広く「永観堂」(通称)と呼ばれている。853年(仁寿3年)空海の弟子真紹(しんじょう)が藤原関雄(ふじわらのせきお)の山荘を譲り受け、尊像を安置、真言宗の道場としたのが始まり。平安時代後期の1082年(永保2年)2月15日未明、念仏を唱えながら本堂を歩く修行をしていた永観の前に、本尊の阿弥陀如来が一緒に加わりました。夢ではないかと立ち止まる永観に阿弥陀如来は、後ろを振り返り「永観、遅し」と発したと伝えられ、その姿を仏像にした「阿弥陀如来立像」(重文)は、首を左に向けて微笑みを湛える珍しい逸品で「見返り阿弥陀」として親しまれています。鎌倉時代中期には浄土宗西山派開祖である證空(しょうくう)の弟子、浄音が住持となり、浄土宗一派の本山の基礎を固めました。その後、応仁の乱により堂宇が焼失したものの、1497年(明応6年)に第103代後土御門天皇の命により再興され、以後逐次諸堂が再建され、現在の伽藍が整えられました。国宝「絹本着色山越阿弥陀図」をはじめ、「当麻曼荼羅図」(重文)などの寺宝を多数所蔵されています。また、「もみじの永観堂」と広く知られ、秋には色鮮やかな紅葉まが見られます。
中門を入ると、諸堂拝観入口のある大玄関に向かいます。
紅葉の最盛期なら、皆さん諸堂に入らず、この「放生池」周りの紅葉を楽しまれるのでしょう。
「大玄関」前には係の方が3名ほど居て、靴入れの袋を渡されます。ここで靴を脱いで袋に入れ諸堂に上がりました。
入ると、右手が「釈迦堂」と左の「古方丈」の間には、綺麗な「中庭」がありますが、ここは帰りに寄ります。
「釈迦堂」に入ると、正面には「勅使門(唐門)」と、その前に「盛砂」が見えます。
勅使門は、唐様式で別名を「唐門」といいます。1811年(文化8年)江戸時代の再建。この寺は863年(貞観5年)平安時代に清和天皇の勅願によって建立されました。昔、天皇の勅使参詣のためこの勅使門が設けられました。今日では当寺住職の遷化(逝去)の時のみ使われます。勅使門前の盛砂は清めの砂で勅使の方がこの門を入られ砂の上を歩いて身を清められました。また、昔は夜の月明かりをこの盛砂にうけて“あかり取り”として利用されたと言います。
釈迦堂前の紅葉は、散りモミジでした。また梅の古木「悲田梅」もありました。
「釈迦堂」の内陣には、正面に釈迦如来、向かって右に文殊部札、左に普賢菩薩の釈迦三尊像が安置されていました。
現在の釈迦堂は江戸時代の1627年(寛永4年)頃の建立。室内の襖絵は長谷川等伯の波濤図(重文)などは寛永以前の慶長期の作品であることから、前身となる古方丈があったと推察されています。
釈迦堂の正面から右から回り込むと「前庭」があって、紅葉の最盛期は見事だった思うほどモミジが散ってます。その向かいが「松の間」です。
その手前が「松の間」です。室内には入れませんし、室内の襖絵は写真撮影禁止でした。
釈迦堂の南西角に「松の間」はあります。松の間の北側一間幅四面と東側半間幅二面の襖絵は、主題・構成・表現技法などから桃山から江戸時代初期の漢画系画人が、やまと絵の伝統を踏まえて描いたと推測されます。また、松の間の東側のうち右二面に填まる襖は、当初松の間に飾っていた襖ではなく「洛東禅林寺略記」の記事より、おそらく仏間の南側二面の襖であったと考えられています。本図は竹虎図襖と全く同じ技法ではないものの、長谷川派画人の手になるものと考えられています。
松の間の奥が「仙人の間」です。こちらも撮影禁止でした。
仙人の間北側の障壁画は、半間幅の襖四面と一間分の壁貼り付けとからなり、三人の仙人を主題とする「群仙図」が描かれています。仙人の間の西側襖絵四面の内、一番右側の一面を飾るのは「鷺花卉図」です。仙人の間の西側半間幅四面のうち左三面に填まる襖絵が「高士乗舟図」で江戸時代の作品てす。
釈迦堂から渡り廊下を通って「御影堂(大殿)」までやって来ました。
御影堂から見た「千佛洞」です。この下の参道は、後程、お堂を出てから通ります。
御影堂には「法然上人像」が祀られているのでお参りできます。
「もみじの永観堂」と言われるだけに、最盛期には真っ赤に染まったことでしょう。
御影堂の左側の奥にはエレベーターがありますが、私は乗りません。
御影堂の裏手にも渡り廊下があるので、奥に進みます。
正面に「水琴窟」、右手に行けば「阿弥陀堂」で、こちらにはエレベーターで行けます。左手を行けば「開山堂」に行けるので、私は左手を進みます。
開山堂に至る渡り廊下を「臥龍廊」と呼ばれています。
山の斜面らそって、巧みに造られた廊下。起状が激しく、龍の身体の中を歩いて行くような不思議な廊下です。
登り切ると正面に「開山堂」が見えます。ただ、扉は閉まっていたので、内部を覗くことは出来ませんでした。
渡り廊下から見た「御影堂」です。
開山堂から見た「御影堂」と、奥に「ホテルオークラ京都」も見えています。
開山堂から見た「鎮守社」です。こちらは、お堂を出てから登ってくるつもりです。
開山堂から、再び臥龍廊を降りて、元の分岐点まで戻ってきます。
先程は、左手に進みましたが、今度は真っ直ぐに進み「阿弥陀堂」を目指します。
渡り廊下から、御影堂とエレベーターほ見ています。
この永観堂のメインでしょう「阿弥陀堂」に着きました。こちらにご本尊の「みかえり阿弥陀如来立像」が祀られています。正面からと、向かって右側からとお参りできます。右側から見ると、お顔を拝見できました😊。
ご本尊「みかえり阿弥陀」が祀られているお堂で、1607年(慶長12年)に大阪より移築。堂内は極彩色で、格天井には「百花」が描かれているが、両端の長方形の部分だけには、白く塗った「散り蓮華」となっています。
阿弥陀堂を出て、帰りは、エレベーターに乗ってみます。
エレベーターは、降りると、乗る時と逆の方向にドアが開きました。
行きの時も気づいてましたが、こちらに「三鈷の松」があります。珍しい葉が長く、しかも三本だそうです。これを持つと三つの福が自然と備わると言われています。ここから降りて拾うことは禁止されています😊。
9時19分に、最初の「釈迦堂」まで戻ってきました。次に、まだ見ていない北側の部屋を見て行きます。
正面に「瑞紫殿」、中庭を挟んで「古方丈」があって、後程向かいます。
釈迦堂の北西の角に位置しているのは「虎の間」です。そして奥が「四季の間」でした。なお室内は撮影禁止でした。
虎の間の東側半間幅の四面と南側一間幅の四面を合わせて竹林の中に躍動する虎の姿を描いています。東側襖にはカワノ水か竹林の奥から流れ出て、岩を叩いて大きくうねり、その脇に一頭の小振りの虎が体をひるがえしています。水流は南側麩墨の竹林中の岩場を伝い、やがて大きくゆったりとした流れに変わります。この水際に二頭の大きな虎が威嚇するように対峙する。この描法に長谷川派の作例と共通する特徴が認められます。
四季の間の西側半間幅四面の襖に描かれているのは「桜菖蒲図」(江戸時代)です。また、南側には、左一間分の梅図壁貼り付け、右に半間四面の「松島図」(桃山時代)襖が残っています。
次に「瑞紫殿」に向かいました。
瑞紫殿の内部も撮影禁止です。ここらは「火除けの阿弥陀」が祀られています。
1895年(明治28年)の再建。瑞紫殿は永観堂開山・真紹僧都(しんじょうそうず)が安置し5躰の仏像の内、4躰の仏像とともに室町時代の応仁の乱で焼失しました。右手が焦げただけで、焼け残った阿弥陀如来坐像は「火除けの阿弥陀」と言われています。
瑞紫殿が見た「古方丈」です。ただ、こちらから入れないので、元に戻ります。
釈迦堂前まで戻って、渡り廊下を通って「古方丈」に入りました。
古方丈に入るとガラス越しに紅葉した「中庭」と奥の「釈迦堂」を見ました。
何故か、ここは撮影禁止の文字がありません。それなら撮らさせて貰いました。正面の襖絵は「桐鳳凰菊孔雀図」(桃山時代)とあります。
右側二面は桐樹の幹にとまる二羽の鳳凰を描き、左側に菊や萩などの秋草が覗く。右から三面目には白い芙蓉、紅白の菊、萩など、また一番左側の一面には水辺の岩上に孔雀が羽を拡げています。二面と三面の間にはモティーフは関連しているものの、図様は完全に連続しておらず、二面と四面の間には大きな断絶が認められます。また、桃山時代後期から江戸時代初期の狩野派による制作と思われます。
古方丈のメインである「孔雀の間」は撮影禁止です。「牡丹孔雀図」(重要美術品)原在明筆。つがいの孔雀、牡丹、岩が主要な題材でそれからの組み合わせ以外はほとんど余白です。
孔雀の間とよばれる部屋。ここの欄間には雀が10羽描かれていたそうですが、実際は1羽足りません。これは絵の出来映えが良すぎて、1羽どこかに飛んでいったからなんだとか。現在はこの逸話を「抜け雀」と呼び、永観堂の七不思議の一つとされています。
9時24分に、お堂を出ました。靴の袋は、そのまま持ち帰ります。
このあと、せっかく久しぶりに来たので、境内を巡ります。つづく。
永観堂には、記録に残っているのは、2004年(平成16年)11月13日、2010年(平成22年)5月22日の2回ですが、2004年以前にも行ってる筈で、今回で、多分4回目の訪問だと思います。
地下鉄東西線蹴上駅を出て、南に向かって歩いて行くと、「ねじりまんぽ」と呼ばれる渦を巻くような形で螺旋状にれんがが積まれている不思議なトンネルをくぐります。あとは、南禅寺に向かって歩いて行くと、後ほど訪れる南禅寺塔頭寺院の前を通りました。10時開門予定のため、閉門のままです。
南禅寺から永観堂に向かう途中には「大寂門」があって、北向き一方通行のため、結構車が通ります。
そして東山高校の前を通ると、「FIFAワールドカップカタール2022」に日本代表で出場された、鎌田大地選手母校なんですね、大きな看板が目を引きました。
南禅寺から来たので、永観堂には「南門」から9時に入りました。
南門から案内に従って、総門の方向に歩いて行きます。参道の紅葉が、まだ綺麗でしたね、あまり期待してなかったのでラッキーです。
中門前に、臨時のテントがあって、そこで先に検温されます。そのあとに、こちらも臨時拝観受付所で拝観料600円を納め、ようやく中に入れるシステムでした。ちなみに12月5日までは「秋の寺宝展」と題して1000円でした。紅葉の時期は割高になるんです😊。
余談ですが、このテント前に紅葉の真っ盛りには行列ができます。コロナ禍前のライトアップに来た時は、2時間待ちと案内されたので、入らずに帰った思い出があります。ここから総門まで、何重もの列ができて並ぶ訳です。
受付を済ませたら次に「中門」です。紅葉の時期以外は、ここが拝観受付所です。
永観堂は、聚楽来迎山と号する浄土宗西山禅林寺派の総本山で、正しくは無量寿院禅林寺といいます。中興の祖である永観律師に因み、広く「永観堂」(通称)と呼ばれている。853年(仁寿3年)空海の弟子真紹(しんじょう)が藤原関雄(ふじわらのせきお)の山荘を譲り受け、尊像を安置、真言宗の道場としたのが始まり。平安時代後期の1082年(永保2年)2月15日未明、念仏を唱えながら本堂を歩く修行をしていた永観の前に、本尊の阿弥陀如来が一緒に加わりました。夢ではないかと立ち止まる永観に阿弥陀如来は、後ろを振り返り「永観、遅し」と発したと伝えられ、その姿を仏像にした「阿弥陀如来立像」(重文)は、首を左に向けて微笑みを湛える珍しい逸品で「見返り阿弥陀」として親しまれています。鎌倉時代中期には浄土宗西山派開祖である證空(しょうくう)の弟子、浄音が住持となり、浄土宗一派の本山の基礎を固めました。その後、応仁の乱により堂宇が焼失したものの、1497年(明応6年)に第103代後土御門天皇の命により再興され、以後逐次諸堂が再建され、現在の伽藍が整えられました。国宝「絹本着色山越阿弥陀図」をはじめ、「当麻曼荼羅図」(重文)などの寺宝を多数所蔵されています。また、「もみじの永観堂」と広く知られ、秋には色鮮やかな紅葉まが見られます。
中門を入ると、諸堂拝観入口のある大玄関に向かいます。
紅葉の最盛期なら、皆さん諸堂に入らず、この「放生池」周りの紅葉を楽しまれるのでしょう。
「大玄関」前には係の方が3名ほど居て、靴入れの袋を渡されます。ここで靴を脱いで袋に入れ諸堂に上がりました。
入ると、右手が「釈迦堂」と左の「古方丈」の間には、綺麗な「中庭」がありますが、ここは帰りに寄ります。
「釈迦堂」に入ると、正面には「勅使門(唐門)」と、その前に「盛砂」が見えます。
勅使門は、唐様式で別名を「唐門」といいます。1811年(文化8年)江戸時代の再建。この寺は863年(貞観5年)平安時代に清和天皇の勅願によって建立されました。昔、天皇の勅使参詣のためこの勅使門が設けられました。今日では当寺住職の遷化(逝去)の時のみ使われます。勅使門前の盛砂は清めの砂で勅使の方がこの門を入られ砂の上を歩いて身を清められました。また、昔は夜の月明かりをこの盛砂にうけて“あかり取り”として利用されたと言います。
釈迦堂前の紅葉は、散りモミジでした。また梅の古木「悲田梅」もありました。
「釈迦堂」の内陣には、正面に釈迦如来、向かって右に文殊部札、左に普賢菩薩の釈迦三尊像が安置されていました。
現在の釈迦堂は江戸時代の1627年(寛永4年)頃の建立。室内の襖絵は長谷川等伯の波濤図(重文)などは寛永以前の慶長期の作品であることから、前身となる古方丈があったと推察されています。
釈迦堂の正面から右から回り込むと「前庭」があって、紅葉の最盛期は見事だった思うほどモミジが散ってます。その向かいが「松の間」です。
その手前が「松の間」です。室内には入れませんし、室内の襖絵は写真撮影禁止でした。
釈迦堂の南西角に「松の間」はあります。松の間の北側一間幅四面と東側半間幅二面の襖絵は、主題・構成・表現技法などから桃山から江戸時代初期の漢画系画人が、やまと絵の伝統を踏まえて描いたと推測されます。また、松の間の東側のうち右二面に填まる襖は、当初松の間に飾っていた襖ではなく「洛東禅林寺略記」の記事より、おそらく仏間の南側二面の襖であったと考えられています。本図は竹虎図襖と全く同じ技法ではないものの、長谷川派画人の手になるものと考えられています。
松の間の奥が「仙人の間」です。こちらも撮影禁止でした。
仙人の間北側の障壁画は、半間幅の襖四面と一間分の壁貼り付けとからなり、三人の仙人を主題とする「群仙図」が描かれています。仙人の間の西側襖絵四面の内、一番右側の一面を飾るのは「鷺花卉図」です。仙人の間の西側半間幅四面のうち左三面に填まる襖絵が「高士乗舟図」で江戸時代の作品てす。
釈迦堂から渡り廊下を通って「御影堂(大殿)」までやって来ました。
御影堂から見た「千佛洞」です。この下の参道は、後程、お堂を出てから通ります。
御影堂には「法然上人像」が祀られているのでお参りできます。
「もみじの永観堂」と言われるだけに、最盛期には真っ赤に染まったことでしょう。
御影堂の左側の奥にはエレベーターがありますが、私は乗りません。
御影堂の裏手にも渡り廊下があるので、奥に進みます。
正面に「水琴窟」、右手に行けば「阿弥陀堂」で、こちらにはエレベーターで行けます。左手を行けば「開山堂」に行けるので、私は左手を進みます。
開山堂に至る渡り廊下を「臥龍廊」と呼ばれています。
山の斜面らそって、巧みに造られた廊下。起状が激しく、龍の身体の中を歩いて行くような不思議な廊下です。
登り切ると正面に「開山堂」が見えます。ただ、扉は閉まっていたので、内部を覗くことは出来ませんでした。
渡り廊下から見た「御影堂」です。
開山堂から見た「御影堂」と、奥に「ホテルオークラ京都」も見えています。
開山堂から見た「鎮守社」です。こちらは、お堂を出てから登ってくるつもりです。
開山堂から、再び臥龍廊を降りて、元の分岐点まで戻ってきます。
先程は、左手に進みましたが、今度は真っ直ぐに進み「阿弥陀堂」を目指します。
渡り廊下から、御影堂とエレベーターほ見ています。
この永観堂のメインでしょう「阿弥陀堂」に着きました。こちらにご本尊の「みかえり阿弥陀如来立像」が祀られています。正面からと、向かって右側からとお参りできます。右側から見ると、お顔を拝見できました😊。
ご本尊「みかえり阿弥陀」が祀られているお堂で、1607年(慶長12年)に大阪より移築。堂内は極彩色で、格天井には「百花」が描かれているが、両端の長方形の部分だけには、白く塗った「散り蓮華」となっています。
阿弥陀堂を出て、帰りは、エレベーターに乗ってみます。
エレベーターは、降りると、乗る時と逆の方向にドアが開きました。
行きの時も気づいてましたが、こちらに「三鈷の松」があります。珍しい葉が長く、しかも三本だそうです。これを持つと三つの福が自然と備わると言われています。ここから降りて拾うことは禁止されています😊。
9時19分に、最初の「釈迦堂」まで戻ってきました。次に、まだ見ていない北側の部屋を見て行きます。
正面に「瑞紫殿」、中庭を挟んで「古方丈」があって、後程向かいます。
釈迦堂の北西の角に位置しているのは「虎の間」です。そして奥が「四季の間」でした。なお室内は撮影禁止でした。
虎の間の東側半間幅の四面と南側一間幅の四面を合わせて竹林の中に躍動する虎の姿を描いています。東側襖にはカワノ水か竹林の奥から流れ出て、岩を叩いて大きくうねり、その脇に一頭の小振りの虎が体をひるがえしています。水流は南側麩墨の竹林中の岩場を伝い、やがて大きくゆったりとした流れに変わります。この水際に二頭の大きな虎が威嚇するように対峙する。この描法に長谷川派の作例と共通する特徴が認められます。
四季の間の西側半間幅四面の襖に描かれているのは「桜菖蒲図」(江戸時代)です。また、南側には、左一間分の梅図壁貼り付け、右に半間四面の「松島図」(桃山時代)襖が残っています。
次に「瑞紫殿」に向かいました。
瑞紫殿の内部も撮影禁止です。ここらは「火除けの阿弥陀」が祀られています。
1895年(明治28年)の再建。瑞紫殿は永観堂開山・真紹僧都(しんじょうそうず)が安置し5躰の仏像の内、4躰の仏像とともに室町時代の応仁の乱で焼失しました。右手が焦げただけで、焼け残った阿弥陀如来坐像は「火除けの阿弥陀」と言われています。
瑞紫殿が見た「古方丈」です。ただ、こちらから入れないので、元に戻ります。
釈迦堂前まで戻って、渡り廊下を通って「古方丈」に入りました。
古方丈に入るとガラス越しに紅葉した「中庭」と奥の「釈迦堂」を見ました。
何故か、ここは撮影禁止の文字がありません。それなら撮らさせて貰いました。正面の襖絵は「桐鳳凰菊孔雀図」(桃山時代)とあります。
右側二面は桐樹の幹にとまる二羽の鳳凰を描き、左側に菊や萩などの秋草が覗く。右から三面目には白い芙蓉、紅白の菊、萩など、また一番左側の一面には水辺の岩上に孔雀が羽を拡げています。二面と三面の間にはモティーフは関連しているものの、図様は完全に連続しておらず、二面と四面の間には大きな断絶が認められます。また、桃山時代後期から江戸時代初期の狩野派による制作と思われます。
古方丈のメインである「孔雀の間」は撮影禁止です。「牡丹孔雀図」(重要美術品)原在明筆。つがいの孔雀、牡丹、岩が主要な題材でそれからの組み合わせ以外はほとんど余白です。
孔雀の間とよばれる部屋。ここの欄間には雀が10羽描かれていたそうですが、実際は1羽足りません。これは絵の出来映えが良すぎて、1羽どこかに飛んでいったからなんだとか。現在はこの逸話を「抜け雀」と呼び、永観堂の七不思議の一つとされています。
9時24分に、お堂を出ました。靴の袋は、そのまま持ち帰ります。
このあと、せっかく久しぶりに来たので、境内を巡ります。つづく。
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