西国三十三ヵ所 第1番札所 那智山 青岸渡寺へ
2022年(令和4年)10月26日(水)に、西国三十三ヵ所 第4番札所 槇尾山 施福寺(槇尾寺)に行き、四巡目も残り那智山 青岸渡寺だけとなりました。ただ、那智勝浦は遠いです。日帰りでも行けないことはありませんが、2022年(令和4年)12月27日まで「全国旅行支援」(全国旅行割)で、お得に旅行できるので、一人ですが年内に行くことにしたわけです。
12月16日(金)の9時出発予定でしたが、8時45分頃に降りて来ると、既に昨日の運転手さんが来られてました。それなら、少し早いですが、8時50分頃には、南紀勝浦温泉 湯快リゾート 越之湯<プレミアム>を出発し、運転手さんが「青岸渡寺と熊野那智大社を最初に行かして貰うけど良いですか?」と言われたので、道順はお任せですと答えました。
2006年(平成18年)11月21日以来の西国三十三ヵ所 第1番札所 那智山 青岸渡寺となります。ここは参道から473段の石段を登るか、別途800円を払って、有料道路で行くかのどちらかです。前回は、下から歩きましたが、今日は時間が無いのと、膝を怪我をしていることもあって、迷わず800円を支払って、有料道路を通って貰いました。
9時12分に駐車場に着きました。駐車場は三重塔を通り過ぎて、本堂の目の前にありました。向こうに見えている建物は「信徒会館」です。
第16代仁徳天皇の時代にインドから裸形上人(らぎょうしょうにん)が熊野浦に漂着した。上人は那智の大滝で修行中、滝壺で小さな黄金の観音仏を感得。草庵を結んで仏像を安置したのが寺の始まり。その後、第33代推古天皇の頃に、大和から訪れた生仏上人が椿の大木に如意輪観世音を刻み、裸形上人の観音像をその胸に納め、本尊としました。その頃から神仏習合の修験道場として発展。平安時代には本宮、新宮、那智を熊野三山として、それぞれ阿弥陀如来、薬師如来、観世音菩薩を当てる熊野信仰が盛んになり、天皇や貴族の帰依を受けました。西国三十三ヵ所札所巡りの中興の祖と言われる花山法皇も千日籠りをされ、その縁で第一番札所になったと言われています。青岸渡寺と熊野那智大社は、江戸時代の終わりまで、那智山と総じて人々から信仰されてきました。この形態は、明治新政府が仏教とと神道の厳格な分離を命じ、僧侶たちが那智山から追い出されことで終わりを迎えました。その後1874年(明治7年)に、僧侶たちは空になったお堂を青岸渡寺という新たな寺として使う許可を得ました。1933年(昭和8年)に建てられた山門は、仏教の守護神である仁王と神社を守る狛犬という珍しい組み合わせが特徴です。また、三重塔は1581年(天正9年)に焼失しましたが、約400年の時を経て1972年(昭和47年)に再建されました。
a駐車場から歩いて直ぐに「本堂」に着きました。私は、本堂の側面から上がります。
これから正面に回り込んで、堂内に入ります。
久しぶりの本堂です。2006年(平成18年)11月21日に来た時は、工事用の幕に覆われて全景を見るのは何年ぶりでしょうか。
堂内に右手に「納経所」がありました。駐車場にマイクロバスが数台止まってて、団体さんの御朱印を書かれていたので時間かかりました。
御朱印は「西国三十三ヵ所草創1300年」の印入りです。散華もいただきました。これで満願です。よく頑張りました😊。
「散華」も帰ってから早速、貼りました。目標の年内に満願達成して達成感たっぷりです。
1590年(天正18年)に豊臣秀吉により再建された。ご本尊は如意輪観音象で、如意輪堂とも呼ばれています。
このあと、お隣の熊野那智大社に行ったんですが、それは別頁で😊。
本堂には、最初に横から入ったので、帰りは正面を通りました。「世界文化遺産」の石碑もありました。
ここに来て、外せないのが、那智の大滝です。それは展望台から見られます。それが・・・?。
冬のため、水量が少ないけど、「三重塔」と「那智の大滝」がセット撮れるビューポイントです。
こちらは「水子堂」です。
国指定重要文化財の「宝篋印塔」です。鎌倉時代の1322年(元亨2年)建立と書いてありました。
「梵鐘」は、1324年(元亨4年)鋳造で、那智山執行法印権大僧都道済滝本執行法印尊什河内国河内ノ介弘の銘あり。
那智七福神を祀る「妙法堂(大黒堂)」にも行って見ました。
大黒堂から見た「鐘楼」です。
ひの石段を上がると「熊野道」に出られるのでしょうか?。
このあと、駐車場に戻り車で出発しました。このあと2006年(平成18年)11月21日に行った「見晴台」を希望しました。以前は、有料道路でしたが、今は無料で行けるそうです。
無料になったからでしょうか、ここからの眺望は良くありません。前の雑草と木々が邪魔して・・・以前は、綺麗に見えた那智勝浦の街並みや、熊野灘も少ししか見えません。
ここより、ずっと奥に「熊野妙法山 阿彌陀寺」があるそうですが、今日も行きません。
眺望が良くないので、少しガッカリして、直ぐに山を降りました。
12月16日(金)の9時出発予定でしたが、8時45分頃に降りて来ると、既に昨日の運転手さんが来られてました。それなら、少し早いですが、8時50分頃には、南紀勝浦温泉 湯快リゾート 越之湯<プレミアム>を出発し、運転手さんが「青岸渡寺と熊野那智大社を最初に行かして貰うけど良いですか?」と言われたので、道順はお任せですと答えました。
2006年(平成18年)11月21日以来の西国三十三ヵ所 第1番札所 那智山 青岸渡寺となります。ここは参道から473段の石段を登るか、別途800円を払って、有料道路で行くかのどちらかです。前回は、下から歩きましたが、今日は時間が無いのと、膝を怪我をしていることもあって、迷わず800円を支払って、有料道路を通って貰いました。
9時12分に駐車場に着きました。駐車場は三重塔を通り過ぎて、本堂の目の前にありました。向こうに見えている建物は「信徒会館」です。
第16代仁徳天皇の時代にインドから裸形上人(らぎょうしょうにん)が熊野浦に漂着した。上人は那智の大滝で修行中、滝壺で小さな黄金の観音仏を感得。草庵を結んで仏像を安置したのが寺の始まり。その後、第33代推古天皇の頃に、大和から訪れた生仏上人が椿の大木に如意輪観世音を刻み、裸形上人の観音像をその胸に納め、本尊としました。その頃から神仏習合の修験道場として発展。平安時代には本宮、新宮、那智を熊野三山として、それぞれ阿弥陀如来、薬師如来、観世音菩薩を当てる熊野信仰が盛んになり、天皇や貴族の帰依を受けました。西国三十三ヵ所札所巡りの中興の祖と言われる花山法皇も千日籠りをされ、その縁で第一番札所になったと言われています。青岸渡寺と熊野那智大社は、江戸時代の終わりまで、那智山と総じて人々から信仰されてきました。この形態は、明治新政府が仏教とと神道の厳格な分離を命じ、僧侶たちが那智山から追い出されことで終わりを迎えました。その後1874年(明治7年)に、僧侶たちは空になったお堂を青岸渡寺という新たな寺として使う許可を得ました。1933年(昭和8年)に建てられた山門は、仏教の守護神である仁王と神社を守る狛犬という珍しい組み合わせが特徴です。また、三重塔は1581年(天正9年)に焼失しましたが、約400年の時を経て1972年(昭和47年)に再建されました。
a駐車場から歩いて直ぐに「本堂」に着きました。私は、本堂の側面から上がります。
これから正面に回り込んで、堂内に入ります。
久しぶりの本堂です。2006年(平成18年)11月21日に来た時は、工事用の幕に覆われて全景を見るのは何年ぶりでしょうか。
堂内に右手に「納経所」がありました。駐車場にマイクロバスが数台止まってて、団体さんの御朱印を書かれていたので時間かかりました。
御朱印は「西国三十三ヵ所草創1300年」の印入りです。散華もいただきました。これで満願です。よく頑張りました😊。
「散華」も帰ってから早速、貼りました。目標の年内に満願達成して達成感たっぷりです。
1590年(天正18年)に豊臣秀吉により再建された。ご本尊は如意輪観音象で、如意輪堂とも呼ばれています。
このあと、お隣の熊野那智大社に行ったんですが、それは別頁で😊。
本堂には、最初に横から入ったので、帰りは正面を通りました。「世界文化遺産」の石碑もありました。
ここに来て、外せないのが、那智の大滝です。それは展望台から見られます。それが・・・?。
冬のため、水量が少ないけど、「三重塔」と「那智の大滝」がセット撮れるビューポイントです。
こちらは「水子堂」です。
国指定重要文化財の「宝篋印塔」です。鎌倉時代の1322年(元亨2年)建立と書いてありました。
「梵鐘」は、1324年(元亨4年)鋳造で、那智山執行法印権大僧都道済滝本執行法印尊什河内国河内ノ介弘の銘あり。
那智七福神を祀る「妙法堂(大黒堂)」にも行って見ました。
大黒堂から見た「鐘楼」です。
ひの石段を上がると「熊野道」に出られるのでしょうか?。
このあと、駐車場に戻り車で出発しました。このあと2006年(平成18年)11月21日に行った「見晴台」を希望しました。以前は、有料道路でしたが、今は無料で行けるそうです。
無料になったからでしょうか、ここからの眺望は良くありません。前の雑草と木々が邪魔して・・・以前は、綺麗に見えた那智勝浦の街並みや、熊野灘も少ししか見えません。
ここより、ずっと奥に「熊野妙法山 阿彌陀寺」があるそうですが、今日も行きません。
眺望が良くないので、少しガッカリして、直ぐに山を降りました。
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