世界文化遺産 熊野三所大神社へ
世界文化遺産 補陀洛山寺に行ったあと、お隣の熊野三所大神社に行ってみると、こちらも世界文化遺産であることを知りました。ここに来るまで、まったく知らなかったことで、早速見に行きます。
この看板に書いてあるのを読んで知った訳です。
読み方は、熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)(浜の宮王子)と言うそうで、案内文は以下の通りです。
熊野三所大神社は、かつては、浜の宮王子とも呼ばれ、御神像3躰は国の重要文化財に指定されている由緒の古い神社です。隣接する補陀洛山寺と一体のものとして人々に信仰されてきましたが、明治新政府の命令(神仏分離令)によってはっきりと区別され、のちに現在の熊野三所大神社と改称されました。1648年(正保5年)の再建と伝わるこの神社の本殿には、熊野三所権現(熊野夫須美大神、御子速玉大神、家都御子大神)が祀られています。また、二社の摂社もあり、これからはそれそれ本殿の両側に建てられています。右側の社殿は熊野に上陸した初代神武天皇に抗戦し敗北した丹敷戸畦を祀っており、左側には食と稲作の神である御食津神(三狐神)を祀っています。境内の周りの木立は「渚の森」と呼ばれ、多くの熊野詣の起行録の中で讃えられており、現在もこの森の一部が残されています。
こちらが「本殿」のようです。1648年(正保5年)の再建とありました。後方にあるのは、多分、宝物館でしょうね。
本殿前に、拝殿か社務所か分かりませんが、その前に「手水舎」がありました。
入口にある「鳥居」まで来ました。この辺りは「浜の宮王子社跡」だそうです。
藤原宗忠の日記「中右記」1109年(天仁2年)10月27日条に、「浜宮王子」とみえ、白砂の補陀洛浜からこの王子に参拝した宗忠は、南の海に向かう地形がたいへんすばらしいと記しています。「平家物語」には、平維盛がここから入水したと記されていますように、補陀洛浄土(観音の浄土)に渡海する場所でした。那智参詣曼荼羅には、浜の宮王子の景観とともに、この補陀洛渡海の様子が描かれています。また、浜の宮王子では、岩代王子(みなべ町)と同様に、「連書」の風情がありました。連書とは、熊野御行に瑞光した人々が、官位・姓名と参詣の回数を板に書いて社殿に打ち付けることです。1427年(応永14年)の足利義満の側室・北野殿の参詣では、10月1日に「はまの宮」に奉幣(ほうべい)し、神楽を奉納したのち、帯や本結(紐)を投げると、神子女(巫女)たちが、争って拾った様子を、先達をつとめた僧実意(じつい)が記しています。三所権現あるいは渚宮と呼ばれていましたが、現在は熊野三所大神と称しています。なお、隣の補陀洛山寺は千手堂あるいは補陀洛寺と呼ばれ、本来はこの王子社と一体のものでした。
入口には樹齢約800年の「浜ノ宮の大楠」がありました。
こちらの石碑には「神武天皇頓宮跡」と書かれています。この石碑は、神武天皇祭の興隆とともに、大正期にこれを建て、囲いをしたものだそうです。
ここから、直ぐの所が「那智の浜」があるそうで、当寺は、この鳥居の前が海岸線だったのでしょう。歩くと分かりますが、この辺りは砂地です。
2004年(平成16年)7月に、「熊野三山」「高野山」「吉野・大峯」の三つ霊場とそれらを結ぶ参詣道、そして自然と人の営みが長い時間をかけて形成した文化的景観が、人類共有の財産としてユネスコに認められ「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されました。
これで、今回の旅行の全日程を終了しました。さすがに少しお疲れです。ここから紀伊勝浦駅まで送って貰いますが、途中でコンビニに寄って貰い、パンとお茶を買いました。くろしお号には、車内販売も、自動販売機もありません。紀伊勝浦駅構内も何もありません。当初は駅弁でもと思ってましたが・・・。つづく。
この看板に書いてあるのを読んで知った訳です。
読み方は、熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)(浜の宮王子)と言うそうで、案内文は以下の通りです。
熊野三所大神社は、かつては、浜の宮王子とも呼ばれ、御神像3躰は国の重要文化財に指定されている由緒の古い神社です。隣接する補陀洛山寺と一体のものとして人々に信仰されてきましたが、明治新政府の命令(神仏分離令)によってはっきりと区別され、のちに現在の熊野三所大神社と改称されました。1648年(正保5年)の再建と伝わるこの神社の本殿には、熊野三所権現(熊野夫須美大神、御子速玉大神、家都御子大神)が祀られています。また、二社の摂社もあり、これからはそれそれ本殿の両側に建てられています。右側の社殿は熊野に上陸した初代神武天皇に抗戦し敗北した丹敷戸畦を祀っており、左側には食と稲作の神である御食津神(三狐神)を祀っています。境内の周りの木立は「渚の森」と呼ばれ、多くの熊野詣の起行録の中で讃えられており、現在もこの森の一部が残されています。
こちらが「本殿」のようです。1648年(正保5年)の再建とありました。後方にあるのは、多分、宝物館でしょうね。
本殿前に、拝殿か社務所か分かりませんが、その前に「手水舎」がありました。
入口にある「鳥居」まで来ました。この辺りは「浜の宮王子社跡」だそうです。
藤原宗忠の日記「中右記」1109年(天仁2年)10月27日条に、「浜宮王子」とみえ、白砂の補陀洛浜からこの王子に参拝した宗忠は、南の海に向かう地形がたいへんすばらしいと記しています。「平家物語」には、平維盛がここから入水したと記されていますように、補陀洛浄土(観音の浄土)に渡海する場所でした。那智参詣曼荼羅には、浜の宮王子の景観とともに、この補陀洛渡海の様子が描かれています。また、浜の宮王子では、岩代王子(みなべ町)と同様に、「連書」の風情がありました。連書とは、熊野御行に瑞光した人々が、官位・姓名と参詣の回数を板に書いて社殿に打ち付けることです。1427年(応永14年)の足利義満の側室・北野殿の参詣では、10月1日に「はまの宮」に奉幣(ほうべい)し、神楽を奉納したのち、帯や本結(紐)を投げると、神子女(巫女)たちが、争って拾った様子を、先達をつとめた僧実意(じつい)が記しています。三所権現あるいは渚宮と呼ばれていましたが、現在は熊野三所大神と称しています。なお、隣の補陀洛山寺は千手堂あるいは補陀洛寺と呼ばれ、本来はこの王子社と一体のものでした。
入口には樹齢約800年の「浜ノ宮の大楠」がありました。
こちらの石碑には「神武天皇頓宮跡」と書かれています。この石碑は、神武天皇祭の興隆とともに、大正期にこれを建て、囲いをしたものだそうです。
ここから、直ぐの所が「那智の浜」があるそうで、当寺は、この鳥居の前が海岸線だったのでしょう。歩くと分かりますが、この辺りは砂地です。
2004年(平成16年)7月に、「熊野三山」「高野山」「吉野・大峯」の三つ霊場とそれらを結ぶ参詣道、そして自然と人の営みが長い時間をかけて形成した文化的景観が、人類共有の財産としてユネスコに認められ「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されました。
これで、今回の旅行の全日程を終了しました。さすがに少しお疲れです。ここから紀伊勝浦駅まで送って貰いますが、途中でコンビニに寄って貰い、パンとお茶を買いました。くろしお号には、車内販売も、自動販売機もありません。紀伊勝浦駅構内も何もありません。当初は駅弁でもと思ってましたが・・・。つづく。
この記事へのコメント
補陀落山寺との結びつきが分かり難く
なってしまったんですね。かつて「渚の森」と
呼ばれた周辺の森の美しさが感じられて、
厳かないい神社だと思いました。
今回の旅行に行くまで、補陀洛山寺のことは知りませんでした。ここで知ったことは、やっぱり衝撃でしたね。
補陀洛山寺のお隣も世界文化遺産だったので寄ってみたわけです。
何処でも世界文化遺産には多くの方が来られてますが、ここには誰も来られてません。あまり知られてないのでしょう。