第57回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 東本願寺 大寝殿・白書院へ
今年も、第57回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開が、1月7日(土)~3月19日(日)の日程で公開が始まりました。今年は、「徳川家康と戦国武将ゆかりの地」が公開されるので、戦国歴史ファンの私にとっては久しぶりに楽しみにしていました。今回は6箇所ぐらいは回りたいなぁと考えてて、最初は、「京の冬の旅」では40年振りの公開となる東本願寺「大寝殿・白書院」に行くことにし、1月20日(金)に行きました。
私は、2012年(平成24年)5月12日に開催された京都市文化観光資源保護財団主催の「文化財特別鑑賞」では、東本願寺の大寝殿と白書院には入っていますが10年も前のことで、初めて訪れたようなものです😊。
今日は、所用先から京都バスに乗ってやって来ました。滅多に乗らない京都バスに乗り、烏丸五条でバスを降りました。後で分かったことですが、烏丸七条で降りた方が近かったです。11時に四条烏丸で家族と待ち合わせてしているので、急ぎます。
10時26分に「御影堂門」前に着きました。バスを降りて約10分ぐらいかかりました。
御影堂門も、昨年の「第56回 京の冬の旅」で公開されたので、登りました。それ以来ですね、東本願寺に来たのは。
特に案内は出てませんが、拝観入口は直ぐに分かりました。境内の北側にテントがあるので向かいます。
受付で、京都市文化観光資源保護財団からいただいた招待券を出し、冬の旅スタンプラリーの用紙と、ガイドブック(300円)もいただきました。そして、案内にしたがって靴を袋に入れ参拝者接待所から上がります。
2012年(平成24年)5月12日の「文化財特別鑑賞」の時、何処から入ったのか全く覚えてません。矢印に従って奥に進みます。
この手前で拝観券を見せます。その時に写真撮影有無を訪ねました。答えは「何処を撮って貰ってもOKです」と😊。ちなみに西本願寺は堂内完全NGです。
最初に想い出したのは、大寝殿前の「菊門」です。
菊門は1615年(慶長20年)の「一国一城令」によって、1624年(元和10年)に伏見城が取り壊しになった際に、その遺構として移された。烏丸通りから見た門扉に菊の紋章があるため、菊門と言われているが1907年(明治40年)頃から1984年(昭和59年)までは勅使門と言われていた。普段は門が閉められているが、御遠忌等の大法要では、結願日中に大寝殿から法衣を着用した僧侶等が行列をなして、大寝殿を出発し、菊門から烏丸通りに出て、御影堂門より境内に入り、御影堂にいたる道程で「庭儀(ていぎ)」という参堂列が行われる。
久しぶりの「大寝殿」に入りました。ここではガイドさんが案内してくれます。
1864年(元和元年)の「蛤御門の変」(禁門の変)で諸堂が焼失した後、1867年(慶応3年)に上棟され、現在の真言本願寺で最も古い建物である。大寝殿は、表向諸殿(公式行事・儀式に使用される部分)の中心であり、かつては広間・対面所として使用されていた。現在では報恩講のお斎接待や行事の集合場所などに使用されている他、法話会場としても使用している。「上段の間」の障壁画は1934年(昭和9年)に竹内栖鳳によって描かれた。画題は向かって右から「風竹野雀」「歓喜」「古柳眠鷺」である。それぞれ現世の闘争・遭法の喜び・浄土の寂静を表している。
広い大寝殿の向かって右側からガイドさんが案内されます。私も右側から見ていきます。
北の床の間の壁ゆ襖には「風竹野雀(ふうちくやじゃく)」が描かれています。
強い風に吹かれ、大きく枝がしなっている竹林の中を二羽の雀が飛翔しながら争っている姿が描かれ、現世の闘争と煩悩が表現されており、南側の古柳眠鷺(こりゅうみんろ)とは対照的な表現となっている。
左は「違い棚」が。
中央の帳台構には「歓喜(かんぎ)」が描かれています。
対照的な画題を示す両脇の水墨花鳥図に対して、着色画で描かれているため、美しく引き立ち、大寝殿を荘厳している。暖かなひだまりで餌を啄む雀が色彩豊かに描かれ、愚法の喜びが表現されている。中央に一部損傷の後が残されているが、元々二羽の雀が描かれていた類推されている。
南の床の間の壁貼り付けには「古柳眠鷺(こりゅうみんろ)」が描かれています。
雪景色に生い立つ柳の古木の上で静かに休む白鷺の姿が、風竹野雀の動態表現に対して静態表現で描かれている。今にも折れてしまいそうな柳の枝先に白鷺が休んでいる姿を通して浄土の寂静が表現されている。
久しぶりの大寝殿を見た後、白書院に向かいます。2012年(平成24年)5月12日に開催された京都市文化観光資源保護財団主催の「文化財特別鑑賞」では宮御殿も見られたんですが、非公開でした。黒書院の公開はありません。
案内人が、「赤い絨毯に沿って白書院に向かって下さい」と言われたので、その通り進んで行くと・・・?。
渡り廊下から中央に「御影堂」が、左に「能部台」が、右に「白書院」が見えました。
「能部台」は、後程正面から見てみます。
「白書院」には東側から入ります。(能舞台の正面から)
白書院は、1911年(明治44年)の「宗祖親鸞聖人650回御遠忌」に際し、大阪の戸田猪七氏の寄進により再建された。白書院の名称は、柱その他の用材が白木であって漆などを塗らずに仕立て上げられていることに由来する。建物の北側脇には控間と上段の間が整えられており、中央の部屋は格天井、控間は小間格天井、一の間は折上小間格天井となっている。一の間は帳台構・違棚などを設えた正式の書院造であり、正式な対面施設であるが、一の間を除き内部の装飾は控えめである。現在は来賓接待等に使用されている。なお、一の間の手前に掛けられている「国豊民安」と書かれた額は「大無量寿経」下巻にある言葉であり、閑院宮載仁親王(かんいんのみやことひとしんのう)の筆である。
西本願寺にも「能舞台」は、ありますが、東本願寺にもあります。違いは、西本願寺は撮影禁止。ここは撮影OKです😊。
能舞台は1880年(明治13年)の両堂釿始式の際に、白洲仮設用として組み建てられたもので、現在の位置には1937年(昭和12年)から常設された。本願寺においては、蓮如上人が教化方法の一つとして「御文」とともに能・狂言を積極的に導入した。能・狂言上演の意味は、御遠忌の円成や釿始、上棟式などを慶讃することにあり、江戸時代以降の宗祖御遠忌法要、両堂再建の釿始、上棟式などには「式能」と呼ばれる儀式としての能・狂言が行われてきた。白書院を観覧席として建てられており、御遠忌等の大法要では「本願寺能」が舞われる。鏡板には、明治期京都画壇の重鎮・幸野楳嶺の雄大な松が描かれている。
それでは、白書院に入ります。中ではガイドさんに案内して貰えます。
来賓の接待などを行う「白書院」は帳台構や違棚を設けた書院造で、独創的な彫刻と藤や牡丹を中心とした障壁画が美しい。
こちらは「上段の間」とは言わず「貴人の間」と呼ばれています。上段の間では一段高くなっていますが、こちらは平坦です。L字型の造りになっていのは、下座から直接貴人が見えないようになっているからです。また、天井は、折り上げ小組みの「格天井」になっています。
白書院を出て、戻ります。今回は「宮御殿」の公開はありません。参考までに宮後殿とは・・・?。
宮御殿は、1867年(慶応3年)に大宮御所に建てられた御殿で、1880年(明治13年)に明治天皇より下賜され移築されたものです。室内は大和絵が雅な襖絵で飾られて、その昔は御所にあった御殿を彷彿されます。
渡り廊下から「白書院」を撮りました。
ここから出ようとしたら、団体さんが入って来られました。50名弱ぐらいでしょうか、早めに見られて良かったです😊。
特別拝観から出て、東本願寺の境内に出ました。ただ急ぐので「御影堂」や「阿弥陀堂」には行きません。
現在、東本願寺前が「広場」に生まれ変わる工事をされています。令和4年度末だと書いてあったので、もう直ぐですね。
先程、門の内側から見た「菊門」です。菊の御紋が、はっきり分かります。
ここから地下鉄烏丸線五条駅の南改札口から入り、地下に降りると直ぐに電車が来ました。11時0分に乗り、四条に11時1分に着いたので、急いでバス停に向かい、11時8分のバスに乗り帰路に着きました。
私は、2012年(平成24年)5月12日に開催された京都市文化観光資源保護財団主催の「文化財特別鑑賞」では、東本願寺の大寝殿と白書院には入っていますが10年も前のことで、初めて訪れたようなものです😊。
今日は、所用先から京都バスに乗ってやって来ました。滅多に乗らない京都バスに乗り、烏丸五条でバスを降りました。後で分かったことですが、烏丸七条で降りた方が近かったです。11時に四条烏丸で家族と待ち合わせてしているので、急ぎます。
10時26分に「御影堂門」前に着きました。バスを降りて約10分ぐらいかかりました。
御影堂門も、昨年の「第56回 京の冬の旅」で公開されたので、登りました。それ以来ですね、東本願寺に来たのは。
特に案内は出てませんが、拝観入口は直ぐに分かりました。境内の北側にテントがあるので向かいます。
受付で、京都市文化観光資源保護財団からいただいた招待券を出し、冬の旅スタンプラリーの用紙と、ガイドブック(300円)もいただきました。そして、案内にしたがって靴を袋に入れ参拝者接待所から上がります。
2012年(平成24年)5月12日の「文化財特別鑑賞」の時、何処から入ったのか全く覚えてません。矢印に従って奥に進みます。
この手前で拝観券を見せます。その時に写真撮影有無を訪ねました。答えは「何処を撮って貰ってもOKです」と😊。ちなみに西本願寺は堂内完全NGです。
最初に想い出したのは、大寝殿前の「菊門」です。
菊門は1615年(慶長20年)の「一国一城令」によって、1624年(元和10年)に伏見城が取り壊しになった際に、その遺構として移された。烏丸通りから見た門扉に菊の紋章があるため、菊門と言われているが1907年(明治40年)頃から1984年(昭和59年)までは勅使門と言われていた。普段は門が閉められているが、御遠忌等の大法要では、結願日中に大寝殿から法衣を着用した僧侶等が行列をなして、大寝殿を出発し、菊門から烏丸通りに出て、御影堂門より境内に入り、御影堂にいたる道程で「庭儀(ていぎ)」という参堂列が行われる。
久しぶりの「大寝殿」に入りました。ここではガイドさんが案内してくれます。
1864年(元和元年)の「蛤御門の変」(禁門の変)で諸堂が焼失した後、1867年(慶応3年)に上棟され、現在の真言本願寺で最も古い建物である。大寝殿は、表向諸殿(公式行事・儀式に使用される部分)の中心であり、かつては広間・対面所として使用されていた。現在では報恩講のお斎接待や行事の集合場所などに使用されている他、法話会場としても使用している。「上段の間」の障壁画は1934年(昭和9年)に竹内栖鳳によって描かれた。画題は向かって右から「風竹野雀」「歓喜」「古柳眠鷺」である。それぞれ現世の闘争・遭法の喜び・浄土の寂静を表している。
広い大寝殿の向かって右側からガイドさんが案内されます。私も右側から見ていきます。
北の床の間の壁ゆ襖には「風竹野雀(ふうちくやじゃく)」が描かれています。
強い風に吹かれ、大きく枝がしなっている竹林の中を二羽の雀が飛翔しながら争っている姿が描かれ、現世の闘争と煩悩が表現されており、南側の古柳眠鷺(こりゅうみんろ)とは対照的な表現となっている。
左は「違い棚」が。
中央の帳台構には「歓喜(かんぎ)」が描かれています。
対照的な画題を示す両脇の水墨花鳥図に対して、着色画で描かれているため、美しく引き立ち、大寝殿を荘厳している。暖かなひだまりで餌を啄む雀が色彩豊かに描かれ、愚法の喜びが表現されている。中央に一部損傷の後が残されているが、元々二羽の雀が描かれていた類推されている。
南の床の間の壁貼り付けには「古柳眠鷺(こりゅうみんろ)」が描かれています。
雪景色に生い立つ柳の古木の上で静かに休む白鷺の姿が、風竹野雀の動態表現に対して静態表現で描かれている。今にも折れてしまいそうな柳の枝先に白鷺が休んでいる姿を通して浄土の寂静が表現されている。
久しぶりの大寝殿を見た後、白書院に向かいます。2012年(平成24年)5月12日に開催された京都市文化観光資源保護財団主催の「文化財特別鑑賞」では宮御殿も見られたんですが、非公開でした。黒書院の公開はありません。
案内人が、「赤い絨毯に沿って白書院に向かって下さい」と言われたので、その通り進んで行くと・・・?。
渡り廊下から中央に「御影堂」が、左に「能部台」が、右に「白書院」が見えました。
「能部台」は、後程正面から見てみます。
「白書院」には東側から入ります。(能舞台の正面から)
白書院は、1911年(明治44年)の「宗祖親鸞聖人650回御遠忌」に際し、大阪の戸田猪七氏の寄進により再建された。白書院の名称は、柱その他の用材が白木であって漆などを塗らずに仕立て上げられていることに由来する。建物の北側脇には控間と上段の間が整えられており、中央の部屋は格天井、控間は小間格天井、一の間は折上小間格天井となっている。一の間は帳台構・違棚などを設えた正式の書院造であり、正式な対面施設であるが、一の間を除き内部の装飾は控えめである。現在は来賓接待等に使用されている。なお、一の間の手前に掛けられている「国豊民安」と書かれた額は「大無量寿経」下巻にある言葉であり、閑院宮載仁親王(かんいんのみやことひとしんのう)の筆である。
西本願寺にも「能舞台」は、ありますが、東本願寺にもあります。違いは、西本願寺は撮影禁止。ここは撮影OKです😊。
能舞台は1880年(明治13年)の両堂釿始式の際に、白洲仮設用として組み建てられたもので、現在の位置には1937年(昭和12年)から常設された。本願寺においては、蓮如上人が教化方法の一つとして「御文」とともに能・狂言を積極的に導入した。能・狂言上演の意味は、御遠忌の円成や釿始、上棟式などを慶讃することにあり、江戸時代以降の宗祖御遠忌法要、両堂再建の釿始、上棟式などには「式能」と呼ばれる儀式としての能・狂言が行われてきた。白書院を観覧席として建てられており、御遠忌等の大法要では「本願寺能」が舞われる。鏡板には、明治期京都画壇の重鎮・幸野楳嶺の雄大な松が描かれている。
それでは、白書院に入ります。中ではガイドさんに案内して貰えます。
来賓の接待などを行う「白書院」は帳台構や違棚を設けた書院造で、独創的な彫刻と藤や牡丹を中心とした障壁画が美しい。
こちらは「上段の間」とは言わず「貴人の間」と呼ばれています。上段の間では一段高くなっていますが、こちらは平坦です。L字型の造りになっていのは、下座から直接貴人が見えないようになっているからです。また、天井は、折り上げ小組みの「格天井」になっています。
白書院を出て、戻ります。今回は「宮御殿」の公開はありません。参考までに宮後殿とは・・・?。
宮御殿は、1867年(慶応3年)に大宮御所に建てられた御殿で、1880年(明治13年)に明治天皇より下賜され移築されたものです。室内は大和絵が雅な襖絵で飾られて、その昔は御所にあった御殿を彷彿されます。
渡り廊下から「白書院」を撮りました。
ここから出ようとしたら、団体さんが入って来られました。50名弱ぐらいでしょうか、早めに見られて良かったです😊。
特別拝観から出て、東本願寺の境内に出ました。ただ急ぐので「御影堂」や「阿弥陀堂」には行きません。
現在、東本願寺前が「広場」に生まれ変わる工事をされています。令和4年度末だと書いてあったので、もう直ぐですね。
先程、門の内側から見た「菊門」です。菊の御紋が、はっきり分かります。
ここから地下鉄烏丸線五条駅の南改札口から入り、地下に降りると直ぐに電車が来ました。11時0分に乗り、四条に11時1分に着いたので、急いでバス停に向かい、11時8分のバスに乗り帰路に着きました。
この記事へのコメント
本当に巡るのが疲れそう。それだけの規模と格式を感じます。
大寝殿や白書院の内部の風格ある装飾、趣たっぷりですね。
年によって違う場所を訪れる事ができるのは、
嬉しい気がします。東本願寺「大寝殿・白書院」の
公開は、何と40年ぶりですか。それは凄い。
大寝殿の襖絵が、竹内栖鳳の筆になる
というのもさすがだと思いました。
白書院の広々とした空間にもびっくりしますね。
東本願寺も普段は入れないので、特別拝観は貴重です。それに、ここでは写真が自由に撮れるのも良いです。
幕末の戦乱による火災で焼失したからでしょうか、西本願寺とは対称です。( ^_^)
東本願寺も普段は入ることが出来ないので、特別拝観は貴重ですし、行ってしまいますね。
今年は、大河ドラマが徳川家康が主人公ということで、戦国大名ゆかり寺院が公開されているので、何箇所か行く予定にしています。