第57回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 上徳寺へ
元離宮二条城を9時26分に出て、地下鉄東西線二条城前駅まで歩きます。雨は止んでくれてて良かったです。そこから地下に降りると直ぐに電車が来ました。9時39分に乗り、烏丸御池で烏丸線に乗り換えです。度々利用しているので、前方の電車に乗れば乗り換えが便利なことを知ってました😊。9時41分に着いたので、直ぐに地下を上がると烏丸線の電車が来たので、飛び乗りました。なんと9時41分発に乗れました😊。電車は9時45分に五条駅に着いたので降ります。五条駅の北改札口から出て3番出口から地上に上がると、そこは五条通りです。そのまま東に目的地まで歩きますが・・・乗り換えが早かったので、予定より早く着いてしまいそうで、ゆっくりゆっくり歩いて行きます。
そして9時56分に着いてしまったのが、第57回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 上徳寺です。ここは、2014年(平成26年)10月11日に「京都浄土宗寺院 特別大公開」で入ったことはあります。ただ、この時は本堂だけの公開でしたが、この度の「京の冬の旅」では、本堂、地蔵堂、客殿が公開されたので、来に見た訳です。
10時拝観開始で、9時56分に着きました。ただ、受付はされているように見えました。
「山門」には、「世継地蔵 上徳寺」と書かれています。理由は・・・?。
塩竈山(えんそうざん)と号し、浄土宗に属する。ここはかつて従一位左大臣源融公の旧邸で、平安貴族たちが詩歌管弦を楽しんだ河原院跡といわれる。1603年(慶長8年)に、江戸幕府初代将軍徳川家康公によって、上徳院殿(阿茶の局のちの雲光院殿)が開基となり、家康の帰依を得て伝誉蘇生(でんよそせい)上人を開山に招じて建立した。家康は本尊に、江州鞭崎八幡宮の中尊であった快慶作の阿弥陀如来を招来し本尊とした。。以後、度重なる災火により、堂宇、塔頭は焼失し、現在の諸堂は明治時代に再建されたものである。
本堂の横にあ拝観受付があるので、そこで京都市文化観光資源保護財団からいただいた招待券を出しました。これでいただいた招待券2枚を使い切ったことになります。スタンプラリーのスタンプも2個貯まりました。
案内にしたがって、先に「本堂」に上がりガイドさんの案内を聞きます。
上徳寺の本堂は、1753年(宝暦3年)建立の永観堂の祖師堂を移築したもので、造りも永観堂の阿弥陀堂と同じ造りになっている。
2014年(平成26年)10月11日に「京都浄土宗寺院 特別大公開」来た時も、写真は自由に撮れましたが、この日もそうでした。
ご本尊の「阿弥陀如来立像」は、東京へ出張中とのことでご不在です。3月頃には戻られると聞きました。
仏師快慶作とされる阿弥陀如来立像は、鎌倉時代の制作で、観音菩薩立像・勢至菩薩立像の両脇侍とともに安置されている。このご本尊には特徴があって、唇に朱が施され水晶が貼られている。この「玉唇(ぎょくしん)」と呼ばれるこの表現は、他には東京国立博物館所蔵の木造菩薩立像(重文)と、京都の仏性寺の木造阿弥陀如来立像の2例があるのみ。頭部の螺髪が、掘り出すのでなく、1粒ずつ金属製の釘で留められている。など。
次に案内は、堂内右側に架かっている掛け軸の話しになりました。京都浄土宗寺院 特別大公開の時には「阿茶局」しかありせんでした。
左から「釈迦涅槃図」。
江戸幕府2代将軍・徳川秀忠公の肖像画。
徳川家康公の側室・阿茶の局(上徳院殿)の肖像画。
江戸幕府初代将軍・徳川家康公の肖像画。
本当での案内が終わったら堂内の写真を撮って出ました。ここでは、あと二箇所見て行きます。
ここからは初めて見るところです。先ずは「客殿」に入ります。
初めて「客殿」に入ると、ガイドさんがスタンバイされてて、さっそく案内が始まりました。この建物は、聖護院にありましたが、明治後期に移築されたもの。
向かって右が「紅葉之間」、左が「桜之間」。襖絵は、円山応挙の流れを汲む円山派が描いたとされています。
棚は「袋棚」で、金具は「錺金具(かざりかなぐ)」。柱は黒漆の「床框(とこかまち)」でした。
この掛け軸は、円山応挙「山水夏景図」です。右横に立て掛けてある箱に円山応挙と読み取れます。
壁は「漆喰(しっくい)」で、上部は「蟻壁(ありかべ)」となっています。天井は格式の高い「格天井」。床は畳敷きで「高麗縁(こうらいべり)」。そして、ここに架かる額を見ると・・・?。
桜之間には「一心専念(いっしんせんねん)」と書かれています。
紅葉之間には「松意竹情」知恩院83世住持・岸信宏(量誉)筆と聞きました。
客殿前には「枯山水庭園」があります。明治後期に客殿が移築されたあとに造られた庭園で、特に名前はありません。
次の案内は杉戸絵で「蘭亭曲水図(らんていきょくすいず)」です。中国東晋時代の353年(永和9年)3月3日、浙江省の蘭亭に王羲之(303~361)が文士41名を集め禊ぎを行った故事に由来しています。
最後には、「蘭陵王 納曽利図(らんりょうおう なそりず)」、納曽利は雅楽の曲名。別名は落蹲、双龍舞。納蘇利と表記する場合もあるそうです。
これで、客殿を出て次に「地蔵堂」に向かいます。その前に「授与所」に寄りました。
ここでは御朱印を直書きして貰えます。私も書き置きを貰おうかなぁ・・・と思ったですが、誰も出て来られ無いので、そのまま出ました。ただ、帰ってから調べると、ここの御朱印は貰ってました😊。
普段は入ることが出来ない「地蔵堂」に入ります。
撮影は、何処でもOKでしたが、「ここにぶら下がっている絵馬は撮らないで」と言われました。絵馬には個人情報が書かれているからと。絵馬はよほど近づいて撮らないと個人情報は写らないですね。地蔵堂にもガイドさんがスタンバイされてました。
1656年(明暦3年)に世継ぎが恵まれるようにと参詣していたら7日目の夜、夢の中にお地蔵さんが現れて、そのお姿を等身大の石に刻み地蔵尊を造ったりお祀りし、祈った所、子宝に恵まれたという。京の都は、2度の大火に遭い、この辺りは焼失したが、地蔵尊は守り伝わり、良い世継が授かる御利益があるとして遠近の人々の信仰を集めている。地蔵堂は1871年(明治4年)に再建されたもの。
「地蔵尊」のお顔は火災の後が見られます。ガイドさんから「横からも見て下さい」と案内されたので横からも見てみます。
普段は入ることが出来ないのと、近くで見せて貰い、写真までOKと雨の中、来て良かったです。
次に「阿茶の局」の墓があるので、見て行きます。京都浄土宗寺院 特別大公開でも見せて貰いましたが場所は忘れてました。
こちらが「阿茶の局の墓」です。ここでは、上徳寺開基の阿茶の局について説明書きがありました。
阿茶局は、1555年(弘治元年)武田氏の家臣・飯田氏の子として、甲府で生まれました。今川家の家臣神尾孫兵衛忠重に嫁ぎましたが、忠重の死後は、徳川家康の側室となりました。武家出身の女だけに馬術や武術に優れ、才如に長けていたので、側室ながら家康の懐刀として信頼をえ得、戦場や政治の中枢に身を置きました。政権奪取の諸戦への随行はもとより。「大坂冬の陣」では和睦の使者として歴史に残る活躍をされました。江戸幕府2代将軍秀忠公の娘和子(東福門院)入内の折には、母代わりとして供奉し、天皇家からも信頼を得て、「従一位」に叙せられました。家康公の全幅の信頼得ていた阿茶局は、家康公の死後も、出家を許されず、徳川三代の将軍に仕え、江戸と京都の宗教的連携、宗教政策の充実、幕府と朝廷間の融和政策推進など、無類の手腕を発揮され、幕府にとって必要な女性であり続けました。1673年(寛永14年)1月22日に83歳で、京都にて逝去。京都では上徳寺を菩提寺とし、江戸では雲光院が菩提寺となりました。阿茶の局の女性の政治進出は、歴史を動かした功績として出色で、歴史上に名を残す女性たちの中においても屈指の存在と言えるでしょう。
こちらは「泰栄院(たいえいいん)の宝篋印塔」です。泰栄院について知らなかったので、帰ってから調べました。
泰栄院は、甲斐国武田家の旧臣である宮崎泰景の娘として生まれる。天正年間(1573~1592)に徳川家康に召し出され奥勤めを始める。家康との間に子女は生まれなかった。家康没後の1619年(元和5年)10月25日、駿府にて死去。戒名は泰栄院宗譽昌清大姉。藤枝市の浄念寺に埋葬されたが、後に信濃の駒場の浄久寺に改葬されている。浄久寺は後に火災や山崩れなどの度重なる災害に遭ったため、泰栄院の墓を特定することが出来なくなっている。現在は同じく家康の側室である雲光院(阿茶の局)が開基した上徳寺に供養塔が残る。同寺には泰栄院と雲光院の墓碑が並んで建立されているが、これは2人の実父が共に武田家の旧臣であった関係によるものと考えられる。
これで案内されたものは全て見たので出口に向かいます。本堂の横には「仏足跡」があって、その後方の樹は、「菩提樹」です。
10時38分に、上徳寺を出ました。雨降りの平日でしたが、拝観者は途切れることなく来られてました。
ここから五条通りに出て、西に向かって歩き、地下鉄烏丸線五条駅から帰路につきました。
そして9時56分に着いてしまったのが、第57回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 上徳寺です。ここは、2014年(平成26年)10月11日に「京都浄土宗寺院 特別大公開」で入ったことはあります。ただ、この時は本堂だけの公開でしたが、この度の「京の冬の旅」では、本堂、地蔵堂、客殿が公開されたので、来に見た訳です。
10時拝観開始で、9時56分に着きました。ただ、受付はされているように見えました。
「山門」には、「世継地蔵 上徳寺」と書かれています。理由は・・・?。
塩竈山(えんそうざん)と号し、浄土宗に属する。ここはかつて従一位左大臣源融公の旧邸で、平安貴族たちが詩歌管弦を楽しんだ河原院跡といわれる。1603年(慶長8年)に、江戸幕府初代将軍徳川家康公によって、上徳院殿(阿茶の局のちの雲光院殿)が開基となり、家康の帰依を得て伝誉蘇生(でんよそせい)上人を開山に招じて建立した。家康は本尊に、江州鞭崎八幡宮の中尊であった快慶作の阿弥陀如来を招来し本尊とした。。以後、度重なる災火により、堂宇、塔頭は焼失し、現在の諸堂は明治時代に再建されたものである。
本堂の横にあ拝観受付があるので、そこで京都市文化観光資源保護財団からいただいた招待券を出しました。これでいただいた招待券2枚を使い切ったことになります。スタンプラリーのスタンプも2個貯まりました。
案内にしたがって、先に「本堂」に上がりガイドさんの案内を聞きます。
上徳寺の本堂は、1753年(宝暦3年)建立の永観堂の祖師堂を移築したもので、造りも永観堂の阿弥陀堂と同じ造りになっている。
2014年(平成26年)10月11日に「京都浄土宗寺院 特別大公開」来た時も、写真は自由に撮れましたが、この日もそうでした。
ご本尊の「阿弥陀如来立像」は、東京へ出張中とのことでご不在です。3月頃には戻られると聞きました。
仏師快慶作とされる阿弥陀如来立像は、鎌倉時代の制作で、観音菩薩立像・勢至菩薩立像の両脇侍とともに安置されている。このご本尊には特徴があって、唇に朱が施され水晶が貼られている。この「玉唇(ぎょくしん)」と呼ばれるこの表現は、他には東京国立博物館所蔵の木造菩薩立像(重文)と、京都の仏性寺の木造阿弥陀如来立像の2例があるのみ。頭部の螺髪が、掘り出すのでなく、1粒ずつ金属製の釘で留められている。など。
次に案内は、堂内右側に架かっている掛け軸の話しになりました。京都浄土宗寺院 特別大公開の時には「阿茶局」しかありせんでした。
左から「釈迦涅槃図」。
江戸幕府2代将軍・徳川秀忠公の肖像画。
徳川家康公の側室・阿茶の局(上徳院殿)の肖像画。
江戸幕府初代将軍・徳川家康公の肖像画。
本当での案内が終わったら堂内の写真を撮って出ました。ここでは、あと二箇所見て行きます。
ここからは初めて見るところです。先ずは「客殿」に入ります。
初めて「客殿」に入ると、ガイドさんがスタンバイされてて、さっそく案内が始まりました。この建物は、聖護院にありましたが、明治後期に移築されたもの。
向かって右が「紅葉之間」、左が「桜之間」。襖絵は、円山応挙の流れを汲む円山派が描いたとされています。
棚は「袋棚」で、金具は「錺金具(かざりかなぐ)」。柱は黒漆の「床框(とこかまち)」でした。
この掛け軸は、円山応挙「山水夏景図」です。右横に立て掛けてある箱に円山応挙と読み取れます。
壁は「漆喰(しっくい)」で、上部は「蟻壁(ありかべ)」となっています。天井は格式の高い「格天井」。床は畳敷きで「高麗縁(こうらいべり)」。そして、ここに架かる額を見ると・・・?。
桜之間には「一心専念(いっしんせんねん)」と書かれています。
紅葉之間には「松意竹情」知恩院83世住持・岸信宏(量誉)筆と聞きました。
客殿前には「枯山水庭園」があります。明治後期に客殿が移築されたあとに造られた庭園で、特に名前はありません。
次の案内は杉戸絵で「蘭亭曲水図(らんていきょくすいず)」です。中国東晋時代の353年(永和9年)3月3日、浙江省の蘭亭に王羲之(303~361)が文士41名を集め禊ぎを行った故事に由来しています。
最後には、「蘭陵王 納曽利図(らんりょうおう なそりず)」、納曽利は雅楽の曲名。別名は落蹲、双龍舞。納蘇利と表記する場合もあるそうです。
これで、客殿を出て次に「地蔵堂」に向かいます。その前に「授与所」に寄りました。
ここでは御朱印を直書きして貰えます。私も書き置きを貰おうかなぁ・・・と思ったですが、誰も出て来られ無いので、そのまま出ました。ただ、帰ってから調べると、ここの御朱印は貰ってました😊。
普段は入ることが出来ない「地蔵堂」に入ります。
撮影は、何処でもOKでしたが、「ここにぶら下がっている絵馬は撮らないで」と言われました。絵馬には個人情報が書かれているからと。絵馬はよほど近づいて撮らないと個人情報は写らないですね。地蔵堂にもガイドさんがスタンバイされてました。
1656年(明暦3年)に世継ぎが恵まれるようにと参詣していたら7日目の夜、夢の中にお地蔵さんが現れて、そのお姿を等身大の石に刻み地蔵尊を造ったりお祀りし、祈った所、子宝に恵まれたという。京の都は、2度の大火に遭い、この辺りは焼失したが、地蔵尊は守り伝わり、良い世継が授かる御利益があるとして遠近の人々の信仰を集めている。地蔵堂は1871年(明治4年)に再建されたもの。
「地蔵尊」のお顔は火災の後が見られます。ガイドさんから「横からも見て下さい」と案内されたので横からも見てみます。
普段は入ることが出来ないのと、近くで見せて貰い、写真までOKと雨の中、来て良かったです。
次に「阿茶の局」の墓があるので、見て行きます。京都浄土宗寺院 特別大公開でも見せて貰いましたが場所は忘れてました。
こちらが「阿茶の局の墓」です。ここでは、上徳寺開基の阿茶の局について説明書きがありました。
阿茶局は、1555年(弘治元年)武田氏の家臣・飯田氏の子として、甲府で生まれました。今川家の家臣神尾孫兵衛忠重に嫁ぎましたが、忠重の死後は、徳川家康の側室となりました。武家出身の女だけに馬術や武術に優れ、才如に長けていたので、側室ながら家康の懐刀として信頼をえ得、戦場や政治の中枢に身を置きました。政権奪取の諸戦への随行はもとより。「大坂冬の陣」では和睦の使者として歴史に残る活躍をされました。江戸幕府2代将軍秀忠公の娘和子(東福門院)入内の折には、母代わりとして供奉し、天皇家からも信頼を得て、「従一位」に叙せられました。家康公の全幅の信頼得ていた阿茶局は、家康公の死後も、出家を許されず、徳川三代の将軍に仕え、江戸と京都の宗教的連携、宗教政策の充実、幕府と朝廷間の融和政策推進など、無類の手腕を発揮され、幕府にとって必要な女性であり続けました。1673年(寛永14年)1月22日に83歳で、京都にて逝去。京都では上徳寺を菩提寺とし、江戸では雲光院が菩提寺となりました。阿茶の局の女性の政治進出は、歴史を動かした功績として出色で、歴史上に名を残す女性たちの中においても屈指の存在と言えるでしょう。
こちらは「泰栄院(たいえいいん)の宝篋印塔」です。泰栄院について知らなかったので、帰ってから調べました。
泰栄院は、甲斐国武田家の旧臣である宮崎泰景の娘として生まれる。天正年間(1573~1592)に徳川家康に召し出され奥勤めを始める。家康との間に子女は生まれなかった。家康没後の1619年(元和5年)10月25日、駿府にて死去。戒名は泰栄院宗譽昌清大姉。藤枝市の浄念寺に埋葬されたが、後に信濃の駒場の浄久寺に改葬されている。浄久寺は後に火災や山崩れなどの度重なる災害に遭ったため、泰栄院の墓を特定することが出来なくなっている。現在は同じく家康の側室である雲光院(阿茶の局)が開基した上徳寺に供養塔が残る。同寺には泰栄院と雲光院の墓碑が並んで建立されているが、これは2人の実父が共に武田家の旧臣であった関係によるものと考えられる。
これで案内されたものは全て見たので出口に向かいます。本堂の横には「仏足跡」があって、その後方の樹は、「菩提樹」です。
10時38分に、上徳寺を出ました。雨降りの平日でしたが、拝観者は途切れることなく来られてました。
ここから五条通りに出て、西に向かって歩き、地下鉄烏丸線五条駅から帰路につきました。
この記事へのコメント
本堂は、1753年(宝暦3年)建立の永観堂の祖師堂を移築したものでしたか。
由緒ある造りという感じです。
内覧され、撮影OKなのがいいですね。
掛け軸も並べられて見応えあります。
客殿での円山派による襖絵、これは見てみたいですね。
円山応挙による「山水夏景図」も価値ある物でしょう。
地蔵堂の謂れにフムフムですが、御利益もあるそうで、
成程と思わせるものでした。
価値ある特別公開を拝見させて頂きました。
上徳寺も本堂には入ったことがありましたが、客殿や地蔵堂には初めて入りました。
特別公開ですので、これぐらい見せて貰いたいものです。
NHK大河ドラマの主役、徳川家康や戦国大名ゆかり寺院が公開されているので、今回は、他にも行きたい寺院が多いです。( ^_^)