第57回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 妙心寺塔頭 壽聖院へ
大雄院から桂春院と妙心寺境内を回ったあと、最後に第57回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 妙心寺塔頭 壽聖院(じゅしょういん)に行きました。
通常非公開の壽聖院には、2013年(平成25年)4月10日の「春の昼宴 特別拝観(京料理弁当付き)」で、一度来ています。昨年の2022年(令和4年)12月24日(土)~2023年(令和5年)1月9日(月・祝)まで、「方丈襖絵プロジェクト・壽聖院 特別公開 村林由貴が描く禅の世界」が妙心寺山内の「退蔵院」と「壽聖院」で開かれてて、私は1月9日に「退蔵院」に行きました。壽聖院では、1月7日(土)から「京の冬の旅」の公開に変わり、それで、本日「大雄院」とセットで行くことにしたわけです。
2013年(平成25年)4月10日に一度来ているので、壽聖院の場所には迷わずに来られました。
壽聖院に至る石畳に雪が積もって残っています。多くの人が来られるので、せめて雪掻きをして欲しかった。
10時56分に「山門」前に着きました。門前には「石田三成一族菩提寺」の石碑があります。
正面に「庫裏」がありますが、拝観入口は「玄関」から入りました。
靴を脱ぐ前に「庭園」を撮りました。多分、2013年(平成25年)4月10日に見た庭園でしょう。
今日の雪は、先般の雪と違って、積もる心配はありません。ベトベトした雪でした。ただ、猛烈に寒いです。玄関から上がり、拝観料800円を納めます。そして案内に従って、朱印帳を預けました。事前にTwitter情報で、直書きして貰えるのが分かってからです。写真は庭園のみOKで、室内はNGとのこと。ただ雪降りのため障子が閉まってて、室内から庭園は見づらい状態でした。
1599年(慶長4年)石田三成が父である正継の菩提寺として、当時学徳高き伯蒲慧稜(はくほえりょう)を迎え創建。創建当時は、堀と土塀をめぐらせた広大な敷地に、金箔瓦を載せた堂宇が建つ石田家京屋敷ともいうべき壮麗さであったという。しかし、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いにて、三成らが率いる西軍は徳川家康率いてる東軍に敗れてしまい、三成の死後、当院も縮小を余儀なくされます。境内はもとの四分の一の大きさとなり、壽聖院の北門であった門は妙心寺全体の北門として現在は利用され、当時の勝手口が現在壽聖院の正門として残るのみです。また、本堂の前に広がる庭園は絵師狩野永徳が設計したもので、その景観は桃山時代より変わっておりません。庭園にある瓢箪池は、三成公の指示により、主君の豊臣秀吉公の戦勝の瓢箪印をモチーフに造られています。寺宝には、三成自筆の書状や、土佐派の筆によるものと伝わる「石田正継像」(重文)や三成の肖像画が残る。境内には石田三成・正継親子の他、石田三成一族の供養塔があります。
庭園にあるとされる瓢箪池は、これだけ雪が積もっていて分かりませんし、窓を開けて見たかったなぁ・・・。
「襖絵プロジェクト」の絵師・村林由貴氏が描いた襖絵は、壽聖院の寺宝が展示されているので、「退蔵院」の時と比べ、物足りなさがありました。
ここでは、石田三成肖像画(模本)、石田正継肖像画(複製)が見られました。「春の昼宴 特別拝観(京料理弁当付き)」では見られなかったので、これだけでも値打ちありましたね。
本堂から書院に移動するとき、屋根から雪が落ちそうになってました。
そして書院「平安の間」に着いたら、大音響が・・・?。先の雪が下に落ちた音で、ビックリしましたし、ガイドさんも驚いてました😊。
平安の間でも、村林由貴氏が描いた襖絵を見られました。「夏秋豊楽図」が描かれてました。お隣の「天外の間」には、「風浪双鯉図」と「春爛漫図」、「松に雪図」と「南天と南瓜図」がありました。庭園に面したパネルは写真家・吉田亮人氏によって撮影された制作風景の写真です。
ここでバスガイドさんに連れて来られた団体さんが入って来ようとされてて、そこで御朱印を見に行くと、出来ていたので受取ました。
御朱印は直書きです。あとは書き置きで、村林由貴氏が描く禅の世界をモチーフにされてた御朱印でした。日付だけご住職が書いてくれます。
11時7分に、団体さんと入れ替わりに出て行きました。出る時に庭園の写真撮りましたが、やっぱり池は分かりませんね。
雪は絶え間なく降り続いて「厄除地蔵」さんにも雪が積もっています。
ここで、忘れずに「石田三成一族の墓」に行きました。見逃してしそうな所ですが、忘れてません。
右から「壽聖院(父・石田正継)」「瑞岳院(三成の母)」「玉泉院(兄・石田正澄)」「江東院(石田三成)」「無量院殿(三成の室)」「龍珠院(正澄の室)」「宝光院(石田朝成・正澄の長男)」「白華院(石田主水正・正澄の次男)」。
真ん中に「江東院(石田三成)」(右)、「無量院殿(三成の室)」(左)が並んでいます。
この後ろに、宗亨大禅師(石田三成の長男、石田重家)の墓所がありました。写真撮り忘れましたが、石田重家は父・石田三成が六条河原で斬首されたあと、徳川家康に助命を嘆願し、壽聖院の開山である伯蒲慧稜禅師に弟子入りし、出家しました。後に済院宗享と名を変え、壽聖院の三世住職となりました。宗亨大禅師は104歳まで生きたと伝わっています。
11時11分に、雪が降り続いているなか、ここを出てました。
最初に書きましたが、ここは雪掻きすべきでしょう。石畳の雪は凍っているかならね。
そして、翌日には幹線道路である丸太町通りは、再び積雪してしまいました。ガチガチに凍ってます。
嵐電の線路にも雪が積もってて、西を見ると嵐山も雪景色です。JRは雪で止まりましたが嵐電は強いです。定刻通り走ってました。
この日の積雪は2㌢でした。先の大雪が15㌢、それが溶けずに残っている上に積もったので、完全に溶けるのに1週間程度かかりましたね。2週間たった今も、北向きの屋根には、まだ雪が残っている家もあります。
通常非公開の壽聖院には、2013年(平成25年)4月10日の「春の昼宴 特別拝観(京料理弁当付き)」で、一度来ています。昨年の2022年(令和4年)12月24日(土)~2023年(令和5年)1月9日(月・祝)まで、「方丈襖絵プロジェクト・壽聖院 特別公開 村林由貴が描く禅の世界」が妙心寺山内の「退蔵院」と「壽聖院」で開かれてて、私は1月9日に「退蔵院」に行きました。壽聖院では、1月7日(土)から「京の冬の旅」の公開に変わり、それで、本日「大雄院」とセットで行くことにしたわけです。
2013年(平成25年)4月10日に一度来ているので、壽聖院の場所には迷わずに来られました。
壽聖院に至る石畳に雪が積もって残っています。多くの人が来られるので、せめて雪掻きをして欲しかった。
10時56分に「山門」前に着きました。門前には「石田三成一族菩提寺」の石碑があります。
正面に「庫裏」がありますが、拝観入口は「玄関」から入りました。
靴を脱ぐ前に「庭園」を撮りました。多分、2013年(平成25年)4月10日に見た庭園でしょう。
今日の雪は、先般の雪と違って、積もる心配はありません。ベトベトした雪でした。ただ、猛烈に寒いです。玄関から上がり、拝観料800円を納めます。そして案内に従って、朱印帳を預けました。事前にTwitter情報で、直書きして貰えるのが分かってからです。写真は庭園のみOKで、室内はNGとのこと。ただ雪降りのため障子が閉まってて、室内から庭園は見づらい状態でした。
1599年(慶長4年)石田三成が父である正継の菩提寺として、当時学徳高き伯蒲慧稜(はくほえりょう)を迎え創建。創建当時は、堀と土塀をめぐらせた広大な敷地に、金箔瓦を載せた堂宇が建つ石田家京屋敷ともいうべき壮麗さであったという。しかし、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いにて、三成らが率いる西軍は徳川家康率いてる東軍に敗れてしまい、三成の死後、当院も縮小を余儀なくされます。境内はもとの四分の一の大きさとなり、壽聖院の北門であった門は妙心寺全体の北門として現在は利用され、当時の勝手口が現在壽聖院の正門として残るのみです。また、本堂の前に広がる庭園は絵師狩野永徳が設計したもので、その景観は桃山時代より変わっておりません。庭園にある瓢箪池は、三成公の指示により、主君の豊臣秀吉公の戦勝の瓢箪印をモチーフに造られています。寺宝には、三成自筆の書状や、土佐派の筆によるものと伝わる「石田正継像」(重文)や三成の肖像画が残る。境内には石田三成・正継親子の他、石田三成一族の供養塔があります。
庭園にあるとされる瓢箪池は、これだけ雪が積もっていて分かりませんし、窓を開けて見たかったなぁ・・・。
「襖絵プロジェクト」の絵師・村林由貴氏が描いた襖絵は、壽聖院の寺宝が展示されているので、「退蔵院」の時と比べ、物足りなさがありました。
ここでは、石田三成肖像画(模本)、石田正継肖像画(複製)が見られました。「春の昼宴 特別拝観(京料理弁当付き)」では見られなかったので、これだけでも値打ちありましたね。
本堂から書院に移動するとき、屋根から雪が落ちそうになってました。
そして書院「平安の間」に着いたら、大音響が・・・?。先の雪が下に落ちた音で、ビックリしましたし、ガイドさんも驚いてました😊。
平安の間でも、村林由貴氏が描いた襖絵を見られました。「夏秋豊楽図」が描かれてました。お隣の「天外の間」には、「風浪双鯉図」と「春爛漫図」、「松に雪図」と「南天と南瓜図」がありました。庭園に面したパネルは写真家・吉田亮人氏によって撮影された制作風景の写真です。
ここでバスガイドさんに連れて来られた団体さんが入って来ようとされてて、そこで御朱印を見に行くと、出来ていたので受取ました。
御朱印は直書きです。あとは書き置きで、村林由貴氏が描く禅の世界をモチーフにされてた御朱印でした。日付だけご住職が書いてくれます。
11時7分に、団体さんと入れ替わりに出て行きました。出る時に庭園の写真撮りましたが、やっぱり池は分かりませんね。
雪は絶え間なく降り続いて「厄除地蔵」さんにも雪が積もっています。
ここで、忘れずに「石田三成一族の墓」に行きました。見逃してしそうな所ですが、忘れてません。
右から「壽聖院(父・石田正継)」「瑞岳院(三成の母)」「玉泉院(兄・石田正澄)」「江東院(石田三成)」「無量院殿(三成の室)」「龍珠院(正澄の室)」「宝光院(石田朝成・正澄の長男)」「白華院(石田主水正・正澄の次男)」。
真ん中に「江東院(石田三成)」(右)、「無量院殿(三成の室)」(左)が並んでいます。
この後ろに、宗亨大禅師(石田三成の長男、石田重家)の墓所がありました。写真撮り忘れましたが、石田重家は父・石田三成が六条河原で斬首されたあと、徳川家康に助命を嘆願し、壽聖院の開山である伯蒲慧稜禅師に弟子入りし、出家しました。後に済院宗享と名を変え、壽聖院の三世住職となりました。宗亨大禅師は104歳まで生きたと伝わっています。
11時11分に、雪が降り続いているなか、ここを出てました。
最初に書きましたが、ここは雪掻きすべきでしょう。石畳の雪は凍っているかならね。
そして、翌日には幹線道路である丸太町通りは、再び積雪してしまいました。ガチガチに凍ってます。
嵐電の線路にも雪が積もってて、西を見ると嵐山も雪景色です。JRは雪で止まりましたが嵐電は強いです。定刻通り走ってました。
この日の積雪は2㌢でした。先の大雪が15㌢、それが溶けずに残っている上に積もったので、完全に溶けるのに1週間程度かかりましたね。2週間たった今も、北向きの屋根には、まだ雪が残っている家もあります。
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