繁華街の新京極通り沿いにある錦天満宮へ
2月17日(金)は、妻が所用で朝早くに出掛け、それでお昼を以前から行きたかった京料理のお店を2人で予約していたので、大丸京都店で待ちあわして行くことにしてました。
私が乗ったバスが思ったいたより早く着いたので、まだ時間が早かったこともあって、大丸京都店で買い物をし、久しぶりに錦市場を歩きました。錦市場は、コロナ禍前に戻ってましたね。外国人観光客が大挙押し寄せてて、平日なのに身動きが取れないほど混雑してました。これでは買い物もままならないです。
その錦市場の突き当たりにあるのが錦天満宮です。以前、2020年(令和2年)9月17日に来てますが、御朱印を貰い損ねていたので、当初の予定どおり来て見ました。
寺町通り。錦に入ったところに鳥居があります。ビルに食い込んでいるので有名ですね。
境内は、新京極通りから入ります。錦市場が混んでるので、こちらも観光客の方が多かったです。
「錦天満宮」は、平安時代前期の11世紀初頭、学問の神となられた菅原道真公(菅公)の父親で、学者、政治家であった菅原是善の旧邸の生家「菅原院」と深く関わっています。菅原院は、菅公薨去の後、「歓喜寺」となり、1003年(長保5年)第52代嵯峨天皇の皇子源融公を祀る塩竃宮がある六条河原院に移り「歓喜寺」の鎮守社として天満大自在天神を祀り創建したのが始まり。そこから300年の時を経て、1299年(正安元年)第93代後伏見天皇により「天満宮」の神号を授与され、その際に河原院跡を京都八幡の善導寺に寄進され、「歓善寺」は、塩竃宮を鎮守とする「歓善光寺」に改められました。歓善光寺創建の288年後の1587年(天正15年)、豊臣秀吉の都市計画によって、時宗四条道場と称された歓善光寺は錦小路の時宗四条道場の「金蓮寺」の敷地に移転。以後400年余、「錦天満宮」として同地に鎮座していいます。このような歴史のなか、1729年(享保14年)には前関白九条輔実(くじょうすけざね)によって唐破風獅子口を設け、1872年(明治5年)には神仏分離令によって神社が独立。「歓善光寺」は東山五条へ(後に山科へ)に移転。残された神社は同年新京極通り開通により社地を縮小の現在に至っています。

門を入って左手に「手水舎」が、花手水になっており、使えません。
向かって右手には、京の名水「錦の水」があります。この井戸は、地下百尺(三十数㍍)より湧き出ており、常日頃、朝早くから多くの方々が、参拝とともに汲みに来られるそうです。ここにも花手水の飾りがありました。
ここは天満宮ですので「撫で牛」が鎮座しています。勤勉、慈愛、健康の象徴として奉納された臥牛は、人々に親しまれています。
本殿前の「神牛」に手をかざすと、自動で鈴が鳴ります。試して見ました。
次に「授与所」で御朱印いただきました。
朱印帳を持って来ましたが、ここでは書き置きしかありません。御朱印は3種ありましたが、一つだけにさせて貰いました。
2020年(令和2年)9月17日にも行きましたが、「本殿」の北側の境内社が並んでいる社も見て行きます。
最初は「七社之宮」です。手前から「床浦神社」(御祭神が少彦名命、御利益が疱瘡除け・疫病退散)、「事比良神社」(御祭神が大物主神・崇徳天皇、御利益が航海・漁業)、「恵美須神社」(御祭神が事代主神、御利益が商売繁盛)、「熊野神社」(御祭神が伊弉諾命・伊弉冉命、御利益が子孫繁栄)、「市杵島神社」(御祭神が市杵島姫命、御利益が家内安全)、「竃神社」(御祭神が竃神、御利益が火除け)、「八幡神社」(御祭神が第15代応神天皇、御利益が勝負)でした。
次が「白太夫神社(しらだゆうじんじゃ)」で、祭神が渡會春彦(わたらいはるひこ)でした。北野天満宮にも摂社であります。御益が、子授けでした。
次が「日之出稲荷神社(ひのでいなりじんじゃ)」で、祭神が倉稲魂命(うかのみたまのみこと)でした。御利益は、商売繁盛です。
最後が「塩竈神社(しおがまじんじゃ)」で、御利益が安産とありました。第52代嵯峨天皇の皇子源融公の六条河原院にあった公邸跡に歓喜光寺が創建された際、源融公を御祭神とし創祀されたものです。



境内に咲き始めていた紅白の梅の花。これから見頃となるでしょう。
11時4分に、ここを出ました。予約している11時30分には、まだまだ時間があるので、もう少し散策します。
私が乗ったバスが思ったいたより早く着いたので、まだ時間が早かったこともあって、大丸京都店で買い物をし、久しぶりに錦市場を歩きました。錦市場は、コロナ禍前に戻ってましたね。外国人観光客が大挙押し寄せてて、平日なのに身動きが取れないほど混雑してました。これでは買い物もままならないです。
その錦市場の突き当たりにあるのが錦天満宮です。以前、2020年(令和2年)9月17日に来てますが、御朱印を貰い損ねていたので、当初の予定どおり来て見ました。
寺町通り。錦に入ったところに鳥居があります。ビルに食い込んでいるので有名ですね。
境内は、新京極通りから入ります。錦市場が混んでるので、こちらも観光客の方が多かったです。
「錦天満宮」は、平安時代前期の11世紀初頭、学問の神となられた菅原道真公(菅公)の父親で、学者、政治家であった菅原是善の旧邸の生家「菅原院」と深く関わっています。菅原院は、菅公薨去の後、「歓喜寺」となり、1003年(長保5年)第52代嵯峨天皇の皇子源融公を祀る塩竃宮がある六条河原院に移り「歓喜寺」の鎮守社として天満大自在天神を祀り創建したのが始まり。そこから300年の時を経て、1299年(正安元年)第93代後伏見天皇により「天満宮」の神号を授与され、その際に河原院跡を京都八幡の善導寺に寄進され、「歓善寺」は、塩竃宮を鎮守とする「歓善光寺」に改められました。歓善光寺創建の288年後の1587年(天正15年)、豊臣秀吉の都市計画によって、時宗四条道場と称された歓善光寺は錦小路の時宗四条道場の「金蓮寺」の敷地に移転。以後400年余、「錦天満宮」として同地に鎮座していいます。このような歴史のなか、1729年(享保14年)には前関白九条輔実(くじょうすけざね)によって唐破風獅子口を設け、1872年(明治5年)には神仏分離令によって神社が独立。「歓善光寺」は東山五条へ(後に山科へ)に移転。残された神社は同年新京極通り開通により社地を縮小の現在に至っています。




本殿前の「神牛」に手をかざすと、自動で鈴が鳴ります。試して見ました。

朱印帳を持って来ましたが、ここでは書き置きしかありません。御朱印は3種ありましたが、一つだけにさせて貰いました。



次が「日之出稲荷神社(ひのでいなりじんじゃ)」で、祭神が倉稲魂命(うかのみたまのみこと)でした。御利益は、商売繁盛です。






この記事へのコメント
番組では、鳥居の食い込んだビルを取材して、
建物の中で鳥居がどうなってるかを、
見せてくれたように思います。
こうした繁華街でも、境内から名水が湧き出し、
地元の方々がそれを汲みに来るというのが、
素晴らしい気がしました。京都は地下水の宝庫ですね。
そうですね、京都は三大名水を始め、素晴らしい名水がでますね。新京極通りの繁華街の一角に錦天満宮があるので、多くの方が入って来られます。
昨日、京都も桜が開花したので、これから桜を楽しめそうです。