大徳寺山内で最も古い大徳寺 龍源院へ
大徳寺 三玄院を出たのが10時52分、大徳寺の駐車場に入れたのが9時57分で、1時間以内に出るには残り5分しかありません。そこで、1時間以内に出るのを諦め、せっかく来たので大徳寺塔頭 龍源院に寄って行くことに急遽決めました。
1502年(文亀2年)に、大徳寺72世住職・東渓宗牧(とうけいそうぼく)を開祖として、能登の領主・畠山義元、豊後の大友義長(大友宗麟の祖父)、周防の大内義興の三氏で創建。方丈・玄関・表門(全て重要文化財に指定)はいずれも創建当初のもので、方丈は大徳寺山内最古の建物といわれ、禅宗の典型的な形式を示している。方丈の南・東・北に趣の異なる三つの庭園があり、北側に広がる「龍吟庭」は、苔の上に三尊石組を配した須弥山式枯山水の名庭で、室町時代の作と伝わる。南庭(方丈前庭)は、白砂の大海に苔と石組で鶴亀を配した蓬莱式の庭園、また、東の「東滴壺(とうてきこ)」は日本最小の石庭といわれ、一滴の波紋から大海原の広がりをイメージさせている。このわか、庫裏の南側には聚楽第の礎石を配した阿吽(あうん)の石庭がある。寺宝として、豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝えられる四方蒔絵の碁盤。1583年天正11年)の銘が残る、種子島銃などを蔵している。龍源院の名の元の、龍源の寺号は、大徳寺の山号・龍宝山の「龍」と、「松源一脈」(中国臨済宗松源派の祖・松源崇岳の禅を正しく継承するの意)の「源」からとっている。明治の初めの頃に、神仏分離により大阪・住吉神社内の慈恩寺と、岐阜高山城主だった金森長近が大徳寺内に建立した金竜院とを合併し今日に至っている。
10時55分に「表門」前に着きました。ただ、後ろに修学旅行生の姿が・・・?。ただ、この写真、天気が良いでしょう。訳あって、一週間後に訪れた時のものです。この時は、表門だけ撮っただけです😊。
タクシーの運転手さんに連れられた学生さんが、空いてる間に回らなくてはと、少々急いで「庫裏」へ。
庫裏の中に拝観受付所があって、拝観料350円と、書き置きの御朱印もいただきました。そして、堂内へ上がります。
下の御朱印はオマケです。何種類かあって、一つ選んだ訳です。入ると「書院」はスルーして、先に庭園に向かいます。
最初に「方丈」の南側に広がる「一枝坦(いっしだん)」を見に行きました。何故か?。この時、ここには誰も居なかったからです。
丸く象った苔の中に石を立てた亀島があって、右には蓬莱山、その前に鶴島が配置されています。
お隣の黄梅院(おうばいいん)の屋根には、昨日降った雪が残っています。
庭園を見た後は、方丈内を見て回ります。最初は「礼の間(れいのま)」から。和尚と修行僧修行僧らが一衆和合、公式の茶礼香礼等を行ったところです。
重要文化財に指定されている「方丈」は、室町時代の1502年(文亀2年)の建立で、日本で最も古い禅院方丈建築の遺構を完全にとどめている貴重な建物です。
ご本尊は、重要文化財に指定されている「釈迦如来坐像」で鎌倉時代の作だと伝わります。
この方丈の中心となる「室中の間」です。ここでは住持(和尚)が、禅の教えを説き、或いは問法し、時には儀式法要を行う所です。襖絵は「龍と波」の図は、江戸初期と思われますが、作者不詳です。
方丈南側の最後の部屋は「檀那の間」で、和尚が檀家の者と、お茶など飲みながら親しく懇談する部屋です。
方丈を回り込み西側には「開祖堂」があります。また、この前の苔に覆われた庭を「鶏足山(けいそくざん)」と名付けられています。
方丈北側には、まだ雪が残る「龍吟庭」がありました。作者は宗祖東渓という説もありますが不明です。緑苔の大海に屹立する須弥山石。龍が天空に上昇する姿を想像させます。
「龍吟庭」から、大徳寺の三門が見えました。次は方丈裏の部屋を見に行きます。
最初は「上間(じょうかん)の間」、別名「衣鉢の間(えはつのま)」で、衣鉢とは出家僧の最も大切な三衣(袈裟のことで五条、七条、九条の袈裟)と鉄鉢(食器)で、ここはその衣鉢を納める所です。室銘は「狸窟」。
次の部屋は「眠蔵(みんぞう)」と言って、物を眠らし蔵う(しまう)所で、今の納戸です。1964年(昭和39年)の解体修理の際に発見された古文書によって、寛永年間に仏間として造営された、この箇所を創建当時の姿に復元されたものです。
次も「眠蔵(みんぞう)」で、同じく復元されたものです。往時の禅僧の日常は簡素で、夜疲れては奥の二畳で休み、人目を避けて静かに座禅などをしたところです。
最後は「下間(げかん)の間」で、別名「書院の間」と呼ばれています。ここは現在の応接室、方丈の下手の間をいいます。室銘は「孤窟」。
「方丈」の東側には、日本最小の石庭「東滴壷(とうてきこ)」があります。1960年(昭和35年)に作庭された現代壺庭の傑作です。
ここには外国人観光客や修学旅行生が入ってこられ方丈前に座って、庭を見てました。そして創建当時からある井戸「担雪井」を撮りました。
最後に「書院」に入りました。ここにも庭園があります。
展示ケースの下段に展示されているのが、「日本最古の「種子島銃」です。銃床尾に1583年(天正11年)の年紀があり、火縄銃では在銘最古のものだそうです。
こちらは「四季草木蒔絵碁盤」で、徳川家康が豊臣秀吉と伏見城内で対局した時の碁盤と伝わり、初代本因坊の奥書があります。金森長近が秀吉から拝領した。
書院軒先にあるのが「滹沱底(こだてい)」で、別名が「阿・吽の石庭」と呼ばれる石庭です。宗祖臨済禅師の住庵した寺の南に流れる川の名から取られました。東西の碁盤石は、昔秀吉が建てた聚楽第のものだそうです。
庫裏から外に出て、最後に重要文化財に指定されている「唐門」を撮りました。これで2020年(令和2年)9月15日以来の龍源院を出ました。
龍外院から大徳寺の駐車場に行き、出る時に精算すると、9時57分入庫で、11時5分出庫。料金は500円となりました。私の勘違いで、2時間以内が500円で、それ以降は30分毎に100円でしたね。もう一箇所ぐらい寄れました😊。ただ昨日の忘れ物を取りに行くためには、仕方なかったですね。昨日の所用先に忘れてた傘を取りに行ってから帰路に着きました。
1502年(文亀2年)に、大徳寺72世住職・東渓宗牧(とうけいそうぼく)を開祖として、能登の領主・畠山義元、豊後の大友義長(大友宗麟の祖父)、周防の大内義興の三氏で創建。方丈・玄関・表門(全て重要文化財に指定)はいずれも創建当初のもので、方丈は大徳寺山内最古の建物といわれ、禅宗の典型的な形式を示している。方丈の南・東・北に趣の異なる三つの庭園があり、北側に広がる「龍吟庭」は、苔の上に三尊石組を配した須弥山式枯山水の名庭で、室町時代の作と伝わる。南庭(方丈前庭)は、白砂の大海に苔と石組で鶴亀を配した蓬莱式の庭園、また、東の「東滴壺(とうてきこ)」は日本最小の石庭といわれ、一滴の波紋から大海原の広がりをイメージさせている。このわか、庫裏の南側には聚楽第の礎石を配した阿吽(あうん)の石庭がある。寺宝として、豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝えられる四方蒔絵の碁盤。1583年天正11年)の銘が残る、種子島銃などを蔵している。龍源院の名の元の、龍源の寺号は、大徳寺の山号・龍宝山の「龍」と、「松源一脈」(中国臨済宗松源派の祖・松源崇岳の禅を正しく継承するの意)の「源」からとっている。明治の初めの頃に、神仏分離により大阪・住吉神社内の慈恩寺と、岐阜高山城主だった金森長近が大徳寺内に建立した金竜院とを合併し今日に至っている。
10時55分に「表門」前に着きました。ただ、後ろに修学旅行生の姿が・・・?。ただ、この写真、天気が良いでしょう。訳あって、一週間後に訪れた時のものです。この時は、表門だけ撮っただけです😊。
タクシーの運転手さんに連れられた学生さんが、空いてる間に回らなくてはと、少々急いで「庫裏」へ。
庫裏の中に拝観受付所があって、拝観料350円と、書き置きの御朱印もいただきました。そして、堂内へ上がります。
下の御朱印はオマケです。何種類かあって、一つ選んだ訳です。入ると「書院」はスルーして、先に庭園に向かいます。
最初に「方丈」の南側に広がる「一枝坦(いっしだん)」を見に行きました。何故か?。この時、ここには誰も居なかったからです。
丸く象った苔の中に石を立てた亀島があって、右には蓬莱山、その前に鶴島が配置されています。
お隣の黄梅院(おうばいいん)の屋根には、昨日降った雪が残っています。
庭園を見た後は、方丈内を見て回ります。最初は「礼の間(れいのま)」から。和尚と修行僧修行僧らが一衆和合、公式の茶礼香礼等を行ったところです。
重要文化財に指定されている「方丈」は、室町時代の1502年(文亀2年)の建立で、日本で最も古い禅院方丈建築の遺構を完全にとどめている貴重な建物です。
ご本尊は、重要文化財に指定されている「釈迦如来坐像」で鎌倉時代の作だと伝わります。
この方丈の中心となる「室中の間」です。ここでは住持(和尚)が、禅の教えを説き、或いは問法し、時には儀式法要を行う所です。襖絵は「龍と波」の図は、江戸初期と思われますが、作者不詳です。
方丈南側の最後の部屋は「檀那の間」で、和尚が檀家の者と、お茶など飲みながら親しく懇談する部屋です。
方丈を回り込み西側には「開祖堂」があります。また、この前の苔に覆われた庭を「鶏足山(けいそくざん)」と名付けられています。
方丈北側には、まだ雪が残る「龍吟庭」がありました。作者は宗祖東渓という説もありますが不明です。緑苔の大海に屹立する須弥山石。龍が天空に上昇する姿を想像させます。
「龍吟庭」から、大徳寺の三門が見えました。次は方丈裏の部屋を見に行きます。
最初は「上間(じょうかん)の間」、別名「衣鉢の間(えはつのま)」で、衣鉢とは出家僧の最も大切な三衣(袈裟のことで五条、七条、九条の袈裟)と鉄鉢(食器)で、ここはその衣鉢を納める所です。室銘は「狸窟」。
次の部屋は「眠蔵(みんぞう)」と言って、物を眠らし蔵う(しまう)所で、今の納戸です。1964年(昭和39年)の解体修理の際に発見された古文書によって、寛永年間に仏間として造営された、この箇所を創建当時の姿に復元されたものです。
次も「眠蔵(みんぞう)」で、同じく復元されたものです。往時の禅僧の日常は簡素で、夜疲れては奥の二畳で休み、人目を避けて静かに座禅などをしたところです。
最後は「下間(げかん)の間」で、別名「書院の間」と呼ばれています。ここは現在の応接室、方丈の下手の間をいいます。室銘は「孤窟」。
「方丈」の東側には、日本最小の石庭「東滴壷(とうてきこ)」があります。1960年(昭和35年)に作庭された現代壺庭の傑作です。
ここには外国人観光客や修学旅行生が入ってこられ方丈前に座って、庭を見てました。そして創建当時からある井戸「担雪井」を撮りました。
最後に「書院」に入りました。ここにも庭園があります。
展示ケースの下段に展示されているのが、「日本最古の「種子島銃」です。銃床尾に1583年(天正11年)の年紀があり、火縄銃では在銘最古のものだそうです。
こちらは「四季草木蒔絵碁盤」で、徳川家康が豊臣秀吉と伏見城内で対局した時の碁盤と伝わり、初代本因坊の奥書があります。金森長近が秀吉から拝領した。
書院軒先にあるのが「滹沱底(こだてい)」で、別名が「阿・吽の石庭」と呼ばれる石庭です。宗祖臨済禅師の住庵した寺の南に流れる川の名から取られました。東西の碁盤石は、昔秀吉が建てた聚楽第のものだそうです。
庫裏から外に出て、最後に重要文化財に指定されている「唐門」を撮りました。これで2020年(令和2年)9月15日以来の龍源院を出ました。
龍外院から大徳寺の駐車場に行き、出る時に精算すると、9時57分入庫で、11時5分出庫。料金は500円となりました。私の勘違いで、2時間以内が500円で、それ以降は30分毎に100円でしたね。もう一箇所ぐらい寄れました😊。ただ昨日の忘れ物を取りに行くためには、仕方なかったですね。昨日の所用先に忘れてた傘を取りに行ってから帰路に着きました。
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