織田信長が父、信秀のために建立した臨済宗大徳寺派大本山塔頭 黄梅院へ
大徳寺では、毎月28日に「利休忌」のお茶会があります。この月の主催者は裏千家ということで、聚光院前には、茶道裏千家家元16代の千 宗室さんのお姿も見えました。私は茶道については、まったくの素人で、お茶会に大徳寺に来た訳ではありません。第57回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開の総見院に来た訳です。ただ、やってしまいました・・・?。
大徳寺の駐車場に9時59分に入庫し、「総門」前の看板を見ると・・・?。
総見院は、2月28日(火)、拝観停止でした。総門を入って境内を歩くと、着物を着た人が多数歩いていますし、前途したとおり、千 宗室さんのお姿も聚光院前で見られました。念のために総見院前まで行くと、やっぱり閉まってましたね。なお、三玄院前を通ると、この日も行列ができていて、予約拝観の方が先に入られて、予約してない人の列は、そのままでした。多分、10分ぐらい遅れてはいられるのでしょう。三玄院だけは予約した方が良いでしょう。京の冬の旅のガイド本を見て確認したつもりでしたが、やっぱりHPでの確認は必要でした。HPでは、拝観停止と書いありました😂。大徳寺の駐車場に車入れたし、そのまま帰るのは、駐車場代金500円が勿体ないし、それで、常時拝観している寺院(大仙院・龍源院・瑞峯院)に行くことにしました。ただ、大仙院だけは行きません。そこは撮影禁止の他に、売店の担当者が何か買わないかと、しつこく勧誘されるので。一度行きましたが、もう辟易です。龍源院は最近入ったし、瑞峯院には何度か行ってるし、正直な話し何処もありません。ただ、以前は非公開で、最近常時拝観され始めた黄梅院は、今日も開門しているようでしたので、そちらにお邪魔すこととしました。
10時開門で、10時9分に「表門」前に着きました。
表門を入ると右手に、右から「織田信秀」「毛利元就」「小早川隆景」「蒲生氏郷」の名前が石碑から読み取れます。
黄梅院は、臨済宗大徳寺派大本山の塔頭の一つ。1562年(永禄5年)織田信長が28歳のとき、羽柴秀吉を伴って初めて入洛すると、信長は秀吉に京都所司代に任じ、併せて父・信秀の追善菩提のために小庵を建立させた。この小庵は大徳寺九十八世住持・春林宗俶和尚(しゅんりんそうしゅく)を開祖に迎え「黄梅庵」と名付けられた。これが黄梅院の始まりです。信長は1582年(天正10年)6月2日に、「本能寺の変」で急逝すると、羽柴秀吉は、同年10月15日に密葬され、その後、秀吉は、「黄梅庵」に築を加えるが、主君の塔所としては小なりと、同じ大徳寺山内に総見院を建立し、信長公をお祀りした。1586年(天正14年)には、秀吉により本堂と唐門が、1589年(天正17年)には毛利元就の子・小早川隆景に普請を命じ、鐘楼・客殿・庫裏などを増築し、この年に「黄梅院」と改められた。庫裏は日本の禅宗寺院において現存する最古のものといわれている。秀吉の希望により千利休が作庭した枯山水の直中庭(しきちゅうてい)の他、破頭庭(はとうてい)、作仏庭(さぶつてい)など禅寺の風情ある美しい庭園を有している。本堂の襖絵「竹林七賢図」は雪舟の画風を継ぐ雲谷等顔(うんこくとうがん)の代表的な水墨画で、重要文化財に指定されている。また、書院には千利休の茶道の師である武野紹鴎(たけのしょうおう)好みの茶室・昨夢軒(さくむけん)がある。墓所には、織田信秀、毛利元就夫妻、元就の息子三兄弟、信長の次女とその夫・蒲生氏郷、毛利一族などが祀られている。
左手には「鐘楼」があって、加藤清正が朝鮮から持ち帰ったと伝わる釣鐘があります。
表門を入って正面には、重要文化財に指定されている「庫裏」があって、後程、内部に入ります。
庫裏を見ながら、参道を歩くと正面に「拝観受付所」があります。その受付所の前にあったご住職が書かれた手紙がありました。
拝観料は1000円です。拝観料を納め前に、写真撮影の有無を聞きました。答えは「何処でもOKてす」と。そして受付の方から聞かれた御朱印ですが、書き置きがあるようで、それをお願いすると「朱印代1000円です」と。これは、2度聞き直しましたね😊。2020年(令和2年)9月15日(火)に来てますが、その時は貰わなかったので、いただきましたが・・・内容は、後程。
拝観料を納めて最初に見るのが、数寄屋建築の「向春庵(こうしゅんあん)」です。
向春庵の内部は非公開ですが、5畳半小間仕立ての茶室「鳳來庵(ほうらいあん)」や、立礼席とよばれる椅子式の茶室「關庵(かんあん)」のほか、20畳の広間「玄徳軒」を有する数寄屋建築です。また、回廊で小間の茶室「一枝庵」とつながります。
191998年(平成10年)竣工で、新築されたようですね、門を入ると右手「四阿」もありました。
次に左手に「織部灯籠」があって、料亭のような門をくぐります。
門を入ると左手に、ここにも「腰掛」がありました。
前途した「向春庵」は、ここまで繋がってます。内部は非公開で見られませんでしたが、どのように繋がっているかなぁ、興味ありますね。ここで靴を脱いで上がります。
長い廊下を庭伝いに歩いて行くと、立礼式茶室「不識庵」に出会います。
ここには、額に入った「ありがとう」と書かれた文章がご住職によって書かれたものでしょう、家に帰ってから読みました。
ここを抜けると、前方に「直中庭(じきちゅうてい)」と、茶室「一枝庵」が見えてきます。
一枝庵は、数寄屋建築の「向春庵(こうしゅんあん)」と同時期に造られました。向春庵とは、こうして回廊で結ばれています。
こちらは、直中庭から見た、立礼式茶室「不識庵」です。
「直中庭(じきちゅうてい)」の向こうに、書院「自休軒(じきゅうけん)」が見えて来ました。
この直中庭は、千利休66歳のとき造られた庭園で、秀吉の軍旗「瓢箪」を象った空池を持ち、大徳寺二世徹翁和尚が比叡山より持ち帰った不動三尊石や加藤清正寄進の朝鮮燈籠を配した池泉式枯山水庭園です。
次に、書院「自休軒(じきゅうけん)」に入ります。左手に枯山水庭園も見えます。
入ると大徳寺開山大燈国師宗峰妙超禅師の遺墨「自休」の扁額があります。
この自休軒のなかに、武野紹鴎作の茶室「昨夢軒」があって、2011年(平成23年)に昨夢軒を取り込んで、自休軒を新築されたことから、この茶室は、囲え込み式と言われています。
ここから、瓢箪池がある直中庭を腰を下ろして眺めました。
座ったところで、気になった御朱印を見てみました。封を開けて見てみると、「まるくなろ まるくなろ もっともっと まるくなろ かどのある我を けずりおとして」とご住職が書かれた文書でした。
次に書院「自休軒」から「本堂」に移ります。その間に坪庭がありました。
「本堂」は重要文化財に指定されています。禅宗寺院特有の様式が表されており、1586年(天正14年)に豊臣秀吉の尽力により竣工。現在重要文化財に指定されています。檜皮葺入母屋造りで、1977年(昭和52年)に400年振りに全面解体修理がなされました。
本堂の前庭は「破頭庭(はとうてい)」と呼ばれています。この庭園の半分手前は白川砂で、もう向こう半分を桂石で区切り苔を配し観音菩薩・勢至菩薩の二石でまとめた質素な庭で、天正年間(1573~1593)に作庭されました。
この本堂は、禅宗寺院の典型的な方丈様式となっています。向かって右から、一部屋づつ見ています。
「礼の間(れいのま)」です。住持が客人と対面するための部屋でした。襖絵は雲谷等顔(うんこくとうがん)で「芦雁図」で、複製です。本物は京都国立博物館な寄託されてるそうです。
真ん中は「室中の間」です。襖絵は、こちらも水墨壁画で、作者は雲谷等顔(うんこくとうがん)で「竹林七賢図(ちくりんのしちけんず)」でした。 ご本尊は釈迦如来です。
最後は、「檀那の間」で、室町・江戸時代には諸大名・諸役人がここで住持と対面しました。襖絵は「西湖図」で、桃や時代の作(複製)、雲谷等顔(うんこくとうがん)です。
次に本堂の裏手には行かず、お隣の「庫裏」(重文)に入ります。その本堂と庫裏の間にあったのが「閑坐庭(かんざてい)」です。案内では心静かに坐して、この枯山水庭園を見てくださいとありました。
また反対側には鳴り物の「雲版(うんぱん)」と「古井戸」もありました。そして庫裏に入ります。
雄大な「庫裏」の天井です。煙出しこそ見当たらなかったですが、重要文化財に指定されています。
切妻造板葺で、「火番寮」「典座(てんぞ)寮」「納所(なっしょ)寮」「知客寮」「旦過(たんか)寮」とそれぞれの宿舎になっており、禅宗寺院の生活様式をそのまま現代に伝えています。1589年(天正17年)に小早川隆景の寄進により、完成した日本で現存する禅宗寺院の庫裏として最古のものです。庫裏は火を扱う所で常に火災に遭いやすく古式の庫裏は残存しにくいので貴重な存在と言えます。
案内にあった「納所(なっしょ)寮」です。この部屋の僧は食料の調達、金銭の工面を司り寺の中心的なまかない役をはたしていました。
庫裏は火を扱うところであり、火災をおこしやすいため古式の庫裏は残存しにくい。それで現存してるのは大変貴重と言えます。1985年(昭和60年)に解体修理されました。
「典座(てんぞ)寮」には雛飾りがありました。典座とは食事を作る人のことで、禅寺では知客・副司・典座と三役として常住では大切な役だそうです。
庫裏を出て、次に「本堂」の裏手に回ります。その間には前途した「閑坐庭(かんざてい)」があります。
こちらが「本堂」の裏手です。こちらにも枯山水庭園がありました。
先ずは「本堂」の北側の部屋を見ていきます。最初は「書院の間」から。住持が書見・書簡文筆などに使用した部屋です。
次が「眠蔵(みんぞう)」で、住持はこの部屋で休んでいました。住持の質素な生活が偲ばれます。
「本堂」最後の部屋は、「衣鉢の間(えはつのま)」です。衣は袈裟のこと。鉢は時鉢(食器)のこと。修行僧が歳月をかけて悟りを開いた時、師道がその証に衣鉢を与えた故事に依る大切な部屋です。
ここの前庭は枯山水の「作仏庭(さぶつてい)」と呼ばれる枯山水庭園です。この庭園の北東に滝を表す立石を配し、南に流れる小舟を浮かべ、本堂前の「破頭庭」へと連なる作りとなっています。
この庭園に面して建っているのが、茶室「東禅軒(とうぜんけん)」です。
茶室「東禅軒」から見た、「本堂」の裏手と、その前庭の「作仏庭」です。次に書院「自休軒」の裏手に入ります。
書院「自休軒」は茶室「昨夢軒(さくむけん)」を取り込んで新築されてました。裏手は茶室があるので、それを見ていく事になります。
この部屋は「水屋(みずや)」で、茶の支度はここでします。この昨夢軒の水屋は東側の襖の奥にあり、丸炉、水屋が備えられています。
こちらが、千利休の茶道の師である武野紹鷗(たけのじょうおう)好み茶室「昨夢軒(さくむけん)」です。元は独立した建物で境内東南側にあり、書院建立時に移築されたという。この茶室には躙口もなく、このような様式を囲え込み式と言われています。
こちらの室内には入れませんが、先程の庫裏側から少しだけ覗くことが出来ます。
これで、元来た所に戻って来たことになります。私が入ってから出て行くまで誰も来られませんでしたね。やっぱり拝観料1000円が高いのかなぁ?。
10時37分に「拝観受付所」に戻って来ました。ここで1組の方が入って行かれました。
10時39分に「表門」から出ました。この黄梅院は見所が多いです。1000円でも値打ちがあるかと個人的には思います。
黄梅院は、1589年(天正17年) 豊臣秀吉に普請奉行を銘ぜられた小早川隆景が多額の援助をしたことから小早川家と本家筋の毛利家の菩提寺になりました。今も、表門に毛利家の家紋「一文字に三つ星」を目にします。このあと、駐車場に戻らず、大徳寺の向かいにある佃煮屋に寄りました。
春季特別公開 3月26日~5月14日(特別拝観時は撮影禁止となります)
大徳寺の駐車場に9時59分に入庫し、「総門」前の看板を見ると・・・?。
総見院は、2月28日(火)、拝観停止でした。総門を入って境内を歩くと、着物を着た人が多数歩いていますし、前途したとおり、千 宗室さんのお姿も聚光院前で見られました。念のために総見院前まで行くと、やっぱり閉まってましたね。なお、三玄院前を通ると、この日も行列ができていて、予約拝観の方が先に入られて、予約してない人の列は、そのままでした。多分、10分ぐらい遅れてはいられるのでしょう。三玄院だけは予約した方が良いでしょう。京の冬の旅のガイド本を見て確認したつもりでしたが、やっぱりHPでの確認は必要でした。HPでは、拝観停止と書いありました😂。大徳寺の駐車場に車入れたし、そのまま帰るのは、駐車場代金500円が勿体ないし、それで、常時拝観している寺院(大仙院・龍源院・瑞峯院)に行くことにしました。ただ、大仙院だけは行きません。そこは撮影禁止の他に、売店の担当者が何か買わないかと、しつこく勧誘されるので。一度行きましたが、もう辟易です。龍源院は最近入ったし、瑞峯院には何度か行ってるし、正直な話し何処もありません。ただ、以前は非公開で、最近常時拝観され始めた黄梅院は、今日も開門しているようでしたので、そちらにお邪魔すこととしました。
10時開門で、10時9分に「表門」前に着きました。
表門を入ると右手に、右から「織田信秀」「毛利元就」「小早川隆景」「蒲生氏郷」の名前が石碑から読み取れます。
黄梅院は、臨済宗大徳寺派大本山の塔頭の一つ。1562年(永禄5年)織田信長が28歳のとき、羽柴秀吉を伴って初めて入洛すると、信長は秀吉に京都所司代に任じ、併せて父・信秀の追善菩提のために小庵を建立させた。この小庵は大徳寺九十八世住持・春林宗俶和尚(しゅんりんそうしゅく)を開祖に迎え「黄梅庵」と名付けられた。これが黄梅院の始まりです。信長は1582年(天正10年)6月2日に、「本能寺の変」で急逝すると、羽柴秀吉は、同年10月15日に密葬され、その後、秀吉は、「黄梅庵」に築を加えるが、主君の塔所としては小なりと、同じ大徳寺山内に総見院を建立し、信長公をお祀りした。1586年(天正14年)には、秀吉により本堂と唐門が、1589年(天正17年)には毛利元就の子・小早川隆景に普請を命じ、鐘楼・客殿・庫裏などを増築し、この年に「黄梅院」と改められた。庫裏は日本の禅宗寺院において現存する最古のものといわれている。秀吉の希望により千利休が作庭した枯山水の直中庭(しきちゅうてい)の他、破頭庭(はとうてい)、作仏庭(さぶつてい)など禅寺の風情ある美しい庭園を有している。本堂の襖絵「竹林七賢図」は雪舟の画風を継ぐ雲谷等顔(うんこくとうがん)の代表的な水墨画で、重要文化財に指定されている。また、書院には千利休の茶道の師である武野紹鴎(たけのしょうおう)好みの茶室・昨夢軒(さくむけん)がある。墓所には、織田信秀、毛利元就夫妻、元就の息子三兄弟、信長の次女とその夫・蒲生氏郷、毛利一族などが祀られている。
左手には「鐘楼」があって、加藤清正が朝鮮から持ち帰ったと伝わる釣鐘があります。
表門を入って正面には、重要文化財に指定されている「庫裏」があって、後程、内部に入ります。
庫裏を見ながら、参道を歩くと正面に「拝観受付所」があります。その受付所の前にあったご住職が書かれた手紙がありました。
拝観料は1000円です。拝観料を納め前に、写真撮影の有無を聞きました。答えは「何処でもOKてす」と。そして受付の方から聞かれた御朱印ですが、書き置きがあるようで、それをお願いすると「朱印代1000円です」と。これは、2度聞き直しましたね😊。2020年(令和2年)9月15日(火)に来てますが、その時は貰わなかったので、いただきましたが・・・内容は、後程。
拝観料を納めて最初に見るのが、数寄屋建築の「向春庵(こうしゅんあん)」です。
向春庵の内部は非公開ですが、5畳半小間仕立ての茶室「鳳來庵(ほうらいあん)」や、立礼席とよばれる椅子式の茶室「關庵(かんあん)」のほか、20畳の広間「玄徳軒」を有する数寄屋建築です。また、回廊で小間の茶室「一枝庵」とつながります。
191998年(平成10年)竣工で、新築されたようですね、門を入ると右手「四阿」もありました。
次に左手に「織部灯籠」があって、料亭のような門をくぐります。
門を入ると左手に、ここにも「腰掛」がありました。
前途した「向春庵」は、ここまで繋がってます。内部は非公開で見られませんでしたが、どのように繋がっているかなぁ、興味ありますね。ここで靴を脱いで上がります。
長い廊下を庭伝いに歩いて行くと、立礼式茶室「不識庵」に出会います。
ここには、額に入った「ありがとう」と書かれた文章がご住職によって書かれたものでしょう、家に帰ってから読みました。
ここを抜けると、前方に「直中庭(じきちゅうてい)」と、茶室「一枝庵」が見えてきます。
一枝庵は、数寄屋建築の「向春庵(こうしゅんあん)」と同時期に造られました。向春庵とは、こうして回廊で結ばれています。
こちらは、直中庭から見た、立礼式茶室「不識庵」です。
「直中庭(じきちゅうてい)」の向こうに、書院「自休軒(じきゅうけん)」が見えて来ました。
この直中庭は、千利休66歳のとき造られた庭園で、秀吉の軍旗「瓢箪」を象った空池を持ち、大徳寺二世徹翁和尚が比叡山より持ち帰った不動三尊石や加藤清正寄進の朝鮮燈籠を配した池泉式枯山水庭園です。
次に、書院「自休軒(じきゅうけん)」に入ります。左手に枯山水庭園も見えます。
入ると大徳寺開山大燈国師宗峰妙超禅師の遺墨「自休」の扁額があります。
この自休軒のなかに、武野紹鴎作の茶室「昨夢軒」があって、2011年(平成23年)に昨夢軒を取り込んで、自休軒を新築されたことから、この茶室は、囲え込み式と言われています。
ここから、瓢箪池がある直中庭を腰を下ろして眺めました。
座ったところで、気になった御朱印を見てみました。封を開けて見てみると、「まるくなろ まるくなろ もっともっと まるくなろ かどのある我を けずりおとして」とご住職が書かれた文書でした。
次に書院「自休軒」から「本堂」に移ります。その間に坪庭がありました。
「本堂」は重要文化財に指定されています。禅宗寺院特有の様式が表されており、1586年(天正14年)に豊臣秀吉の尽力により竣工。現在重要文化財に指定されています。檜皮葺入母屋造りで、1977年(昭和52年)に400年振りに全面解体修理がなされました。
本堂の前庭は「破頭庭(はとうてい)」と呼ばれています。この庭園の半分手前は白川砂で、もう向こう半分を桂石で区切り苔を配し観音菩薩・勢至菩薩の二石でまとめた質素な庭で、天正年間(1573~1593)に作庭されました。
この本堂は、禅宗寺院の典型的な方丈様式となっています。向かって右から、一部屋づつ見ています。
「礼の間(れいのま)」です。住持が客人と対面するための部屋でした。襖絵は雲谷等顔(うんこくとうがん)で「芦雁図」で、複製です。本物は京都国立博物館な寄託されてるそうです。
真ん中は「室中の間」です。襖絵は、こちらも水墨壁画で、作者は雲谷等顔(うんこくとうがん)で「竹林七賢図(ちくりんのしちけんず)」でした。 ご本尊は釈迦如来です。
最後は、「檀那の間」で、室町・江戸時代には諸大名・諸役人がここで住持と対面しました。襖絵は「西湖図」で、桃や時代の作(複製)、雲谷等顔(うんこくとうがん)です。
次に本堂の裏手には行かず、お隣の「庫裏」(重文)に入ります。その本堂と庫裏の間にあったのが「閑坐庭(かんざてい)」です。案内では心静かに坐して、この枯山水庭園を見てくださいとありました。
また反対側には鳴り物の「雲版(うんぱん)」と「古井戸」もありました。そして庫裏に入ります。
雄大な「庫裏」の天井です。煙出しこそ見当たらなかったですが、重要文化財に指定されています。
切妻造板葺で、「火番寮」「典座(てんぞ)寮」「納所(なっしょ)寮」「知客寮」「旦過(たんか)寮」とそれぞれの宿舎になっており、禅宗寺院の生活様式をそのまま現代に伝えています。1589年(天正17年)に小早川隆景の寄進により、完成した日本で現存する禅宗寺院の庫裏として最古のものです。庫裏は火を扱う所で常に火災に遭いやすく古式の庫裏は残存しにくいので貴重な存在と言えます。
案内にあった「納所(なっしょ)寮」です。この部屋の僧は食料の調達、金銭の工面を司り寺の中心的なまかない役をはたしていました。
庫裏は火を扱うところであり、火災をおこしやすいため古式の庫裏は残存しにくい。それで現存してるのは大変貴重と言えます。1985年(昭和60年)に解体修理されました。
「典座(てんぞ)寮」には雛飾りがありました。典座とは食事を作る人のことで、禅寺では知客・副司・典座と三役として常住では大切な役だそうです。
庫裏を出て、次に「本堂」の裏手に回ります。その間には前途した「閑坐庭(かんざてい)」があります。
こちらが「本堂」の裏手です。こちらにも枯山水庭園がありました。
先ずは「本堂」の北側の部屋を見ていきます。最初は「書院の間」から。住持が書見・書簡文筆などに使用した部屋です。
次が「眠蔵(みんぞう)」で、住持はこの部屋で休んでいました。住持の質素な生活が偲ばれます。
「本堂」最後の部屋は、「衣鉢の間(えはつのま)」です。衣は袈裟のこと。鉢は時鉢(食器)のこと。修行僧が歳月をかけて悟りを開いた時、師道がその証に衣鉢を与えた故事に依る大切な部屋です。
ここの前庭は枯山水の「作仏庭(さぶつてい)」と呼ばれる枯山水庭園です。この庭園の北東に滝を表す立石を配し、南に流れる小舟を浮かべ、本堂前の「破頭庭」へと連なる作りとなっています。
この庭園に面して建っているのが、茶室「東禅軒(とうぜんけん)」です。
茶室「東禅軒」から見た、「本堂」の裏手と、その前庭の「作仏庭」です。次に書院「自休軒」の裏手に入ります。
書院「自休軒」は茶室「昨夢軒(さくむけん)」を取り込んで新築されてました。裏手は茶室があるので、それを見ていく事になります。
この部屋は「水屋(みずや)」で、茶の支度はここでします。この昨夢軒の水屋は東側の襖の奥にあり、丸炉、水屋が備えられています。
こちらが、千利休の茶道の師である武野紹鷗(たけのじょうおう)好み茶室「昨夢軒(さくむけん)」です。元は独立した建物で境内東南側にあり、書院建立時に移築されたという。この茶室には躙口もなく、このような様式を囲え込み式と言われています。
こちらの室内には入れませんが、先程の庫裏側から少しだけ覗くことが出来ます。
これで、元来た所に戻って来たことになります。私が入ってから出て行くまで誰も来られませんでしたね。やっぱり拝観料1000円が高いのかなぁ?。
10時37分に「拝観受付所」に戻って来ました。ここで1組の方が入って行かれました。
10時39分に「表門」から出ました。この黄梅院は見所が多いです。1000円でも値打ちがあるかと個人的には思います。
黄梅院は、1589年(天正17年) 豊臣秀吉に普請奉行を銘ぜられた小早川隆景が多額の援助をしたことから小早川家と本家筋の毛利家の菩提寺になりました。今も、表門に毛利家の家紋「一文字に三つ星」を目にします。このあと、駐車場に戻らず、大徳寺の向かいにある佃煮屋に寄りました。
春季特別公開 3月26日~5月14日(特別拝観時は撮影禁止となります)
この記事へのコメント
お寺ですね。秀吉の不興を買った
千利休像があったのもここの山門ですし、
今でも茶室が多く、織部灯篭が見られたりするのも、
茶道との強いきずなを想像させられます。
黄梅庵は撮影自由なのが嬉しいですね。
珍しい庫裡の様子や、立派な庭の姿が印象的でした。
私達は日程を決めて行くので、
拝観できなければ外から拝見になります^^)
で、黄梅院へ。
何処でも撮影OKは有難いです。
撮影したものを公開すれば、これを見て行きたくなる人が出てきますから、
寺院としてはその方が好都合だと思うんですが。
庭を眺めながらの長い廊下は、客人への配慮が感じられます。
千利休66歳のとき造られた庭園、直中庭が素敵で、
廊下の両側に広がる庭園が、良き眺めです。
庫裏の天井には驚きですが、あまり見たことが無い造りですね。
更に室内も豪華で、よく手入れされています。
拝観料千円の価値ある黄梅院と納得しました。
千利休とのゆかりが深く、28日には利休忌が、各塔頭寺院で行われます。茶道の経験が無いので行けないですけど。それと膝を怪我していので、正座はできません。( ^_^)
黄梅院も、入口は高級料亭のような門構えですが、由緒ある寺院です。見所が多いので、ここはゆっくり散策したいですね。
秋の紅葉は見事です。
大徳寺では毎月、28日に利休忌をされていたのを失念してました。
黄梅院も、春と秋に特別公開されますが、その時は撮影禁止となります。
寺独自開門では撮影許可されるのにね、主催者が変わるとこうなります。
ここは秋の紅葉が見事ですが、この時は特別公開のため写真撮れません。( ^_^)