第57回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 大徳寺 総見院へ

2月28日(火)が大徳寺「利休忌」のため、拝観停止だったことあって、3月3日(金)にもう一度、大徳寺に車で向かいました。いつものように大徳寺の駐車場に9時49分に入れると、外国人観光客の団体さんが大徳寺の総門から入って行かれましたね、約20名ぐらいだったと思いますが、何処に行かれたのでしょうか?。私の想像ですが、大仙院かなぁ?。

IMG_1669.jpg総門から入って雄大な「三門」の前を外国人観光客の後について歩きます。

まだ10時開門の時間に少し早いので、常時拝観している寺院でも行こうかなぁ・・・と思いましたが、やっぱり目的地に向かいます。今日も三玄院の前を通りましたが、この日は行列は出来てません。門前には誰も待ってませんでしたね。そして、次に特別拝観実施中の聚光院の前を通りましたが、こちらは人が多かったです。拝観料2000円と高いので、私は遠慮します。その聚光院のお隣にあるのが、第57回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 大徳寺 総見院に9時56分に着きました。

IMG_1670.jpgこの「鐘楼」は、総見院のものです。後程、ガイドさんから、この鐘楼について案内がありました。

総見院には、2005年(平成17年)11月26日と2011年(平成23年)2月19日の二度きています。それで、当初は三玄院と芳春院に行ったとき、総見院はスルーしました。ただスタンプラリーのスタンプを3個貯めるのと、今回、本堂内にて織田信長公の肖像画が初公開とあったのと10年以上行ってないので、行くことにした訳です。

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9時57分に着いてみると、行列が・・・?。今日は三玄院の行列は無かったのにね。私で5組目でした。

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以前は、唐門から入りましたが、この日は通用門からで、入ると正面が「拝観受付所」でした。

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拝観料は800円で、書き置きの御朱印もあったのでいただきました。「施無畏(せむい)」と書いてあります。意味は、仏・菩薩 (ぼさつ) が衆生 (しゅじょう) の恐れの心を取り去って救うことだそうです。

1582年(天正10年)の「本能寺の変」で織田信長が打たれた100日後、葬儀が7日間にわたり大徳寺で盛大に執り行われました。大徳寺から火葬が行われる「蓮台野」までの2.7㌔の沿道を、3万人の軍勢が警護にあたり、柩が運ばれると約3千人の葬列が続いたと伝わります。信長の一周忌にあたる1583年(天正11年)にあたり秀吉が建立したのが大徳寺塔頭総見院です。寺の名は信長の法名から「総見院殿贈大相国一品泰巌尊儀」から最初の3文字を取って付けられました。当時は広大な境内に豪壮な伽藍が立ち並んだと伝わりますが、明治の廃仏毀釈によりその多くが失われました。開祖は千利休参禅の師でもあった古渓宗陳(こけいそうちん)。本堂には秀吉が奉納した木造織田信長公坐像(重文)は高さ三尺八寸(約115㌢)の等身大で、慶派の仏師、康清によって作られました。2体彫られたうちの1体は、葬儀の際に荼毘にふされますが、香木によって作られたその木像の薫りは洛中一帯に広がったと言われます。境内には信長公一族の墓、豊臣秀吉が千利休から譲り受けて植えられた、樹齢約400年の胡蝶侘助椿(こちょうわびすけつばき)があります。

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拝観料を納めると、この門をくぐります。この後、久しぶりに本堂を見ることが出来ます。

IMG_1747.jpgIMG_1746.jpg門を入ると塚があります。後程、ガイドさんから案内がありました。こちらは「茶筅塚」で、茶の道具である茶筅を供養するための塚です。お線香を立てるところが茶筅をひっくり返した姿と教えて貰いました。

IMG_1743.jpg次にガイドさんが、ここの案内してくれるので、「本堂」に上がります。本堂が再建されたのは1928年(昭和3年)のこと。織田信長の菩提寺を示すため。屋根瓦には織田信長の家紋「木瓜(もっこう)紋」が記されています。

本堂は、1926年(大正15年)まで、禅の修行する禅堂として使われていました。先々代のご住職が本堂に改めた際に、天井にあった「龍図」が、本堂右側に展示されています。内陣正面には、開祖 古渓宗陳の木像を、左には、重要文化財に指定されている衣冠帯刀姿の織田信長坐像(底に書いてある墨書きには、天正11年5月吉日の文字が)を安置。この像は、115㌢の等身大で、信長公49歳のお姿を忠実に再現されているとか。その横には、織田家一族の御位牌が安置されています。ひときわ大きい位牌には、「総見院殿贈大相国一品泰巌尊儀」の文字が読み取れます。これは信長公の戒名です。

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看板の写真です。織田信長は、右大臣の位でしたが、亡くなってから太政大臣を賜りました。このお姿は武家の姿ではなく、公家の衣冠束帯(いかんそくたい)に帯刀姿で造られました。

総見院本堂の須弥壇中央に開祖の大徳寺117世住持古渓宗陳(こけい-そうちん)和尚像が祀られています。42歳で大徳寺の住持になった古渓宗陳宗陳は波乱の人生をこのあと迎えます。それは、豊臣秀吉が織田信長の菩提寺として船岡山に寺の建立を計画し、寺の開山として古渓宗陳を迎えることを約束しました。しかし、計画は頓挫。和尚は、秀吉に抗議したことで、秀吉の逆鱗ふれ九州に流刑となります。千利休らの働きかけで、流刑は1年あまりで許されましたが、ある出来事をきっかけに秀吉との対立が深まります。1591年(天正19年)自分の流刑を解くのに働きかけてくれた千利休が秀吉に切腹させられる事件がありました。大徳寺の三門の2階部分に雪駄履きの千利休像を安置したことが不遜だと秀吉の怒りをかい、さらに木像を安置した大徳寺に、寺の取り壊しを命じました。古渓宗陳は、命令を伝えに来た使者に対して「大徳寺を壊すなら死を持って抗議する」と懐から短剣を取り出し決意を伝えます。和尚の思いに心を打たれた使者達は、秀吉を説得して取り壊しの命令を撤回させたと伝わります。

次に、堂内右側にある、「古狸」と信長公が自ら造られた花瓶の案内がありました。瓢箪をくり抜いて漆を塗られています。そこには掠れていますが、墨書きで「古狸」と書かれており、信長自身が書かれたものと伝わります。そして、今回初公開となった総見院に伝わる「織田信長肖像画」の案内がありました。まだ研究段階で、詳細はこれからですが、作者は狩野派の絵師だろうと案内されました。

IMG_1681.jpg次に「鐘楼」の案内がありました。ここでは学生がガイドしてくれました。声も大きくて案内も上手で、凄く良かったです😊。

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この「鐘楼」と「梵鐘」は重要文化財に指定されています。写真は境外から撮ったものです。何故境外にあるかの案内がありました。

この鐘楼を建立したのは、織田信長の家臣であった堀久太郎秀政(ほりきゅうたろうひでまさ)で、「山崎の戦い」では先陣を努めました。何故、境外にあるのは、一家臣にすぎない身分で境内に建立しては申し訳ないと、遠慮して境外に建立したそうです。堀秀政は、後に越前国北ノ庄の大名となりました。

次に、総見院にある3つの茶室についての案内があるので、約10名ぐらいの団体になって移動します。渡り廊下には床几もあるので、皆さん座ってガイドさんの話しを聞きました。

IMG_1683.jpgこの渡り廊下の上に、綺麗な「輿」が吊り下げられています。

本堂に祀られていた織田信長坐像は、明治の廃仏毀釈で、本山に移されました。1961年(昭和36年)の織田信長380年回忌に総見院に戻された時に使用された輿です。たった一度しか使用されてないので、大変綺麗に残っています。大徳寺は禅宗寺院ですので、質素に簡素に作られました。

最初は「香雲軒(こううんけん)」から案内が始まりました。ここで案内をされて、案内が終わってから見学と写真撮影になります。

八畳のお茶室とL字になった鞘の間。鞘の間とは、縁側のようなもので、ここでのお茶会では座らないもの、立礼式でしょうか。昭和に作られた茶室で、表千家13代目家元即中斎(そくちゅうさい)宗匠好みのだそうです。

IMG_1702.jpgIMG_1693.jpg茶室香雲軒」です。茶室内には上がることはできませんが、外から見学できます。写真撮影はOKです。

IMG_1700.jpgIMG_1697.jpgIMG_1698.jpg茶室前には「蹲踞」があります。井戸と織部灯籠もありました。

IMG_1695.jpgIMG_1694.jpg内部を見てみます。こちらは六畳の茶室です。左には案内にあったL字の鞘の間が見えます。床の間や炉が切ってあるのも見えました。

IMG_1696.jpgこちらが八畳の茶室です。こちらにも床の間や炉が切ってあるのが見えました。縁側の鞘の間分かります。

八畳のお茶室と鞘の間の間に障子が填め込むようなっているが、現在取り払われて広間になっています。現在では大規模なお茶会で使用されてるそうです。

IMG_1701.jpg次に「龐庵(ほうあん)」に移動し見学します。

龐庵(ほうあん)」は、龍という漢字が使用されていることで、龍が入れるほど大きいお茶室という意味だそうです。元は、愛知県の築100年の日本家屋をこちらに移築したもので、内部をお茶室にリメイクされています。約100年前の日本家屋の特徴なんも、ここでは見られます。手前の東側のお茶室が十二畳、奥の西側にあるのが十八畳のお茶室で、合計三十畳の大きなお茶室となっていますが、何故、三十畳の茶室が何故必要だったのか?。大徳寺は、裏千家、表千家、武者小路千家と深い関わりがありました。毎月28日には、各寺院が交代で月釜を催しています。裏千家は、江戸時代には街衆の人にむけて、さらには一般の方に向けて開かれた家元で、茶人人口が多いため、裏千家の方が約50名ほど入る茶室が必要でした。躙り口もありますが、多くの方が躙り口を使用するとお茶会が始められないので、大人数の時は使用されません。毎年、2月だけ利休忌で釜が懸かります。

IMG_1703.jpgIMG_1684.jpgIMG_1685.jpg龐庵(ほうあん)」の内部を覗くと、案内にあったように、普通の日本家屋ですね、茶室には見えません。

IMG_1691.jpgIMG_1689.jpgIMG_1690.jpg十八畳のお茶室に床の間が二畳あって、そこには雛人形が飾られています。この特別拝観の時期だけでしょうか?。

IMG_1687.jpgこちらが、手前の十二畳のお茶室です。東側と西側で、合計三十畳の茶室でした。

IMG_1719.jpgIMG_1704.jpg次に、この総見院で、もっとも奥にある「寿安席(じゅあんせき)」に向かいます。

寿安席(じゅあんせき)」は、大阪の山口商店を起こした実業家・山口玄洞氏が1924年(大正13年)に寄進したもの。現在は、お茶会として使われていないので、炉は切られていません。ここで注目はそれぞれの部屋の襖です。玄関では無地の襖絵ですが、奥に行けば桐の文様がはっきり分かります。桐の家紋は、総見院を建立された豊臣秀吉公の家紋にあたります。手前から玄関、居間、一番奥の部屋がお茶室です。ここでは豊臣秀吉公の関わりが分かります。

IMG_1707.jpgIMG_1706.jpgIMG_1708.jpgIMG_1718.jpgIMG_1716.jpgここも上がることは出来ませんが、内部は覗けます。案内にあった「桐紋(五七の桐)」を確認します。

IMG_1713.jpgこちらが八畳の間で床の間がある一番奥の部屋です。案内にあったように茶室として使われていたようです。襖の「桐紋(五七の桐)」が、はっきり分かります。床の間には、茶の湯の聖地の礎を築いた大徳寺78世住持一休禅師の掛け軸が架かっています。

IMG_1712.jpgIMG_1711.jpg真ん中の部屋で、案内にあったように「居間」として使われていたようです。

IMG_1710.jpgIMG_1709.jpg案内にあったように、「玄関」の襖は無地でした。

これで、茶室を見学を終えたので、最後に織田信長公の墓碑に向かいます。場所は、すっかり忘れてしまっていたので、ガイドさんに聞きました。

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途中に、本堂内で案内のあった「井戸」です。こちらは「掘り抜き井戸」で、加藤清正が朝鮮から船の重しとして持ち帰った石を井筒としたものです。

ガイドさんが懐中電灯で照らしてくれました。凄く深いです。物を落としたら取れないので、少し覗いただけにさせて貰いました。

IMG_1721.jpgIMG_1723.jpg墓地の奥に織田信長一族の墓所がありました。

左から「織田秀雄(織田信長の孫)」「織田信雄(信長の二男)」「織田信長(総見院殿贈大相国一品泰巌大居士)」「織田信忠(信長の長男)」「織田(羽柴)秀勝(信長の四男で、秀吉の養子)」「織田信高(信長の七男)」「織田信好(信長の十男」と書いてありました。

IMG_1733.jpg織田信長のお墓には、1583年(天正11年)秀吉による、追善供養時に、香木によって作られたその信長の木像を燃やした灰を埋葬してあると聞きました。

IMG_1728.jpgIMG_1726.jpg次に、案内には正室の帰蝶(濃姫)と、側室のお鍋の方が書いてあったので、こちらは探しました。

IMG_1737.jpgIMG_1739.jpgこちらが正室の「帰蝶(濃姫)」の墓碑のようです。斎藤道三の娘と言われていますが真意は・・・?。

IMG_1738.jpgこちらが、側室の「お鍋の方」のお墓のようです。お鍋の方は知りませんでした。「織田信高(信長の七男)」の母のようですね。

CIMG2222.jpgIMG_1742.jpg忘れてましたが、帰り際にガイドさんが案内していたので想い出しました。「総見院のワビスケ」と呼ばれるものです。

秀吉が千利休から譲り受けて植えたものが大きくなったと伝えられています。ワビスケは、花が小さく早春から咲き、茶花としてもよく用いられるツバキの園芸品種であるが、この品種の現存する最も古い個体であり、貴重であります。1983年(昭和58年)6月1日に京都市指定天然記念物に指定。茶席の切り花として重用されてきました。

IMG_1748.jpgここを出る前に近くで撮った「鐘楼」です。10時42分にここを出ました。

IMG_1674.jpg以前、来た時は、ここ「表門」が入口でしたが、今日は閉まってました。「信長公廟所」の石碑がありました。

総見院を出て、次のに訪れる予定の寺院に電話を入れました。予約したわけではなく、在宅を確認しました。遠方なんで留守の場合、二度手間になるためです。電話に出られたので、そちらに30分以内に向かうことをつけ、大徳寺の駐車場に戻りました。精算してみると、9時49分に入庫し、10時53分に出て行きました。料金は500円で済みました。

総見院春季特別公開 4月1日~5月7日 4月は土日祝のみ公開

この記事へのコメント

2023年04月08日 18:11
ご無沙汰しておりました。
大徳寺の総見院、なかなか見ることができない内部の様子をいろいろと拝見できて嬉しいです。
織田家の菩提寺ですが、秀吉の政治力を発揮する一つの拠点だったような気がします。それを少しでも侮辱されると秀吉は極端に反応したのではないでしょうか。その後、江戸時代も徳川家の保護もあったことでしょうね。
茶室や庭園も立派です。墓所も綺麗に整備されているのですね。
壬生里
2023年04月10日 20:18
ミクミティさんへコメントありがとうございます。

黄梅院も、春の特別公開が、3月25日~5月14日まで始まっていますが、今は、春と秋以外は、寺独自で公開されるので、特別感はないですね。
大徳寺では、現在本坊が工事中で、暫くは見られません。それで4月27日から本坊を覗く、特別効果を始められるようで、三門の門をくぐれるとか、法堂や仏殿の内部に入れるようで、また再訪したいと思っています。