京都三弘法霊場巡りの「神光院」へ
大徳寺駐車場を出て、大徳寺通りを北上します。今宮通りまで来ると、左折し西に進むと今宮神社の門前に出ます。いつもお正月に「京都十六社朱印巡り」で来ているので、そこを右折し船岡東通りを北上しますが、ここからは一本道です。北山通りを通過し、左に大宮交通公園を見ながら、まだまだ北上します。そして前方に「スギドラッグ 西賀茂店」が見えてくると、そこが神光院前の交差点で左折すると、直ぐの所に右手に門があって、神光院の駐車場に車を停めました。
ここには初めて来ました。地図は入念に頭に入れてきたのでナビは使いません。
11時6分に「山門」から境内に入りました。初めて来たので、ここの納経所が何処にあるか分からないので探します😊。
神光院は、放光山(ほうこうざん)と号する真言宗の寺である。寺伝によれば1217年(建保5年)に上賀茂神社の神主・賀茂能久(よしひさ)が、「霊光の照らした地に一宇を建立せよ」との神託を受け、神光院を総連したと伝えられる。寺名は、この由緒に因み、神光院と名付けられた。以後、密教の道場として栄えたが、天保年間(1830~43)に災火により堂宇を焼失した。1878年(明治11年)、和田月心により再興され、以後書院等が整備され、現在に至っている。本堂に安置する弘法大師は、大師自ら刻んだものと伝え「厄除大師」の名で知られている。寺宝としては、仏眼曼荼羅図(重文)などの貴重な文化財を蔵している。また、境内の茶室は、幕末の歌人大田垣蓮月尼(おおたがきれんげつ)が晩年に隠棲していたところとして知られている。神光院は東寺と仁和寺と並んで「西賀茂の弘法さん」と呼ばれ、京の三大弘法として有名な寺である。
門を入り、左右を見てみても納経所は見当たりません。
左手には「蓮月舊栖之茶所」と書かれた石碑がありました。その奥が庵のようです。
その手前が「手水舎」があります。
こちらが案内にあったように幕末の歌人大田垣蓮月尼が隠棲していた茶室「蓮月庵」で、奥に不動明王が祀られていました。
大田垣蓮月(1791~1875)江戸後期の女流歌人。京都の人。名は 誠 のぶ 。夫の没後、尼となり、法名蓮月を名乗る。「蓮月庵」は住居としていた西賀茂村神光院の茶所で、1875年(明治8年)12月10日、85歳で没したが、別れを惜しんだ西賀茂村の住人が総出で弔いをしたという。
左奥にあったのが「本堂」で、通常非公開です。ご本尊は、弘法大師像だそうです。弘法大師が42歳の時の自刻の木像と伝わります。
「神光院 きゅうり封じ」は有名で、この時は本堂に上がれるそうです。毎年7月21日と土用の丑に行われます。弘法大師がきゅうりに諸病を封じ、大日如来に病気平癒を祈願したことにちなんで行われています。名前と数え年を書いた半紙できゅうりを包み、厄病除けの祈祷を受け、体の悪い部分をなでた後、持ち帰って土に埋めるか神光院境内のきゅうり塚に納めれば病が消えるとされています。
本堂の左手奥には登録有形文化財(建造物)の「中興堂」がありました。私は知らなかったですが、時代劇のロケで良く使われるスポットのようです。
中興堂から本堂裏を見ています。ここまで来ても納経所がわかりません。
そして入口から見ていた「庫裏」まで来て見ました。すると呼鈴があったので押して見ると・・・?。
すると中からご住職?がでて来られ、三弘法の御朱印をいただきました。
残りは、教王護国寺(東寺)だけとなりました。東寺は7日の縁日か桜の咲く時期に行きます。
境内には、梅の花が咲いていました。まだ咲き始めてですね、ここは京都市でも北に位置するから寒いのでしょう。
11時16分に山門から出て行きました。ここは留守が多いと聞き、電話してから来ましたがご住職は、「朱印を書き物は誰かは居ますよ」とは言われてました。
ここは遠方やし、多分、「きゅうり封じ」には来られないですね。行くなら仁和寺のお隣の蓮花寺はあるかも知れませんが。今日は、これで帰りました。
ここには初めて来ました。地図は入念に頭に入れてきたのでナビは使いません。
11時6分に「山門」から境内に入りました。初めて来たので、ここの納経所が何処にあるか分からないので探します😊。
神光院は、放光山(ほうこうざん)と号する真言宗の寺である。寺伝によれば1217年(建保5年)に上賀茂神社の神主・賀茂能久(よしひさ)が、「霊光の照らした地に一宇を建立せよ」との神託を受け、神光院を総連したと伝えられる。寺名は、この由緒に因み、神光院と名付けられた。以後、密教の道場として栄えたが、天保年間(1830~43)に災火により堂宇を焼失した。1878年(明治11年)、和田月心により再興され、以後書院等が整備され、現在に至っている。本堂に安置する弘法大師は、大師自ら刻んだものと伝え「厄除大師」の名で知られている。寺宝としては、仏眼曼荼羅図(重文)などの貴重な文化財を蔵している。また、境内の茶室は、幕末の歌人大田垣蓮月尼(おおたがきれんげつ)が晩年に隠棲していたところとして知られている。神光院は東寺と仁和寺と並んで「西賀茂の弘法さん」と呼ばれ、京の三大弘法として有名な寺である。
門を入り、左右を見てみても納経所は見当たりません。
左手には「蓮月舊栖之茶所」と書かれた石碑がありました。その奥が庵のようです。
その手前が「手水舎」があります。
こちらが案内にあったように幕末の歌人大田垣蓮月尼が隠棲していた茶室「蓮月庵」で、奥に不動明王が祀られていました。
大田垣蓮月(1791~1875)江戸後期の女流歌人。京都の人。名は 誠 のぶ 。夫の没後、尼となり、法名蓮月を名乗る。「蓮月庵」は住居としていた西賀茂村神光院の茶所で、1875年(明治8年)12月10日、85歳で没したが、別れを惜しんだ西賀茂村の住人が総出で弔いをしたという。
左奥にあったのが「本堂」で、通常非公開です。ご本尊は、弘法大師像だそうです。弘法大師が42歳の時の自刻の木像と伝わります。
「神光院 きゅうり封じ」は有名で、この時は本堂に上がれるそうです。毎年7月21日と土用の丑に行われます。弘法大師がきゅうりに諸病を封じ、大日如来に病気平癒を祈願したことにちなんで行われています。名前と数え年を書いた半紙できゅうりを包み、厄病除けの祈祷を受け、体の悪い部分をなでた後、持ち帰って土に埋めるか神光院境内のきゅうり塚に納めれば病が消えるとされています。
本堂の左手奥には登録有形文化財(建造物)の「中興堂」がありました。私は知らなかったですが、時代劇のロケで良く使われるスポットのようです。
中興堂から本堂裏を見ています。ここまで来ても納経所がわかりません。
そして入口から見ていた「庫裏」まで来て見ました。すると呼鈴があったので押して見ると・・・?。
すると中からご住職?がでて来られ、三弘法の御朱印をいただきました。
残りは、教王護国寺(東寺)だけとなりました。東寺は7日の縁日か桜の咲く時期に行きます。
境内には、梅の花が咲いていました。まだ咲き始めてですね、ここは京都市でも北に位置するから寒いのでしょう。
11時16分に山門から出て行きました。ここは留守が多いと聞き、電話してから来ましたがご住職は、「朱印を書き物は誰かは居ますよ」とは言われてました。
ここは遠方やし、多分、「きゅうり封じ」には来られないですね。行くなら仁和寺のお隣の蓮花寺はあるかも知れませんが。今日は、これで帰りました。
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