修学院、山端地区の産土神である鷺森神社へ
曼殊院門跡を9時25分に出て、北に向いて歩きます。叡山電鉄修学院駅に向かうんですが、いっけんすると遠回りのように思いますが、こちらの方が最短なんです😊。
余談ですが、曼殊院門跡の勅使門をまっすぐ西に進むと左手(南側)には「武田薬品工業 京都薬用植物園」があります。昨夜、NHK京都「ニュース630 京いちにち」で、そこから気象予報士の栗原さんが生中継されてました。NHKのことですから、会社名は紹介されませんでしたが、薬用植物園と言えば、ここしかないので直ぐに分かりましたね。余談でした。
北に向かい手歩く、右手に「関西セミナーハウス」があるので、それが目印で、そこを左手に曲がり西に向いて下って行きます。
ここからずっと下りです。歩きは楽なんですが、後ろからずっとゴミ収集車が付いてきて・・・😊。
ここから前方の写真では左側に見えているのが、多分ですすが愛宕山です。
ここで振り返ってみると「歴史的風土特別保存地区」の石標ありました。
暫く下って行くと左手に「鷺森神社」と書かれた石標があるので入りました。ここでやっとゴミ収集車から解放されましたね😊。
鷺森神社には、2020年(令和2年)10月20日の早朝に一度来ています。今日は、御朱印をいただきに寄りました。
今日は、曼殊院門跡から来たので、北鳥居から境内に入ります。9時35分に入ったので、10分で着きました。
北鳥居を歩いて行くと左手に石碑がありました。「第112代霊元天皇 歌碑」で・・・?。「をりゐるをみし鷺の森すきかてにわけきてふはむかふ神垣」と1729年(享保14)年2月3日に行幸されたときに詠まれたもので、この文字は当社の氏子で、国語学者で国文学者、歌人でも あった吉澤義則氏によるものです。
境内の中央にはスギの大木である御神木が聳えてます。
修学院・山端築の産神として永く親しまれている鷺森神社の創建は、古く貞観年間(859~877)の平安時代初期に比叡山麓、赤山付近に創建と伝えられます。応仁の乱の兵火に遭い、今の修学院離宮の山中に場所を移しましたが、江戸時代に入り、後水尾上皇の離宮造営により、1689年(元禄2年)に現在地に遷座。本殿南の御幸橋は離宮正面入口の音羽川に架設され天皇も渡られたと伝わる名橋です。1967年(昭和42年)に下賜され、社宝として宮川に架設されています。最近は紅葉の名所としても知られています。
「手水舎」には柄杓があります。この時、9時36分、お二人ほどお参りに来られてました。
先に「本殿」でお参りです。この本殿は1775年(安永4年)の再建。御祭神は、素盞鳴尊(すさのおのみこと)、御神号は、素鬚咫天王(すだてんのう)、御利益が、家内安全・旅行安全・諸願成就とありました。
本殿にお参りを済ませたあと、本殿に向かって右側の境内社を見ていきます。先ずは左から「住吉大明神」と「八幡大神」です。
「本殿」は南向きに建てられているので、次は西側、左側の境内社です。右から「天照皇太神宮」と「熊野皇太神」でした。
境内の中央にある「拝殿」か「舞殿」かわかりませんが、その先に行ってみます。
由緒にも書いてあった「御幸橋」です。1967年(昭和42年)に下賜され、社宝として宮川に架設されています。曼殊院の案内版もありますね。
御幸橋の下には「宮川」が流れています。昼間で薄暗いです。
この「八重垣」は素戔嗚尊が櫛名田比売命(くしなだひめのみこと)を妻にする時に詠まれた「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を」という和歌に因み、この石に触れると夫婦和合、良縁が授かるご利益があるとされています。
次に、ここに来た目的である御朱印をいただきます。「社務所」に行くと、呼鈴を押しました。すると中から出て来られ、やっと貰えました😊。
「鬚咫天王(すだてんのう)」と「さぎのもり」と書いてあります。私は書き置きしか無いと思い朱印帳持参してこなかったけど、書いて貰えるみたいです。
御朱印を貰ったので、9時46分に西に向かって歩き始めました。叡山電鉄修学院駅に向かいます。
参道脇には「ヤマザクラ」がありました。京都市指定保存樹だそうです。
9時50分に鷺森神社の入口である「一の鳥居」を出ました。扁額は「鬚咫天王(すだてんのう)」と書かれています。
このまま、まっすぐ西に向かって歩いて行くと白川通りに出ます。そして信号が青に変わるまで待って西側に行くと石標があります。
ここに鷺森神社の社号標があるのを知ってました。それで帰りに寄ったわけです。
叡山電鉄修学院駅には10時過ぎに着きました。鷺森神社には寄りましたが曼殊院門跡から35分かかりました。出町柳駅行きの電車は10時6分発に乗れました。
出町柳駅から三条まで行き、地下鉄東西線に乗り換え帰路に着きました。曼殊院門跡の黄不動の公開は6月30日までですが、このうと秘仏となるので、もう一度見たいですね。ただ遠いから行くのが・・・。
余談ですが、曼殊院門跡の勅使門をまっすぐ西に進むと左手(南側)には「武田薬品工業 京都薬用植物園」があります。昨夜、NHK京都「ニュース630 京いちにち」で、そこから気象予報士の栗原さんが生中継されてました。NHKのことですから、会社名は紹介されませんでしたが、薬用植物園と言えば、ここしかないので直ぐに分かりましたね。余談でした。
北に向かい手歩く、右手に「関西セミナーハウス」があるので、それが目印で、そこを左手に曲がり西に向いて下って行きます。
ここからずっと下りです。歩きは楽なんですが、後ろからずっとゴミ収集車が付いてきて・・・😊。
ここから前方の写真では左側に見えているのが、多分ですすが愛宕山です。
ここで振り返ってみると「歴史的風土特別保存地区」の石標ありました。
暫く下って行くと左手に「鷺森神社」と書かれた石標があるので入りました。ここでやっとゴミ収集車から解放されましたね😊。
鷺森神社には、2020年(令和2年)10月20日の早朝に一度来ています。今日は、御朱印をいただきに寄りました。
今日は、曼殊院門跡から来たので、北鳥居から境内に入ります。9時35分に入ったので、10分で着きました。
北鳥居を歩いて行くと左手に石碑がありました。「第112代霊元天皇 歌碑」で・・・?。「をりゐるをみし鷺の森すきかてにわけきてふはむかふ神垣」と1729年(享保14)年2月3日に行幸されたときに詠まれたもので、この文字は当社の氏子で、国語学者で国文学者、歌人でも あった吉澤義則氏によるものです。
境内の中央にはスギの大木である御神木が聳えてます。
修学院・山端築の産神として永く親しまれている鷺森神社の創建は、古く貞観年間(859~877)の平安時代初期に比叡山麓、赤山付近に創建と伝えられます。応仁の乱の兵火に遭い、今の修学院離宮の山中に場所を移しましたが、江戸時代に入り、後水尾上皇の離宮造営により、1689年(元禄2年)に現在地に遷座。本殿南の御幸橋は離宮正面入口の音羽川に架設され天皇も渡られたと伝わる名橋です。1967年(昭和42年)に下賜され、社宝として宮川に架設されています。最近は紅葉の名所としても知られています。
「手水舎」には柄杓があります。この時、9時36分、お二人ほどお参りに来られてました。
先に「本殿」でお参りです。この本殿は1775年(安永4年)の再建。御祭神は、素盞鳴尊(すさのおのみこと)、御神号は、素鬚咫天王(すだてんのう)、御利益が、家内安全・旅行安全・諸願成就とありました。
本殿にお参りを済ませたあと、本殿に向かって右側の境内社を見ていきます。先ずは左から「住吉大明神」と「八幡大神」です。
「本殿」は南向きに建てられているので、次は西側、左側の境内社です。右から「天照皇太神宮」と「熊野皇太神」でした。
境内の中央にある「拝殿」か「舞殿」かわかりませんが、その先に行ってみます。
由緒にも書いてあった「御幸橋」です。1967年(昭和42年)に下賜され、社宝として宮川に架設されています。曼殊院の案内版もありますね。
御幸橋の下には「宮川」が流れています。昼間で薄暗いです。
この「八重垣」は素戔嗚尊が櫛名田比売命(くしなだひめのみこと)を妻にする時に詠まれた「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を」という和歌に因み、この石に触れると夫婦和合、良縁が授かるご利益があるとされています。
次に、ここに来た目的である御朱印をいただきます。「社務所」に行くと、呼鈴を押しました。すると中から出て来られ、やっと貰えました😊。
「鬚咫天王(すだてんのう)」と「さぎのもり」と書いてあります。私は書き置きしか無いと思い朱印帳持参してこなかったけど、書いて貰えるみたいです。
御朱印を貰ったので、9時46分に西に向かって歩き始めました。叡山電鉄修学院駅に向かいます。
参道脇には「ヤマザクラ」がありました。京都市指定保存樹だそうです。
9時50分に鷺森神社の入口である「一の鳥居」を出ました。扁額は「鬚咫天王(すだてんのう)」と書かれています。
このまま、まっすぐ西に向かって歩いて行くと白川通りに出ます。そして信号が青に変わるまで待って西側に行くと石標があります。
ここに鷺森神社の社号標があるのを知ってました。それで帰りに寄ったわけです。
叡山電鉄修学院駅には10時過ぎに着きました。鷺森神社には寄りましたが曼殊院門跡から35分かかりました。出町柳駅行きの電車は10時6分発に乗れました。
出町柳駅から三条まで行き、地下鉄東西線に乗り換え帰路に着きました。曼殊院門跡の黄不動の公開は6月30日までですが、このうと秘仏となるので、もう一度見たいですね。ただ遠いから行くのが・・・。
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