第48回「京の夏の旅」~新選組結成160年&世界遺産~新徳寺へ
今年の「第48回 京の夏の旅」は、~新選組結成160年&世界遺産~と題して、9ヶ所で7月8日(土)から9月30日(土)の日程で、特別公開が始まりました。私は、9ヶ所のうち、未訪が2ヶ所ありましたが、何度も言ってますが、今年の夏の異常な暑さのため、終了間際まで行かずじまいでした。
9月20日(水)の雨降りを堺に、徐々にですが、大陸の乾いた空気に覆われてきて、9月22日(金)からは熱帯夜からようやく解放されるほど、朝の気温は涼しくなりました。この涼しさを待って、9月25日(月)に、私の生まれ故郷である壬生を散策すべく特別公開されている寺院に行ったわけです。
私は、新撰組の駐屯地で知られている壬生寺の近辺で生まれ育ちました。子供の頃の遊び場は壬生寺と言ってもいいほどです。その懐かしい地にある新徳寺が、この日の目的地で、場所は知ってましたが、未訪でした。
我が家から、壬生寺道バス停に一本で行けるバスが無いので、実家近くのバス停からバスに乗りました。ほぼ時刻通りに着いたので、新徳寺「山門」前に9時53分に着きました。
門は開門されていたので入れました。中からガイドさんが出て来られ、時間前でしたが雑談で、ここの本堂の屋根について教えて貰いました。(それは後程😊)
この前の道路が坊城通りです。北向き一方通行です。子供頃から良く歩いた道路で、新撰組ゆかりの寺があるとは知らなかったです。
外で待たせて貰うつもりが日差しが強いので、案内は10時からと断られて、堂内に入って休ませて貰うことになりました。
拝観料は800円で、以前の600円から値上がってます😊。御朱印をお願いすると、まもなく「閑栖和尚(かんせいおしょう)」 が帰って来られるのでと。ここで時間を取られるのは勿体なぁ・・・でも、ご不在なら仕方ないし、それより、まだ誰も居ない堂内の写真を撮って置きます。写真撮影は、ご本尊を写すのはNGですが、それ以外はOKと聞いてました。臨済宗では、先代のご住職を 呼ぶのに、「閑栖和尚(かんせいおしょう)」と呼びます。
前住職さん不在です。御朱印は帰りにいただきました。ただ、閑栖和尚さんが在宅なら朱印帳に書いて貰えたようですね。X(旧Twitter)では書き置きのみと書いてあったのに・・・残念😂。
受付を済ませると、「本堂」内で、座って休んでいるところ、私は先に写真を撮りまくりました。
私が写真を撮っている間に、次から次へと入って来られました。10時過ぎにガイドさんから案内が始まりましたが、10名ぐらいは聞いてました。ガイドさんは約18分弱話されました。上手でしたね。ほぼ原稿も見ずに・・・。
鳳翔山(ほうしょうざん)新徳寺は、臨済宗永源寺派の寺院。1739年(元文4年)に滋賀県永源寺113世・天巌文聰(てんがいぶんそう)和尚を開山に、万年寺など四つの寺を併合し新徳寺として建立された。本堂は、天巌文聰和尚と親交のあった摂政の一条家旧御殿を京都御所より移築したもの。しかし、1788年(天明8年)「天明の大火」により焼失。その後、新撰組浪士がやってくる15年前、今から175年前に再建されたものです。内陣中央にはご本尊の准胝観音菩薩像を安置。右側には地蔵菩薩像を安置されていますが、こちらは大風で壊れた屋根を直してくれた若い法師が地蔵菩薩の化身であったという言い伝えにより「屋根葺地蔵尊」と呼ばれていくす。1863年(文久3年)に清川八郎が浪士隊を率いて本部にしたのが当寺です。
こちらのチケットには「屋根葺地蔵尊」の写真が載ってました。内陣の奥に安置されているので、見づらかったです。
内陣中央に祀られている「准胝観音菩薩像」です。実際には遠くて見づらいので、手前にパネルがありました。
次に、この本堂内に展示してあるパネルについて案内が続きました。私も、案内が始まる前に一通りは見ましたが、一人だけ聞いたことがない名前がありました。それは清河八郎です。
話しは幕末にうつり、上洛した「浪士組」のリーダーであったのが清河八郎(きよかわはちろう)でした。清河八郎は庄内藩(山形県)の裕福な造り酒屋で産まれ、本名は齋藤正明といい、清河村の出身ということで、江戸に出てから清河八郎と名乗ったようです。そして「虎尾の会(こびのかい)」を結成。それは尊皇攘夷の過激な会でした。尊皇攘夷とは、「天皇を尊び、外国勢力を追いはらう」とのこと。その会には幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)ら15名が参加。八郎が京都にやってくる2年前の1861年(文久元年)、幕府の手先を無礼斬りしてしまい、追われる身となります。逃亡生活を余儀なくされた八郎は、元虎尾の会の山岡鉄舟を通じて松平春嶽(越前国福井藩16代藩主・政事総裁職)に「急務三策」という建白書を提出します。幕府は、暴走し始めている浪士たちに手を焼いていたので、八郎の建白書に飛びつき、八郎には大赦が出され、自由の身となりました。1863年(文久3年)2月8日に、江戸小石川の伝通院に234名の浪士たちが集り、16日にかけて中山道を通り2月23日に京都の壬生村にやって来ました。当初の目的は江戸幕府14代将軍家茂の上洛に際しての警護でした。そして、この新徳寺がその本部となり、八郎は演説(現在の須弥壇あたりで)します。「将軍警護でなく我々は尊皇攘夷を目指す」と。その熱弁により、殆どの浪士たちは困惑しますが、八郎は血判状に隊士の血判を集め、翌日、京都御所の学習院へ提出し、これが受理され、浪士組み宛てに勅諚(天皇のお言葉)を賜ります。身分の低い浪士が天皇から勅諚をもらうなど前代未聞の出来事でした。しかし、浪士組の八木家を宿所としていた芹澤鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、新見錦、原田佐之助、藤堂平助、野口健司、井上源三郎、平山五郎、平間重助、永倉新八の13名は浪士隊から分かれて京に残り、浪士組を離れ京に残ることになります。そして幕府権力の維持を目指して立ち上げたのが「壬生浪士組」のちの「新撰組」でした。八郎はわずか20日ほど京に居ただけで約200名ほどの浪士を連れて江戸に帰ってしまいます。3月28日に江戸に到着した2週間後に、幕府の刺客・佐々木只三郎ら数名に暗殺されてしまいます。享年33歳でした。清河八郎が浪士組を結成してなかったら後の新撰組も生まれてこなかったので、大変大きな存在だったでしょう、その清河八郎が過ごしたのが、ここ新徳寺でした。
私は見てなかったですが、2004年(平成16年)に放送されたNHK大河ドラマ「新選組!」では、清河八郎を白井亮さんが、佐々木只三郎には伊原剛志さんが演じられてました。歴史好きの私も幕末は、そんなに興味が無くて・・・その時は見なかったでしょう。清河八郎の名も知らなかったのは勉強不足でした😂。
向かって左が清河八郎です。暗殺者の佐々木只三郎は、坂本龍馬の暗殺にも関わっているかもとガイドさんが言われてましたが、永遠に謎でしょう。
ガイドさんの話しでは、「閑栖和尚(かんせいおしょう)」 が書かれたものだそうです。絵も上手なんですね。
最後に庭について、ガイドさんの話しでは1984年(昭和59年)に作庭されたようです。
ここを出る前に、書き置きの御朱印を貰いました。達磨絵については、何種類もありました。それぞれ書いてある文言が違うようでしたね。
ガイドさんの話しでは、ここの本堂の屋根も見所で、屋根が「照り起くり(てりむくり)」となっています。それは屋根の流れが直線ではなく、やや凸状にむくませてある屋根のことです。
屋根上には二匹のお猿さんが居ます。この本堂が再建されたのが1848年(嘉永元年)で、戊申(つちのえさる)の年でした。災いを去るとの縁で、今も屋根に鎮座し、本堂を守っているわけです。ただ、こちらの猿はパチンコに当たられて怪我をされています😊。
こちらの猿は、桃を持っています。桃は、中国伝来の最強パワーで魔除けになります。こちらも注目して下さいと言われたので帰りに撮りました。ただ、逆光で眩し過ぎ😊。
新徳寺は、四つのお寺を併合してできました。そのなかの万年寺に「屋根葺地蔵尊」は祀られており、その名残を示す石碑が本堂の前に建っていました。
10時26分に、新徳寺を出ました。ガイドさんの話しを聞いて、清河八郎の名前も知ることができ、ここに来たのは有意義でした。
今日は、壬生寺には行きません。新しくなった壬生塚も見たかったけど、子供の頃、自由に出入りできたのに、今は拝観料が必要となりました。何だか、今も少しばかり納得しがたいものがありますね😊。それで、次は初公開された旧前川邸の拝観に行きます。
9月25日(月)は、最高気温は30.4℃と真夏日になりましちたが、最小湿度39%と秋の空気に入れ替わりました。それで蒸し暑さはなかったです。ちなみに最低気温は22.3℃と、こちらも熱帯夜から解放され、涼しい朝となりました。ようやく秋が来そうな雰囲気となりました。
9月20日(水)の雨降りを堺に、徐々にですが、大陸の乾いた空気に覆われてきて、9月22日(金)からは熱帯夜からようやく解放されるほど、朝の気温は涼しくなりました。この涼しさを待って、9月25日(月)に、私の生まれ故郷である壬生を散策すべく特別公開されている寺院に行ったわけです。
私は、新撰組の駐屯地で知られている壬生寺の近辺で生まれ育ちました。子供の頃の遊び場は壬生寺と言ってもいいほどです。その懐かしい地にある新徳寺が、この日の目的地で、場所は知ってましたが、未訪でした。
我が家から、壬生寺道バス停に一本で行けるバスが無いので、実家近くのバス停からバスに乗りました。ほぼ時刻通りに着いたので、新徳寺「山門」前に9時53分に着きました。
門は開門されていたので入れました。中からガイドさんが出て来られ、時間前でしたが雑談で、ここの本堂の屋根について教えて貰いました。(それは後程😊)
この前の道路が坊城通りです。北向き一方通行です。子供頃から良く歩いた道路で、新撰組ゆかりの寺があるとは知らなかったです。
外で待たせて貰うつもりが日差しが強いので、案内は10時からと断られて、堂内に入って休ませて貰うことになりました。
拝観料は800円で、以前の600円から値上がってます😊。御朱印をお願いすると、まもなく「閑栖和尚(かんせいおしょう)」 が帰って来られるのでと。ここで時間を取られるのは勿体なぁ・・・でも、ご不在なら仕方ないし、それより、まだ誰も居ない堂内の写真を撮って置きます。写真撮影は、ご本尊を写すのはNGですが、それ以外はOKと聞いてました。臨済宗では、先代のご住職を 呼ぶのに、「閑栖和尚(かんせいおしょう)」と呼びます。
前住職さん不在です。御朱印は帰りにいただきました。ただ、閑栖和尚さんが在宅なら朱印帳に書いて貰えたようですね。X(旧Twitter)では書き置きのみと書いてあったのに・・・残念😂。
受付を済ませると、「本堂」内で、座って休んでいるところ、私は先に写真を撮りまくりました。
私が写真を撮っている間に、次から次へと入って来られました。10時過ぎにガイドさんから案内が始まりましたが、10名ぐらいは聞いてました。ガイドさんは約18分弱話されました。上手でしたね。ほぼ原稿も見ずに・・・。
鳳翔山(ほうしょうざん)新徳寺は、臨済宗永源寺派の寺院。1739年(元文4年)に滋賀県永源寺113世・天巌文聰(てんがいぶんそう)和尚を開山に、万年寺など四つの寺を併合し新徳寺として建立された。本堂は、天巌文聰和尚と親交のあった摂政の一条家旧御殿を京都御所より移築したもの。しかし、1788年(天明8年)「天明の大火」により焼失。その後、新撰組浪士がやってくる15年前、今から175年前に再建されたものです。内陣中央にはご本尊の准胝観音菩薩像を安置。右側には地蔵菩薩像を安置されていますが、こちらは大風で壊れた屋根を直してくれた若い法師が地蔵菩薩の化身であったという言い伝えにより「屋根葺地蔵尊」と呼ばれていくす。1863年(文久3年)に清川八郎が浪士隊を率いて本部にしたのが当寺です。
こちらのチケットには「屋根葺地蔵尊」の写真が載ってました。内陣の奥に安置されているので、見づらかったです。
内陣中央に祀られている「准胝観音菩薩像」です。実際には遠くて見づらいので、手前にパネルがありました。
次に、この本堂内に展示してあるパネルについて案内が続きました。私も、案内が始まる前に一通りは見ましたが、一人だけ聞いたことがない名前がありました。それは清河八郎です。
話しは幕末にうつり、上洛した「浪士組」のリーダーであったのが清河八郎(きよかわはちろう)でした。清河八郎は庄内藩(山形県)の裕福な造り酒屋で産まれ、本名は齋藤正明といい、清河村の出身ということで、江戸に出てから清河八郎と名乗ったようです。そして「虎尾の会(こびのかい)」を結成。それは尊皇攘夷の過激な会でした。尊皇攘夷とは、「天皇を尊び、外国勢力を追いはらう」とのこと。その会には幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)ら15名が参加。八郎が京都にやってくる2年前の1861年(文久元年)、幕府の手先を無礼斬りしてしまい、追われる身となります。逃亡生活を余儀なくされた八郎は、元虎尾の会の山岡鉄舟を通じて松平春嶽(越前国福井藩16代藩主・政事総裁職)に「急務三策」という建白書を提出します。幕府は、暴走し始めている浪士たちに手を焼いていたので、八郎の建白書に飛びつき、八郎には大赦が出され、自由の身となりました。1863年(文久3年)2月8日に、江戸小石川の伝通院に234名の浪士たちが集り、16日にかけて中山道を通り2月23日に京都の壬生村にやって来ました。当初の目的は江戸幕府14代将軍家茂の上洛に際しての警護でした。そして、この新徳寺がその本部となり、八郎は演説(現在の須弥壇あたりで)します。「将軍警護でなく我々は尊皇攘夷を目指す」と。その熱弁により、殆どの浪士たちは困惑しますが、八郎は血判状に隊士の血判を集め、翌日、京都御所の学習院へ提出し、これが受理され、浪士組み宛てに勅諚(天皇のお言葉)を賜ります。身分の低い浪士が天皇から勅諚をもらうなど前代未聞の出来事でした。しかし、浪士組の八木家を宿所としていた芹澤鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、新見錦、原田佐之助、藤堂平助、野口健司、井上源三郎、平山五郎、平間重助、永倉新八の13名は浪士隊から分かれて京に残り、浪士組を離れ京に残ることになります。そして幕府権力の維持を目指して立ち上げたのが「壬生浪士組」のちの「新撰組」でした。八郎はわずか20日ほど京に居ただけで約200名ほどの浪士を連れて江戸に帰ってしまいます。3月28日に江戸に到着した2週間後に、幕府の刺客・佐々木只三郎ら数名に暗殺されてしまいます。享年33歳でした。清河八郎が浪士組を結成してなかったら後の新撰組も生まれてこなかったので、大変大きな存在だったでしょう、その清河八郎が過ごしたのが、ここ新徳寺でした。
私は見てなかったですが、2004年(平成16年)に放送されたNHK大河ドラマ「新選組!」では、清河八郎を白井亮さんが、佐々木只三郎には伊原剛志さんが演じられてました。歴史好きの私も幕末は、そんなに興味が無くて・・・その時は見なかったでしょう。清河八郎の名も知らなかったのは勉強不足でした😂。
向かって左が清河八郎です。暗殺者の佐々木只三郎は、坂本龍馬の暗殺にも関わっているかもとガイドさんが言われてましたが、永遠に謎でしょう。
ガイドさんの話しでは、「閑栖和尚(かんせいおしょう)」 が書かれたものだそうです。絵も上手なんですね。
最後に庭について、ガイドさんの話しでは1984年(昭和59年)に作庭されたようです。
ここを出る前に、書き置きの御朱印を貰いました。達磨絵については、何種類もありました。それぞれ書いてある文言が違うようでしたね。
ガイドさんの話しでは、ここの本堂の屋根も見所で、屋根が「照り起くり(てりむくり)」となっています。それは屋根の流れが直線ではなく、やや凸状にむくませてある屋根のことです。
屋根上には二匹のお猿さんが居ます。この本堂が再建されたのが1848年(嘉永元年)で、戊申(つちのえさる)の年でした。災いを去るとの縁で、今も屋根に鎮座し、本堂を守っているわけです。ただ、こちらの猿はパチンコに当たられて怪我をされています😊。
こちらの猿は、桃を持っています。桃は、中国伝来の最強パワーで魔除けになります。こちらも注目して下さいと言われたので帰りに撮りました。ただ、逆光で眩し過ぎ😊。
新徳寺は、四つのお寺を併合してできました。そのなかの万年寺に「屋根葺地蔵尊」は祀られており、その名残を示す石碑が本堂の前に建っていました。
10時26分に、新徳寺を出ました。ガイドさんの話しを聞いて、清河八郎の名前も知ることができ、ここに来たのは有意義でした。
今日は、壬生寺には行きません。新しくなった壬生塚も見たかったけど、子供の頃、自由に出入りできたのに、今は拝観料が必要となりました。何だか、今も少しばかり納得しがたいものがありますね😊。それで、次は初公開された旧前川邸の拝観に行きます。
9月25日(月)は、最高気温は30.4℃と真夏日になりましちたが、最小湿度39%と秋の空気に入れ替わりました。それで蒸し暑さはなかったです。ちなみに最低気温は22.3℃と、こちらも熱帯夜から解放され、涼しい朝となりました。ようやく秋が来そうな雰囲気となりました。
この記事へのコメント
清河八郎は、まずこの寺に拠点を置いたのですか。
確かに、清河八郎が「浪士組」を建白しなかったら、新選組は生まれなかったでしょう。その建白がなされたのが松平春嶽でしたか。
そこは覚えていなかったです。(私のブログでも春嶽に触れています。)
ただ、清河は単に荒くれ者でやはりリーダーに資質に欠けていたのでしょう。そんなイメージがありました。それは、芹沢鴨も同じ。
近藤勇と土方歳三の成り上がって組織が固まったのですね。
肝が据わっていたと思います。
本当に京都には様々な歴史の面影が密集していて、当然ですが凄いですね。
私は、新徳寺に行くまで清河八郎の名前は知りませんでした。2004年(平成16年)に放送されたNHK大河ドラマ「新選組!」も見てなかったからです。
壬生寺も、子供の頃には数知れず、この前を通ってましたが、こんなに歴史ある寺だとは、当時は思わなかったですね。
この日、新徳寺でガイドさんの話しを聞き幕末のこと、深く知ることになりました。