京都十二薬師霊場特別公開「医徳山 薬師院(こぬか薬師)」へ
丸太町七本松のバス停からバスに乗り、文化庁前・府庁前バス停で降りました。そこから丸太町通りを横断し、釜座通り(かまんざどおり)を南下します。竹屋町通り、夷川通りを通過し、ほどなくすると右手(西側)に、この日の目的地である医徳山 薬師院(こぬか薬師)が見えてきました。
ここは、明日と明後日が拝観休止のため、どうしても今日、行く必要がありました。この辺りは、何度か来てましたが、ここは初訪問です。
10時2分ら着きました。看板が出ていたので、安心して入れます。看板の写真にあるのはご本尊ではありません。
医徳山 薬師院(こぬか薬師)のご本尊は、薬師如来で、伝教大師最澄が16歳の時、比叡山草創の大願より一刀三礼彫刻された七体の一つ。比叡山女人禁制を嘆きその後、岐阜県美濃国横倉に医徳堂を建立し、そこに安置された。1230年(寛喜2年)疫病が良好したこの時、薬師如来が院主の夢に現れ「一切病苦の衆生わが前に来られれば一切の病苦を取り除こう。来ぬか、来ぬか」住職が人々に知らしめた所、疫病諸病がたちまち平癒し長寿を全うできた仏のお言葉を仰ぎ「こぬか薬師」と称した。16世紀に上洛した織田信長が斎藤道三より伝来してきた薬師如来を京のこの地に移した。1688年(元禄元年)黄檗宗の鉄面寂錬禅師が再興し天台宗から黄檗宗に改められ、現在の数倍ある大きな境内を有し、禅風を響かせたが幕末「禁門の変(蛤御門の変)」で焼失し、1888年(明治21年)黄檗山萬福寺塔頭緑樹院竺丈禅師が北三井家・近衛家の外護により縮小再建に着手。井戸から大国様が現れ大黒町となった裏門を正面とした。以前の表門は薬師町として名を留め、盛時境内域は二条通り一帯薬師夜店が並び、薬問屋漢方薬店が多いのはその名残である。
初めて来ましたが、事前に調べて知ってました。こじんまりした「本堂」ですね。
本堂に近づくと、どうも扉が閉まっているようで、「日にち間違えたのかなぁ」と少々不安に・・・。
表に張り紙があって、「本堂拝観の場合はベルを押してください」と。それで呼鈴を押すと、ご住職さんが出て来られて、開けて貰いました。
開けて貰い、靴を脱いで上がると、14代目のご住職さんが案内していただけます。年に一回しか公開されないご本尊も間近で拝見できました。
伝教大師最澄が16歳の時に、一刀三礼(一度掘る度、三度礼拝す)にて彫刻された薬師仏は小さいです。顔を近づけて見せて貰いました。7㌢ぐらいでしょうか、お厨子も20㌢ぐらいでしたね。この中に中尊の薬師如来、両脇に日光、月光菩薩、その周りに十二神将が安置されてました。持参してませんでしたが、老眼鏡を持ってこれば良かったです😉。
また、ご本尊右隣の厨子の中には、薬師如来立像が安置されてました。その仏像が、ここに安置された経緯を、ご住職から聞きました。そのお話は興味深いものがありました。内容については、ここでは書かないことにします😊。
そう度々来られ無いので、御朱印は2種いただきました。こちらのご本尊前でお供えされて、ご住職さんがお経をあげて貰い受け取りました。
10時16分に、こちらを出て行きました。なお、由緒書は作られてないので、道路沿いにある「京都市の駒札を見て下さい」と案内されたので、最後に見て行きます。
お堂を出て、こちらを撮りました。通常拝観されてないので、由緒書を作られてないのは納得ですね。
ここから、もう一箇所行くことも出来ましたが、後日にします。最寄りのバス停から帰ることも出来ましたが、地下鉄烏丸線丸太町駅まで歩き、烏丸線と東西線を乗り継いで帰りました。
ここは、明日と明後日が拝観休止のため、どうしても今日、行く必要がありました。この辺りは、何度か来てましたが、ここは初訪問です。
10時2分ら着きました。看板が出ていたので、安心して入れます。看板の写真にあるのはご本尊ではありません。
医徳山 薬師院(こぬか薬師)のご本尊は、薬師如来で、伝教大師最澄が16歳の時、比叡山草創の大願より一刀三礼彫刻された七体の一つ。比叡山女人禁制を嘆きその後、岐阜県美濃国横倉に医徳堂を建立し、そこに安置された。1230年(寛喜2年)疫病が良好したこの時、薬師如来が院主の夢に現れ「一切病苦の衆生わが前に来られれば一切の病苦を取り除こう。来ぬか、来ぬか」住職が人々に知らしめた所、疫病諸病がたちまち平癒し長寿を全うできた仏のお言葉を仰ぎ「こぬか薬師」と称した。16世紀に上洛した織田信長が斎藤道三より伝来してきた薬師如来を京のこの地に移した。1688年(元禄元年)黄檗宗の鉄面寂錬禅師が再興し天台宗から黄檗宗に改められ、現在の数倍ある大きな境内を有し、禅風を響かせたが幕末「禁門の変(蛤御門の変)」で焼失し、1888年(明治21年)黄檗山萬福寺塔頭緑樹院竺丈禅師が北三井家・近衛家の外護により縮小再建に着手。井戸から大国様が現れ大黒町となった裏門を正面とした。以前の表門は薬師町として名を留め、盛時境内域は二条通り一帯薬師夜店が並び、薬問屋漢方薬店が多いのはその名残である。
初めて来ましたが、事前に調べて知ってました。こじんまりした「本堂」ですね。
本堂に近づくと、どうも扉が閉まっているようで、「日にち間違えたのかなぁ」と少々不安に・・・。
表に張り紙があって、「本堂拝観の場合はベルを押してください」と。それで呼鈴を押すと、ご住職さんが出て来られて、開けて貰いました。
開けて貰い、靴を脱いで上がると、14代目のご住職さんが案内していただけます。年に一回しか公開されないご本尊も間近で拝見できました。
伝教大師最澄が16歳の時に、一刀三礼(一度掘る度、三度礼拝す)にて彫刻された薬師仏は小さいです。顔を近づけて見せて貰いました。7㌢ぐらいでしょうか、お厨子も20㌢ぐらいでしたね。この中に中尊の薬師如来、両脇に日光、月光菩薩、その周りに十二神将が安置されてました。持参してませんでしたが、老眼鏡を持ってこれば良かったです😉。
また、ご本尊右隣の厨子の中には、薬師如来立像が安置されてました。その仏像が、ここに安置された経緯を、ご住職から聞きました。そのお話は興味深いものがありました。内容については、ここでは書かないことにします😊。
そう度々来られ無いので、御朱印は2種いただきました。こちらのご本尊前でお供えされて、ご住職さんがお経をあげて貰い受け取りました。
10時16分に、こちらを出て行きました。なお、由緒書は作られてないので、道路沿いにある「京都市の駒札を見て下さい」と案内されたので、最後に見て行きます。
お堂を出て、こちらを撮りました。通常拝観されてないので、由緒書を作られてないのは納得ですね。
ここから、もう一箇所行くことも出来ましたが、後日にします。最寄りのバス停から帰ることも出来ましたが、地下鉄烏丸線丸太町駅まで歩き、烏丸線と東西線を乗り継いで帰りました。
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