京都十二薬師霊場特別公開「大超寺」へ
10月17日(火)は、昨日に引き続き京都十二薬師霊場特別公開を巡ります。場所は、京都市左京区の岩倉にある大超寺で、京都十二薬師霊場では、最も郊外にある寺院でしょう。私も、当初は行く予定がありませんでしたが、アクセスを調べると、そんなに不便な所では無さそうで、それならと京都バスの時刻表を調べ、行くことにしたわけです。
参考までに、太秦天神川駅を8時58分に発車し、烏丸御池に9時6分に着きます。そして烏丸線に乗り換えですが、国際会館行きに乗り換える場合は後ろ側の車両に乗ると、烏丸線9時8分発のに乗れます。特に走らなくても大丈夫。但し、東西線から烏丸線に至る階段を上がるとことですね。そして国際会館に9時22分に着きました。
当初の予定では、国際会館前9時42分発の24号系統に乗るつもりが、9時32分発の26号系統に乗れました。目的地の花園町まで4分で着きます。それで9時36分に着きました。
余談ですが、国際会館前からバスに乗るのは初めてよでした。改札口から京都バスの乗り場まで随分歩きましたが、もっと最短で行けそうな気がします。私は3番出入口を利用しましたが、4番出入口の方が近いです。それと、大原行きや鞍馬行きのバスは、大行列が出来てました。驚きの光景でしたね。土曜や日曜、祝日ではどうなんでしょうか?。
花園町バス停に着くと、帰りの時刻の写真を撮っておきました。帰りも国際会館駅行きのバスに乗るつもりです。ここから目的地まで10分もかからないでしょう。
京都バス「花園町バス停」を降りると、真っ直ぐに延びている東の側道を歩いて行きます。北側には刈り取りが済んで田んぼを横目に、歩いて行くと、突き当たりに三縁寺が見えて来ました。ここには行った覚えがあるなぁ・・・と、帰ってから調べると、2018年(平成30年)10月16日の「京都浄土宗寺院 特別大公開」で来てました。この時は、車で来たように思います。
その三縁寺を見ながら左手に、その境内に沿って歩いて行きます。そして、前方に見えている北向きの道路を左折すると・・・。
「花園東児童公園」が見えて来ます。この児童公園が目印でした。この児童公園に沿って、東向きに歩いて行くと、突き当たりが目的地となります。
9時46分に大超寺の石段下に着きました。10時からと書いてありましたが、門は開いてるようです。
バスを降りてから、写真では分からないかと思いますが、ずっと登ってました。ただ緩やかでしたが、最後にこの石段が待ってましたね。
戦国時代に活躍し、第107代後陽成天皇の母君である新上東門院(しんじょうとうもんいん)の帰依を受けた浄福寺第四世 勝誉泰童上人が、1592年(天正19年)に天皇勅願により浄福寺の西に隣接する千本一条東の地に伽藍を建立したが始まり。以後400年に渡って西陣の中心として大きな伽藍を構えて栄えました。この地には「泰童片原町」という地名が残る。(昭和59年)に繁華街の喧噪を離れ現在地に移転。比叡の山並みを背景に岩倉の町を見下ろす高台の地に、緑に囲まれた伽藍を営んでいる。ご本尊の阿弥陀如来三尊像は恵心僧都が夢のお告げにより伊勢神宮に参詣したところ、夢中に阿弥陀如来三尊像が出現し、感動した像都が自らその姿を写し彫刻した像と伝わります。京都十二薬師霊場の「鍬形薬師」(くわがたやくし)は、田んぼに埋まっていたのを発見し掘り出され、その時に桑が当たりその傷跡が今も如来像の背中部分に残っていることから、「鍬形薬師」と呼ばれるようになったと伝わります。その薬師を開山勝誉泰童上人が念持仏として祀っていたところ、上人の母が病に罹り重態となられた時に、上人は如来を念じて病気平癒を祈念すると忽然と病は癒えたそうで、そのために千本一条東に大きな薬師堂を建て本尊として祀られました。
門を入ったのが9時47分のため、まだ10時前。「本堂」を見ると閉まってます。
本堂に近づいて見ましたが、やっぱり閉まってます。
9時50分に「寺務所」の呼び出しボタンを押しました。中から人の声が聞こえたので、10分も早いけど押して見ると・・・?。
そもそも寺務所の扉は開いてました。なかから人が出て来られ、御朱印をお願いすると快く朱印帳を受け取って貰いました。そして、「本堂を開けるのでお参りしてください」と。それで再び本堂を見ると、開けて頂いたようでお参りに行きました。
本堂内陣の奥にはご本尊の阿弥陀如来像(鎌倉時代)と勢至菩薩と観音菩薩像の両脇侍像が祀られています。繊細な作風とびっしり施された戴金文様が特徴でした。このご本尊の前には伊勢神宮より寄進された「神鏡」もありました。向かって右手には江戸時代後期に善光寺より下賜された善光寺如来像、地蔵菩薩像、法然上人像と善導大師像なども祀られてました。
そして左手には、十二薬師霊場の鍬形薬師如来像、木造阿弥陀如来像(鎌倉時代)も祀られていました。
私が出て行くと、ここを閉められました。さすがに岩倉は遠いです。ここまでよく来られました😊。
1981年(昭和56年)11月着工し、1984年(昭和59年)5月に完成したようです。千本一条から移転されて来たんですね。
次に寺務所に戻って御朱印を受取ました。由緒書は本堂内にカラー版で置いてあることを最初に教えて貰ってました😊。
10時4分に、ここを出て行きました。大超寺の方も言われてましたが、十二薬師霊場で、ここが一番遠い・・・と。
看板の上に見えているのが「太神宮本地仏石灯籠」です。こちらも伊勢神宮よりの寄進だそうです。
私は、方向音痴じゃないので、帰りも来た道を戻りバス停まで行きました。着くと直ぐに四条河原町行きのバスが来ましたが、それには乗りません。
次の10時15分発の国際会館行きのバスが来たので、それに乗りました。座れましたが、多くの方が乗られてました。ただ上高野バス停で、殆どの方が降りられました。買い物かなぁ。そして国際会館バス停に着くと、再び驚きの光景が・・・?。私の想像ですが、京都産業大学行きのパス待ちの学生さんでしょうね。国際会館から地下鉄に乗って、四条まで乗り、そこから市バスで帰りました。岩倉と聞いて諦めてましたが、バスの時刻を調べると、そんなに辺鄙な所では無かったです😊。参考までに、この日の最高気温は25.2℃と夏日でした。最低気温は15.2℃、最小湿度39%で爽やかな気候でした。
参考までに、太秦天神川駅を8時58分に発車し、烏丸御池に9時6分に着きます。そして烏丸線に乗り換えですが、国際会館行きに乗り換える場合は後ろ側の車両に乗ると、烏丸線9時8分発のに乗れます。特に走らなくても大丈夫。但し、東西線から烏丸線に至る階段を上がるとことですね。そして国際会館に9時22分に着きました。
当初の予定では、国際会館前9時42分発の24号系統に乗るつもりが、9時32分発の26号系統に乗れました。目的地の花園町まで4分で着きます。それで9時36分に着きました。
余談ですが、国際会館前からバスに乗るのは初めてよでした。改札口から京都バスの乗り場まで随分歩きましたが、もっと最短で行けそうな気がします。私は3番出入口を利用しましたが、4番出入口の方が近いです。それと、大原行きや鞍馬行きのバスは、大行列が出来てました。驚きの光景でしたね。土曜や日曜、祝日ではどうなんでしょうか?。
花園町バス停に着くと、帰りの時刻の写真を撮っておきました。帰りも国際会館駅行きのバスに乗るつもりです。ここから目的地まで10分もかからないでしょう。
京都バス「花園町バス停」を降りると、真っ直ぐに延びている東の側道を歩いて行きます。北側には刈り取りが済んで田んぼを横目に、歩いて行くと、突き当たりに三縁寺が見えて来ました。ここには行った覚えがあるなぁ・・・と、帰ってから調べると、2018年(平成30年)10月16日の「京都浄土宗寺院 特別大公開」で来てました。この時は、車で来たように思います。
その三縁寺を見ながら左手に、その境内に沿って歩いて行きます。そして、前方に見えている北向きの道路を左折すると・・・。
「花園東児童公園」が見えて来ます。この児童公園が目印でした。この児童公園に沿って、東向きに歩いて行くと、突き当たりが目的地となります。
9時46分に大超寺の石段下に着きました。10時からと書いてありましたが、門は開いてるようです。
バスを降りてから、写真では分からないかと思いますが、ずっと登ってました。ただ緩やかでしたが、最後にこの石段が待ってましたね。
戦国時代に活躍し、第107代後陽成天皇の母君である新上東門院(しんじょうとうもんいん)の帰依を受けた浄福寺第四世 勝誉泰童上人が、1592年(天正19年)に天皇勅願により浄福寺の西に隣接する千本一条東の地に伽藍を建立したが始まり。以後400年に渡って西陣の中心として大きな伽藍を構えて栄えました。この地には「泰童片原町」という地名が残る。(昭和59年)に繁華街の喧噪を離れ現在地に移転。比叡の山並みを背景に岩倉の町を見下ろす高台の地に、緑に囲まれた伽藍を営んでいる。ご本尊の阿弥陀如来三尊像は恵心僧都が夢のお告げにより伊勢神宮に参詣したところ、夢中に阿弥陀如来三尊像が出現し、感動した像都が自らその姿を写し彫刻した像と伝わります。京都十二薬師霊場の「鍬形薬師」(くわがたやくし)は、田んぼに埋まっていたのを発見し掘り出され、その時に桑が当たりその傷跡が今も如来像の背中部分に残っていることから、「鍬形薬師」と呼ばれるようになったと伝わります。その薬師を開山勝誉泰童上人が念持仏として祀っていたところ、上人の母が病に罹り重態となられた時に、上人は如来を念じて病気平癒を祈念すると忽然と病は癒えたそうで、そのために千本一条東に大きな薬師堂を建て本尊として祀られました。
門を入ったのが9時47分のため、まだ10時前。「本堂」を見ると閉まってます。
本堂に近づいて見ましたが、やっぱり閉まってます。
9時50分に「寺務所」の呼び出しボタンを押しました。中から人の声が聞こえたので、10分も早いけど押して見ると・・・?。
そもそも寺務所の扉は開いてました。なかから人が出て来られ、御朱印をお願いすると快く朱印帳を受け取って貰いました。そして、「本堂を開けるのでお参りしてください」と。それで再び本堂を見ると、開けて頂いたようでお参りに行きました。
本堂内陣の奥にはご本尊の阿弥陀如来像(鎌倉時代)と勢至菩薩と観音菩薩像の両脇侍像が祀られています。繊細な作風とびっしり施された戴金文様が特徴でした。このご本尊の前には伊勢神宮より寄進された「神鏡」もありました。向かって右手には江戸時代後期に善光寺より下賜された善光寺如来像、地蔵菩薩像、法然上人像と善導大師像なども祀られてました。
そして左手には、十二薬師霊場の鍬形薬師如来像、木造阿弥陀如来像(鎌倉時代)も祀られていました。
私が出て行くと、ここを閉められました。さすがに岩倉は遠いです。ここまでよく来られました😊。
1981年(昭和56年)11月着工し、1984年(昭和59年)5月に完成したようです。千本一条から移転されて来たんですね。
次に寺務所に戻って御朱印を受取ました。由緒書は本堂内にカラー版で置いてあることを最初に教えて貰ってました😊。
10時4分に、ここを出て行きました。大超寺の方も言われてましたが、十二薬師霊場で、ここが一番遠い・・・と。
看板の上に見えているのが「太神宮本地仏石灯籠」です。こちらも伊勢神宮よりの寄進だそうです。
私は、方向音痴じゃないので、帰りも来た道を戻りバス停まで行きました。着くと直ぐに四条河原町行きのバスが来ましたが、それには乗りません。
次の10時15分発の国際会館行きのバスが来たので、それに乗りました。座れましたが、多くの方が乗られてました。ただ上高野バス停で、殆どの方が降りられました。買い物かなぁ。そして国際会館バス停に着くと、再び驚きの光景が・・・?。私の想像ですが、京都産業大学行きのパス待ちの学生さんでしょうね。国際会館から地下鉄に乗って、四条まで乗り、そこから市バスで帰りました。岩倉と聞いて諦めてましたが、バスの時刻を調べると、そんなに辺鄙な所では無かったです😊。参考までに、この日の最高気温は25.2℃と夏日でした。最低気温は15.2℃、最小湿度39%で爽やかな気候でした。
この記事へのコメント
こういう特別公開の機会が多いのは、羨ましく
感じられます。岩倉の大超寺さんですか。
高台にあるせいか、見晴らしもよく
山が近く感じられますね。戴金文様の美しい
阿弥陀如来像、そして鍬形薬師像と、
魅力的な仏像が拝観できるのはいいなと思いました。
かつて京都市街地にありましたが、街中の喧噪を避け、岩倉に移転されたようです。
十二京都薬師霊場では、ここだけが遠かったです。
普段見られないご本尊を見られ、また、御朱印もいただけて良かったです。
京都の街中では外国人観光客で現在溢れている状態で、こうして静かな拝観はホットしますね。