京都十二薬師霊場特別公開「壬生寺」へ
10月19日(木)は、京都十二薬師霊場特別公開「壬生寺」に行きました。今年の9月25日(月)に第48回「京の夏の旅」で壬生寺の向かいにある新徳寺に行きました。その時、壬生寺には行きませんでしたし、今回の京都十二薬師霊場特別公開でも行く予定はしてませんでした。ただ、通常非公開の本堂内で、間近で歯薬師如来を見られるのと、壬生塚で新たに創られた土方歳三の胸像も見たいので行くことしたわけです。
壬生寺にはバスで向い、壬生寺道で下車し四条通りを渡ります。そして四条坊城通りの角にあるのが元祇園 梛神社(梛ノ宮神社)・隼神社です。私は、ここでお宮参りをしたそうです。そのことは親から聞かされていたし、写真も残っています。神社を過ぎると、嵐電の踏切があります。踏切の左手(東側)には、かつて「嵐電壬生駅」がありました。1971年(昭和46年)7月11日に廃止になり、今はまってく面影が残ってませんが・・・。1970年は大阪万博がありましたし、ビートルズが解散した年でもありました。その翌年でしたね。
余談が長くなりましたが、綾小路通りの角には旧前川邸が、そして、少し下がると旧八木邸があります。拝観している八木邸に待たれている観光客も居ました。そして、懐かしい壬生寺に着きました。
8時49分に坊城通り沿いの「表門」に着きました。拝観は9時から少し早く着きました。と言うのも、いつも遅れる市バスが時間通りに着いたからです。
律宗大本山。鑑真和上ゆかりの律宗・壬生寺は、991年(正暦2年)創建された。本尊の延命地蔵菩薩(重文)をはじめとする多数の地蔵菩薩を祀っています。古来よりの地蔵信仰とともに、厄除・開運の寺としても知られ、2月の厄除け節分会は約950年もの歴史をもつ行事で、鎌倉時代、中興の祖・円覚上人が悪疫駆除のために行った法要が、重要無形民俗文化財・壬生狂言の興りと伝わります。境内には、塔頭の中院や壬生狂言の舞台である大念仏堂(重文)、千体の石仏を安置した千体仏塔など8棟のお堂があります。また、列仙図屏風(長谷川等伯筆・重要文化財)、室町時代の作を含む190点の壬生狂言の仮面や仏像などの寺宝を今に伝え、万灯(まんとう)供養会(くようえ)などの年間法要や700年の伝統を持つ壬生狂言(重要無形民俗文化財)は、毎年盛大に行われています。当寺の境内は、新選組が大砲や剣術・馬術の訓練をした場所として有名であり、壬生塚には近藤勇の胸像、芹沢鴨らの墓塔があります。池田屋騒動があったとされる祇園祭宵山の7月16日には、毎年、慰霊供養祭が行われています。境内には、京都十二薬師霊場第四番礼所本尊「歯薬師如来」と、洛陽三十三所観音霊場第二十八番札所・中院本尊「十一面観音菩薩」も祀っています。また境内地の一部を活用して、保育園や老人ホームが開設され、地域福祉事業を進めている。
表門から石畳の参道を真っ直ぐ進むと、鉄筋コンクリートの「本堂」があって、通常は入れません。
1962年(昭和37年)に本堂が火災により焼失しましてた。幼い私も、我が家から東の空が真っ赤に染まった光景は忘れることができません。ただ覚えているのは、この光景だけ。多分、直ぐに寝てしまっただと思います。親は後で聞いた話しで、様子を見に行ったようです。ここの保育園に通園していたので、お昼寝の時間が嫌でした。本堂か書院か、暗くてね・・・。それも全て燃えて無くなって、今は鉄筋コンクリート製で再建されている本堂にお参りしていたら、中から声を掛けて貰いました。この時間でも受付してくれたのは有難いことです。なお、堂内の撮影禁止は、いつもと変わりません。
ご本尊の「延命地蔵菩薩(重文)」が内陣中央に祀られています。
1962年(昭和37年)の本堂を全焼する火災により、重要文化財に指定されていた、ご本尊の延命地蔵菩薩も焼失してしまいました。それで、律宗の総本山唐招提寺から現在のご本尊が移され、1970年(昭和45年)落慶法要が行われ、現在の本尊となっています。
次に、京都十二薬師霊場第四番礼所本尊「歯薬師如来」を間近で見せて貰いました。ただ、ここで案内の方より奇跡の瞬間が訪れることを教えて貰いました・・・それは?!。
本堂は東向きに建っているので、太陽の光が差し込みます。その光が8時55分頃から9時15分頃まで、「歯薬師如来」を照らすのです。この歯薬師様の右頬が少し盛り上げてて、それで歯を出して笑っているように見えることが歯薬師と呼ばれるいるの由縁なんです。それが太陽の光で、はっきりと分かりました。
本堂の向かって右側(北側)に、焼失ご本尊を2020年(令和2年)復元した「縄目地蔵菩薩」が祀られていました。ここの保育園児だった頃に、焼失前のは見ていることでしょう。まったく覚えてませんが。とくに案内は無かったので、ゆっくり堂内を見せて貰いました。ただ何度か入っているので障壁画は中川大幹氏、襖絵はあだち幸作氏の作品です。
本堂を出て、南門近くにある「千体仏塔」を見に行きました。子供の頃に遊んだ仏塔では無さそうです。理由は・・・?。
1989年(平成元年)に壬生寺の創建1000年を記念し改築されたものです。この塔の石仏は、明治時代に京都の都市計画の際に、市内各地から集められたものです。境内には、室町時代からの地蔵菩薩や阿弥陀如来、大日如来など3000躰以上の石仏がありますが、この塔にはそのうちの1000躰が安置されています。塔の形はミャンマーに数多く見られるパコダを模して造られました。
多分、子供の頃に遊んでいた石塔は、こちらでしょう。「納経所」の中にありました。
余談ですが、この寺務所の向かいでは、保育園の運動会の準備をされてました。保育園の運動会はまったく覚えてませんが、親が撮った写真が残っています😊。
京都十二薬師霊場特別公開の御朱印と、ここのご本尊の御朱印をいただきました。
私の幼い記憶では、境内の北側にあったように・・・。このあと、懐かしの壬生塚に入ります。
壬生寺の境内には、いつの間にか老人ホームが2棟建っています。そちらを見るとアオサギが止まってました。
ここを出ようとしたら「水琴窟」を見つけました。水琴窟の音色は、いつ聞いても和みます。
こちらが「阿弥陀堂」で、こちらに壬生塚があります。拝観料は300円です・・・が、子供の頃は自由に出入りできたのにね。
拝観料を納めて、壬生塚に入るのに、この朱塗りの橋を渡ります。庭は写真撮影はOKですが、地下にある資料館はNGとのことです。
この池は昔からありました。亀も居ましたね。懐かしいです。9時12分に入りましたが、誰も居ませんでした。
この大小二基の五輪塔は江戸時代初期ものです。案内には「壬生官務家墓塔」とありました。壬生官務家は本性を小槻(おづき)氏といい、平安時代から先祖代々、太政官製における書記官を勤めていました。
その横には、往年の名歌手、故・三橋美智也さんの「あゝ新撰組」の「歌碑」がありました。さすがに知らないです😊。1999年(平成11年)に建立されたました。
こちらは「総検校 吉川湊一 墓塔」です。1748年(寛延元年)に紀州熊野の生まれ。平家琵琶の名人となり、1826年(文政9年)当道座を総括する総検校となりました。
この鎌倉時代の建立と伝わる宝篋印塔は「壬生寺歴代住職供養塔」です。壬生寺の開山・快賢像都(かいけんそうず)、中興の祖・円覚十万上人(えんかくじゅうまんしょうにん)などの住職を祀る供養です。
こちらは「百度石」で、かつて壬生寺の参道に建てられていたものです。この側面には「車通るべからず」と刻んでありますが、新撰組は意に介せず馬を乗り入れてたそうです。
ここからが新しく造られたエリアです。「新撰組隊士慰霊塔」の石標が建っています。新撰組の精霊を慰霊するための塔ですね。
今年の7月16日に開眼法要が営まれた「土方歳三胸像」です。新撰組ファンの方に大変人気があるそうです。私も、これを見に来ました。
幕末に活動した新選組が今年で結成160年になるのに合わせ、ゆかりの壬生寺に副長・土方歳三の胸像が完成しました。新選組は1863年(文久3年)に壬生の地で結成。寺の門前に駐屯地があり、境内で兵法の訓練をしたとされます。寺には壬生塚があり、隊士11人の墓碑などがあります。土方歳三は東京・日野市で生まれ、新選組では京都市中の護衛にあたり、新政府軍との戦いで各地を転戦後、函館で戦死しました。土方像はブロンズ製で高さ、幅各75㌢。「鬼の副長」の異名をとった京都時代の和装の若き土方をイメージしたという。
土方歳三の胸像を見た後は、「人丸塚」です。万葉集で知られる歌人・柿本人麻呂の灰塚と伝わります。だとか。現在の碑は大正時代に建立です。「人麻呂」が「人丸」となり、「火止まる」に通じることから、火除けの御利益があります。
子供の頃は、自由に入れたので、ここでも遊んでました。この銅像だれかなぁ・・・とは思わなかったですね😊。新撰組隊長の「近藤勇胸像」だと分かったのは随分後のことです😊。
この近藤勇胸像は、俳優の故・上田吉二郎氏が発起人となり、1971年(昭和46年)に建立されたものです。
こちらの右側・・・近藤勇胸像の左側にあるのが近藤勇の「遺髪塔」です。
その横が「河合耆三郎(かわいきさぶろう)の墓」です。勘定方で、帳簿のうえで不始末を起こしため切腹させられたといわれています。NHK大河ドラマ「新選組!」では、大倉孝二さんが演じてました。
こちらには「平山五郎・芹沢鴨の墓」です。芹沢鴨は局長。平山五郎は、副長助勤。芹沢も平山も八木邸で暗殺される。芹沢鴨は佐藤浩市さんが、平山五郎は坂田 聡さんが演じました。
こちらは隊士7名の墓です。「阿比原栄三郎・田中伊織・野口健司・奥沢栄助・安藤早太郎・新田革左衛門・葛山武八郎の墓」です。
阿比原栄三郎(あびるえいざぷろう・矢部太郎)は、副長助勤。病死とも暗殺されたともいわれている。田中伊織(たなかいおり・相島一之)の詳細は不明。局長・新見錦の変名であるという説もある。野口健司(のぐちけんじ・岡本幸作)は、副長助勤。前川邸で切腹したといわれている。奥沢栄助(おくざわえいすけ・松島圭二郞)は、伍長。池田屋騒動で討ち死にしたといわれている。安藤早太郎(あんどうはやたろう・河西祐樹)は、副長助勤。池田屋騒動で深手を負い、死亡したといわれている。新田革左衛門(にったかくざえもん・赤堀二英)は、平隊士。池田屋騒動で深手を負い、死亡したといわれている。葛山武八郎(かづらやまぶはちろう・平畠啓史)は、伍長。隊規違反の罪で切腹したといわれている。
このあと、地下にある資料館に行きました。ここでは撮影禁止されているので、写真はありません。
阿弥陀堂の向かいには壬生寺の塔頭寺院「中院」があります。洛陽三十三所観音霊場の第二十八番札所札所でもあります。ご本尊は、十一面観世音菩薩(鎌倉時代作)。1624年~1643年(寛永年間)に、本良律師により創建されました。現在のお堂は、1815年(文化12年)の再建。明治時代に律宗の修行道場となってから中院と呼ばれるようになりました。
先程、本堂で見せて貰った「京都十二薬師霊場第四番札所本尊歯薬師如来三尊像」が祀られていたところです。10月22日(日)まで本堂に移られています。脇侍は、向かって右、「日光菩薩像」、左に「月光菩薩像」が祀られていました。2017年(平成29年)1月28日の時は、写真撮影できました。ガラス越しでしたが。
これで壬生寺をあとにします。時間があれば、この辺りを散策したいところ、今日は先を急ぎます。
ここから用事のあった四条大宮まで行き、終わったあと、バスに乗ろうしたら信号待ちの間に行ってしまいました。ここで20分も待つのも嫌だったので、始発の次の停留所である四条西洞院まで歩き、そこからバスに乗りました。ただ、この日のバスは、凄く混んでました。普段は、始発からそんなに乗る人も居ないのにね。乗っているのは学生さん・・・多分、高校生。運動着を着て乗ってます。もう高校を卒業して半世紀はたっているので、校章を見ても分かりません。空いたのは広沢御所ノ内。そこで学生さんは降りました。多分、堀川高校の体育祭だったようです。天気が良かった今日は2020年(令和2年)4月27日以来の壬生寺に行けて良かったです。今日は、これで帰宅しました。
壬生寺にはバスで向い、壬生寺道で下車し四条通りを渡ります。そして四条坊城通りの角にあるのが元祇園 梛神社(梛ノ宮神社)・隼神社です。私は、ここでお宮参りをしたそうです。そのことは親から聞かされていたし、写真も残っています。神社を過ぎると、嵐電の踏切があります。踏切の左手(東側)には、かつて「嵐電壬生駅」がありました。1971年(昭和46年)7月11日に廃止になり、今はまってく面影が残ってませんが・・・。1970年は大阪万博がありましたし、ビートルズが解散した年でもありました。その翌年でしたね。
余談が長くなりましたが、綾小路通りの角には旧前川邸が、そして、少し下がると旧八木邸があります。拝観している八木邸に待たれている観光客も居ました。そして、懐かしい壬生寺に着きました。
8時49分に坊城通り沿いの「表門」に着きました。拝観は9時から少し早く着きました。と言うのも、いつも遅れる市バスが時間通りに着いたからです。
律宗大本山。鑑真和上ゆかりの律宗・壬生寺は、991年(正暦2年)創建された。本尊の延命地蔵菩薩(重文)をはじめとする多数の地蔵菩薩を祀っています。古来よりの地蔵信仰とともに、厄除・開運の寺としても知られ、2月の厄除け節分会は約950年もの歴史をもつ行事で、鎌倉時代、中興の祖・円覚上人が悪疫駆除のために行った法要が、重要無形民俗文化財・壬生狂言の興りと伝わります。境内には、塔頭の中院や壬生狂言の舞台である大念仏堂(重文)、千体の石仏を安置した千体仏塔など8棟のお堂があります。また、列仙図屏風(長谷川等伯筆・重要文化財)、室町時代の作を含む190点の壬生狂言の仮面や仏像などの寺宝を今に伝え、万灯(まんとう)供養会(くようえ)などの年間法要や700年の伝統を持つ壬生狂言(重要無形民俗文化財)は、毎年盛大に行われています。当寺の境内は、新選組が大砲や剣術・馬術の訓練をした場所として有名であり、壬生塚には近藤勇の胸像、芹沢鴨らの墓塔があります。池田屋騒動があったとされる祇園祭宵山の7月16日には、毎年、慰霊供養祭が行われています。境内には、京都十二薬師霊場第四番礼所本尊「歯薬師如来」と、洛陽三十三所観音霊場第二十八番札所・中院本尊「十一面観音菩薩」も祀っています。また境内地の一部を活用して、保育園や老人ホームが開設され、地域福祉事業を進めている。
表門から石畳の参道を真っ直ぐ進むと、鉄筋コンクリートの「本堂」があって、通常は入れません。
1962年(昭和37年)に本堂が火災により焼失しましてた。幼い私も、我が家から東の空が真っ赤に染まった光景は忘れることができません。ただ覚えているのは、この光景だけ。多分、直ぐに寝てしまっただと思います。親は後で聞いた話しで、様子を見に行ったようです。ここの保育園に通園していたので、お昼寝の時間が嫌でした。本堂か書院か、暗くてね・・・。それも全て燃えて無くなって、今は鉄筋コンクリート製で再建されている本堂にお参りしていたら、中から声を掛けて貰いました。この時間でも受付してくれたのは有難いことです。なお、堂内の撮影禁止は、いつもと変わりません。
ご本尊の「延命地蔵菩薩(重文)」が内陣中央に祀られています。
1962年(昭和37年)の本堂を全焼する火災により、重要文化財に指定されていた、ご本尊の延命地蔵菩薩も焼失してしまいました。それで、律宗の総本山唐招提寺から現在のご本尊が移され、1970年(昭和45年)落慶法要が行われ、現在の本尊となっています。
次に、京都十二薬師霊場第四番礼所本尊「歯薬師如来」を間近で見せて貰いました。ただ、ここで案内の方より奇跡の瞬間が訪れることを教えて貰いました・・・それは?!。
本堂は東向きに建っているので、太陽の光が差し込みます。その光が8時55分頃から9時15分頃まで、「歯薬師如来」を照らすのです。この歯薬師様の右頬が少し盛り上げてて、それで歯を出して笑っているように見えることが歯薬師と呼ばれるいるの由縁なんです。それが太陽の光で、はっきりと分かりました。
本堂の向かって右側(北側)に、焼失ご本尊を2020年(令和2年)復元した「縄目地蔵菩薩」が祀られていました。ここの保育園児だった頃に、焼失前のは見ていることでしょう。まったく覚えてませんが。とくに案内は無かったので、ゆっくり堂内を見せて貰いました。ただ何度か入っているので障壁画は中川大幹氏、襖絵はあだち幸作氏の作品です。
本堂を出て、南門近くにある「千体仏塔」を見に行きました。子供の頃に遊んだ仏塔では無さそうです。理由は・・・?。
1989年(平成元年)に壬生寺の創建1000年を記念し改築されたものです。この塔の石仏は、明治時代に京都の都市計画の際に、市内各地から集められたものです。境内には、室町時代からの地蔵菩薩や阿弥陀如来、大日如来など3000躰以上の石仏がありますが、この塔にはそのうちの1000躰が安置されています。塔の形はミャンマーに数多く見られるパコダを模して造られました。
多分、子供の頃に遊んでいた石塔は、こちらでしょう。「納経所」の中にありました。
余談ですが、この寺務所の向かいでは、保育園の運動会の準備をされてました。保育園の運動会はまったく覚えてませんが、親が撮った写真が残っています😊。
京都十二薬師霊場特別公開の御朱印と、ここのご本尊の御朱印をいただきました。
私の幼い記憶では、境内の北側にあったように・・・。このあと、懐かしの壬生塚に入ります。
壬生寺の境内には、いつの間にか老人ホームが2棟建っています。そちらを見るとアオサギが止まってました。
ここを出ようとしたら「水琴窟」を見つけました。水琴窟の音色は、いつ聞いても和みます。
こちらが「阿弥陀堂」で、こちらに壬生塚があります。拝観料は300円です・・・が、子供の頃は自由に出入りできたのにね。
拝観料を納めて、壬生塚に入るのに、この朱塗りの橋を渡ります。庭は写真撮影はOKですが、地下にある資料館はNGとのことです。
この池は昔からありました。亀も居ましたね。懐かしいです。9時12分に入りましたが、誰も居ませんでした。
この大小二基の五輪塔は江戸時代初期ものです。案内には「壬生官務家墓塔」とありました。壬生官務家は本性を小槻(おづき)氏といい、平安時代から先祖代々、太政官製における書記官を勤めていました。
その横には、往年の名歌手、故・三橋美智也さんの「あゝ新撰組」の「歌碑」がありました。さすがに知らないです😊。1999年(平成11年)に建立されたました。
こちらは「総検校 吉川湊一 墓塔」です。1748年(寛延元年)に紀州熊野の生まれ。平家琵琶の名人となり、1826年(文政9年)当道座を総括する総検校となりました。
この鎌倉時代の建立と伝わる宝篋印塔は「壬生寺歴代住職供養塔」です。壬生寺の開山・快賢像都(かいけんそうず)、中興の祖・円覚十万上人(えんかくじゅうまんしょうにん)などの住職を祀る供養です。
こちらは「百度石」で、かつて壬生寺の参道に建てられていたものです。この側面には「車通るべからず」と刻んでありますが、新撰組は意に介せず馬を乗り入れてたそうです。
ここからが新しく造られたエリアです。「新撰組隊士慰霊塔」の石標が建っています。新撰組の精霊を慰霊するための塔ですね。
今年の7月16日に開眼法要が営まれた「土方歳三胸像」です。新撰組ファンの方に大変人気があるそうです。私も、これを見に来ました。
幕末に活動した新選組が今年で結成160年になるのに合わせ、ゆかりの壬生寺に副長・土方歳三の胸像が完成しました。新選組は1863年(文久3年)に壬生の地で結成。寺の門前に駐屯地があり、境内で兵法の訓練をしたとされます。寺には壬生塚があり、隊士11人の墓碑などがあります。土方歳三は東京・日野市で生まれ、新選組では京都市中の護衛にあたり、新政府軍との戦いで各地を転戦後、函館で戦死しました。土方像はブロンズ製で高さ、幅各75㌢。「鬼の副長」の異名をとった京都時代の和装の若き土方をイメージしたという。
土方歳三の胸像を見た後は、「人丸塚」です。万葉集で知られる歌人・柿本人麻呂の灰塚と伝わります。だとか。現在の碑は大正時代に建立です。「人麻呂」が「人丸」となり、「火止まる」に通じることから、火除けの御利益があります。
子供の頃は、自由に入れたので、ここでも遊んでました。この銅像だれかなぁ・・・とは思わなかったですね😊。新撰組隊長の「近藤勇胸像」だと分かったのは随分後のことです😊。
この近藤勇胸像は、俳優の故・上田吉二郎氏が発起人となり、1971年(昭和46年)に建立されたものです。
こちらの右側・・・近藤勇胸像の左側にあるのが近藤勇の「遺髪塔」です。
その横が「河合耆三郎(かわいきさぶろう)の墓」です。勘定方で、帳簿のうえで不始末を起こしため切腹させられたといわれています。NHK大河ドラマ「新選組!」では、大倉孝二さんが演じてました。
こちらには「平山五郎・芹沢鴨の墓」です。芹沢鴨は局長。平山五郎は、副長助勤。芹沢も平山も八木邸で暗殺される。芹沢鴨は佐藤浩市さんが、平山五郎は坂田 聡さんが演じました。
こちらは隊士7名の墓です。「阿比原栄三郎・田中伊織・野口健司・奥沢栄助・安藤早太郎・新田革左衛門・葛山武八郎の墓」です。
阿比原栄三郎(あびるえいざぷろう・矢部太郎)は、副長助勤。病死とも暗殺されたともいわれている。田中伊織(たなかいおり・相島一之)の詳細は不明。局長・新見錦の変名であるという説もある。野口健司(のぐちけんじ・岡本幸作)は、副長助勤。前川邸で切腹したといわれている。奥沢栄助(おくざわえいすけ・松島圭二郞)は、伍長。池田屋騒動で討ち死にしたといわれている。安藤早太郎(あんどうはやたろう・河西祐樹)は、副長助勤。池田屋騒動で深手を負い、死亡したといわれている。新田革左衛門(にったかくざえもん・赤堀二英)は、平隊士。池田屋騒動で深手を負い、死亡したといわれている。葛山武八郎(かづらやまぶはちろう・平畠啓史)は、伍長。隊規違反の罪で切腹したといわれている。
このあと、地下にある資料館に行きました。ここでは撮影禁止されているので、写真はありません。
阿弥陀堂の向かいには壬生寺の塔頭寺院「中院」があります。洛陽三十三所観音霊場の第二十八番札所札所でもあります。ご本尊は、十一面観世音菩薩(鎌倉時代作)。1624年~1643年(寛永年間)に、本良律師により創建されました。現在のお堂は、1815年(文化12年)の再建。明治時代に律宗の修行道場となってから中院と呼ばれるようになりました。
先程、本堂で見せて貰った「京都十二薬師霊場第四番札所本尊歯薬師如来三尊像」が祀られていたところです。10月22日(日)まで本堂に移られています。脇侍は、向かって右、「日光菩薩像」、左に「月光菩薩像」が祀られていました。2017年(平成29年)1月28日の時は、写真撮影できました。ガラス越しでしたが。
これで壬生寺をあとにします。時間があれば、この辺りを散策したいところ、今日は先を急ぎます。
ここから用事のあった四条大宮まで行き、終わったあと、バスに乗ろうしたら信号待ちの間に行ってしまいました。ここで20分も待つのも嫌だったので、始発の次の停留所である四条西洞院まで歩き、そこからバスに乗りました。ただ、この日のバスは、凄く混んでました。普段は、始発からそんなに乗る人も居ないのにね。乗っているのは学生さん・・・多分、高校生。運動着を着て乗ってます。もう高校を卒業して半世紀はたっているので、校章を見ても分かりません。空いたのは広沢御所ノ内。そこで学生さんは降りました。多分、堀川高校の体育祭だったようです。天気が良かった今日は2020年(令和2年)4月27日以来の壬生寺に行けて良かったです。今日は、これで帰宅しました。
この記事へのコメント
やはり大きなお寺で、いろんな時代の積み重ねを感じるところですね。
ここは、幼い頃の思い出の地で、随所に懐かしさを覚えておられるのが伝わってきます。様々な変化もあったことでしょう。
それにしても、土方歳三の銅像は実にカッコいい!!
ちょっとイケメン過ぎるのは現代の特徴ですね。
まあ、土方なら許されると思います。
それにしても、昔、保育園があったのが、今は老人ホームというのが時代の移り変わりだなと感じました。
私は、壬生寺の近くに住んでいたので、古い写真は壬生寺の境内で遊ばされている写真が殆どです。
そして、壬生寺保育園に3年居たのは、あんまり覚えてないですが。( ^_^)
今は、拝観料が必要な壬生塚も、自由に出入りできたし、子供の頃からは随分変わりました。
今は、同級生も住んでないので、こういうイベントが無いと壬生に来なくなりましたね。