京都十二薬師霊場特別公開「因幡堂 平等寺」へ
10月20日(金)は、京都十二薬師霊場特別公開「因幡堂 平等寺」に行きました。2012年(平成24年)2月3日の特別公開を見に来たので、本当は行く予定はありませんでした。ただ妻が所用のため四条烏丸まで行く予定があったので、「平等寺を見た後一緒に帰ろう」ということになり、出掛けることにしました。ただ特別公開も10年も前のことで、久しぶりに見てみようと思ったのも事実です😊。
今週16日(月)は、左京区の第5番 真正極楽寺に行き「石薬師」を見て来て、17日(火)は、岩倉の第8番 大超寺に行き、「鍬形薬師」を見ました。18日(水)は、南区の第3番 水薬師寺に行き、「水薬師」を見損ねて、19日(木)は中京区の第4番 壬生寺に行き、「歯薬師」を間近で見させて貰いました。結局、行かなかったのが第2番 東寺「薬師如来坐像」と、東山区の第7番 雙林寺の「東山薬師」の二箇所でしたね。第2番 東寺は、数え切れないほど行ってるし、第7番 雙林寺は、昨年特別公開された時に見てました。まだ1年もたったないので忘れてません😊。
烏丸松原のバス停を降りて、数歩で、この看板を見ることになります😊。
10時18分に着きました。周面の本堂を見ると、多くの参拝者が来られてました。平日の昼間なのに・・・。
997年(長徳3年) 因幡(現在の鳥取県)国司橘行平(たちばなゆきひら)が、任終って帰洛の途中、夢のお告げによって因幡賀留津(いなばかるつ)の海中から一体の薬師如来像をひきあげ、仮堂に安置しておいたが、薬師は行平のあとを追って京都に飛来したといわれ、1003年(長保5年)4月8日、行平は自宅を改造してこれを祀ったと伝えられる。この霊験談は広く親しまれ、歴代天皇はじめ一般庶民の深い信仰をうけ、1171年(承安元年)には第80代高倉天皇により「平等寺」と下賜された。なお,この寺の起りは、「因幡堂縁起(いなばどうえんぎ)」(現東京国立博物館蔵)に詳しく書かれている。しかし堂舎は度々火災に遭い寺地も次第に小さくなったが、1868年(明治初年)再建の現本堂には、たび重なる火災にもかかわらずよく伝えられてきた本尊薬師如来立像を安置している。この薬師如来像は藤原時代、一木作りの優品で重要文化財に指定されている。嵯峨釈迦堂の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来の一つにかぞえられ、ことのほか信仰されている。ガン封じ、諸病悉除、当病平癒、厄難消除など病気を除いてくださる仏様として広く信仰されている。
それで写真を撮るのを諦めてて、先に御守りと御朱印、そして特別公開を見に行くことにしました。御朱印は書き置きのみと言うことで、残念な結果でした。重い朱印帳持参してきたのにね。人が多いからか分かりませんが。
堂内では、以前聞いたことがあったような話しをガイドさんより聞きました。聞いていると思い出しますね。一通り聞いたら出ました。時間は10時35分になっていました。
「収蔵庫」に納められている重要文化財に指定されている薬師如来立像は、頭巾を被っています。非常時に後ろへ倒して滑車と縄で運び出すためのもので前回も聞いた話しです😊。高さが1㍍50㌢あり、左手には病気を治す薬が入るとされる薬壷を持っています。
余談ですが、この薬師如来立像には光背と台座がありません。それは因州(鳥取県)高草郡大字菖蒲浦の座光寺(ざこうじ)に残されていることをガイドさんが終えてくれました。光背と台座が残されたことから座光寺と呼ばれたといわれています。
寺宝は、第80代高倉天皇が寵愛した小督局(こごうのつぼね)の「琴」、愛用していた「硯箱」、小督の髪で織り込んだと伝わる「毛髪織込光明真言」など間近で見られました。前途した厨子の中の薬師如来立像(重文)の他は、鎌倉時代に造られた如意輪観音像(重文)、清凉寺式釈迦如来像(重文)が見られました。
堂内は非公開のため上がることができません。2012年(平成24年)2月3日の特別公開では上がれました。
本堂の内陣には「日光菩薩」「月光菩薩」「十二神将像」「不動明王像」「愛染明王像」が祀られていたのを覚えています。右手には納経所がありましたが、今日は書き置きのみとのことでした。
境内の西側にある「観音堂」です。弘法大師・毘沙門天・如意輪観音・十一面観音・神変大菩薩・不動明王を祀りしています。
ここはビジネス街のど真ん中にあります。通行人も多かったし、参拝者も多かったです。10時38分にここを出て行きました。
妻とは11時頃にバス停で待合せの予定が、妻が早く着いたと連絡を受け、ゆっくり歩いてましたが急いで四条烏丸バス停に行きました。着くと直ぐにバスが来たので、それに乗って帰ることができました。この日はのバスは空いてました。
今週16日(月)は、左京区の第5番 真正極楽寺に行き「石薬師」を見て来て、17日(火)は、岩倉の第8番 大超寺に行き、「鍬形薬師」を見ました。18日(水)は、南区の第3番 水薬師寺に行き、「水薬師」を見損ねて、19日(木)は中京区の第4番 壬生寺に行き、「歯薬師」を間近で見させて貰いました。結局、行かなかったのが第2番 東寺「薬師如来坐像」と、東山区の第7番 雙林寺の「東山薬師」の二箇所でしたね。第2番 東寺は、数え切れないほど行ってるし、第7番 雙林寺は、昨年特別公開された時に見てました。まだ1年もたったないので忘れてません😊。
烏丸松原のバス停を降りて、数歩で、この看板を見ることになります😊。
10時18分に着きました。周面の本堂を見ると、多くの参拝者が来られてました。平日の昼間なのに・・・。
997年(長徳3年) 因幡(現在の鳥取県)国司橘行平(たちばなゆきひら)が、任終って帰洛の途中、夢のお告げによって因幡賀留津(いなばかるつ)の海中から一体の薬師如来像をひきあげ、仮堂に安置しておいたが、薬師は行平のあとを追って京都に飛来したといわれ、1003年(長保5年)4月8日、行平は自宅を改造してこれを祀ったと伝えられる。この霊験談は広く親しまれ、歴代天皇はじめ一般庶民の深い信仰をうけ、1171年(承安元年)には第80代高倉天皇により「平等寺」と下賜された。なお,この寺の起りは、「因幡堂縁起(いなばどうえんぎ)」(現東京国立博物館蔵)に詳しく書かれている。しかし堂舎は度々火災に遭い寺地も次第に小さくなったが、1868年(明治初年)再建の現本堂には、たび重なる火災にもかかわらずよく伝えられてきた本尊薬師如来立像を安置している。この薬師如来像は藤原時代、一木作りの優品で重要文化財に指定されている。嵯峨釈迦堂の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来の一つにかぞえられ、ことのほか信仰されている。ガン封じ、諸病悉除、当病平癒、厄難消除など病気を除いてくださる仏様として広く信仰されている。
それで写真を撮るのを諦めてて、先に御守りと御朱印、そして特別公開を見に行くことにしました。御朱印は書き置きのみと言うことで、残念な結果でした。重い朱印帳持参してきたのにね。人が多いからか分かりませんが。
堂内では、以前聞いたことがあったような話しをガイドさんより聞きました。聞いていると思い出しますね。一通り聞いたら出ました。時間は10時35分になっていました。
「収蔵庫」に納められている重要文化財に指定されている薬師如来立像は、頭巾を被っています。非常時に後ろへ倒して滑車と縄で運び出すためのもので前回も聞いた話しです😊。高さが1㍍50㌢あり、左手には病気を治す薬が入るとされる薬壷を持っています。
余談ですが、この薬師如来立像には光背と台座がありません。それは因州(鳥取県)高草郡大字菖蒲浦の座光寺(ざこうじ)に残されていることをガイドさんが終えてくれました。光背と台座が残されたことから座光寺と呼ばれたといわれています。
寺宝は、第80代高倉天皇が寵愛した小督局(こごうのつぼね)の「琴」、愛用していた「硯箱」、小督の髪で織り込んだと伝わる「毛髪織込光明真言」など間近で見られました。前途した厨子の中の薬師如来立像(重文)の他は、鎌倉時代に造られた如意輪観音像(重文)、清凉寺式釈迦如来像(重文)が見られました。
堂内は非公開のため上がることができません。2012年(平成24年)2月3日の特別公開では上がれました。
本堂の内陣には「日光菩薩」「月光菩薩」「十二神将像」「不動明王像」「愛染明王像」が祀られていたのを覚えています。右手には納経所がありましたが、今日は書き置きのみとのことでした。
境内の西側にある「観音堂」です。弘法大師・毘沙門天・如意輪観音・十一面観音・神変大菩薩・不動明王を祀りしています。
ここはビジネス街のど真ん中にあります。通行人も多かったし、参拝者も多かったです。10時38分にここを出て行きました。
妻とは11時頃にバス停で待合せの予定が、妻が早く着いたと連絡を受け、ゆっくり歩いてましたが急いで四条烏丸バス停に行きました。着くと直ぐにバスが来たので、それに乗って帰ることができました。この日はのバスは空いてました。
この記事へのコメント
そりゃー行きたくなりますね。
平日に参拝者が多いのは、本物の証ですね。
薬師如来立像が頭巾をかぶっていること、
座光寺と呼ばれた謂れ等、成程です。
とても貴重な特別公開に同行した気分になりました。
ホームゲートウェイの故障により返事が遅くなりました。
平等寺は、過去に行ってましたが、久しぶりにご本尊を見たく行ってみたわけです。
宝物館内ではガイドさんの案内もあって、前に行って忘れていたことも思い出すことができました。
京都のビジネス街のど真ん中にあるお寺ですので、行き交う人も多く、立ち寄られる人も見受けました。