弘法大師霊場 遺迹本山 高雄山神護寺「大師堂特別拝観」へ

清滝川から11分もかけて弘法大師霊場 遺迹本山 高雄山神護寺の楼門前に着きました。2011年(平成23年)5月14日と2010年(平成22年)6月3日では8分で登ってました。膝が悪いこともありますが、やっぱり歳かなぁ😊。

IMG_9373.jpg1629年(寛永6年)に再建された楼門をくぐって境内を見ています。ただ、この頃から小雨が降ってきました。予報では15時頃からの筈だったのに・・・。

京都市の北西、高雄山の中腹に堂宇を構える神護寺は、高野山真言宗の遺迹(ゆいせき)本山。高雄山と号し、正式には神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)といいます。第50代桓武天皇の側近であった和気清麿(わけのきよまろ)は長岡京、平安京造営を推進するかたわらに781年(天応元年)都の西北に位置するこの地に、愛宕五坊の一つとして高雄山寺を創建されました。824年(天長元年)には、高雄山寺と和気清麿が河内国(大阪府)に建てた神願寺と合併し弘法大師空海がが住持となって、神護国祚真言寺と改稱(かいしょう)したものともいわれています。以後、神護寺のすべては空海に付託され、空海とその弟子によって真言密教の根本道場として発展します。平安時代には壮大な伽藍が競っていたと伝わりますが、2度の大火による焼失により、平安時代末期に全山壊滅状態となり無住の荒寺となりました。空海の旧跡を慕って文覚上人がその荒廃を嘆いて1184年(寿永3年)に後白河法皇の勅許を得て、鎌倉幕府初代将軍源頼朝の援助もあって復興を試みます。ただ後白河法皇と源頼朝が亡くなると、文覚上人は後ろ盾をなくし、朝廷の策謀によって佐渡へ配流されることとなります。そののち、帰京が許されましたが、翌年には後鳥羽上皇の怒りを買い、対馬へ配流。文覚上人は対馬へ向かう道中、鎮西で客死した。文覚の意志は弟子の上覚と明恵に引き継がれることになりました。応仁の乱で再び兵火により焼失しましたが、1623年(元和9年)讃岐屋島寺の龍巌上人が入山し、上人に帰依する京都所司代板倉勝重が奉行となって楼門、金堂(現在の毘沙門堂)、五大堂、鐘楼を再興し、1935年(昭和10年)には、金堂や多宝塔、和気清麻呂霊廟を再建。伽藍の整備が行われ現在に至ります。金堂内の薬師如来立像、多宝塔内の五大虚空蔵・菩薩坐像(いづれも国宝)や日本三名鐘のひとつとされる国宝の梵鐘を有す。境内最奥の地蔵院から眺める、錦雲渓(きんうんけい)の雄大な自然も格別で、厄除けのかわらけ投げを楽しむことができます。

文覚上人は、昨年放送されたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では謎めいた怪僧として登場し、源頼朝に挙兵を促しました。上人役は、歌舞伎役者「市川猿之助」さんが演じてました。

IMG_9425.jpgIMG_9374.jpg久しぶりに来たので、じっくり見て行きます。最初は「宝蔵」と紅葉のセットです。

IMG_9376.jpgお隣が「和気清麻呂霊廟」です。ここには、清麻呂を祀った護王社がありましたが、護王神社と改め、1886年(明治19年)に京都御所の西側に移転したため霊廟として復興されたもの。

IMG_9377.jpgそのお隣で、奥まった所にあるのが「鐘楼」です。日本三名鐘のひとつとされる国宝の梵鐘は、ここにありますが生きません。紅葉も綺麗でした。

IMG_9378.jpgこちらは「明王堂」です。神護寺に安置れさていた空海の作という不動明王像は、940年(天慶3年)に「平将門の乱」が起こりその鎮圧のため、関東に御開帳されました。その後、乱が鎮まると、そのご本尊として成田山新勝寺が建立されました。現在明王堂のご本尊不動明王像は、平安時代後期頃の作と考えられています。

IMG_9381.jpg明王堂を過ぎると「五大堂」(手前)と「毘沙門堂」(奥)がありますが、先に金堂に行きます。

IMG_9382.jpgIMG_9383.jpg疲れた足を踏ん張って石段を登り「金堂」に上がりました。

1953年(昭和10年)に安井楢次郎が設計した大建築。ご本尊は、薬師如来立像(国宝)で、目の前まで行ってお参りできました。その横には十二神将と四天王が並びます。久しぶりにお参りできて良かったです。そして納経所で、書き置きの御朱印をいただきました。

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「大師堂」の特別拝観の期間中に授与される拝観記念御朱印です。「遍照金剛」と書かれてました。弘法大師空海の金剛名号ですね。

IMG_9385.jpgIMG_9386.jpgIMG_9388.jpgIMG_9389.jpg小雨降る中、金堂を出て「大師堂」に向かいます。

IMG_9397.jpgIMG_9422.jpgCIMG2218.jpgその前に、左が「五大堂」です。江戸時代に建てられ、堂内には不動明王など五大明王が祀られています。神護寺の不動明王が成田山に遷座し「平将門の乱」を鎮めたことを記念し、1866年(慶応2年)正面向かって右側に石碑が建てられました。

IMG_9395.jpg毘沙門堂」です。こちらは、今の金堂が建つ前は金堂でした。それまでは薬師如来立像を祀ってましたが、今は毘沙門天立像が祀られています。

IMG_9392.jpgIMG_9394.jpg10時に「大師堂」に入りました。楼門前で購入したチケットを見せ、靴を脱いで上がると、堂内では案内のテープが流れていました。

元は納涼房と言われ弘法大師空海が住まわれていたと伝わります。17世紀の頃、細川忠興(肥後細川家初代)により寄進されたのが現在の大師堂です。堂内の中央に鎌倉時代の和様厨子の典型である二重厨子の中に、我が国では珍しい「板彫弘法大師像」が祀られていました。お姿は若き日の大師だそうで、重要文化財に指定されています。1303年(正安4年)に仏師・定喜が土佐国金剛頂寺の空海像を模刻したものとされている貴重なものだそうですが、定かでもないらしいです。

IMG_9396.jpgIMG_9397.jpgテープを聴き終わって、お賽銭をしお参りしてから出ていきました。そして、再び金堂に向けて歩いて行きます。

IMG_9398.jpgIMG_9399.jpg金堂前の石段下まで行くと、左手の脇道に入ります。ここに来たら必ず「かわらけ投げ」をするためです。

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この石碑は「徳浄僧正碑」でした。ここの紅葉は綺麗でしたね。まさに見頃でした。

IMG_9417.jpg「錦雲渓(きんうんけい)」の素晴らしい眺望の前に石碑があったので寄りました。こちらは俳人の能村登四郎句碑でした。書かれているのは「初紅葉せる羞ひを杉囲み」と読み取れます。

IMG_9402.jpgIMG_9403.jpg地蔵院」と「地蔵堂」まで来ました。そして、その奥には・・・?。

IMG_9404.jpgIMG_9415.jpgいよいよ「かわらけ投げ」まで来ました。小雨も降っているのせいか、ここには誰も来られてません。

IMG_9413.jpg先ずは売店で「かわらけ」を買います。200円で3枚でした。ここも100円値上げされてましたね😊。

IMG_9406.jpgIMG_9405.jpg錦雲渓(きんうんけい)」は素晴らしい眺望です。そこに向かって思い切り投げました。あまり風に乗らなかったです。雨のせいかなぁ。

IMG_9412.jpgIMG_9416.jpgIMG_9420.jpgこちらの1組の方が来られたので、入れ替わりに出て行きました。再び金堂に戻る途中に「閼伽井」に寄りました。

高尾山寺において、弘法大師が行った灌頂の浄水として使用するために、大師自ら掘られたと伝わる井戸です。

IMG_9421.jpgIMG_9424.jpgIMG_9379.jpgIMG_9426.jpgここを出る前に「唐門」を撮りました。この奥に書院があります。5月1日~5日の「宝物虫払い行事」で入ることができます。唐門からは入れません。

IMG_9427.jpgIMG_9431.jpg10時24分に、ここを出て行きました。出て行く前に、この楼門前の床几に座って汗を拭い休憩。長い下りに備えました。

この楼門前に立つと、下から数組の方が登られてきました。皆さん、しんどうそうに登られますね。私もそうでした😊。

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