「京都十六社朱印めぐり」豊国神社からスタート
今年で9年連続となる「京都十六社朱印めぐり」、今回は豊国神社からスタートしました。本当なら1月1日に六波羅蜜寺に初詣行ったあとに行く予定が、六波羅蜜寺で並び疲れたのと、雨が本降りとなってきたので、「京都十六社朱印めぐり専用朱印帳」が濡れるを避けるため、断念した次第です。
1月1日は雨が降りましたが、1月2日(火)は晴れて一日中良い天気でした。ただ最低気温は0.9℃と朝は冷え込みました。その2日(火)は、いろいろ所用があるので、最初から3日(水)に豊国神社からスタートと決めてました。理由は、豊国神社は、お正月の三ヶ日は、通常入れない国宝「唐門」内に入れて、本殿前まで行けるので、この日にしたわけです。
3日(水)の最低気温は4.4℃と、そんなに冷え込みは強く無かったです。しかし9時前に豊国神社に行きたいので、7時40分頃市バスに乗りました。1月1日には1時間前のバスに乗りましたが、四条京阪前までガラガラでした。この日は、そこそこ乗られてましたね。途中大丸京都店の前を通りましたが、既に並ばれていました。初売りは昨日だったのに・・・。
四条京阪前に着いて時計を見ると8時30分過ぎでしたので、そこから京阪に乗って七条まで行く予定を変更して、歩いて行くことにしました。豊国神社までのコースは1月1日に六波羅蜜寺に行ったときと同じで、違うのは六波羅蜜寺の時は、大和大路通りから松原通りを東に入ったのを、豊国神社に向かうので、そのまま大和大路通りを南下し、そのまま五条通りに出ます。そこから信号を渡って、そのまま、真っ直ぐ南下すると正面通りまで来ると、そこに豊国神社があるわけです。
時計を見ると8時54分と、まだ9時を回ってなかったので方広寺に寄りました。
昨年暮れまで見ていたNHK大河ドラマ「どうする家康」でも詳しく描かれた世に言う「方広寺鐘銘事件」の鐘を見に来た訳です。
この鐘に書かれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字に徳川がクレームをつけた訳ですね。ここで事件の模様をおさらいです。
方広寺は、豊臣秀吉が大仏(盧舎那佛)を安置するため、1586年(天正14年)に造営がはじまり、1595年(文禄4年)に創建しました。しかし、大仏は慶長大地震(1596年・慶長元年)により倒壊(伏見城も倒壊するほどの大地震)。秀吉の遺志を継いだ秀頼が大仏の再建に着手しましたが、1602年(慶長7年)に、鋳造中の大仏から出火炎上し大仏殿までも焼失します。ちなみに1602年は、徳川家康が征夷大将軍に任じられた年です。そして1607年(慶長12年)豊臣秀頼は豊臣家家臣の片桐且元を奉行として、再び大仏および大仏殿の再建を目指し大仏が鋳造され、大仏殿が完成したのは1612年(慶長17年)、1614年(慶長19年)4月には梵鐘も完成。しかし徳川幕府から鐘に書かれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字に、家康の名を切ったものであり徳川家を呪い、豊臣家のみの繁栄を願っているものであると家康の怒りをかったとあります。これをきっかけに大坂冬の陣、大阪夏の陣によって豊臣家は滅亡となりました。その鐘が今も残っているので見に来た訳です。
豊臣家滅亡後、この鐘は呪いの鐘として地面に置き鳴らさなくなりました。1884年(明治17年)に鐘楼が完成するまで雨曝しの状態でした。文字が読みにくいのは、そのせいでしょう。
ただ、この鐘楼周りに人が多かったので、もう少しゆっくり見て回りたかったけど豊国神社に移動することにしました。
8時56分になったので、お隣の豊国神社に行きました。唐門は閉まったままです。
ただ太鼓の音がして行って見ると神事が始まりそうで、それを撮ってみました。
国宝「唐門」内に神主さんが入って行かれました。本殿前で神事が始まりそうです。
「元始祭」が15分ぐらいあるので、20分頃から唐門内の神域に入れます。
国宝「唐門」です。元は伏見城の城門であったと伝えられ、南禅寺金地院から移築されました。西本願寺・大徳寺の唐門とともに「国宝の三唐門」と称されます。
開門まで時間があるので「手水舎」に行きました。水盤には豊臣家の家紋「桐紋(五七の桐)」が、それに豊臣秀吉の馬印である「千成瓢箪」から水が出ています。
唐門の前には陶器の「豊臣秀吉像」があります。この像は太平洋戦争中に制作されましたが、阪神淡路大震災により倒壊。長く蔵の中で保管されてきたそうですが、令和元年の新天皇即位に合わせる形で再び公開されることになったそうです。
今回は写真を撮らなかったので以前のものです。「拝殿」を通って「本殿」前で参拝できます。御祭神は、前関白太政大臣 正一位 豊臣秀吉公。御利益は、出世開運、厄除招福、良縁成就、商売繁昌でした。
隣の摂社「貞照(さだてる神社」は、真意に入らないと見えないです。祭神は秀吉の正室である北政所(高台院)で、1925年(大正14年)に創祀されました。
内側から国宝「唐門」を、この時だけは見られます。
帰りは正面から出たので「鳥居」から出て行きました。
前途したとおり、ここに大仏殿があって、大仏(盧舎那仏)が西に向いていたため、豊国神社前の通りは正面通りと言います。その正面通りを西に進むと「耳塚(鼻塚)」があります。
豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した「文禄・慶長の役」(1592~98年)において、秀吉軍の将兵は戦勝の証として首級のかわりに、朝鮮軍民男女の耳や鼻を切り取り、塩や酢に漬けて日本に持ち帰った。それらは秀吉の命により、この地に埋められ「供養の義」がもたれたという。これが現在に伝わる「耳塚(鼻塚)」の始まりです。
豊臣秀吉は1597年(慶長2年)に、この塚を築いたようで、このとき、僧侶約400人を呼んで供養を行いました。この塚には絶えず花が添えられています。この塚からさらに西に向いて歩きます。
川端通りを渡り、鴨川に架かる「正面橋」を渡ります。その前に信号待ちしているときに「京都タワー」が見えたので撮りました。
正面橋の途中で、鴨川の上流を撮りました。ユリカメモ写ってなかったですね。
正面通りから河原町通りまで行き、そこで信号を渡ります。そして河原町通りを北上すると、「京都十六社朱印めぐり」の市比賣神社に着きました。
御祭神が、多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)、市寸嶋比賣命(いちきしまひめのみこと)、多岐都比賣命(たぎつひめのみこと)、神大市比賣命(かみおおいちひめのみこと)、下光比賣命(したてるひめのみこと)。御利益は、女人厄除 祈祷所です。ここは女性の参拝者が多く混んでました。
市比賣神社を出て、河原町通りを北上し五条通りの交差点を渡って東に向いて歩くと「五条大橋」を渡ります。その五条大橋から鴨川の南を撮りました。
平安時代末に牛若丸(源義経)と弁慶が出会ったという伝説で知られる五条大橋ですが、この橋は違います。当時の橋は、ここから北に上がった松原通りに架かる橋だと伝わります。五条通りは戦時中に拡張されたと以前、聞いたことがありました。
京阪「清水五条駅」から京阪電車に乗って三条まで行きます。ここで降り清水寺に向かわれる外国人観光客が多いです。ただ相当歩く必要がありますね😊。
三条京阪で買い物して、地下鉄東西線から天神川駅まで行き、市バスに乗って帰りました。バスは3日ですので空いてました。
予報では、夜から雨降りと出てました。ただ少し曇った程度で、冷え込みもなく、歩いても疲れなかったです。「京都十六社朱印めぐり 」も、残り14社、頑張ります😊。
1月1日は雨が降りましたが、1月2日(火)は晴れて一日中良い天気でした。ただ最低気温は0.9℃と朝は冷え込みました。その2日(火)は、いろいろ所用があるので、最初から3日(水)に豊国神社からスタートと決めてました。理由は、豊国神社は、お正月の三ヶ日は、通常入れない国宝「唐門」内に入れて、本殿前まで行けるので、この日にしたわけです。
3日(水)の最低気温は4.4℃と、そんなに冷え込みは強く無かったです。しかし9時前に豊国神社に行きたいので、7時40分頃市バスに乗りました。1月1日には1時間前のバスに乗りましたが、四条京阪前までガラガラでした。この日は、そこそこ乗られてましたね。途中大丸京都店の前を通りましたが、既に並ばれていました。初売りは昨日だったのに・・・。
四条京阪前に着いて時計を見ると8時30分過ぎでしたので、そこから京阪に乗って七条まで行く予定を変更して、歩いて行くことにしました。豊国神社までのコースは1月1日に六波羅蜜寺に行ったときと同じで、違うのは六波羅蜜寺の時は、大和大路通りから松原通りを東に入ったのを、豊国神社に向かうので、そのまま大和大路通りを南下し、そのまま五条通りに出ます。そこから信号を渡って、そのまま、真っ直ぐ南下すると正面通りまで来ると、そこに豊国神社があるわけです。
時計を見ると8時54分と、まだ9時を回ってなかったので方広寺に寄りました。
昨年暮れまで見ていたNHK大河ドラマ「どうする家康」でも詳しく描かれた世に言う「方広寺鐘銘事件」の鐘を見に来た訳です。
この鐘に書かれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字に徳川がクレームをつけた訳ですね。ここで事件の模様をおさらいです。
方広寺は、豊臣秀吉が大仏(盧舎那佛)を安置するため、1586年(天正14年)に造営がはじまり、1595年(文禄4年)に創建しました。しかし、大仏は慶長大地震(1596年・慶長元年)により倒壊(伏見城も倒壊するほどの大地震)。秀吉の遺志を継いだ秀頼が大仏の再建に着手しましたが、1602年(慶長7年)に、鋳造中の大仏から出火炎上し大仏殿までも焼失します。ちなみに1602年は、徳川家康が征夷大将軍に任じられた年です。そして1607年(慶長12年)豊臣秀頼は豊臣家家臣の片桐且元を奉行として、再び大仏および大仏殿の再建を目指し大仏が鋳造され、大仏殿が完成したのは1612年(慶長17年)、1614年(慶長19年)4月には梵鐘も完成。しかし徳川幕府から鐘に書かれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字に、家康の名を切ったものであり徳川家を呪い、豊臣家のみの繁栄を願っているものであると家康の怒りをかったとあります。これをきっかけに大坂冬の陣、大阪夏の陣によって豊臣家は滅亡となりました。その鐘が今も残っているので見に来た訳です。
豊臣家滅亡後、この鐘は呪いの鐘として地面に置き鳴らさなくなりました。1884年(明治17年)に鐘楼が完成するまで雨曝しの状態でした。文字が読みにくいのは、そのせいでしょう。
ただ、この鐘楼周りに人が多かったので、もう少しゆっくり見て回りたかったけど豊国神社に移動することにしました。
8時56分になったので、お隣の豊国神社に行きました。唐門は閉まったままです。
ただ太鼓の音がして行って見ると神事が始まりそうで、それを撮ってみました。
国宝「唐門」内に神主さんが入って行かれました。本殿前で神事が始まりそうです。
「元始祭」が15分ぐらいあるので、20分頃から唐門内の神域に入れます。
国宝「唐門」です。元は伏見城の城門であったと伝えられ、南禅寺金地院から移築されました。西本願寺・大徳寺の唐門とともに「国宝の三唐門」と称されます。
開門まで時間があるので「手水舎」に行きました。水盤には豊臣家の家紋「桐紋(五七の桐)」が、それに豊臣秀吉の馬印である「千成瓢箪」から水が出ています。
唐門の前には陶器の「豊臣秀吉像」があります。この像は太平洋戦争中に制作されましたが、阪神淡路大震災により倒壊。長く蔵の中で保管されてきたそうですが、令和元年の新天皇即位に合わせる形で再び公開されることになったそうです。
今回は写真を撮らなかったので以前のものです。「拝殿」を通って「本殿」前で参拝できます。御祭神は、前関白太政大臣 正一位 豊臣秀吉公。御利益は、出世開運、厄除招福、良縁成就、商売繁昌でした。
隣の摂社「貞照(さだてる神社」は、真意に入らないと見えないです。祭神は秀吉の正室である北政所(高台院)で、1925年(大正14年)に創祀されました。
内側から国宝「唐門」を、この時だけは見られます。
帰りは正面から出たので「鳥居」から出て行きました。
前途したとおり、ここに大仏殿があって、大仏(盧舎那仏)が西に向いていたため、豊国神社前の通りは正面通りと言います。その正面通りを西に進むと「耳塚(鼻塚)」があります。
豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した「文禄・慶長の役」(1592~98年)において、秀吉軍の将兵は戦勝の証として首級のかわりに、朝鮮軍民男女の耳や鼻を切り取り、塩や酢に漬けて日本に持ち帰った。それらは秀吉の命により、この地に埋められ「供養の義」がもたれたという。これが現在に伝わる「耳塚(鼻塚)」の始まりです。
豊臣秀吉は1597年(慶長2年)に、この塚を築いたようで、このとき、僧侶約400人を呼んで供養を行いました。この塚には絶えず花が添えられています。この塚からさらに西に向いて歩きます。
川端通りを渡り、鴨川に架かる「正面橋」を渡ります。その前に信号待ちしているときに「京都タワー」が見えたので撮りました。
正面橋の途中で、鴨川の上流を撮りました。ユリカメモ写ってなかったですね。
正面通りから河原町通りまで行き、そこで信号を渡ります。そして河原町通りを北上すると、「京都十六社朱印めぐり」の市比賣神社に着きました。
御祭神が、多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)、市寸嶋比賣命(いちきしまひめのみこと)、多岐都比賣命(たぎつひめのみこと)、神大市比賣命(かみおおいちひめのみこと)、下光比賣命(したてるひめのみこと)。御利益は、女人厄除 祈祷所です。ここは女性の参拝者が多く混んでました。
市比賣神社を出て、河原町通りを北上し五条通りの交差点を渡って東に向いて歩くと「五条大橋」を渡ります。その五条大橋から鴨川の南を撮りました。
平安時代末に牛若丸(源義経)と弁慶が出会ったという伝説で知られる五条大橋ですが、この橋は違います。当時の橋は、ここから北に上がった松原通りに架かる橋だと伝わります。五条通りは戦時中に拡張されたと以前、聞いたことがありました。
京阪「清水五条駅」から京阪電車に乗って三条まで行きます。ここで降り清水寺に向かわれる外国人観光客が多いです。ただ相当歩く必要がありますね😊。
三条京阪で買い物して、地下鉄東西線から天神川駅まで行き、市バスに乗って帰りました。バスは3日ですので空いてました。
予報では、夜から雨降りと出てました。ただ少し曇った程度で、冷え込みもなく、歩いても疲れなかったです。「京都十六社朱印めぐり 」も、残り14社、頑張ります😊。
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