第58回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 大徳寺 法堂・仏殿へ
1月17日(水)は、通院日。朝早く起きて市バスに乗って出掛けます。ただ、最低気温は-0.4℃と大変寒かったです。早朝からテレビでは、阪神淡路大震災の地震が起きた午前5時46分に黙祷の模様が生中継されてました。29年前、私は普段なら寝ていたのに、たまたま布団の中でしたが起きてました。5時50分から始まる朝日放送の「Oh!天気」を待ってました。そして5時46分に京都市では震度5を記録するほど揺れました。揺れる前の轟音は忘れられません。
そして、放送が始まった朝日放送の「Oh!天気」では、アナウンサーの方の絶叫が聞こえてきました。その日は電車が止まったので出社せず一日中家に居ました。さいわい翌日には電車が動いたので出社できました。大阪からの人は出社できなかったように記憶していますが、記憶も曖昧になってきましたね。
このあと4月に大阪へ転勤になって、半年たった神戸市に応援に行ったときの事は覚えています。随分復旧が進んでましたが、まだ道路が波打ってました。我が社のビルは全体に工事用の幕に覆われてて、それを見ても当日の被害が甚大だったことが分かりました。
その日も寒かったでしょう、今日も氷点下の寒さでした。朝早くから病院に行き、診察を受けて薬を貰い、家に電話すると妻も用事が終わったので、車でこちらに向かって貰い、そして向かった先が大徳寺でした。今年の1月6日(土)から始まった、第58回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 大徳寺 法堂・仏殿に行くためです。
大徳寺の駐車場には、9時46分に入れました。 今日は特別公開している「大徳寺 法堂・仏殿」と「龍源院」を回るつもりです。ただ、拝観券は公益財団法人 京都市文化観光資源保護財団から2枚いただいているので、それを使います。妻は寺や神社に関心が無いので、入りません😊。

大徳寺駐車場に車を止めて「総門」から境内に入ります。
総門前には、本日特別拝観されている案内が出てました。
本日、訪れる予定「龍源院」です。ここは通常拝観されていて、拝観時間は9時からでした。この「京の冬の旅」の期間が10時となっていたので、確かめに寄ってみました。
通常拝観は9時ですが、この時、9時52分でした。ただ門は閉まっています。やっぱり案内どおり10時からのようです。特別拝観で見るのはただ一つですが、それは後程、ここから法堂へ向かいました。
非公開の「三門」です。三門は、参道の入り口にある高さ17㍍の門で、「金毛閣(きんもうかく)」とも呼ばれています。
昨年のNHKニュースで知ったことですが、大徳寺の三門で、内部の仏像の本格的な調査が行われました。2階にある釈迦三尊像の1体が、鎌倉時代につくられた可能性があることがわかり、専門家は、「火災でなくなった仏像が多く非常に貴重だ」と話されてました。この三門は、室町時代に始まった応仁の乱で焼け落ちたあと1階が再建され、その後、安土桃山時代には、茶人の千利休によって2階がつくられ、国の重要文化財に指定されています。2階には、このほか、江戸時代末期につくられた木造の利休像があります。この利休像をめぐっては、利休が秀吉の怒りをかい、切腹を命じられた原因になったとも伝えられていますが、当時の木像は現存せず、現在のものは明治時代になって寄進されたものです。高さはおよそ1㍍70㌢、等身大と伝えられていますが、今回の調査では、胴体に京都の仏師が制作したという銘文が確認され、つくられた経緯の解明につながるものだということです。特別拝観もされないので、一度は登ってみたいですね😊。
こちらは、あとで堂内に入る「仏殿」です。ただ、ここは外から内部が、はっきり見えるのであまり特別感は無いです。
仏殿と渡り廊下で繋がっている「法堂」が北側にあります。

こちらが「法堂」です。2014年(平成26年)10月2日に「大徳寺本坊&法堂&唐門の特別公開」で入ったことがあります。
受付が何処か分からなかったので探しました。法堂の北西側でしたね。ここで「京の冬の旅」ガイドブックを購入、拝観券は京都市文化観光資源保護財団からの招待券を使いました。ここからスタンプラリーもスタートです。
入ると左手には本坊に通じる渡り廊下があります。本坊は、2020年(令和2年)12月から10年の年月をかけて修理工事中です。
法堂に入る前に、国宝「唐門」が見えるかなぁと思いましたが、工事用の幕に覆われてて見えませんでした。
堂内は撮影禁止です。ここではガイドさんの案内がありました。この写真は、お正月にアップしたときのものです。
現在の法堂(重文)は、開山300年忌に際して1636年(寛永13年)に小田原城主・稲葉正勝(母は江戸幕府3代将軍徳川家光の乳母・春日局)の遺志により、子の正則の寄進により再建。天井の「雲龍図」は狩野探幽が35歳の時に描きました。この龍は鳴き龍としても有名で、天井の下で手を叩くと龍が鳴いたように反響します。龍は仏法の神様で、「修行僧に仏法の雨を降らせる」とか「水の神様である龍が建物を火災から守ってもらえる」とかの意味があるそうです。
まだ人が少なかったので、一人ずつ手を叩いて反響を聞きました。狩野探幽は、鹿野永徳の二男・狩野孝信の子。江戸時代初期の狩野派の絵師。

次に渡り廊下を通って「仏殿」(重文)に行きます。
仏殿から法堂を見ています。普段、ここから法堂を見ることはありません。
仏殿は、西側から入りました。仏殿内も撮影禁止です。ただ、前途したとおり、ここはいつでも内部は外から見られます。この仏殿でもガイドさんの話しがありました。
大徳寺の本堂にあるたる「仏殿(重文)」は1665年(寛文5年)に再建されたもの。京の豪商那波常有(なわじょうゆう)の寄進によって建立されました。
江戸幕府4代将軍徳川家綱が寄進した釈迦如来坐像を安置。1667年(寛文7年)に再建された方広寺の大仏を造った仏師が、像高190㌢と方広寺大仏の10分の1の規模の試作品で造られ、それが後に大徳寺に寄進されたと伝わります。また天井には室町時代の絵師・狩野元信筆「天人散華図(てんにんさんげのず)」が描かれています。この天井部分は、1479年(文明11年)に堺の豪商尾和宗臨(おわそうりん)の寄進で建てられた以前の仏殿から再利用されたものです。
以前、外から天井を見ても絵が薄れてて、堂内に入って天井を見上げても掠れて、天女の絵は分からなかったです。ここは特別感があまりないので、説明を聞いたら早々に出て行きました。
帰りは、再び法堂に向かうため渡り廊下を通ります。そして、最初に入った所が出て行きました。
外から見た「仏殿」(重文)です。ご覧のように正面が開いているので、ここはいつでも内部は見られます。ただ暗いですけど。
この仏殿前には、1665年(寛文5年の)仏殿建立時に植えられたと伝わるビャクシン(柏槙)又はイブキ(伊吹)があり、京都市の天然記念物に指定されています。
この時、10時15分でした。ここから急いで次の龍源院に向かいました。
そして、放送が始まった朝日放送の「Oh!天気」では、アナウンサーの方の絶叫が聞こえてきました。その日は電車が止まったので出社せず一日中家に居ました。さいわい翌日には電車が動いたので出社できました。大阪からの人は出社できなかったように記憶していますが、記憶も曖昧になってきましたね。
このあと4月に大阪へ転勤になって、半年たった神戸市に応援に行ったときの事は覚えています。随分復旧が進んでましたが、まだ道路が波打ってました。我が社のビルは全体に工事用の幕に覆われてて、それを見ても当日の被害が甚大だったことが分かりました。
その日も寒かったでしょう、今日も氷点下の寒さでした。朝早くから病院に行き、診察を受けて薬を貰い、家に電話すると妻も用事が終わったので、車でこちらに向かって貰い、そして向かった先が大徳寺でした。今年の1月6日(土)から始まった、第58回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 大徳寺 法堂・仏殿に行くためです。
大徳寺の駐車場には、9時46分に入れました。 今日は特別公開している「大徳寺 法堂・仏殿」と「龍源院」を回るつもりです。ただ、拝観券は公益財団法人 京都市文化観光資源保護財団から2枚いただいているので、それを使います。妻は寺や神社に関心が無いので、入りません😊。




通常拝観は9時ですが、この時、9時52分でした。ただ門は閉まっています。やっぱり案内どおり10時からのようです。特別拝観で見るのはただ一つですが、それは後程、ここから法堂へ向かいました。

昨年のNHKニュースで知ったことですが、大徳寺の三門で、内部の仏像の本格的な調査が行われました。2階にある釈迦三尊像の1体が、鎌倉時代につくられた可能性があることがわかり、専門家は、「火災でなくなった仏像が多く非常に貴重だ」と話されてました。この三門は、室町時代に始まった応仁の乱で焼け落ちたあと1階が再建され、その後、安土桃山時代には、茶人の千利休によって2階がつくられ、国の重要文化財に指定されています。2階には、このほか、江戸時代末期につくられた木造の利休像があります。この利休像をめぐっては、利休が秀吉の怒りをかい、切腹を命じられた原因になったとも伝えられていますが、当時の木像は現存せず、現在のものは明治時代になって寄進されたものです。高さはおよそ1㍍70㌢、等身大と伝えられていますが、今回の調査では、胴体に京都の仏師が制作したという銘文が確認され、つくられた経緯の解明につながるものだということです。特別拝観もされないので、一度は登ってみたいですね😊。







堂内は撮影禁止です。ここではガイドさんの案内がありました。この写真は、お正月にアップしたときのものです。
現在の法堂(重文)は、開山300年忌に際して1636年(寛永13年)に小田原城主・稲葉正勝(母は江戸幕府3代将軍徳川家光の乳母・春日局)の遺志により、子の正則の寄進により再建。天井の「雲龍図」は狩野探幽が35歳の時に描きました。この龍は鳴き龍としても有名で、天井の下で手を叩くと龍が鳴いたように反響します。龍は仏法の神様で、「修行僧に仏法の雨を降らせる」とか「水の神様である龍が建物を火災から守ってもらえる」とかの意味があるそうです。
まだ人が少なかったので、一人ずつ手を叩いて反響を聞きました。狩野探幽は、鹿野永徳の二男・狩野孝信の子。江戸時代初期の狩野派の絵師。





江戸幕府4代将軍徳川家綱が寄進した釈迦如来坐像を安置。1667年(寛文7年)に再建された方広寺の大仏を造った仏師が、像高190㌢と方広寺大仏の10分の1の規模の試作品で造られ、それが後に大徳寺に寄進されたと伝わります。また天井には室町時代の絵師・狩野元信筆「天人散華図(てんにんさんげのず)」が描かれています。この天井部分は、1479年(文明11年)に堺の豪商尾和宗臨(おわそうりん)の寄進で建てられた以前の仏殿から再利用されたものです。
以前、外から天井を見ても絵が薄れてて、堂内に入って天井を見上げても掠れて、天女の絵は分からなかったです。ここは特別感があまりないので、説明を聞いたら早々に出て行きました。


この仏殿前には、1665年(寛文5年の)仏殿建立時に植えられたと伝わるビャクシン(柏槙)又はイブキ(伊吹)があり、京都市の天然記念物に指定されています。
この時、10時15分でした。ここから急いで次の龍源院に向かいました。
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