京都市史跡 羽束師坐高御産日神社(羽束師神社)へ
2月6日(火)は、京都市伏見区にある京都市史跡 羽束師坐高御産日神社(羽束師神社)に行きました。地名は伏見区ですが、長岡京市から出ているバスの方が便利でしょう。京都の方かなら分かるかと思いますが、京都府自動車運転免許試験場の近くに羽束師神社はあります。
京都市内から国道171号線を走って、馬場の交差点を左折します。そして新幹線の高架をくぐり、西羽束師川に架かる橋を渡ると信号があって、右折すると懐かしの京都府自動車運転免許試験場ですが、信号を超えた最初の信号を左折しました。
100㍍ほとの所に「一の鳥居」がありました。
羽束師神社は、1500年有余年より、「波都賀志社」「羽束社」「羽束師社」「羽束石社」「羽束志宮」と社名が変わっていったようです。扁額の「羽束石社」も、その名残のようです。
一の鳥居からさらに進むと「二の鳥居」がありました。ここの扁額は「羽束師社」と書かれてました。
この時、9時6分と9時は過ぎてました。多分、社務所は開いてるだろぁと思って来たので、ほぼ予想した時間通りです。最低気温は3.7℃とそんなに寒くは無かったです。ただ、曇ったり晴れたり目まぐるしい天気でした。羽束師坐高御産日神社に来たのは、以前から目標にしていた、週間「日本の神社」内に掲載されてた「京都府の神社」66社を全て回ることでした。残り2社となり、今日1社回ったので、ラスト1社(自玉手祭来酒解神社)となった訳です。
多分、空いていると思って来ましたが、近所の方が散歩に来られているぐらいでした。
御祭神の高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かんみむすびのかみ)の二神を祀り、桂川右岸の旧乙訓郡に所在する古社で、五穀豊穣、農耕の神として信仰をあつめてきました。この地は桂川、旧小畑川等河川の合流するところで、平野部にあたって島状の微髙地に位置し、農耕、水上交通に恵まれ開けてきました。社伝によると、御鎮座は477年(雄略天皇21年)の創建。飛鳥時代に中臣鎌足が詔によって再建したとの伝承もあります。『続日本紀』701年(大宝元年)4月3日のくだりに「波都賀志等(はつがしなど)の御神稲(ごしんとう)を今より以後中臣氏に給え」とあるのが文献に見える最も古い記録です。『延喜式』では名神大社に列せられ、平安時代以降は、祈雨神としても信仰をあつめてました。境内の森は「羽束師の森」として広く知られ、歌人の間で歌枕として用いられるようになりました。1996年(平成8年)4月1日4付けで京都市史跡されました。
「手水舎」に寄りましたが、水も無かったし、出る雰囲気が無かったです。
「授与所」ありましたが、どうも無人のようです。9時は過ぎてますが、時間が早いので先に参拝です。
こちらの社は、神社名は無いそうです。近隣の撤去されてる社をこちらに移転されてきたようです。
本殿は奥で、手前に「割拝殿」がありました。割拝殿の手前には「狛犬」が鎮座しています。
割拝殿を通って「本殿」前で参拝させて貰いました。御祭神は前途した「むずび」の霊力をお持ちの高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かんみむすびのかみ)の二柱です。
本殿の東西に祀られている11社は、808年(大同3年)12月に朝廷祭儀を掌る斎部広成(いんべのひろなり)公が第51代平城天皇(へいぜいてんのう)に申し上げ、勧請造営された社です。
先に境内の西側から。右から「若王子社(若王子大神)」「愛宕社(愛宕大神)」「嚴島社(嚴島大神)」「稲荷社(稲荷大神)」「西宮社(えびす大神)」「貴布祢社(貴布祢大神)」が。
次に、本殿の西側から後ろ側を通って東に出てみます。本殿前にも「狛犬」が鎮座してました。
本殿の裏手にも鳥居がありました。そして小さな社も。北野天満宮に裏の社がありましたね。
東側に出てみると最初に「稲荷神社」を目にします。
東側の左から「天照皇大神(三重伊勢神宮)」「八幡大神(石清水八幡宮)」「春日明神(奈良春日大社)」「大神明神(奈良大神神社)」「籠守勝手明神」が並んでます。
再び本殿前に戻ってきました。こまあと「割拝殿」を通って、外に出てみます。
割拝殿前の「ロウバイ」が綺麗でした。今が見頃でしたね。
次に西羽束師川沿いに出ました。この道路も交通量多いです。こちらは「史跡羽束師坐高御産日神社境内」と書かれた石碑です。
いろいろ石碑が点在していて。こちらは「治水頌功之碑」とありました。
1809年(文化6年)から17年の歳月をかけて治水工事をされ、人々は累代にわたる水害から免れるようになったそうです。この人工水路は、羽束師神社から「羽束師川」と名付けられて完成しました。このようなことが石碑に書かれてました。
神社を横切る道路、以外と車の行き来多かったように思います。西羽束師川沿いからは、ここから境内に入ります。
西羽束師川沿いには、このような大きい看板もあるので迷うことは無いでしょう。
この看板には「北向見返天満宮」のもあります。ここを出たら次に行く予定にしてました。
その看板の裏手・・・境内側です。扁額には「羽束師大神」と書かれてました。
ここから授与所に行くと、やっぱり不在です。ただ張り紙があって、「御用の方は社務所へ」とあったので、そこで呼鈴を押すと出て来られました。
「宮司が留守で書き置きしかありません」と言われましたが、もちろんOKです。ただ書き置きも無かったので、書いて貰い、そして由緒書までいただけました。遠路来たので良かったです😊。
最高気温が9.2℃しか上がらなかったので、陽が刺すと暖かさを感じます。ここでゆっくりしたので、そろそろ出て行きます。
「一の鳥居」を出ます。ここを出て左にある石碑に注目です。
この石碑は、行きの時から気づいてました。ここから西に向かって歩きます。
次の目的が北向見返天満宮でした。先にいただいた羽束師坐高御産日神社の由緒書にも載っていたので、摂社か末社なんでしょう。
この地は平安時代前期の901年(延喜元年)に、時の権力者の謀略により、都落ちを余儀なくされた、右大臣菅原道真が筑紫大宰府へ左遷され折り、先祖代々縁りの羽束師神社に参詣の際、立ち寄られと伝えられています。その際、「君臣、縁の切れしを再び結び給え」と祈り、「捨てられて、思ふおもいのしげるをや 身を羽束師の 杜というらん」と詠まれました。北方の禁裏を見返りつつ、名残惜しき都への切実な想いを詠まれた由緒あるところです。後年、菅原道真の威徳を称える人々により、神霊が奉祀され、都の行く末を案じ守護するが如く、北向きに奉斎され、現在まで北向見返天満宮として幅広く崇敬されています。2015年(平成27年)には大々的に境内整備が実施され現状が一新されました。
由緒書に境内を整備されたと書いてありましたが、天満宮らしく早咲きの梅の花が見頃となってました。
社は北に向いてました。社名の通りですね。それより紅梅の美しさに驚きです。
従来の社殿が新しい社の覆われて建てられています。
社殿の裏手にも紅梅が見事に咲いてました。多分、ご近所の方しか知られてないでしょうね、紅梅が綺麗なことを。
このような広くない境内のため、紅梅を撮ったら早々と出て行きました。
羽束師坐高御産日神社の駐車場のようですが、チェーンがあるので入れません。ただ、境内に空きがあるので自由に止められました。
10時過ぎに、ここを出て帰路に着きました。帰りも渋滞に遭うこともなく順調に走り約50分で帰ることができました。
京都市内から国道171号線を走って、馬場の交差点を左折します。そして新幹線の高架をくぐり、西羽束師川に架かる橋を渡ると信号があって、右折すると懐かしの京都府自動車運転免許試験場ですが、信号を超えた最初の信号を左折しました。
100㍍ほとの所に「一の鳥居」がありました。
羽束師神社は、1500年有余年より、「波都賀志社」「羽束社」「羽束師社」「羽束石社」「羽束志宮」と社名が変わっていったようです。扁額の「羽束石社」も、その名残のようです。
一の鳥居からさらに進むと「二の鳥居」がありました。ここの扁額は「羽束師社」と書かれてました。
この時、9時6分と9時は過ぎてました。多分、社務所は開いてるだろぁと思って来たので、ほぼ予想した時間通りです。最低気温は3.7℃とそんなに寒くは無かったです。ただ、曇ったり晴れたり目まぐるしい天気でした。羽束師坐高御産日神社に来たのは、以前から目標にしていた、週間「日本の神社」内に掲載されてた「京都府の神社」66社を全て回ることでした。残り2社となり、今日1社回ったので、ラスト1社(自玉手祭来酒解神社)となった訳です。
多分、空いていると思って来ましたが、近所の方が散歩に来られているぐらいでした。
御祭神の高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かんみむすびのかみ)の二神を祀り、桂川右岸の旧乙訓郡に所在する古社で、五穀豊穣、農耕の神として信仰をあつめてきました。この地は桂川、旧小畑川等河川の合流するところで、平野部にあたって島状の微髙地に位置し、農耕、水上交通に恵まれ開けてきました。社伝によると、御鎮座は477年(雄略天皇21年)の創建。飛鳥時代に中臣鎌足が詔によって再建したとの伝承もあります。『続日本紀』701年(大宝元年)4月3日のくだりに「波都賀志等(はつがしなど)の御神稲(ごしんとう)を今より以後中臣氏に給え」とあるのが文献に見える最も古い記録です。『延喜式』では名神大社に列せられ、平安時代以降は、祈雨神としても信仰をあつめてました。境内の森は「羽束師の森」として広く知られ、歌人の間で歌枕として用いられるようになりました。1996年(平成8年)4月1日4付けで京都市史跡されました。
「手水舎」に寄りましたが、水も無かったし、出る雰囲気が無かったです。
「授与所」ありましたが、どうも無人のようです。9時は過ぎてますが、時間が早いので先に参拝です。
こちらの社は、神社名は無いそうです。近隣の撤去されてる社をこちらに移転されてきたようです。
本殿は奥で、手前に「割拝殿」がありました。割拝殿の手前には「狛犬」が鎮座しています。
割拝殿を通って「本殿」前で参拝させて貰いました。御祭神は前途した「むずび」の霊力をお持ちの高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かんみむすびのかみ)の二柱です。
本殿の東西に祀られている11社は、808年(大同3年)12月に朝廷祭儀を掌る斎部広成(いんべのひろなり)公が第51代平城天皇(へいぜいてんのう)に申し上げ、勧請造営された社です。
先に境内の西側から。右から「若王子社(若王子大神)」「愛宕社(愛宕大神)」「嚴島社(嚴島大神)」「稲荷社(稲荷大神)」「西宮社(えびす大神)」「貴布祢社(貴布祢大神)」が。
次に、本殿の西側から後ろ側を通って東に出てみます。本殿前にも「狛犬」が鎮座してました。
本殿の裏手にも鳥居がありました。そして小さな社も。北野天満宮に裏の社がありましたね。
東側に出てみると最初に「稲荷神社」を目にします。
東側の左から「天照皇大神(三重伊勢神宮)」「八幡大神(石清水八幡宮)」「春日明神(奈良春日大社)」「大神明神(奈良大神神社)」「籠守勝手明神」が並んでます。
再び本殿前に戻ってきました。こまあと「割拝殿」を通って、外に出てみます。
割拝殿前の「ロウバイ」が綺麗でした。今が見頃でしたね。
次に西羽束師川沿いに出ました。この道路も交通量多いです。こちらは「史跡羽束師坐高御産日神社境内」と書かれた石碑です。
いろいろ石碑が点在していて。こちらは「治水頌功之碑」とありました。
1809年(文化6年)から17年の歳月をかけて治水工事をされ、人々は累代にわたる水害から免れるようになったそうです。この人工水路は、羽束師神社から「羽束師川」と名付けられて完成しました。このようなことが石碑に書かれてました。
神社を横切る道路、以外と車の行き来多かったように思います。西羽束師川沿いからは、ここから境内に入ります。
西羽束師川沿いには、このような大きい看板もあるので迷うことは無いでしょう。
この看板には「北向見返天満宮」のもあります。ここを出たら次に行く予定にしてました。
その看板の裏手・・・境内側です。扁額には「羽束師大神」と書かれてました。
ここから授与所に行くと、やっぱり不在です。ただ張り紙があって、「御用の方は社務所へ」とあったので、そこで呼鈴を押すと出て来られました。
「宮司が留守で書き置きしかありません」と言われましたが、もちろんOKです。ただ書き置きも無かったので、書いて貰い、そして由緒書までいただけました。遠路来たので良かったです😊。
最高気温が9.2℃しか上がらなかったので、陽が刺すと暖かさを感じます。ここでゆっくりしたので、そろそろ出て行きます。
「一の鳥居」を出ます。ここを出て左にある石碑に注目です。
この石碑は、行きの時から気づいてました。ここから西に向かって歩きます。
次の目的が北向見返天満宮でした。先にいただいた羽束師坐高御産日神社の由緒書にも載っていたので、摂社か末社なんでしょう。
この地は平安時代前期の901年(延喜元年)に、時の権力者の謀略により、都落ちを余儀なくされた、右大臣菅原道真が筑紫大宰府へ左遷され折り、先祖代々縁りの羽束師神社に参詣の際、立ち寄られと伝えられています。その際、「君臣、縁の切れしを再び結び給え」と祈り、「捨てられて、思ふおもいのしげるをや 身を羽束師の 杜というらん」と詠まれました。北方の禁裏を見返りつつ、名残惜しき都への切実な想いを詠まれた由緒あるところです。後年、菅原道真の威徳を称える人々により、神霊が奉祀され、都の行く末を案じ守護するが如く、北向きに奉斎され、現在まで北向見返天満宮として幅広く崇敬されています。2015年(平成27年)には大々的に境内整備が実施され現状が一新されました。
由緒書に境内を整備されたと書いてありましたが、天満宮らしく早咲きの梅の花が見頃となってました。
社は北に向いてました。社名の通りですね。それより紅梅の美しさに驚きです。
従来の社殿が新しい社の覆われて建てられています。
社殿の裏手にも紅梅が見事に咲いてました。多分、ご近所の方しか知られてないでしょうね、紅梅が綺麗なことを。
このような広くない境内のため、紅梅を撮ったら早々と出て行きました。
羽束師坐高御産日神社の駐車場のようですが、チェーンがあるので入れません。ただ、境内に空きがあるので自由に止められました。
10時過ぎに、ここを出て帰路に着きました。帰りも渋滞に遭うこともなく順調に走り約50分で帰ることができました。
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