旧嵯峨御所 大本山 大覚寺 大沢池に名古曽橋が完成
2024年(令和6年)2月6日(火)に、旧嵯峨御所 大本山 大覚寺 大沢池に鎌倉時代の橋を再現され、「名古曽橋竣工法会・開通式典」が執り行われました。
これは、大覚寺寺号勅許(開創)1150年記念事業の一環として鎌倉時代の絵図に描かれていた「池に浮かぶ島と岸を結ぶ橋」を作る計画をたて橋の再現することを令和3年に発願され、この日完工されることになりました。大沢池は、国の名勝に指定され、平安時代に嵯峨天皇がつくったと伝わります。式典では、大覚寺とゆかりの深い菅原道真公を祀る北野天満宮の関係者が神事を執り行い神楽が奉納されました。そのあと関係者が橋の渡り初めをされました。橋は檜製で、長さ12㍍余り、幅1.5㍍ 寺の話しでは約700年振りに橋が架かったとされます。橋の近くには、百人一首にある和歌の舞台ともなった名古曽瀧跡があるので「名古曽(なこそ)橋」と名付けられました。
訪れたのは2月14日(水)、今季最高気温の19.8℃を記録した日です。これは4月中旬頃の気温で、桜が咲いて散り終えた頃、まだ2月の半ばだと言うのに、これでは夏の気温が怖くなりますね。この日は病み上がりでした。それは2月9日に遡ります。それは最後に😊。先週風邪で寝込む前は、セーターにマフラーと手袋、それにジャバーを着てましたが、朝の最低気温も4.8℃と高かったので、マフラー、セーター無しで出掛けることに。
8時57分に「大沢門」前に着きました。この冬の時期(暦では立春過ぎたので春)に早朝から来る人なんか居ないはずです。
受付に行くと、「開門は9時からで少しお待ち下さい」と。分かって来たので納得済みです。9時なり受付され、拝観料300円と、特別御朱印1000円を納めました。
御朱印に日付を入れられるのに時間を取ったので、9時2分に入りました。
入って直ぐの石碑は「津崎村岡碑」(明治25年建立)です。津崎村岡とは・・・?。
津崎矩子(つざきのりこ)は1786年(天明6年)嵯峨に生まれ、近衛忠煕に仕え村岡局(むらおかのつぼね)と名乗る。幕末から維新にかけてこの女性勤王派で清水寺成就院の僧月照(げっしょう)や西郷隆盛らと交友をもち運動を助ける。晩年は北嵯峨の直指庵に隠居し付近の子女の教育に尽くし庶民の慈悲として親しまれる。嵐山にある「亀山公園」には銅像があります。
昨日も天気が良くて気温が上がり2月とは思えない天候でしたが、今日も良い天気です。気温もグングン上がりそうですね。
この時間では五大堂の「観月台(濡れ縁)」まで人は来てません。
周囲が約1㌔の日本最古の人工の林泉(林や泉水などのある庭園)。第52代嵯峨天皇が離宮嵯峨院の造営にあたって、唐の洞庭湖を模して造られたところから、庭湖とも呼ばれています。
その先の「五社明神」の鳥居をくぐります。こちらは帰りにもう一度、通る予定にしています。
放生池越しに「心経宝塔」を撮りました。この大沢池エリアのビュースポットの一つです。
こちらは時代劇では良く使われるスポットの大沢池畔に建てられた「護摩堂」です。2間四方、方形造瓦葺の建物。
往古の大覚寺伽藍周辺に建てられた子院の一つであった仏母心院跡に建立され、不動明王を祀られています。ここで毎月一回、10時から1時間30分程度、護摩の炎で心願成就を祈願されます。
護摩堂の、その奥には、鎌倉時代中期の作と思われる「石仏群」があって見逃せません。
20基を超える如来や菩薩の石仏群。古い者は平安時代後期の作もと伝わります。
この朱塗りの橋を渡って、「天神島」に渡ります。
この島に菅原道真公を祀る「天神社」があるので天神島というのでしょう。
天神社は菅原道真公を御祭神として祀られています。第52代嵯峨天皇が建立された離宮嵯峨院は第56代清和天皇の勅許を得て、876年(貞観18年)に大覚寺が開祖され創建に当たり、清和天皇への上奏文を起草され仏法の興隆と衆生齊度のため僧俗2人の別当を置くよう進言されたのが菅原道真公です。また、道真公自身も大覚寺の俗別当(俗人の身分のまま寺院を統轄する責任者)を務められたと伝わります。
この日は新しく出来た橋を渡りにきたので、再び朱塗りの橋には戻りません。右が「茶筅塚」、左に「嵯峨碑」があります。華道の先達への慰霊碑だそうです。
この天神島(てんじんじま)には、嵯峨天皇が詠まれた漢詩「嵯峨天皇詠碑」が石碑に刻まれています。嵯峨天皇と弘法大師空海の仲の良さが分かる漢詩ですね。
当時弘法大師空海は神護寺の現在の大師堂に住まわれてました。その空海は、度々山を降り嵯峨天皇が住む離宮嵯峨院に会いに来られたようです。嵯峨天皇と弘法大師空海がお茶を楽しまれてて、空海が神護寺に帰るとき、嵯峨天皇が別れを惜しんで作られたのが、この漢詩だそうです。
与海公飲茶送帰山一首(空海と茶を飲みて山に帰るのを送る)
御製(ぎょせい)
道俗相分経数年(僧と俗人相別れて数年を経たり)
今秋晤語亦良縁(この秋打ち解け語り合えた事は良縁)
香茶酌罷日云暮(茶を入れては飲むのをやめ日暮れる)
稽首傷離望畑烟(頭を低くたれて別れを惜しみ帰って行く雲烟を眺める)
天神島から、奥の「菊ケ島」と、手前「庭湖石」を見ています。写真の前にはアオサギやカモが石の上に居ましたが近づいたら飛んでしまいました。
名古曽橋の案内では「橋は檜製で、長さ12㍍余り、幅1.5㍍」とありましたが、私は昨年の9月30日に工事中の橋を見てました。基礎部分は鉄筋コンクリート製でしたね。
初めて渡りました。上手に鉄筋とコンクリート隠してあるなぁ・・・が感想です。天神島から名古曽瀧に行くのに便利になりました。
名勝「名古曽瀧跡」に行くと、いつもと違う光景が・・・・?。それは瀧から水が流れている!!!。
離宮嵯峨院の滝殿庭園内に設けられたもので、今昔物語では百済川成(くだらのかわなり)が作庭したと伝わります。「滝の音は 絶えてひさしくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」(藤原公任)。藤原公任(ふじわらのきんとう)は平安時代の歌人。詩歌や管弦の諸芸に通じ、また故実に詳しく、書は古筆として珍重されています。和漢朗詠集や拾道和歌集などの撰に携わりました。三十六歌仙の1人。
ここで藤原公任の名を聞くとは・・・?。NHK大河ドラマ「光る君へ」を見てなかったらスルーしてたでしょう😊。町田啓太さん演じる藤原公任は、橋爪 淳さん演じる関白太政大臣藤原頼忠の息子。柄本佑さん演じる藤原道長とは同い年で、友情を育むが、出世レースが進むにつれ関係が変化する。音曲、漢詩、和歌など文化面に秀でており、まひろ(紫式部)の『源氏物語』に興味を持つ。とNHKの人物紹介では書いてあります。この先の楽しみが増えました😊。なお公任の時代には、すでに滝は枯れており、昔日をしのんで歌ったもの。現代語に訳すと「滝の流れ落ちる音が聞こえなくなってずいぶん経つけれど、滝の評判だけは流れて伝わり、今もなお人々に聞こえているんだなぁ」と。この歌が有名になったことでこの枯れ滝は「名古曽(なこそ)の滝」と呼ばれるようになりました。
この大沢池エリアには梅園があります。北野天満宮の梅苑では早咲きが見頃と出てました。ここはチラホラ咲き程度でした。
これから大沢池を巡ります。ここからは嵐山が綺麗に見えました。今日は天気が良いので気持ち良いです。
ここから天神島に架かる名古曽橋が見えました。
この辺りは、春になると見事な桜が咲き誇ります。そのこと詠まれたのか石碑がありました。
「花を惜しむこころは いったい何なのだろう いくつ齢をかさねたら心はしづまり ひとり酒汲む静寂に 住むことができるのか 今日も嵯峨御所から花信が舞ひこんできた」(白井喜之助詠)
カモが二羽泳いでましたが、私が近づくと勢いよく飛び出しました。
するとカモの集団の横断風景を目撃!。近づいてみると・・・?。
大沢池に飛び込んだあと泳いでいました。アオサギは何処かに飛んでしまいましたね。
大沢池の出口には山茶花が咲いてて、そこにも石碑がありました。「紅を 少しのぞかせ ふっくらと 椿の蕾の 只の一輪」(平田春一詠)
「川田順 わが友の 平田乃大人の おもひもの」(島田保子詠)
この先を進むと「大沢門」です。ただ、今日は出ません。まだ見てない所があるのでね。
この大沢門より入口近くに「望雲亭」があります。嵯峨天皇が帰山される弘法大師空海を見送られるに当たり詠まれた漢詩の中より名付けられました。
望雲亭は、元は京都市左京区の岡崎にあった澤村道範の遺室を1935年(昭和10年)「開山恒寂入道親王1050年御遠忌」に際し、この地に移転し、裏千家14代淡々斎宗匠家元の好みにて、八畳の広座敷を増築するも1973年(昭和48年)に火災より焼失。1975年(昭和50年)「大覚寺寺号勅許1100年記念事業」として、 鵬雲斎家元監修により再建されました。秩父宮家より下賜された家具が使用されています。
行きはスルーした「五社明神」に入りました。向かって左が「松尾大明神神社」、右が「愛宕大権現社・清滝大権現社」が祀られています。
手前に「拝殿」があって、本殿が奥にあります。「伊勢神宮(豊受皇大神)」「伊勢神宮(天照皇大神)」「八幡宮(応神天皇)」「春日宮(天津兒屋根命)」「住吉宮(底筒男命 表筒男命 中筒男命 神功皇后)」の五社が祀られています。
離宮嵯峨院の鎮守であり弘法大師空海が勧請したと伝わります。
同じ境内の東側には「氣比大明神社・多賀大明神社」もあります。あと一社ありますが帰りに寄ります。
通常非公開の「心経宝塔」まで来ました。2013年(平成25年)7月14日「第38回 京の夏の旅」に基壇内部に入りました。
1967年(昭和42年)、嵯峨天皇心経写経1150年を記念して建立。基壇内部に「如意宝珠」を納めた真珠の小塔を安置。宝塔内部には秘鍵(弘法)大師尊像が祀られています。
心経宝塔の下の石碑には、経営の神様が書かれた「頌頌」の文字が。意味は徳を褒め称えることのようですね。
こちらの石碑には「五蘊(ごうん)」と書かれています。「蘊」はあつまりの意で 仏語。 色(物質)、受(印象・感覚)、想(知覚・表象)、行(意志などの心作用)、識(心)の五つをいい、総じて有情の物質、精神の両面にわたる。 因縁によって生ずる有為法をいう。 また、心身環境をも示す。
お隣は多目的施設の「蓮華殿」で通常は開いてません。2017年(平成29年)12月2日の大覚寺 夜間特別拝観「真紅の水鏡」の時は営業されてました。
さらに西隣に行くと宝形の「聖天堂」が建っています。通常非公開。
1962年(昭和37年)頃までは、「望雲亭」西側に建っていたのを移築。内部には、歓喜天・十一面観世音菩薩が祀られています。
境内の西の端にある非公開の「大日堂」です。
大覚寺門跡が明治初頭まで兼帯していた安井門跡蓮華光院が管理していた洛東の岩倉山真性寺が廃寺となる際に移築したもの。正面を入母屋造りとして内陣は六角堂石造の大日如来像(江戸時代)を祀る。
最後に「閼伽堂(あかどう)」に寄りました。ここも非公開ですが過去に2度ほど内部に入っています。最近では2014年11月30日に入りました。
約1200年前大覚寺の前身離宮嵯峨院時代嵯峨天皇の命で弘法大師が建立した持仏堂「五覚院」の閼伽井として、弘法大師が自ら掘られた井戸と伝わります。仏に供える神聖な浄水をここで汲みます。
帰りも五社明神内を通ります。それで残りの1社「正一位稲荷大神社」を撮りました。
9時41分に大沢池を出ました。今日はお堂エリアには入りません。
名古曽橋の完成を記念して特別御朱印を期間限定で授与されていたので、いただきました。
お堂エリアの前を通って、歩いて帰りました。帰ってから少し咳が出た程度で、発熱はありませんでした。もう大丈夫でしたね。
2月9日は通院日で、終わったあと所用先に行き、そのついでに「花山天皇 紙屋川上陵」を見て来ました。そして昼から何だか寒気がさしてきて・・・体温を測ると、やっぱり発熱してました。発熱は、昨年の5月の連休以来で、連休明けの「對龍山荘特別公開講座」は無理をして参加し悪化させましたね😢。今回の風邪引きは翌日から3連休と言うことで、昨日も受診した医院で、風邪薬を処方して貰いました。インフルエンザもコロナもワクチン打ってるし、その心配はしてませんでしたがもしものことで・・・。ただ京都市はインフルエンザ警報が発令中でしたが・・・?。市販の風邪薬より、先生に処方された薬の方が効きが良いので、それを処方してもらい12日(月)には熱も下がり、風邪薬を飲むのを止めたら、次の日は発熱はありませんが、咳が酷くなってきて、一日横になって、そして14日(水)を迎えた訳です。その日は発熱以来、久しぶりに良く寝られたし、体も楽になったし、咳も止まったので、全快したのかなぁ😊と思い、体を慣らすつもりで、大覚寺大沢池まで散歩しに出掛けたわけです。ほぼ3日は寝てましたが、体は楽に歩くことができてました。
もう一つ、この日の15時29分頃、M4.3の最大震度4の地震がありました。震度4は京都市伏見区で、我が家は震度3でしたが結構揺れましたね。怖かったです。今年のお正月に襲った能登地震の時も、相当揺れましたが、その揺れとは全然違うものでした。どーんぐらぐらでしたね。
これは、大覚寺寺号勅許(開創)1150年記念事業の一環として鎌倉時代の絵図に描かれていた「池に浮かぶ島と岸を結ぶ橋」を作る計画をたて橋の再現することを令和3年に発願され、この日完工されることになりました。大沢池は、国の名勝に指定され、平安時代に嵯峨天皇がつくったと伝わります。式典では、大覚寺とゆかりの深い菅原道真公を祀る北野天満宮の関係者が神事を執り行い神楽が奉納されました。そのあと関係者が橋の渡り初めをされました。橋は檜製で、長さ12㍍余り、幅1.5㍍ 寺の話しでは約700年振りに橋が架かったとされます。橋の近くには、百人一首にある和歌の舞台ともなった名古曽瀧跡があるので「名古曽(なこそ)橋」と名付けられました。
訪れたのは2月14日(水)、今季最高気温の19.8℃を記録した日です。これは4月中旬頃の気温で、桜が咲いて散り終えた頃、まだ2月の半ばだと言うのに、これでは夏の気温が怖くなりますね。この日は病み上がりでした。それは2月9日に遡ります。それは最後に😊。先週風邪で寝込む前は、セーターにマフラーと手袋、それにジャバーを着てましたが、朝の最低気温も4.8℃と高かったので、マフラー、セーター無しで出掛けることに。
8時57分に「大沢門」前に着きました。この冬の時期(暦では立春過ぎたので春)に早朝から来る人なんか居ないはずです。
受付に行くと、「開門は9時からで少しお待ち下さい」と。分かって来たので納得済みです。9時なり受付され、拝観料300円と、特別御朱印1000円を納めました。
御朱印に日付を入れられるのに時間を取ったので、9時2分に入りました。
入って直ぐの石碑は「津崎村岡碑」(明治25年建立)です。津崎村岡とは・・・?。
津崎矩子(つざきのりこ)は1786年(天明6年)嵯峨に生まれ、近衛忠煕に仕え村岡局(むらおかのつぼね)と名乗る。幕末から維新にかけてこの女性勤王派で清水寺成就院の僧月照(げっしょう)や西郷隆盛らと交友をもち運動を助ける。晩年は北嵯峨の直指庵に隠居し付近の子女の教育に尽くし庶民の慈悲として親しまれる。嵐山にある「亀山公園」には銅像があります。
昨日も天気が良くて気温が上がり2月とは思えない天候でしたが、今日も良い天気です。気温もグングン上がりそうですね。
この時間では五大堂の「観月台(濡れ縁)」まで人は来てません。
周囲が約1㌔の日本最古の人工の林泉(林や泉水などのある庭園)。第52代嵯峨天皇が離宮嵯峨院の造営にあたって、唐の洞庭湖を模して造られたところから、庭湖とも呼ばれています。
その先の「五社明神」の鳥居をくぐります。こちらは帰りにもう一度、通る予定にしています。
放生池越しに「心経宝塔」を撮りました。この大沢池エリアのビュースポットの一つです。
こちらは時代劇では良く使われるスポットの大沢池畔に建てられた「護摩堂」です。2間四方、方形造瓦葺の建物。
往古の大覚寺伽藍周辺に建てられた子院の一つであった仏母心院跡に建立され、不動明王を祀られています。ここで毎月一回、10時から1時間30分程度、護摩の炎で心願成就を祈願されます。
護摩堂の、その奥には、鎌倉時代中期の作と思われる「石仏群」があって見逃せません。
20基を超える如来や菩薩の石仏群。古い者は平安時代後期の作もと伝わります。
この朱塗りの橋を渡って、「天神島」に渡ります。
この島に菅原道真公を祀る「天神社」があるので天神島というのでしょう。
天神社は菅原道真公を御祭神として祀られています。第52代嵯峨天皇が建立された離宮嵯峨院は第56代清和天皇の勅許を得て、876年(貞観18年)に大覚寺が開祖され創建に当たり、清和天皇への上奏文を起草され仏法の興隆と衆生齊度のため僧俗2人の別当を置くよう進言されたのが菅原道真公です。また、道真公自身も大覚寺の俗別当(俗人の身分のまま寺院を統轄する責任者)を務められたと伝わります。
この日は新しく出来た橋を渡りにきたので、再び朱塗りの橋には戻りません。右が「茶筅塚」、左に「嵯峨碑」があります。華道の先達への慰霊碑だそうです。
この天神島(てんじんじま)には、嵯峨天皇が詠まれた漢詩「嵯峨天皇詠碑」が石碑に刻まれています。嵯峨天皇と弘法大師空海の仲の良さが分かる漢詩ですね。
当時弘法大師空海は神護寺の現在の大師堂に住まわれてました。その空海は、度々山を降り嵯峨天皇が住む離宮嵯峨院に会いに来られたようです。嵯峨天皇と弘法大師空海がお茶を楽しまれてて、空海が神護寺に帰るとき、嵯峨天皇が別れを惜しんで作られたのが、この漢詩だそうです。
与海公飲茶送帰山一首(空海と茶を飲みて山に帰るのを送る)
御製(ぎょせい)
道俗相分経数年(僧と俗人相別れて数年を経たり)
今秋晤語亦良縁(この秋打ち解け語り合えた事は良縁)
香茶酌罷日云暮(茶を入れては飲むのをやめ日暮れる)
稽首傷離望畑烟(頭を低くたれて別れを惜しみ帰って行く雲烟を眺める)
天神島から、奥の「菊ケ島」と、手前「庭湖石」を見ています。写真の前にはアオサギやカモが石の上に居ましたが近づいたら飛んでしまいました。
名古曽橋の案内では「橋は檜製で、長さ12㍍余り、幅1.5㍍」とありましたが、私は昨年の9月30日に工事中の橋を見てました。基礎部分は鉄筋コンクリート製でしたね。
初めて渡りました。上手に鉄筋とコンクリート隠してあるなぁ・・・が感想です。天神島から名古曽瀧に行くのに便利になりました。
名勝「名古曽瀧跡」に行くと、いつもと違う光景が・・・・?。それは瀧から水が流れている!!!。
離宮嵯峨院の滝殿庭園内に設けられたもので、今昔物語では百済川成(くだらのかわなり)が作庭したと伝わります。「滝の音は 絶えてひさしくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」(藤原公任)。藤原公任(ふじわらのきんとう)は平安時代の歌人。詩歌や管弦の諸芸に通じ、また故実に詳しく、書は古筆として珍重されています。和漢朗詠集や拾道和歌集などの撰に携わりました。三十六歌仙の1人。
ここで藤原公任の名を聞くとは・・・?。NHK大河ドラマ「光る君へ」を見てなかったらスルーしてたでしょう😊。町田啓太さん演じる藤原公任は、橋爪 淳さん演じる関白太政大臣藤原頼忠の息子。柄本佑さん演じる藤原道長とは同い年で、友情を育むが、出世レースが進むにつれ関係が変化する。音曲、漢詩、和歌など文化面に秀でており、まひろ(紫式部)の『源氏物語』に興味を持つ。とNHKの人物紹介では書いてあります。この先の楽しみが増えました😊。なお公任の時代には、すでに滝は枯れており、昔日をしのんで歌ったもの。現代語に訳すと「滝の流れ落ちる音が聞こえなくなってずいぶん経つけれど、滝の評判だけは流れて伝わり、今もなお人々に聞こえているんだなぁ」と。この歌が有名になったことでこの枯れ滝は「名古曽(なこそ)の滝」と呼ばれるようになりました。
この大沢池エリアには梅園があります。北野天満宮の梅苑では早咲きが見頃と出てました。ここはチラホラ咲き程度でした。
これから大沢池を巡ります。ここからは嵐山が綺麗に見えました。今日は天気が良いので気持ち良いです。
ここから天神島に架かる名古曽橋が見えました。
この辺りは、春になると見事な桜が咲き誇ります。そのこと詠まれたのか石碑がありました。
「花を惜しむこころは いったい何なのだろう いくつ齢をかさねたら心はしづまり ひとり酒汲む静寂に 住むことができるのか 今日も嵯峨御所から花信が舞ひこんできた」(白井喜之助詠)
カモが二羽泳いでましたが、私が近づくと勢いよく飛び出しました。
するとカモの集団の横断風景を目撃!。近づいてみると・・・?。
大沢池に飛び込んだあと泳いでいました。アオサギは何処かに飛んでしまいましたね。
大沢池の出口には山茶花が咲いてて、そこにも石碑がありました。「紅を 少しのぞかせ ふっくらと 椿の蕾の 只の一輪」(平田春一詠)
「川田順 わが友の 平田乃大人の おもひもの」(島田保子詠)
この先を進むと「大沢門」です。ただ、今日は出ません。まだ見てない所があるのでね。
この大沢門より入口近くに「望雲亭」があります。嵯峨天皇が帰山される弘法大師空海を見送られるに当たり詠まれた漢詩の中より名付けられました。
望雲亭は、元は京都市左京区の岡崎にあった澤村道範の遺室を1935年(昭和10年)「開山恒寂入道親王1050年御遠忌」に際し、この地に移転し、裏千家14代淡々斎宗匠家元の好みにて、八畳の広座敷を増築するも1973年(昭和48年)に火災より焼失。1975年(昭和50年)「大覚寺寺号勅許1100年記念事業」として、 鵬雲斎家元監修により再建されました。秩父宮家より下賜された家具が使用されています。
行きはスルーした「五社明神」に入りました。向かって左が「松尾大明神神社」、右が「愛宕大権現社・清滝大権現社」が祀られています。
手前に「拝殿」があって、本殿が奥にあります。「伊勢神宮(豊受皇大神)」「伊勢神宮(天照皇大神)」「八幡宮(応神天皇)」「春日宮(天津兒屋根命)」「住吉宮(底筒男命 表筒男命 中筒男命 神功皇后)」の五社が祀られています。
離宮嵯峨院の鎮守であり弘法大師空海が勧請したと伝わります。
同じ境内の東側には「氣比大明神社・多賀大明神社」もあります。あと一社ありますが帰りに寄ります。
通常非公開の「心経宝塔」まで来ました。2013年(平成25年)7月14日「第38回 京の夏の旅」に基壇内部に入りました。
1967年(昭和42年)、嵯峨天皇心経写経1150年を記念して建立。基壇内部に「如意宝珠」を納めた真珠の小塔を安置。宝塔内部には秘鍵(弘法)大師尊像が祀られています。
心経宝塔の下の石碑には、経営の神様が書かれた「頌頌」の文字が。意味は徳を褒め称えることのようですね。
こちらの石碑には「五蘊(ごうん)」と書かれています。「蘊」はあつまりの意で 仏語。 色(物質)、受(印象・感覚)、想(知覚・表象)、行(意志などの心作用)、識(心)の五つをいい、総じて有情の物質、精神の両面にわたる。 因縁によって生ずる有為法をいう。 また、心身環境をも示す。
お隣は多目的施設の「蓮華殿」で通常は開いてません。2017年(平成29年)12月2日の大覚寺 夜間特別拝観「真紅の水鏡」の時は営業されてました。
さらに西隣に行くと宝形の「聖天堂」が建っています。通常非公開。
1962年(昭和37年)頃までは、「望雲亭」西側に建っていたのを移築。内部には、歓喜天・十一面観世音菩薩が祀られています。
境内の西の端にある非公開の「大日堂」です。
大覚寺門跡が明治初頭まで兼帯していた安井門跡蓮華光院が管理していた洛東の岩倉山真性寺が廃寺となる際に移築したもの。正面を入母屋造りとして内陣は六角堂石造の大日如来像(江戸時代)を祀る。
最後に「閼伽堂(あかどう)」に寄りました。ここも非公開ですが過去に2度ほど内部に入っています。最近では2014年11月30日に入りました。
約1200年前大覚寺の前身離宮嵯峨院時代嵯峨天皇の命で弘法大師が建立した持仏堂「五覚院」の閼伽井として、弘法大師が自ら掘られた井戸と伝わります。仏に供える神聖な浄水をここで汲みます。
帰りも五社明神内を通ります。それで残りの1社「正一位稲荷大神社」を撮りました。
9時41分に大沢池を出ました。今日はお堂エリアには入りません。
名古曽橋の完成を記念して特別御朱印を期間限定で授与されていたので、いただきました。
お堂エリアの前を通って、歩いて帰りました。帰ってから少し咳が出た程度で、発熱はありませんでした。もう大丈夫でしたね。
2月9日は通院日で、終わったあと所用先に行き、そのついでに「花山天皇 紙屋川上陵」を見て来ました。そして昼から何だか寒気がさしてきて・・・体温を測ると、やっぱり発熱してました。発熱は、昨年の5月の連休以来で、連休明けの「對龍山荘特別公開講座」は無理をして参加し悪化させましたね😢。今回の風邪引きは翌日から3連休と言うことで、昨日も受診した医院で、風邪薬を処方して貰いました。インフルエンザもコロナもワクチン打ってるし、その心配はしてませんでしたがもしものことで・・・。ただ京都市はインフルエンザ警報が発令中でしたが・・・?。市販の風邪薬より、先生に処方された薬の方が効きが良いので、それを処方してもらい12日(月)には熱も下がり、風邪薬を飲むのを止めたら、次の日は発熱はありませんが、咳が酷くなってきて、一日横になって、そして14日(水)を迎えた訳です。その日は発熱以来、久しぶりに良く寝られたし、体も楽になったし、咳も止まったので、全快したのかなぁ😊と思い、体を慣らすつもりで、大覚寺大沢池まで散歩しに出掛けたわけです。ほぼ3日は寝てましたが、体は楽に歩くことができてました。
もう一つ、この日の15時29分頃、M4.3の最大震度4の地震がありました。震度4は京都市伏見区で、我が家は震度3でしたが結構揺れましたね。怖かったです。今年のお正月に襲った能登地震の時も、相当揺れましたが、その揺れとは全然違うものでした。どーんぐらぐらでしたね。
この記事へのコメント
名前からして奥ゆかしい橋だけに、小さいながら
とても風情のある魅力的な橋だと思います。
大沢の池の見事な景色にふさわしい姿ですね。
しかも、橋の開通に合わせたように、
名勝・名古曽の滝に水の流れがあるなんて…。
「名こそ流れて」と歌に詠まれたくらいだから、
流れるのは滝の名前だけでなく、やっぱり、
水自体も流れてほしいところでしょう。
NHKのニュース映像を見て、行ってみようと思いました。たしかに天神島から名古曽瀧へ行くのは便利になりましたね。
まもなく大覚寺大沢池の畔には、ソメイヨシノが咲き誇ります。毎年行ってますが、今年も多分、行くつもりで楽しみです。