源氏物語ゆかりの地 清涼寺(嵯峨釈迦堂)へ
2024年大河ドラマは「光る君へ」で日本最古の長編小説「源氏物語」を執筆した紫式部が主人公です。「源氏物語」も主に京都を舞台にくりひろげられました。その関連したテレビ番組が放送され、ゆかりの地を紹介されることが多いです。
私は、紫式部や源氏物語ゆかりの地を訪れてました。「廬山寺」、「土御門邸跡」、「枇杷殿跡」など。そして、4月6日(土)の、この日は清涼寺(嵯峨釈迦堂)に行きました。清涼寺(嵯峨釈迦堂)も源氏物語ゆかりの地として放送された見たのも訪れるきっかけとなりました。
この日にした理由は、境内に咲き誇る桜です。同じ行くなら桜が見頃になってからと、ずっと以前から思ってました😊。土曜日と日曜日には外出は控えてますが、朝から天気も良いし早朝なら人も少ないだろうと😊。ただ、家を出る頃は肌寒さを感じました。散歩も兼ねているので、歩いて向かいます。
6時46分に「仁王門」前に着きました。この時間では近所の方ぐらいしか居ません・・・と言いたいところ、自転車で来られる方も居ましたね。
仁王門を入ると境内を見渡せます。桜は綺麗に咲いているようです。
清涼寺は五台山と号する浄土宗の寺。嵯峨野に位置することから嵯峨釈迦堂とも呼ばれています。平安時代前期、この辺りは嵯峨天皇の皇子源融(みなもとのとおる)が持つ山荘「棲霞観(せいかかん)」が建っていたと伝わります。源融が亡くなったのち、ご子息が、ここを寺院にされ棲霞寺となりました。987年(永延元年)(987)奝然上人(ちょうねんじょうにん)が、愛宕山を中国の五台山に模して大清凉寺を建立しようとして志半ばで没し、弟子の盛算がその遺志を継いで棲霞寺内の釈迦堂をもって清凉寺としたのが、この寺のおこです。
振り返る「仁王門」を見ています。この仁王門から真っ直ぐ伸びた先に嵐山渡月橋があります。
4月4日(木)BS朝日「あなたの知らない京都旅~1200年の物語」で、俳優の水谷豊さんが、この清涼寺(嵯峨釈迦堂)を訪れました。そして、この真っ直ぐに伸びる道について同志社女子大学 教授 天野太郎さんから案内されていましたね。それは帰りに述べます。
次に西側の「多宝塔」に向かいました。
多宝塔は京都府指定文化財。内部は非公開です。1703年(元禄16年)に建立され、均整のとれた姿で東を向いて建っています。
開花が遅かったソメイヨシノも、満開となりました。4月4日(木)にも来ましたが、人が多かったのと咲き具合がイマイチだったので、この日にしたわけです。
多宝塔の北側には、綺麗な枝垂れ桜が満開となってました。
こちらは右に「第52代嵯峨天皇の宝塔(平安時代中期)」と左に「檀林皇后の宝塔(平安時代末期)」です。明治以前はは御陵とされてたものです。
その奥に「源融の墓」がありました。源融は第52代天皇の嵯峨天皇の十二男。最高官位は従一位左大臣で、六条河原院を造営したことから、河原左大臣(かわらのさだいじん)と呼ばれました。
この源融の山荘があったとされるのが、ここ清涼寺です。源融は嵯峨天皇の御子であり、源氏の姓を賜りました。そして、光源氏のモデルとも言われています。
清涼寺(嵯峨釈迦堂)の「本堂」です。拝観時間は9時からのため外からお参りさせて貰いました。拝観料は有料となります。
本堂は江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の発願により豪商の住友吉左衛門の援助により1701年(元禄14年)に再建。本堂に安置されいる本尊は、生前の釈迦の姿を写したとされる「生身の釈迦如来」と呼ばれる国宝「釈迦如来立像」(平安時代)です。
本堂の東にあるのが、この日の主役「阿弥陀堂」です。
平安時代前期、この辺りは嵯峨天皇の皇子が持つ山荘「棲霞観(せいかかん)」が建っていたと伝わります。皇子の名は源融で光源氏のモデルとされています。源融が亡くなったのち、ご子息が、ここを寺院にされ棲霞寺となりました。その本堂に当たるのが現在の「阿弥陀堂」です。現在の建物は江戸時代後期1863年 (文久3年)に再建されたもの。創建当初から阿弥陀堂の本尊として祀られていたのが国宝「阿弥陀如来坐像」で、お顔は源融を写したものと言われています。
阿弥陀堂は、こうして堂内にいつでも入ってお参りできます。ここのご本尊は現在、宝物館に安置されています。
国宝「阿弥陀如来」及両脇侍坐像(平安時代)は、896年(寛平8年)源融一周期の際にご子息達で納められたと伝わります。光源氏の面影を宿す阿弥陀如来を中央に、向かって左に勢至菩薩坐像、右に観音菩薩坐像とともに国宝に指定されています。
源融は、紫式部が「源氏物語」を執筆した100年も前の人物。紫式部も、この清涼寺(嵯峨釈迦堂)をお参りしたのではないかと思われます。源氏物語第18帖「松風」には、こう書かれています。「光源氏が造営した御堂は大覚寺にも劣らない趣深い寺である」と。その位置関係から清涼寺(嵯峨釈迦堂)の前身、棲霞寺ではないかと。紫式部も棲霞寺を訪れ、ご本尊に手を合わせ、その面影に光源氏の姿を見たのかも知れません。
上記の事は、KBS京都「京都浪漫 悠久の物語」で、ノートルダム女子大学 名誉教授 鳥居本 幸代さんが解説されてました。
霊宝館は、春季の4月と5月に、秋期の10月と11月に特別公開されます。その霊宝館の方に行ってみます。
吉井勇が夕霧大夫中村芳子を偲んで歌を詠ん「いまもなほ なつかしとおもふ 夕霧の 墓にまうでし かへり路の雨」の歌碑をみつけました。
「あでやかに 太夫となりて 我死なむ 六十路過ぎにし 霧はかなくも」と、ここにも歌碑がありました。
毎年、11月の第二日曜日に「夕霧供養」が、ここ清涼寺で行われます。寛永の三名妓の一人「夕霧太夫」は、嵯峨釈迦堂清凉寺西門のほとりに生まれ、島原で育ち、大阪の扇屋で全盛をうたわれました。その夕霧太夫の追善法要が清凉寺で営まれ、島原太夫による舞や太夫道中などが行われます。
こちらが「有料エリア」です。見たところ桜が咲いているようです。ただ、今季は入りません。
「勅使門」と「書院」の前まで来ました。2014年(平成26年)4月12日の京都市文化観光資源保護財団主催の「文化財特別鑑賞」時には、こちらから入りました。
ここから嵐山が見えました。嵐山の桜も綺麗に見えています。
境内東側に、湯豆腐の老舗「竹仙」があって、その前の紅枝垂れ桜も綺麗でした。
境内の西南角にある「聖徳太子殿」があります。ここは秋の紅葉が綺麗です。
最後に境内の東側の石碑、嵯峨大念仏伝承碑「あみだ母みた母みた」と書かれています。ここの桜も綺麗です。
仁王門から真っ直ぐに伸びる道路を見ています。前途したとおり嵐山から清涼寺(嵯峨釈迦堂)に向かうメインルートが「朱雀大路」と呼ばれてました。この参道を中心に天龍寺や臨川寺などが創建されたとのことです。
仁王門の前には「源融公棲霞観の地」と書かれた石碑があるのを、ここを出て行くときに知りました。
源融が光源氏のモデルだと言われおり、源氏物語主人公の光源氏は容姿端麗、物語では多くの女性達との恋愛模様が描かれています。その物語りの舞台が、ここ清涼寺でした。この日の朝は、最低気温が9.6℃と前途したとおり肌寒かったです。ただ最高気温は22.4℃まで上がりました。
私は、紫式部や源氏物語ゆかりの地を訪れてました。「廬山寺」、「土御門邸跡」、「枇杷殿跡」など。そして、4月6日(土)の、この日は清涼寺(嵯峨釈迦堂)に行きました。清涼寺(嵯峨釈迦堂)も源氏物語ゆかりの地として放送された見たのも訪れるきっかけとなりました。
この日にした理由は、境内に咲き誇る桜です。同じ行くなら桜が見頃になってからと、ずっと以前から思ってました😊。土曜日と日曜日には外出は控えてますが、朝から天気も良いし早朝なら人も少ないだろうと😊。ただ、家を出る頃は肌寒さを感じました。散歩も兼ねているので、歩いて向かいます。
6時46分に「仁王門」前に着きました。この時間では近所の方ぐらいしか居ません・・・と言いたいところ、自転車で来られる方も居ましたね。
仁王門を入ると境内を見渡せます。桜は綺麗に咲いているようです。
清涼寺は五台山と号する浄土宗の寺。嵯峨野に位置することから嵯峨釈迦堂とも呼ばれています。平安時代前期、この辺りは嵯峨天皇の皇子源融(みなもとのとおる)が持つ山荘「棲霞観(せいかかん)」が建っていたと伝わります。源融が亡くなったのち、ご子息が、ここを寺院にされ棲霞寺となりました。987年(永延元年)(987)奝然上人(ちょうねんじょうにん)が、愛宕山を中国の五台山に模して大清凉寺を建立しようとして志半ばで没し、弟子の盛算がその遺志を継いで棲霞寺内の釈迦堂をもって清凉寺としたのが、この寺のおこです。
振り返る「仁王門」を見ています。この仁王門から真っ直ぐ伸びた先に嵐山渡月橋があります。
4月4日(木)BS朝日「あなたの知らない京都旅~1200年の物語」で、俳優の水谷豊さんが、この清涼寺(嵯峨釈迦堂)を訪れました。そして、この真っ直ぐに伸びる道について同志社女子大学 教授 天野太郎さんから案内されていましたね。それは帰りに述べます。
次に西側の「多宝塔」に向かいました。
多宝塔は京都府指定文化財。内部は非公開です。1703年(元禄16年)に建立され、均整のとれた姿で東を向いて建っています。
開花が遅かったソメイヨシノも、満開となりました。4月4日(木)にも来ましたが、人が多かったのと咲き具合がイマイチだったので、この日にしたわけです。
多宝塔の北側には、綺麗な枝垂れ桜が満開となってました。
こちらは右に「第52代嵯峨天皇の宝塔(平安時代中期)」と左に「檀林皇后の宝塔(平安時代末期)」です。明治以前はは御陵とされてたものです。
その奥に「源融の墓」がありました。源融は第52代天皇の嵯峨天皇の十二男。最高官位は従一位左大臣で、六条河原院を造営したことから、河原左大臣(かわらのさだいじん)と呼ばれました。
この源融の山荘があったとされるのが、ここ清涼寺です。源融は嵯峨天皇の御子であり、源氏の姓を賜りました。そして、光源氏のモデルとも言われています。
清涼寺(嵯峨釈迦堂)の「本堂」です。拝観時間は9時からのため外からお参りさせて貰いました。拝観料は有料となります。
本堂は江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の発願により豪商の住友吉左衛門の援助により1701年(元禄14年)に再建。本堂に安置されいる本尊は、生前の釈迦の姿を写したとされる「生身の釈迦如来」と呼ばれる国宝「釈迦如来立像」(平安時代)です。
本堂の東にあるのが、この日の主役「阿弥陀堂」です。
平安時代前期、この辺りは嵯峨天皇の皇子が持つ山荘「棲霞観(せいかかん)」が建っていたと伝わります。皇子の名は源融で光源氏のモデルとされています。源融が亡くなったのち、ご子息が、ここを寺院にされ棲霞寺となりました。その本堂に当たるのが現在の「阿弥陀堂」です。現在の建物は江戸時代後期1863年 (文久3年)に再建されたもの。創建当初から阿弥陀堂の本尊として祀られていたのが国宝「阿弥陀如来坐像」で、お顔は源融を写したものと言われています。
阿弥陀堂は、こうして堂内にいつでも入ってお参りできます。ここのご本尊は現在、宝物館に安置されています。
国宝「阿弥陀如来」及両脇侍坐像(平安時代)は、896年(寛平8年)源融一周期の際にご子息達で納められたと伝わります。光源氏の面影を宿す阿弥陀如来を中央に、向かって左に勢至菩薩坐像、右に観音菩薩坐像とともに国宝に指定されています。
源融は、紫式部が「源氏物語」を執筆した100年も前の人物。紫式部も、この清涼寺(嵯峨釈迦堂)をお参りしたのではないかと思われます。源氏物語第18帖「松風」には、こう書かれています。「光源氏が造営した御堂は大覚寺にも劣らない趣深い寺である」と。その位置関係から清涼寺(嵯峨釈迦堂)の前身、棲霞寺ではないかと。紫式部も棲霞寺を訪れ、ご本尊に手を合わせ、その面影に光源氏の姿を見たのかも知れません。
上記の事は、KBS京都「京都浪漫 悠久の物語」で、ノートルダム女子大学 名誉教授 鳥居本 幸代さんが解説されてました。
霊宝館は、春季の4月と5月に、秋期の10月と11月に特別公開されます。その霊宝館の方に行ってみます。
吉井勇が夕霧大夫中村芳子を偲んで歌を詠ん「いまもなほ なつかしとおもふ 夕霧の 墓にまうでし かへり路の雨」の歌碑をみつけました。
「あでやかに 太夫となりて 我死なむ 六十路過ぎにし 霧はかなくも」と、ここにも歌碑がありました。
毎年、11月の第二日曜日に「夕霧供養」が、ここ清涼寺で行われます。寛永の三名妓の一人「夕霧太夫」は、嵯峨釈迦堂清凉寺西門のほとりに生まれ、島原で育ち、大阪の扇屋で全盛をうたわれました。その夕霧太夫の追善法要が清凉寺で営まれ、島原太夫による舞や太夫道中などが行われます。
こちらが「有料エリア」です。見たところ桜が咲いているようです。ただ、今季は入りません。
「勅使門」と「書院」の前まで来ました。2014年(平成26年)4月12日の京都市文化観光資源保護財団主催の「文化財特別鑑賞」時には、こちらから入りました。
ここから嵐山が見えました。嵐山の桜も綺麗に見えています。
境内東側に、湯豆腐の老舗「竹仙」があって、その前の紅枝垂れ桜も綺麗でした。
境内の西南角にある「聖徳太子殿」があります。ここは秋の紅葉が綺麗です。
最後に境内の東側の石碑、嵯峨大念仏伝承碑「あみだ母みた母みた」と書かれています。ここの桜も綺麗です。
仁王門から真っ直ぐに伸びる道路を見ています。前途したとおり嵐山から清涼寺(嵯峨釈迦堂)に向かうメインルートが「朱雀大路」と呼ばれてました。この参道を中心に天龍寺や臨川寺などが創建されたとのことです。
仁王門の前には「源融公棲霞観の地」と書かれた石碑があるのを、ここを出て行くときに知りました。
源融が光源氏のモデルだと言われおり、源氏物語主人公の光源氏は容姿端麗、物語では多くの女性達との恋愛模様が描かれています。その物語りの舞台が、ここ清涼寺でした。この日の朝は、最低気温が9.6℃と前途したとおり肌寒かったです。ただ最高気温は22.4℃まで上がりました。
この記事へのコメント
多いからいいですね。観光客の多さが言われますが、
曜日や時間帯を考えて、さらになるべく
穴場の所を訪ね歩くという方法がありそうです。
嵯峨清凉寺は、遠い昔に一度訪ねた事がありますが、
あまり良く思い出せないような気がします。
特別公開の時期で、仏様の数々にお参りしたような…。
桜の時期は、やっぱり境内が華やぎますね。
清涼寺(嵯峨釈迦堂)を俳優の水谷豊さんが訪れたので、それを確かめに行ってみました。
ちょうど桜が咲いてて綺麗でしたね。
以前、来なかった奥嵯峨にも外国人観光客を見かけるようになりました。奥嵯峨も静かなな拝観とは行かなくなりましたね。
仁王門や本堂など重厚な伽藍に満開の桜が彩って本当に素敵な景観です。
山々が見渡せるのもいいですね。
是非いつか境内をじっくり散策したくなります。
ここに源融のお墓があるのですね。
紫式部も訪れていたのでしょうかね。
清涼寺(嵯峨釈迦堂)に俳優の水谷豊さんが訪れた「あなたの知らない京都旅」を見ていて、その確認のため行ってみました。それと桜も綺麗な時期もあったのでね。
水谷さんが聞かれていた話しは、ほぼ知ってましたが、仁王門からまっすぐ嵐山に伸びる道路の逸話は知らなかったです。源融は六条河原院に邸宅あって、冬の旅で東本願寺渉成園でゆかりの品を見せて貰いましたし、清涼寺(嵯峨釈迦堂)に墓所もあります。