第58回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 相国寺 光源院へ
京都府立植物園を出て、地下鉄烏丸線「北山駅」に戻りました。そして2月16日(金)と同様に9時41分発の竹田行きに乗ります。
前回の経験があるので余裕で、電車を待ちました。次の今出川駅では後方からの出口を利用するので、後ろの車両に乗ります。
今出川駅には9時46分に着きました。1番の出入口から地上に出ました。この時間では同志社大学の学生さんも少なかったので空いてました。
相国寺の境内には西門から入りました。ここは車は入れませんが、相国寺を東西に横断する自転車や人は多く行き交います。
相国寺では。「京の冬の旅」で方丈・慈雲院・光源院が特別公開されています。その看板が出てました。
今回の「京の冬の旅」では、2月16日(金)に慈雲院へ行きました。法堂は何度も入ってます。ここは春と秋に必ず特別公開があるので、最近では2020年(令和2年)11月21日に行きました。
この方向に歩いて行くと法堂があります。ただ今日は行きません。スタンプラリーのことを考えても行く選択は無かったですね。
この日の目的は第58回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 相国寺 光源院でした。通常非公開で、公開は初めてだそうです。ここと慈雲院と光源院は、今回の特別公開では外せなかったです。
9時55分に「山門」前に着きました。10時開門のため開いてません。どうも私が先頭のようです。
門が開いていたので、入って玄関のある「庫裏」を覗いてみました。庫裏も閉まったままです。
山門には特別御朱印が貼ってありました。5種類のようですが、私はご本尊だけにします。
光源院は、1月21日(日)から拝観を休止されました。突然の発表で予定していたことが変更となりました。ただその後、2月2日(金)より再開を発表されホットしましたね。このまま終了かと思った次第です。今日の拝観で、何故拝観を休止されたのか気になっていたので尋ねてみました。理由は書きません。聞いて納得しました。ただ休止前には茶席を設けられてましたが、拝観再開後は中止にされたようです。
門を入って正面に「行者堂」があって、ここは後で堂内に入りガイドさんより案内を受けました。それは後程。
10時に玄関が開いたので、靴を脱いで上がりました。拝観料800円と御朱印代300円を納め堂内へ。そしてスタンプラリーも3個貯めることができました。
「大徳寺 法堂・仏殿」「相国寺 慈雲院」「相国寺 光源院」の三箇所で貯めた分です。
いただいたご本尊の御朱印てす。書き置きしかありませんでした。
光源院は相国寺二十八世元容和尚の塔所で、室町幕府4代将軍足利義持の時代の1421年(応永28年)に創建され、広徳軒と称しました。1565年(永禄8年)の「永禄の変」で、三好義継・松永久通らの軍勢によって京都二条御所を襲撃し、室町幕府13代将軍足利義輝を殺害。その死去により義輝の菩提寺となり、義輝の院号光源院融山道圓により光源院と改称されました。明治期の廃仏毀釈の折に移築した行者堂には、「修験道の開祖」と言われる神孌大菩薩像(役行者)と弘法大師像、不動明王像が新たに安置されました。1988年(昭和63年)に再建された本堂には、室中の12面にわたり、日本画家水田慶泉(みずたけいせん)が半年をかけて描いた襖絵「十二支の図」があり、本堂南には自然石で十二支を庭が広がっています。さらに2021年(令和3年)に画家加藤晋(かとうしん)が上間の間と下間の間に「風来坊」「春」「夏秋冬」と題した襖絵が奉納されました。この風景の中に、「桃太郎」「笠地蔵」「西遊記」などの登場人物を潜ませてあり「草木国土悉皆成仏」の世界を表したものです。
玄関を入って右手に進むと方丈があって、「上間の間」の襖絵の案内です。1955年(昭和30年)生まれの加藤晋画伯が描きました。「春」と題した襖絵には七福神が隠されています。探すと直ぐに分かりました😊。また「風来坊」の風神も案内されました。これは下間の間にある絵と対になっているみたいです。
そして中央の「室中の間」に移動します。写真はチケットですが、この日は真ん中の襖を開けてあってご本尊の「釈迦牟尼仏」にお参りできました。襖絵は水田慶泉(みずたけいせん)画伯の「十二支の図」でした。
大正生まれの水田慶泉画伯は堂本印象に絵を学ばれたと案内を受けました。仁和寺の高松宮記念書院の襖絵32面を揮毫や、1987年(昭和62年)の金閣寺天井絵の復元事業に参加されました。
そして奥の部屋には、相国寺115世住持をつとめた江戸時代の僧である維明周奎は、伊藤若冲に絵を学んだそうです。寺宝として「梅図」の掛け軸の案内がありました。また、「下間の間」に移動し、金閣寺の襖絵を描いたことで知られる加藤晋(かとうしん)画伯が描いた襖絵「夏秋冬」の案内がありました。由緒にもあったように、この風景のなかに、ある登場人物が隠されているで間違い探しのように、じっくりゆっくり観賞しました。最後に、上間の間の対になっている「風来坊」は雷神です。なかなか面白い襖絵でした。
こちらの庭は曽根造園さんが手掛けられました。その名の通り十二支の襖絵と対になる「干支」が配された「干支の庭」で、京都の銘石から四国の伊予青石、高知赤石といた各地の銘石が用いられています。
最後に「行者堂」に入ります。こちらにもガイドさんがスタンバイされてて、案内を受けました。
行者堂の中央の岩窟の中に「修験道の開祖」と言われる「神孌大菩薩像(役行者)」が祀られています。神孌大菩薩とは、役行者没後1100年後に、第119代光格天皇が、諡号(しごう)が授けられましたものです。向かって左手には斧を持った「前鬼」が、右手には黄色の水筒を持っている「後鬼」の従者を従えて安置されてました。
向かって右手には「弘法大師空海像」が安置。役行者は奈良県の吉野山で命がけの修行されました。弘法大師は和歌山県の高野山で修行をされました。弘法大師は高野山に入る前に、奈良県吉野山から大峰山、そのあと高野山に入られました。そのため吉野山から高野山は、今は「弘法大師の道」と呼ばれています。弘法大師は、役行者のことを崇敬していたと言われており、こちらに安置されたのでしょう。手前には小さな「弘法大師空海像」もありました。
向かって左手には「不動明王像」を安置。不動明王の眷属として右に優しい表情の「矜羯羅童子(こんがらどうし)」と左に怒った表情の「制吒迦童子(せいたかどうじ)」を従えていました。
1896年(明治29年)に同じく相国寺の塔頭寺院「善應院(ぜんおういん)」と合併統合、善應院は廃され光源院がこの地に移転しました。その善應院は池田輝政ゆかりの寺院で、最後に池田輝政ゆかりの「水桶」を見せて貰いました。ここには輝政の家紋である揚羽蝶(アゲハチョウ)を見ることができました。ただ薄くて分かりづらいです。まお、善應院は1604年(慶長9年)に、池田輝政が亡き母の善應院の香火所として創建したもの。
10時20分に出て行きました。ここも初めて公開されただけに拝観者は多かったです。
ここから南に下がると相国寺の総門があります。ただ私は烏丸通りに出て地下鉄烏丸線今出川駅に戻りました。こちらの方が近いように思えたからです。このあと地下鉄に乗って帰路につきました。
前回の経験があるので余裕で、電車を待ちました。次の今出川駅では後方からの出口を利用するので、後ろの車両に乗ります。
今出川駅には9時46分に着きました。1番の出入口から地上に出ました。この時間では同志社大学の学生さんも少なかったので空いてました。
相国寺の境内には西門から入りました。ここは車は入れませんが、相国寺を東西に横断する自転車や人は多く行き交います。
相国寺では。「京の冬の旅」で方丈・慈雲院・光源院が特別公開されています。その看板が出てました。
今回の「京の冬の旅」では、2月16日(金)に慈雲院へ行きました。法堂は何度も入ってます。ここは春と秋に必ず特別公開があるので、最近では2020年(令和2年)11月21日に行きました。
この方向に歩いて行くと法堂があります。ただ今日は行きません。スタンプラリーのことを考えても行く選択は無かったですね。
この日の目的は第58回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 相国寺 光源院でした。通常非公開で、公開は初めてだそうです。ここと慈雲院と光源院は、今回の特別公開では外せなかったです。
9時55分に「山門」前に着きました。10時開門のため開いてません。どうも私が先頭のようです。
門が開いていたので、入って玄関のある「庫裏」を覗いてみました。庫裏も閉まったままです。
山門には特別御朱印が貼ってありました。5種類のようですが、私はご本尊だけにします。
光源院は、1月21日(日)から拝観を休止されました。突然の発表で予定していたことが変更となりました。ただその後、2月2日(金)より再開を発表されホットしましたね。このまま終了かと思った次第です。今日の拝観で、何故拝観を休止されたのか気になっていたので尋ねてみました。理由は書きません。聞いて納得しました。ただ休止前には茶席を設けられてましたが、拝観再開後は中止にされたようです。
門を入って正面に「行者堂」があって、ここは後で堂内に入りガイドさんより案内を受けました。それは後程。
10時に玄関が開いたので、靴を脱いで上がりました。拝観料800円と御朱印代300円を納め堂内へ。そしてスタンプラリーも3個貯めることができました。
「大徳寺 法堂・仏殿」「相国寺 慈雲院」「相国寺 光源院」の三箇所で貯めた分です。
いただいたご本尊の御朱印てす。書き置きしかありませんでした。
光源院は相国寺二十八世元容和尚の塔所で、室町幕府4代将軍足利義持の時代の1421年(応永28年)に創建され、広徳軒と称しました。1565年(永禄8年)の「永禄の変」で、三好義継・松永久通らの軍勢によって京都二条御所を襲撃し、室町幕府13代将軍足利義輝を殺害。その死去により義輝の菩提寺となり、義輝の院号光源院融山道圓により光源院と改称されました。明治期の廃仏毀釈の折に移築した行者堂には、「修験道の開祖」と言われる神孌大菩薩像(役行者)と弘法大師像、不動明王像が新たに安置されました。1988年(昭和63年)に再建された本堂には、室中の12面にわたり、日本画家水田慶泉(みずたけいせん)が半年をかけて描いた襖絵「十二支の図」があり、本堂南には自然石で十二支を庭が広がっています。さらに2021年(令和3年)に画家加藤晋(かとうしん)が上間の間と下間の間に「風来坊」「春」「夏秋冬」と題した襖絵が奉納されました。この風景の中に、「桃太郎」「笠地蔵」「西遊記」などの登場人物を潜ませてあり「草木国土悉皆成仏」の世界を表したものです。
玄関を入って右手に進むと方丈があって、「上間の間」の襖絵の案内です。1955年(昭和30年)生まれの加藤晋画伯が描きました。「春」と題した襖絵には七福神が隠されています。探すと直ぐに分かりました😊。また「風来坊」の風神も案内されました。これは下間の間にある絵と対になっているみたいです。
そして中央の「室中の間」に移動します。写真はチケットですが、この日は真ん中の襖を開けてあってご本尊の「釈迦牟尼仏」にお参りできました。襖絵は水田慶泉(みずたけいせん)画伯の「十二支の図」でした。
大正生まれの水田慶泉画伯は堂本印象に絵を学ばれたと案内を受けました。仁和寺の高松宮記念書院の襖絵32面を揮毫や、1987年(昭和62年)の金閣寺天井絵の復元事業に参加されました。
そして奥の部屋には、相国寺115世住持をつとめた江戸時代の僧である維明周奎は、伊藤若冲に絵を学んだそうです。寺宝として「梅図」の掛け軸の案内がありました。また、「下間の間」に移動し、金閣寺の襖絵を描いたことで知られる加藤晋(かとうしん)画伯が描いた襖絵「夏秋冬」の案内がありました。由緒にもあったように、この風景のなかに、ある登場人物が隠されているで間違い探しのように、じっくりゆっくり観賞しました。最後に、上間の間の対になっている「風来坊」は雷神です。なかなか面白い襖絵でした。
こちらの庭は曽根造園さんが手掛けられました。その名の通り十二支の襖絵と対になる「干支」が配された「干支の庭」で、京都の銘石から四国の伊予青石、高知赤石といた各地の銘石が用いられています。
最後に「行者堂」に入ります。こちらにもガイドさんがスタンバイされてて、案内を受けました。
行者堂の中央の岩窟の中に「修験道の開祖」と言われる「神孌大菩薩像(役行者)」が祀られています。神孌大菩薩とは、役行者没後1100年後に、第119代光格天皇が、諡号(しごう)が授けられましたものです。向かって左手には斧を持った「前鬼」が、右手には黄色の水筒を持っている「後鬼」の従者を従えて安置されてました。
向かって右手には「弘法大師空海像」が安置。役行者は奈良県の吉野山で命がけの修行されました。弘法大師は和歌山県の高野山で修行をされました。弘法大師は高野山に入る前に、奈良県吉野山から大峰山、そのあと高野山に入られました。そのため吉野山から高野山は、今は「弘法大師の道」と呼ばれています。弘法大師は、役行者のことを崇敬していたと言われており、こちらに安置されたのでしょう。手前には小さな「弘法大師空海像」もありました。
向かって左手には「不動明王像」を安置。不動明王の眷属として右に優しい表情の「矜羯羅童子(こんがらどうし)」と左に怒った表情の「制吒迦童子(せいたかどうじ)」を従えていました。
1896年(明治29年)に同じく相国寺の塔頭寺院「善應院(ぜんおういん)」と合併統合、善應院は廃され光源院がこの地に移転しました。その善應院は池田輝政ゆかりの寺院で、最後に池田輝政ゆかりの「水桶」を見せて貰いました。ここには輝政の家紋である揚羽蝶(アゲハチョウ)を見ることができました。ただ薄くて分かりづらいです。まお、善應院は1604年(慶長9年)に、池田輝政が亡き母の善應院の香火所として創建したもの。
10時20分に出て行きました。ここも初めて公開されただけに拝観者は多かったです。
ここから南に下がると相国寺の総門があります。ただ私は烏丸通りに出て地下鉄烏丸線今出川駅に戻りました。こちらの方が近いように思えたからです。このあと地下鉄に乗って帰路につきました。
この記事へのコメント