龍安寺 朱山七陵へ
龍安寺の裏に朱山七陵と呼ばれる陵墓群があります。以前から一度は行ってみようと思っていたところ、NHK大河ドラマ「光る君へ」で、この日は2月28日(水)でしたが、本郷奏多さん演じる花山天皇が65代天皇として即位されました。その花山天皇のあと66代天皇として即位されるのが、塩野 瑛久さん演じる一条天皇です。その陵墓が朱山七陵にあり、この日山登り?に挑戦したわけです。
先月の1月31日に龍安寺に行き、朱山七陵の手前まで行きました。それから地図を見て入念に下調べをしました。簡単な山登りとなるので道に迷わないようにと。それとイノシシなんかが出てこないかどうかも😊。
この日は59号系統のバスに乗って龍安寺前で下車する予定でした。私は途中のバス停から乗ったんですが、来たバスを見て驚きです。いつもはガラガラの車内が、人で満杯。乗れるかなぁと思ったぐらいでした。しかも、乗ってる人はほぼ外国人観光客、多分、始発の山越中町から乗られたのでしょう、ただ私が乗り込むと、外国人観光客は席を譲ってくれました。私自身若いつもりでしたが、外国人から見るとジジィに見えたのかなぁ、座れたのは嬉しかったけど、少しばかりショックはありましたね😊。降りる時に、外国人観光客のリーダーの方が1万円札を出され、バスでは1万円は使えないので、運転手がその方とやり取りしている間に、私は横をすり抜け降りることができました。後で分かったことは、この龍安寺前でほぼ降りられたことでした。やっぱり龍安寺は人気がありますね😊。
バスを降りて、9時2分に龍安寺の駐車場から奥へ歩いて行きます。
9時4分、1月31日には、ここまで来ました。この先が初めてです。写真では分かりづらいと思いますが、駐車場からずっと緩やかに登っています。
この先は見えませんが、ここより先は墓参の方のみ進めます。
9時6分に朱山七陵の一つに着きました。この階段を上がって正面に回り込みます。
こちらは「禎子内親王 圓乘寺東陵」です。後朱雀天皇皇后と書いてありました。もちろん帰ってから調べてみると・・・?。
NHK大河ドラマ「光る君へ」では禎子内親王(ていし ないしんのう)は、柄本佑さん演じる藤原道長の孫で、第67代天皇の三条天皇の娘です。三条天皇には木村達成さんが演じられます。まだ先のことですが😊。道長(演:柄本佑)は三条天皇(演:木村達成)に娘の藤原妍子(けんし)(ドラマでは、きよこ)を入内(じゅだい)させ、男子の誕生を期待していましたが、生まれてきたのが禎子内親王だったわけです。道長(演:柄本佑)は三条天皇(演:木村達成)を退位させ、自らの孫を即位させようと画策していくので、道長との確執は深まっていきます。院号は陽明門院(ようめいもんいん)。
ここ禎子内親王 圓乘寺東陵から西に少しだけ登ります。そこに次の目的地がありました。
9時8分に着きました。こちらには向かって左から「後三條天皇 圓宗寺陵」「後冷泉天皇 圓教寺陵」「後朱雀天皇 圓乘寺陵」が並んでいます。
「後三條天皇 圓宗寺陵」です。後三條天皇は第71代天皇。母親が先程の禎子内親王ということです。
「後冷泉天皇 圓教寺陵」です。後冷泉天皇は、第70代天皇。母は藤原道長四女の藤原嬉子(ふじわらのきし)。親仁親王(のちの後冷泉天皇)を産んだが、出産の2日後に19歳で亡くなっています。
「後朱雀天皇 圓乘寺陵」です。後朱雀天皇は、第69代天皇。一条天皇の第3皇子。母は藤原道長娘上東門院彰子(じょうとうもんいんしょうし)(演:見上愛)。
NHK大河ドラマ「光る君へ」では、まだまだ先でしょう、藤原道長(演:柄本佑)亡き後は、道長の嫡男で宇治平等院を造営した関白藤原頼通(演:渡邊圭祐)や、その弟である関白藤原教道(ふじわらののりみち)らが後朱雀天皇(第69代天皇)・後冷泉天皇(第70代天皇)に娘を入内させましたが、いずれにも皇子が生まれませんでした。藤原家による摂関政治は続いていくかに見えましたが、摂関政治の要たる男子には恵まれなかったことから、後冷泉天皇の後を受けて即位をしたのが、後朱雀天皇(第69代天皇)と禎子内親王と子である、後三条天皇(第71代天皇)だったんです。後三条天皇は、藤原氏と外戚(がいせき)関係のない、藤原氏を直接の母に持たない天皇は、宇多天皇(第59代天皇)以来170年ぶりのことでした。このことは藤原氏の権勢が下り坂となる原因となった。ちなみに後三条天皇のあと即位したのが第72代白河天皇です。
ここから再び「禎子内親王 圓乘寺東陵」の前まで戻ります。
9時9分、ここから山登りの開始です。参道は石畳となっているので迷うことは無いでしょう。
ここから頂上まで平坦な道はありません。ずっと登りが続きます。
ご覧のように、山の中に入って行くので不安はあります。初めて来たので先が分からないから。
ご覧のように、石畳は「つづら折れ」となっており、ぐんぐん登って行きます。
そして、結構な登りがようやく、ここに来てゴールが見えて来たように思います。
9時17分に着きました。ただ、ここはゴールじゃありません。登り始めて8分で着いたことになります。
こちらは「堀河天皇 後圓教寺陵」です。堀河天皇は第73代天皇。「一條天皇 圓融寺北陵」です。一条天皇は66代天皇。一条天皇は「光る君へ」に出て来ますね。堀河天皇は知りませんでした。
一條天皇は、わずか7歳で即位。藤原道長(演:柄本佑)の兄藤原道隆(演:井浦新)の長女で、幼くして入内した藤原定子(ふじわらのさだこ)(演:木村日鞠のちに高畑充希)を寵愛するが、のちに道長の長女藤原彰子(演:見上愛)も入内し、世継ぎをめぐる政争に巻き込まれます。藤原定子(演:高畑充希)に仕えた清少納言(演:ファーストサマーウイカ)や、藤原彰子(演:見上愛)に仕えた紫式部(演:吉高由里子)など、一條天皇の時代には宮廷文化が栄華を極め、ことに女流文学が栄えることになります。
2014年(平成26年)2月26日に奈良定期観光バスに乗って、「正暦寺」に行ったとき、ガイドさんより「一条天皇の時代に生きてた人々」の講話を聞きました。すっかり忘れてましたが、この記事を読んで思い出した次第です。
この朱山七陵では、もっとも時代が若い堀河天皇は、院政で知られる白河天皇(第72代天皇)の皇子で9歳で、第73代天皇として即位。白河天皇は上皇となり幼い天皇の後見として院政が始まるわけです。天皇は資性すぐれ、音楽や和歌に造詣深く、政務にも熱心で、摂関家や貴族の支持もあり、白河院政には批判的で、その治世中は白河院の専制体制は確立しなかった。堀河天皇は病弱で、29歳で帝位のまま亡くなり、次代の鳥羽天皇が即位することになります。
振り返れば、見事な眺望が広がってました。木々があるので、京都市街地を一望という訳にはいきませんが。
ズームにすると仁和寺の五重塔が見えました。この位置から嵐山や嵯峨野は見えないでしょう。小高い丘は双ケ岡です。
3分だけ休憩し、9時20分に再び登り始めました。あと山頂まで頑張ります。
ここも「つづら折れ」で登って行きます。結構な急な坂道を登ります。
最後の頑張りで、ようやくゴールが見えて来ました。多分、間違いないでしょう。
9時27分に着きました。「堀河天皇 後圓教寺陵」「一條天皇 圓融寺北陵」から7分で着きました。
「圓融天皇火葬塚」です。「圓融天皇 後村上陵」は別の所にあって、先般訪れました。疲れてたけど、ここを回ります。
時計回りで回ります。手前には「宇多天皇陵参道」と石碑に書いてありました。
ここは眺望良くありません。木々が邪魔で。ここからは、これぐらいでした。
「宇多天皇 大内山陵」に行くのは、この山道でしょう。とんでもなく山の中に入っていくみたいです。誰も行かないでしょう。
木々が邪魔ですが、比叡山と如意ヶ嶽の大文字山の方向です。
一周するのに2分でした。ただ、一回りしても何もありません。それより、ここに来て疑問が・・・?。
「禎子内親王 圓乘寺東陵」「後三條天皇 圓宗寺陵」「後冷泉天皇 圓教寺陵」「後朱雀天皇 圓乘寺陵」「堀河天皇 後圓教寺陵」「一條天皇 圓融寺北陵」と回って来ました。気になったのは、それぞれに寺名が付いていたことです。見たところ現存する寺はないようですし・・・?。
1月31日(水)に龍安寺を訪れたのは、龍安寺の前に圓融天皇ゆかりの円融寺があったからです。この辺りは、かつて「四円寺」がありました。平安時代に皇室の御願寺として京都の仁和寺の近くに建てられ、名称に「円」の字をもつ寺のことをいい、「円融寺」「円教寺」「円乗寺」「円宗寺」のことをいいます。「四円寺」は、平安時代中期に建立され、「円融寺」は圓融天皇の御願寺。「円教寺」は一條天皇の御願寺。「円乗寺」は後朱雀天皇発願の御願寺。「円宗寺」は後三条天皇の御願寺で、初め円明寺と称し、後に円宗寺となりました。最初の円融寺には五重塔もあったそうです。四円寺は仁和寺に属する寺院として繁栄し、関係する天皇がこの地の裏山で火葬をされ、あるいは埋葬をされていったのです。ここに「圓融天皇火葬塚」があるのはそのためです。しかし、天皇の墓を守る「陵寺」は、平安時代の終わり頃から衰退し、円融寺も平安時代末期に藤原実能が同寺址に山荘を建て、山荘内には徳大寺が創建され、実能の子孫は徳大寺家を称しました。その後、細川勝元の手に渡り龍安寺が創建されていくわけです。
9時32分に下山開始です。私は膝が悪いので、下りの方が負担になり、ゆっくり下山することにします。
9時40分に「堀河天皇 後圓教寺陵」「一條天皇 圓融寺北陵」に着きました。下山するのに8分かかりました。登りは7分でしたが。
眺望は、これで納めです。この先は見えません。
もう足も疲れているので、もう石段あがりません。これから下るだけ。
9時41分に「堀河天皇 後圓教寺陵」「一條天皇 圓融寺北陵」から下ります。この看板は龍安寺のものでした。犬を連れての下山した場合は龍安寺の敷地には入れませんと書いてありましたね。
下山している時に、下から声が聞こえてきました。この辺りには民家もないので変だなぁ・・・・と。
この写真を撮ったあと、下から登られてくる3人組と出会いました。外国人観光客でしたね。私でも入念に調べて来たのに、少々驚きでした。そして話しかけられて・・・。英語が分からないので、向こうは翻訳機で示してくれました。「あと何分かかりますか」と書いてあったので、日本語で答えました。通じなかったです😊。私は、さっき撮って来た写真を見せてあげました。驚いてましたね。話しが通じないので、ここで別れました。
9時49分に下山しました。8分もかかりましたね、登りと一緒でした。
「禎子内親王 圓乘寺東陵」の前を通って龍安寺に向かいます。
この張り紙は、龍安寺の拝観料を払って無かったら、龍安寺の境内には入らず、駐車場から出て行くようにと。
こちらは寺務所入口です。2013年(平成25年)12月8日に開催された京都市文化観光資源保護財団主催の「世界遺産 龍安寺 文化財特別鑑賞会」に参加したとき、ここから入りました。久しぶりに見て懐かしかったです。
先程の看板は、ここを右に行くと龍安寺の「鏡容池」に出るので、拝観券が必要ですと書いてありました。私は、今日の拝観券はありませんが、1月31日に来てるので、その時の拝観券は持参してきたわけです。
今日の拝観料払ってないので、早々に「山門」から出ました。
以前のことで、最近は知りませんが、ここは早朝に山門横の通用門が開いてて、近所の方が散歩されてました。私も何度か早朝に行き散歩したものです。今でも7時頃に通用門が開いているのかなぁ・・・?。
10時過ぎにパスが来たので、所用先に戻りました。このバスも一杯でしたが、ここで殆どの方が降りられ、車内はガラガラに。
この先の御室仁和寺前で、修学旅行生が降りたので、車内は私を含めて3名ぐらいに。行きのバスといい、帰りにバスといい龍安寺には多くの方が来られます。さほど広くない石庭は大混雑でしょうね。
先月の1月31日に龍安寺に行き、朱山七陵の手前まで行きました。それから地図を見て入念に下調べをしました。簡単な山登りとなるので道に迷わないようにと。それとイノシシなんかが出てこないかどうかも😊。
この日は59号系統のバスに乗って龍安寺前で下車する予定でした。私は途中のバス停から乗ったんですが、来たバスを見て驚きです。いつもはガラガラの車内が、人で満杯。乗れるかなぁと思ったぐらいでした。しかも、乗ってる人はほぼ外国人観光客、多分、始発の山越中町から乗られたのでしょう、ただ私が乗り込むと、外国人観光客は席を譲ってくれました。私自身若いつもりでしたが、外国人から見るとジジィに見えたのかなぁ、座れたのは嬉しかったけど、少しばかりショックはありましたね😊。降りる時に、外国人観光客のリーダーの方が1万円札を出され、バスでは1万円は使えないので、運転手がその方とやり取りしている間に、私は横をすり抜け降りることができました。後で分かったことは、この龍安寺前でほぼ降りられたことでした。やっぱり龍安寺は人気がありますね😊。
バスを降りて、9時2分に龍安寺の駐車場から奥へ歩いて行きます。
9時4分、1月31日には、ここまで来ました。この先が初めてです。写真では分かりづらいと思いますが、駐車場からずっと緩やかに登っています。
この先は見えませんが、ここより先は墓参の方のみ進めます。
9時6分に朱山七陵の一つに着きました。この階段を上がって正面に回り込みます。
こちらは「禎子内親王 圓乘寺東陵」です。後朱雀天皇皇后と書いてありました。もちろん帰ってから調べてみると・・・?。
NHK大河ドラマ「光る君へ」では禎子内親王(ていし ないしんのう)は、柄本佑さん演じる藤原道長の孫で、第67代天皇の三条天皇の娘です。三条天皇には木村達成さんが演じられます。まだ先のことですが😊。道長(演:柄本佑)は三条天皇(演:木村達成)に娘の藤原妍子(けんし)(ドラマでは、きよこ)を入内(じゅだい)させ、男子の誕生を期待していましたが、生まれてきたのが禎子内親王だったわけです。道長(演:柄本佑)は三条天皇(演:木村達成)を退位させ、自らの孫を即位させようと画策していくので、道長との確執は深まっていきます。院号は陽明門院(ようめいもんいん)。
ここ禎子内親王 圓乘寺東陵から西に少しだけ登ります。そこに次の目的地がありました。
9時8分に着きました。こちらには向かって左から「後三條天皇 圓宗寺陵」「後冷泉天皇 圓教寺陵」「後朱雀天皇 圓乘寺陵」が並んでいます。
「後三條天皇 圓宗寺陵」です。後三條天皇は第71代天皇。母親が先程の禎子内親王ということです。
「後冷泉天皇 圓教寺陵」です。後冷泉天皇は、第70代天皇。母は藤原道長四女の藤原嬉子(ふじわらのきし)。親仁親王(のちの後冷泉天皇)を産んだが、出産の2日後に19歳で亡くなっています。
「後朱雀天皇 圓乘寺陵」です。後朱雀天皇は、第69代天皇。一条天皇の第3皇子。母は藤原道長娘上東門院彰子(じょうとうもんいんしょうし)(演:見上愛)。
NHK大河ドラマ「光る君へ」では、まだまだ先でしょう、藤原道長(演:柄本佑)亡き後は、道長の嫡男で宇治平等院を造営した関白藤原頼通(演:渡邊圭祐)や、その弟である関白藤原教道(ふじわらののりみち)らが後朱雀天皇(第69代天皇)・後冷泉天皇(第70代天皇)に娘を入内させましたが、いずれにも皇子が生まれませんでした。藤原家による摂関政治は続いていくかに見えましたが、摂関政治の要たる男子には恵まれなかったことから、後冷泉天皇の後を受けて即位をしたのが、後朱雀天皇(第69代天皇)と禎子内親王と子である、後三条天皇(第71代天皇)だったんです。後三条天皇は、藤原氏と外戚(がいせき)関係のない、藤原氏を直接の母に持たない天皇は、宇多天皇(第59代天皇)以来170年ぶりのことでした。このことは藤原氏の権勢が下り坂となる原因となった。ちなみに後三条天皇のあと即位したのが第72代白河天皇です。
ここから再び「禎子内親王 圓乘寺東陵」の前まで戻ります。
9時9分、ここから山登りの開始です。参道は石畳となっているので迷うことは無いでしょう。
ここから頂上まで平坦な道はありません。ずっと登りが続きます。
ご覧のように、山の中に入って行くので不安はあります。初めて来たので先が分からないから。
ご覧のように、石畳は「つづら折れ」となっており、ぐんぐん登って行きます。
そして、結構な登りがようやく、ここに来てゴールが見えて来たように思います。
9時17分に着きました。ただ、ここはゴールじゃありません。登り始めて8分で着いたことになります。
こちらは「堀河天皇 後圓教寺陵」です。堀河天皇は第73代天皇。「一條天皇 圓融寺北陵」です。一条天皇は66代天皇。一条天皇は「光る君へ」に出て来ますね。堀河天皇は知りませんでした。
一條天皇は、わずか7歳で即位。藤原道長(演:柄本佑)の兄藤原道隆(演:井浦新)の長女で、幼くして入内した藤原定子(ふじわらのさだこ)(演:木村日鞠のちに高畑充希)を寵愛するが、のちに道長の長女藤原彰子(演:見上愛)も入内し、世継ぎをめぐる政争に巻き込まれます。藤原定子(演:高畑充希)に仕えた清少納言(演:ファーストサマーウイカ)や、藤原彰子(演:見上愛)に仕えた紫式部(演:吉高由里子)など、一條天皇の時代には宮廷文化が栄華を極め、ことに女流文学が栄えることになります。
2014年(平成26年)2月26日に奈良定期観光バスに乗って、「正暦寺」に行ったとき、ガイドさんより「一条天皇の時代に生きてた人々」の講話を聞きました。すっかり忘れてましたが、この記事を読んで思い出した次第です。
この朱山七陵では、もっとも時代が若い堀河天皇は、院政で知られる白河天皇(第72代天皇)の皇子で9歳で、第73代天皇として即位。白河天皇は上皇となり幼い天皇の後見として院政が始まるわけです。天皇は資性すぐれ、音楽や和歌に造詣深く、政務にも熱心で、摂関家や貴族の支持もあり、白河院政には批判的で、その治世中は白河院の専制体制は確立しなかった。堀河天皇は病弱で、29歳で帝位のまま亡くなり、次代の鳥羽天皇が即位することになります。
振り返れば、見事な眺望が広がってました。木々があるので、京都市街地を一望という訳にはいきませんが。
ズームにすると仁和寺の五重塔が見えました。この位置から嵐山や嵯峨野は見えないでしょう。小高い丘は双ケ岡です。
3分だけ休憩し、9時20分に再び登り始めました。あと山頂まで頑張ります。
ここも「つづら折れ」で登って行きます。結構な急な坂道を登ります。
最後の頑張りで、ようやくゴールが見えて来ました。多分、間違いないでしょう。
9時27分に着きました。「堀河天皇 後圓教寺陵」「一條天皇 圓融寺北陵」から7分で着きました。
「圓融天皇火葬塚」です。「圓融天皇 後村上陵」は別の所にあって、先般訪れました。疲れてたけど、ここを回ります。
時計回りで回ります。手前には「宇多天皇陵参道」と石碑に書いてありました。
ここは眺望良くありません。木々が邪魔で。ここからは、これぐらいでした。
「宇多天皇 大内山陵」に行くのは、この山道でしょう。とんでもなく山の中に入っていくみたいです。誰も行かないでしょう。
木々が邪魔ですが、比叡山と如意ヶ嶽の大文字山の方向です。
一周するのに2分でした。ただ、一回りしても何もありません。それより、ここに来て疑問が・・・?。
「禎子内親王 圓乘寺東陵」「後三條天皇 圓宗寺陵」「後冷泉天皇 圓教寺陵」「後朱雀天皇 圓乘寺陵」「堀河天皇 後圓教寺陵」「一條天皇 圓融寺北陵」と回って来ました。気になったのは、それぞれに寺名が付いていたことです。見たところ現存する寺はないようですし・・・?。
1月31日(水)に龍安寺を訪れたのは、龍安寺の前に圓融天皇ゆかりの円融寺があったからです。この辺りは、かつて「四円寺」がありました。平安時代に皇室の御願寺として京都の仁和寺の近くに建てられ、名称に「円」の字をもつ寺のことをいい、「円融寺」「円教寺」「円乗寺」「円宗寺」のことをいいます。「四円寺」は、平安時代中期に建立され、「円融寺」は圓融天皇の御願寺。「円教寺」は一條天皇の御願寺。「円乗寺」は後朱雀天皇発願の御願寺。「円宗寺」は後三条天皇の御願寺で、初め円明寺と称し、後に円宗寺となりました。最初の円融寺には五重塔もあったそうです。四円寺は仁和寺に属する寺院として繁栄し、関係する天皇がこの地の裏山で火葬をされ、あるいは埋葬をされていったのです。ここに「圓融天皇火葬塚」があるのはそのためです。しかし、天皇の墓を守る「陵寺」は、平安時代の終わり頃から衰退し、円融寺も平安時代末期に藤原実能が同寺址に山荘を建て、山荘内には徳大寺が創建され、実能の子孫は徳大寺家を称しました。その後、細川勝元の手に渡り龍安寺が創建されていくわけです。
9時32分に下山開始です。私は膝が悪いので、下りの方が負担になり、ゆっくり下山することにします。
9時40分に「堀河天皇 後圓教寺陵」「一條天皇 圓融寺北陵」に着きました。下山するのに8分かかりました。登りは7分でしたが。
眺望は、これで納めです。この先は見えません。
もう足も疲れているので、もう石段あがりません。これから下るだけ。
9時41分に「堀河天皇 後圓教寺陵」「一條天皇 圓融寺北陵」から下ります。この看板は龍安寺のものでした。犬を連れての下山した場合は龍安寺の敷地には入れませんと書いてありましたね。
下山している時に、下から声が聞こえてきました。この辺りには民家もないので変だなぁ・・・・と。
この写真を撮ったあと、下から登られてくる3人組と出会いました。外国人観光客でしたね。私でも入念に調べて来たのに、少々驚きでした。そして話しかけられて・・・。英語が分からないので、向こうは翻訳機で示してくれました。「あと何分かかりますか」と書いてあったので、日本語で答えました。通じなかったです😊。私は、さっき撮って来た写真を見せてあげました。驚いてましたね。話しが通じないので、ここで別れました。
9時49分に下山しました。8分もかかりましたね、登りと一緒でした。
「禎子内親王 圓乘寺東陵」の前を通って龍安寺に向かいます。
この張り紙は、龍安寺の拝観料を払って無かったら、龍安寺の境内には入らず、駐車場から出て行くようにと。
こちらは寺務所入口です。2013年(平成25年)12月8日に開催された京都市文化観光資源保護財団主催の「世界遺産 龍安寺 文化財特別鑑賞会」に参加したとき、ここから入りました。久しぶりに見て懐かしかったです。
先程の看板は、ここを右に行くと龍安寺の「鏡容池」に出るので、拝観券が必要ですと書いてありました。私は、今日の拝観券はありませんが、1月31日に来てるので、その時の拝観券は持参してきたわけです。
今日の拝観料払ってないので、早々に「山門」から出ました。
以前のことで、最近は知りませんが、ここは早朝に山門横の通用門が開いてて、近所の方が散歩されてました。私も何度か早朝に行き散歩したものです。今でも7時頃に通用門が開いているのかなぁ・・・?。
10時過ぎにパスが来たので、所用先に戻りました。このバスも一杯でしたが、ここで殆どの方が降りられ、車内はガラガラに。
この先の御室仁和寺前で、修学旅行生が降りたので、車内は私を含めて3名ぐらいに。行きのバスといい、帰りにバスといい龍安寺には多くの方が来られます。さほど広くない石庭は大混雑でしょうね。
この記事へのコメント
あるんですか。それは全く知らなかった。
朱山七陵と呼ばれる陵墓軍の中の一つなんですね。
龍安寺といえば、何と言っても石庭。
その後にやんごとなき方々のお墓参りができるなんて
全く考えないですもん。山に登った後の
見晴らしのよさにも驚きました。
朱山七陵のことは、随分前に知りましたが、山登りが苦手でこの日になりました。
龍安寺や仁和寺の歴史を知る上でも、行って見て良かったですし、眺望も良かったですね。こんな所にも外国人観光客が来るとは、そちらも驚きました。