紫式部や清少納言が仕えた屋敷「枇杷殿跡」へ
3月12日(火)は、朝から予報どおりの雨降りとなりました。雨が降って最低気温は7.6℃と冷え込みは、それほど無かったですが、一日中雨が降り続いたこともあって、最高気温は上がらず11.8℃と寒かったですね。ただスギ花粉の最盛期でしたが、花粉の飛散は押さえられたかと思います。そんな雨降りになったので、当初から決まっていた予定変更し、期限が迫っていた「京の冬の旅」スタンプラリー“ちょっと一服”のお店に行くことにしました。ただ、雨降りは想定以上の土砂降りとなりましたが・・・?。
今日は予定が変更となったので、家族に太秦天神川まで車で送って貰いました。地下鉄東西線太秦天神川を8時53分発に乗ることができました。烏丸御池に9時1分に着き、烏丸線に乗り換えします。電車は直ぐに来て9時3分に乗り、次の丸太町駅に9時4分に着いて、北改札口から出ました。調べていた通り前方し車両に乗ったので混まずに済みました。地上には2番出入口から出ると、雨は土砂降りに。こんなに降るとは想定外でしたね。そして烏丸通りの西側の歩道を北上し、最初の目的地である護王神社に9時14分に着きました。
毎年、年末に御守りをいただきに来てましたが、来られませんでした。ずっと気にしてたんで、この日寄って見たわけです。
毎年、大絵馬を撮りに来てましたが、今頃になりました😊。日本画家の曲子明良先生に原画をご揮毫いただきました・・・とありました。
こんな大雨の日に参拝する人は居ないです。境内には誰も居ませんでした。このあと授与所に行って御守りをいただきました。
鞄に付けていた御守りを外し、納札所に納めて出て行きました。護王神社を出て、少し北に上がり下長者町通りの信号で烏丸通りを渡りました。そして京都御苑には蛤御門から入り、目的地に向かいます。目的の「京の冬の旅」スタンプラリー“ちょっと一服”のお店は10時開店です。時計の針は9時24分でしたので、紫式部ゆかりの「枇杷殿跡」を見ていきます。その場所は京都御苑の「梅林」の辺りとされていましたが・・・?。
梅林の前に、先ずは桃の花を見ていきます。桃の花も雨に負けずに綺麗に咲いていました。
向こうに見えているのが「京都御所」です。この日の参観はお休みでした。月曜日はお休みですが、火曜日も時々お休みになります。行く場合はHPで確認要です。
梅と桃の違いを調べてみました。解説には、葉と花がひらくタイミング。花だけがひらいている場合は梅、葉と花が同時にひらいていれば桃になるそうです。
そして桃林の南側には「梅林」があります。その梅林内に駒札があって、そこには「枇杷殿跡」についても詳しく書かれてました。
京都御所は、紫式部(演:吉高由里子)の時代に、内裏は約2㎞ほど西の千本丸太町周辺にありました(現在は平安宮朝堂院 大極殿跡の石碑が建っています)。現在の京都御所は1331年(元徳3年)以降に今の場所が正式な御所になりました。紫式部が清少納言と才を競ったのが枇杷殿(びわどの)屋敷と云われています。枇杷殿跡は、現在の京都御苑「梅林」あたりにあったとされています。枇杷殿は平安時代前期、藤原基経(ふじわらのもとつね)から藤原忠平(ふじわらのただひら)に伝えられ、敷地内には、宝物を満たした蔵が並んでいたといいます。1002年(長保4年)以降、藤原道長(演:柄本佑)と二女藤原妍子(ふじわらのけんし)(ドラマでは、ふじわらのきよこ)の里邸として整備され、御所の内裏炎上の折は、摂関家の邸宅を一時的に皇居とする里内裏ともなり、1009年(寛弘6年)には、第66代天皇の一條天皇(演:塩野瑛久)が遷り、紫式部(演:吉高由里子)や清少納言(演:ファーストサマーウイカ)が枇杷殿で仕えたといわれています。1014年(長和3年)2月に、再び内裏が炎上し三条天皇が遷御。1016年(長和5年)正月、第67代天皇の三條天皇(演:木村達成)は、この邸で第68代天皇の後一條天皇に譲位したと云われています。
雨も小雨だったら良かったのにと思うぐらい、写真を撮るとき濡れてしまいます。ただ梅の花は綺麗でした。
梅林内にも水溜まりができてきました。それほどの雨降りです。梅の花も雨に打たれて落ちそうかなぁ・・・?
今日の目的が京都御苑の北側にあるので梅林を抜けて次に桃林へ。
桃林も抜けます。桃の花は珍しいので、見られて良かったです。
京都御所まで来ました。見えているのは「建礼門」です。
この大木は「清水谷の椋」です。何故、ここに大木があったかは清水谷家という公家の屋敷があったからです。
そこから西を見ると「蛤御門」が見えます。この門をよくよく見ると弾丸のあとも残っています。
京都御所の西側に、もとは「新在家御門」と言いました。ただ1788年(天明8年)の「天明の大火」の際に開門。焼けて口をあく蛤にたとえて、以後「蛤御門」と呼ばれるようになりました。1864年(元治元年)7月19日、京での勢力を挽回しようとした長州藩は御所めざして攻め上がった。迎え撃つ会津・薩摩・桑名藩との間で激しき戦いとなりました。世に言う「蛤御門の変」(禁門の変)です。この時に発生した火災は、みるみる京の街を飲み込んで行きました。それは京の街の殆どが被災してました。北は現在の京都御所、西は二条城、南は京都駅、東は鴨川に居たる広範囲が火災で焼け民家3万8000戸余が被災したと云います。
さらに北に向かって歩き「宜秋門」まで来ました。かつて、ここが参観の入口だったこともありますが、今は閉門されています。
次に西側を見ると「中立売御門」が見えました。車で来たら、ここから中立売駐車場に入れます。
まだ時間が早かったので、中立売御門近くにある「中立売休憩所」で、座って雨に濡れた服を拭いました。
今日は火曜日ですが、京都御所の参観はお休みです。それで、ここを歩いている人も少なかったように思いましたが、外国人観光客は、こんな雨降りでも来られてました。
このあと、今日の目的地に行ったわけです。
ところで先般、「NHKニュース630 京いちにち」の「もっと知りたい大河ドラマ光君へ」のコーナーを見ていると、ラジオで良く聞く京都市在住の林和清先生が紫式部の和歌について解説されてました。ラジオでは声だけですが、お顔を見るのは初めてでしたね😊。以外と若いんだと😊。翌日、出演されていたラジオでも、この事を話されてました。
紫式部が京を離れ、父親の赴任地である越前に向かう時に、紫式部が詠んだ和歌を、旅をしながら解説されていたわけです。最初は。
「打ち出でて 三上の山を 詠(ながむ)れば 雪こそなけれ 富士のあけぼの」。紫式部が、父親の為時に同行して、越前の国へ行くときに、三上山を見て詠んだものです。(富士山のように雪は積もってないけれども、これだって、近江富士といわれる山ですからね)。
林先生の解説は、この時、紫式部は20代後半になっていた。父親に同行して、何年も地方へ行くというのは、半ば結婚を諦める決断をしたんじゃないでしょうか。これから慣れない土地へ行く心細さ、そして、これからの人生どうなるのかという、大きな不安を抱えていたのではないでしょうか?と。
「かき曇り 夕だつ浪の あらければ うきたる舟ぞ しづ心なき」。現代のように交通の便や通信手段が無い時代に、都から離れることが、どんなに不安だったか?。荒波に揺れる小舟は、紫式部自身のことだったのかも知れません。
次は滋賀県北部、白鬚神社。かつて三尾崎(みおがさき)と呼ばれた地でも紫式部は和歌を詠んでいます。
「三尾の海に 網引く民の てまもなく 立ち居につけて 都恋しも」。高島の三尾崎の海で、網を引いてせわしなく漁をする人々の姿を見て、紫式部は都とは何もかもが違う、都の生活が恋しいという思いを詠んだ句。林先生の解説は、これからどんな世界へ行くのかと不安になって、都へ帰りたいという思いの方が強くなったのではないでしょうか?。
近江の国を抜けて、次に越前の国で暮らし始めた紫式部に、都からの便りが途絶えていた訳ではありません。なかでも熱心に便りをよこしたのが、紫式部の夫になる藤原宣孝(ふじわらののぶたか)でした。余談ですが、藤原宣孝は俳優の佐々木蔵之介さんが演じています。その宣孝からの便りに返した和歌です。
「春なれど 白嶺の深雪 いや積もり 解くべき程の いつとなき哉」。(白山の雪がいつ溶けるか分からないように、私の心もいつ解けるかわかりません)。といかにもつれない態度。そこから越前で1年あまり暮らしたあと、紫式部は単身、都に戻ってきます。
紫式部が都へと舟で戻るとき、舟の上から伊吹山を見て詠んだ和歌。
「名に高き 越の白山 ゆきなれて 伊吹の嶽を なにとこそ見ね」。(あの名高い加賀の白山の雪を見慣れていたら、伊吹山の雪なんて、何ほどのこともない)。
林先生の解説は、紫式部が越前にいる時、手紙でプロポーズされているんです。紫式部はプロポーズを受け、結婚を承諾して都に帰ります。相手は藤原宣孝、父親ほど年の離れた相手。あまり望ましい相手とは思わなかったのではないかなぁ。ただ雪国の生活を経験して、結婚を決意して覚悟決めて都に帰る。紫式部は、少し強くなったのかも知れません。
最後に林先生は、和歌をとおして見えて来たのは、旅を経験して、自分の世界を広げた紫式部の世界でした。紫式部は、あまり社交的で明るいタイプではなかった。内に秘めた思いは激しく芯の強い人でした。雪国のつらい生活を経て、世界の広さを知って、たくましさがそなわったのでしょう。
この日、訪れた段階では、まだ紫式部は京に居ます。予告では福井越前編が始まるそうだと宣伝してましたね。これからの展開が楽しみです。
今日は予定が変更となったので、家族に太秦天神川まで車で送って貰いました。地下鉄東西線太秦天神川を8時53分発に乗ることができました。烏丸御池に9時1分に着き、烏丸線に乗り換えします。電車は直ぐに来て9時3分に乗り、次の丸太町駅に9時4分に着いて、北改札口から出ました。調べていた通り前方し車両に乗ったので混まずに済みました。地上には2番出入口から出ると、雨は土砂降りに。こんなに降るとは想定外でしたね。そして烏丸通りの西側の歩道を北上し、最初の目的地である護王神社に9時14分に着きました。
毎年、年末に御守りをいただきに来てましたが、来られませんでした。ずっと気にしてたんで、この日寄って見たわけです。
毎年、大絵馬を撮りに来てましたが、今頃になりました😊。日本画家の曲子明良先生に原画をご揮毫いただきました・・・とありました。
こんな大雨の日に参拝する人は居ないです。境内には誰も居ませんでした。このあと授与所に行って御守りをいただきました。
鞄に付けていた御守りを外し、納札所に納めて出て行きました。護王神社を出て、少し北に上がり下長者町通りの信号で烏丸通りを渡りました。そして京都御苑には蛤御門から入り、目的地に向かいます。目的の「京の冬の旅」スタンプラリー“ちょっと一服”のお店は10時開店です。時計の針は9時24分でしたので、紫式部ゆかりの「枇杷殿跡」を見ていきます。その場所は京都御苑の「梅林」の辺りとされていましたが・・・?。
梅林の前に、先ずは桃の花を見ていきます。桃の花も雨に負けずに綺麗に咲いていました。
向こうに見えているのが「京都御所」です。この日の参観はお休みでした。月曜日はお休みですが、火曜日も時々お休みになります。行く場合はHPで確認要です。
梅と桃の違いを調べてみました。解説には、葉と花がひらくタイミング。花だけがひらいている場合は梅、葉と花が同時にひらいていれば桃になるそうです。
そして桃林の南側には「梅林」があります。その梅林内に駒札があって、そこには「枇杷殿跡」についても詳しく書かれてました。
京都御所は、紫式部(演:吉高由里子)の時代に、内裏は約2㎞ほど西の千本丸太町周辺にありました(現在は平安宮朝堂院 大極殿跡の石碑が建っています)。現在の京都御所は1331年(元徳3年)以降に今の場所が正式な御所になりました。紫式部が清少納言と才を競ったのが枇杷殿(びわどの)屋敷と云われています。枇杷殿跡は、現在の京都御苑「梅林」あたりにあったとされています。枇杷殿は平安時代前期、藤原基経(ふじわらのもとつね)から藤原忠平(ふじわらのただひら)に伝えられ、敷地内には、宝物を満たした蔵が並んでいたといいます。1002年(長保4年)以降、藤原道長(演:柄本佑)と二女藤原妍子(ふじわらのけんし)(ドラマでは、ふじわらのきよこ)の里邸として整備され、御所の内裏炎上の折は、摂関家の邸宅を一時的に皇居とする里内裏ともなり、1009年(寛弘6年)には、第66代天皇の一條天皇(演:塩野瑛久)が遷り、紫式部(演:吉高由里子)や清少納言(演:ファーストサマーウイカ)が枇杷殿で仕えたといわれています。1014年(長和3年)2月に、再び内裏が炎上し三条天皇が遷御。1016年(長和5年)正月、第67代天皇の三條天皇(演:木村達成)は、この邸で第68代天皇の後一條天皇に譲位したと云われています。
雨も小雨だったら良かったのにと思うぐらい、写真を撮るとき濡れてしまいます。ただ梅の花は綺麗でした。
梅林内にも水溜まりができてきました。それほどの雨降りです。梅の花も雨に打たれて落ちそうかなぁ・・・?
今日の目的が京都御苑の北側にあるので梅林を抜けて次に桃林へ。
桃林も抜けます。桃の花は珍しいので、見られて良かったです。
京都御所まで来ました。見えているのは「建礼門」です。
この大木は「清水谷の椋」です。何故、ここに大木があったかは清水谷家という公家の屋敷があったからです。
そこから西を見ると「蛤御門」が見えます。この門をよくよく見ると弾丸のあとも残っています。
京都御所の西側に、もとは「新在家御門」と言いました。ただ1788年(天明8年)の「天明の大火」の際に開門。焼けて口をあく蛤にたとえて、以後「蛤御門」と呼ばれるようになりました。1864年(元治元年)7月19日、京での勢力を挽回しようとした長州藩は御所めざして攻め上がった。迎え撃つ会津・薩摩・桑名藩との間で激しき戦いとなりました。世に言う「蛤御門の変」(禁門の変)です。この時に発生した火災は、みるみる京の街を飲み込んで行きました。それは京の街の殆どが被災してました。北は現在の京都御所、西は二条城、南は京都駅、東は鴨川に居たる広範囲が火災で焼け民家3万8000戸余が被災したと云います。
さらに北に向かって歩き「宜秋門」まで来ました。かつて、ここが参観の入口だったこともありますが、今は閉門されています。
次に西側を見ると「中立売御門」が見えました。車で来たら、ここから中立売駐車場に入れます。
まだ時間が早かったので、中立売御門近くにある「中立売休憩所」で、座って雨に濡れた服を拭いました。
今日は火曜日ですが、京都御所の参観はお休みです。それで、ここを歩いている人も少なかったように思いましたが、外国人観光客は、こんな雨降りでも来られてました。
このあと、今日の目的地に行ったわけです。
ところで先般、「NHKニュース630 京いちにち」の「もっと知りたい大河ドラマ光君へ」のコーナーを見ていると、ラジオで良く聞く京都市在住の林和清先生が紫式部の和歌について解説されてました。ラジオでは声だけですが、お顔を見るのは初めてでしたね😊。以外と若いんだと😊。翌日、出演されていたラジオでも、この事を話されてました。
紫式部が京を離れ、父親の赴任地である越前に向かう時に、紫式部が詠んだ和歌を、旅をしながら解説されていたわけです。最初は。
「打ち出でて 三上の山を 詠(ながむ)れば 雪こそなけれ 富士のあけぼの」。紫式部が、父親の為時に同行して、越前の国へ行くときに、三上山を見て詠んだものです。(富士山のように雪は積もってないけれども、これだって、近江富士といわれる山ですからね)。
林先生の解説は、この時、紫式部は20代後半になっていた。父親に同行して、何年も地方へ行くというのは、半ば結婚を諦める決断をしたんじゃないでしょうか。これから慣れない土地へ行く心細さ、そして、これからの人生どうなるのかという、大きな不安を抱えていたのではないでしょうか?と。
「かき曇り 夕だつ浪の あらければ うきたる舟ぞ しづ心なき」。現代のように交通の便や通信手段が無い時代に、都から離れることが、どんなに不安だったか?。荒波に揺れる小舟は、紫式部自身のことだったのかも知れません。
次は滋賀県北部、白鬚神社。かつて三尾崎(みおがさき)と呼ばれた地でも紫式部は和歌を詠んでいます。
「三尾の海に 網引く民の てまもなく 立ち居につけて 都恋しも」。高島の三尾崎の海で、網を引いてせわしなく漁をする人々の姿を見て、紫式部は都とは何もかもが違う、都の生活が恋しいという思いを詠んだ句。林先生の解説は、これからどんな世界へ行くのかと不安になって、都へ帰りたいという思いの方が強くなったのではないでしょうか?。
近江の国を抜けて、次に越前の国で暮らし始めた紫式部に、都からの便りが途絶えていた訳ではありません。なかでも熱心に便りをよこしたのが、紫式部の夫になる藤原宣孝(ふじわらののぶたか)でした。余談ですが、藤原宣孝は俳優の佐々木蔵之介さんが演じています。その宣孝からの便りに返した和歌です。
「春なれど 白嶺の深雪 いや積もり 解くべき程の いつとなき哉」。(白山の雪がいつ溶けるか分からないように、私の心もいつ解けるかわかりません)。といかにもつれない態度。そこから越前で1年あまり暮らしたあと、紫式部は単身、都に戻ってきます。
紫式部が都へと舟で戻るとき、舟の上から伊吹山を見て詠んだ和歌。
「名に高き 越の白山 ゆきなれて 伊吹の嶽を なにとこそ見ね」。(あの名高い加賀の白山の雪を見慣れていたら、伊吹山の雪なんて、何ほどのこともない)。
林先生の解説は、紫式部が越前にいる時、手紙でプロポーズされているんです。紫式部はプロポーズを受け、結婚を承諾して都に帰ります。相手は藤原宣孝、父親ほど年の離れた相手。あまり望ましい相手とは思わなかったのではないかなぁ。ただ雪国の生活を経験して、結婚を決意して覚悟決めて都に帰る。紫式部は、少し強くなったのかも知れません。
最後に林先生は、和歌をとおして見えて来たのは、旅を経験して、自分の世界を広げた紫式部の世界でした。紫式部は、あまり社交的で明るいタイプではなかった。内に秘めた思いは激しく芯の強い人でした。雪国のつらい生活を経て、世界の広さを知って、たくましさがそなわったのでしょう。
この日、訪れた段階では、まだ紫式部は京に居ます。予告では福井越前編が始まるそうだと宣伝してましたね。これからの展開が楽しみです。
この記事へのコメント
この時代はそんなに事前知識が無いので。
枇杷殿は、今の京都御所内にあったのですか。
当時の御所からは東の少し離れたところに位置しますね。
やはり和歌や文学の才にあふれたいたことが伺われます。
雨の中の京都御所巡り。
なかなか趣を感じますが、撮影するのは大変ですよね。
この日は、記録的な大雨でした。
「光る君へ」を見て、紫式部ゆかりの地、源氏物語ゆかりの地を巡るようにしています。いろいろ興味を持ちました。
紫式部の時代には、京都御所は千本丸太町のあたりにありました。今では石碑が建っているぐらいで、面影はまっくありません。
まだ2話ほど見てないので、何とも言えませんが、これから舞台は福井になるはずです。ただ、北陸新幹線が開通したので、福井までは不便になりました。関西からは。