第58回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 廬山寺へ
3月14日(水)は、前日の雨が上がって、予報では曇りのち晴れと出てました。ただ、9時頃に家を出た時は、まだ雨が降ってましたが😊。この日は当初の予定どおり、第58回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 廬山寺に行きました。廬山寺は、紫式部邸宅址・源氏物語執筆地で知られています。
廬山寺には何度か行ってます。最近では2021年(令和3年)7月15日に行ってますし、2019年(令和元年)11月2日には「令和元年度 第55回京都非公開文化財特別公開」で、2015年(平成27年)5月10日には「平成27年度 春季京都非公開文化財特別公開」で行ってるので、当初は行くつもりは無かったところ、今年はNHK大河ドラマ「光る君へ」で、紫式部が主人公となり、廬山寺にも多くの方が来られていると報道を見た訳です。今回は、通常非公開の元三大師堂にも入れるみたいで、私が入ったのが2015年(平成27年)5月10日と、9年前のこともあって、久しぶりに行ってみようと思い、本日来た訳です。
「裁判所前バス停」で下車し、京都御苑には「富小路口」から9時46分に入りました。
京都御苑内を東に向いて斜めに歩いて行きます。そして次に「寺町御門(てらまちごもん)」から京都御苑を9時49分に出て行きました。
ここから廬山寺にある北に向かって、寺町通り沿いを歩いて行きます。今は何の面影もありませんが・・・?。
紫式部の時代、暮らしていた屋敷の通りは「東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)」といい、その東京極大路に沿って中川が流れていました。廬山寺の前の通り、現在は寺町通りですが、当時は「中川」が流れていたんですね。少し離れた鴨川と中川に挟まれた堤防には多くの公家屋敷があって、紫式部が暮らしてした邸宅も、そこにあったとされています。その貴族達の屋敷には大きな庭がありました。その庭には池があったので、中川や鴨川から水を引いていたと考えられています。
9時56分に廬山寺の「医薬門」前に着きました。門前には「紫式部邸宅址」の石碑も門前に立っています。
ここから境内を見ると、ざっと20名ぐらいの人が待たれているように思いました。やっぱりNHK大河ドラマ「光る君へ」効果ですね。
医薬門を入って正面に「元三大師堂」があって、通常は非公開です。今回、久しぶりに公開されるときき、本日訪問させて貰いました。ここで廬山寺について復習です😊。
廬山寺は、天台圓浄宗の大本山で、正式にはは廬山天台講寺(ろざんてんだいこうじ)といいます。元三大師良源により宮中に参内する宿坊として938年(天慶元年)に京都の北、船岡山の山麓に開いた輿願金剛院が始まりとされています。元三大師良源は、第十八世天台座主になられた方で、比叡山の復興に努められ、命日が正月3日であることから元三大師と呼ばれるようになりました。その後、1245年(寛元3年)住心房覚瑜上人らよって、廬山寺は出雲路に開かれますが、南北朝時代に輿願金剛院と廬山寺の二ケ寺を兼務した明導照源上人により統合され、この時より廬山天台講寺と改め、円、密、戒、浄の四宗兼学道場となりました。その後、応仁の乱の兵火に遭い伽藍は焼失してしまい、1571年(元亀3年)の織田信長の比叡山焼き討ち時に、危機に扮しますが、第106代天皇の正親町天皇勅命により危機を免れました。元々廬山寺は船岡山の山麓にあったため、その前の通りは今でも廬山寺通りと呼ばれており、現在のこの場所に移転してきたのは1573年(天正元年)と言われています。時代は遡り1965年(昭和40年)に歴史学者・角田文衞により、紫式部の邸宅址であることが判明しました。こちらの邸宅は紫式部の曾祖父藤原兼輔(三十六歌仙のひとり)が邸宅を構え、その広い邸宅は鴨川の西側の堤防沿いにあったため、堤邸と呼ばれ兼輔は、堤中納言(つつみちゅうなごん)と呼ばれました。そのため、ここの庭園は整備され「源氏の庭」と名付けられ、桔梗が綺麗に咲き誇ります。本堂は、1708年(宝永5年)と1788年(天明8年)に火災に見舞われ焼失してます。1794年(寛政6年)第119代天皇の光格天皇が仙洞御所の一部を移築し再建されたものです。これは光格天皇の父親・閑院宮典仁親王の葬儀を執り行うためでした。ご本尊は阿弥陀三尊像で、中央に阿弥陀如来、右に観音菩薩、左に勢至菩薩が祀られており、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて造られ定朝様式たと言われています。明治維新まで宮中の仏事を司る御黒戸四箇院(二尊院・遣迎院・般舟院・廬山寺)でした。
この写真は帰りに撮ったものです。「本堂玄関」前には多くの方が、扉が開くのを待たれてました。結果、10時少し回ってから開きましたね。
私は、列に並ばず、先にこの石碑を撮りました。ただ解説の文字が掠れてしまって、読めなくなってました。
本堂玄関前にあった「紫式部歌碑」です。「有馬山 いなのささ原 風吹けば いでそよ人を忘れやはする」(大貳三位)、「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲隠れにし 夜半の月かな」(紫式部)とあります。大貳三位は紫式部の娘、NHK大河ドラマ「光る君へ」では、黒島結菜さんが演じられます。紫式部は吉高由里子さんですね😊。
10時過ぎに受付で、拝観料800円を納めました。撮影の有無は、受付前の紫式部像と庭園のみ。堂内は禁止とのことです。
10時10分ぐらいまで、自由に庭の写真を撮ったり、寺宝をゆっくり観賞させて貰いました。そしてガイドさんより、「案内を始めるので仏間の前に集まって下さい」と言われたので皆さん集まります。ざっと20名ぐらいでしょうか、私は何度か行っているので、ガイドさんの話しはパスさせて貰いました。
廬山寺の本堂の前に広がる庭園は、「源氏の庭」といいます。この地で暮らし、源氏物語を執筆した紫式部を思い、初夏から秋の初めまで、この庭園では、紫の桔梗が咲き誇ります。
紫式部は、曾祖父藤原兼輔の建てた邸宅で暮らしていました。源氏物語の大半をこの地で執筆したと考えられています。源氏物語の執筆の時期は定かではありませんが、一説には紫式部が20歳の頃、夫藤原宣孝(ふじわらののぶたか)を亡くしたのが、物語を書くきっかけとされ、夫の死後も、この邸宅で暮らし続け、物語の大半をこの地で執筆したと考えられています。
この「源氏の庭」には、「紫式部邸宅址」の石碑があります。言語学者の新村出(しんむらいづる)博士が顕著碑に揮毫されました。
遠いので、はっきり分かりませんが、庭には柑橘系の実がなってました。
庭園内にある「黒門」です。かつて廬山寺は宮中の仏事を担っていたため、たびたび勅使の来訪がありました。黒門はその際にだけ使用されていましたが、明治の廃仏毀釈によって開かずの門になりました。
庭園の向かって左にあるのが「尊牌殿(そんぱいでん)」という御尊碑を安置する堂です。祀られているのは第119代天皇の光格天皇と、その妃にあたる新清和院(しんせいわいん)皇后です。
桔梗の花が咲き誇る頃に再訪したいです。前途したとおり庭の写真を撮って、寺宝をじっくり見て、仏間のご本尊にお参りしたら、ガイドさんから案内の声がかかりました。写真は撮れませんが、寺宝の案内です。
入って最初の部屋には「貝合わせ」など。そして次の部屋には、源氏物語ゆかりの掛け軸が展示されていました。
江戸時代の絵師住吉廣尚(すみよしなおひろ)が描いた源氏物語第5帖「若紫」の図。従者を連れた光源氏が若紫を垣間見る場面。
源氏物語の世界には平安貴族の生活様式や暮らしぶりがリアルに描かれています。この掛け軸に描かれてる女性の髪の毛は身長と同じぐらい長くて・・・平安時代の女性は、長くて黒い髪を大切にしていて、小さい時から伸ばし始めるそうです。何ヶ月も髪の毛を洗ってはいけないという時期があったようで、洗って良い日と悪い日を見定めてから洗ったといいます。余談でした😊。
江戸時代の土佐派を代表する絵師土佐光起(とさみつおき)筆の源氏物語第51帖「浮舟」の図。櫓をこぐ舟人のほかに、貴族の男女がひと組、際立って色鮮やかに描かれています。
また余談です。平安時代の女性の装束にはついて、何枚も着重ねています。後世には、こうした装束のことを「十二単」と呼ばれるようになりました。かさねの色目は季節にあった色目にあったのが美人の基準となったようです。
住吉廣尚の父住吉廣行筆の「絵合(えあわせ)」の図。そして初公開でしょうか、与謝野晶子自筆の和歌集「源氏物語礼賛」がありました。与謝野晶子が源氏物語の各帖の情景を詠み込んだもの。
そして、月が本堂です。本堂は江戸時代に仙洞御所の一部を移築したものです。ご本尊は来迎の阿弥陀三尊像で、中央に阿弥陀如来、右に観音菩薩、左に勢至菩薩が祀られており、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて造られ定朝様式たと言われています。
そして、最後の部屋はには源氏物語第49帖「源氏物語屏風 宿木」「源氏物語屏風(本間六曲一隻)」などが展示されてて、ゆっくり観賞させて貰いました。
次に、今回の特別公開では入れる「元三大師堂」に向かいます。その中庭ですね。下の写真は授与所で、帰りに御朱印をいただきました。
暗くて見にくいですが、本堂の前で多くの方がガイドさんの話しを聞かれてました。
「元三大師堂」の入口です。2015年(平成27年)5月10日には「平成27年度 春季京都非公開文化財特別公開」と同様にお堂の裏側から入りました。堂内は撮影禁止です。
江戸時代に再建された元三大師堂。ご本尊として大師の自作と伝わる白い頭巾を被った元三大師坐像が祀られています。そして向かって左に「暹賀童子」(せんがどうじ)、右に「聖救童子」も安置されてました。
元三大師堂(がんさんだいしどう)は通常非公開。内陣中央の奥に安置されているのが、廬山寺の開山、元三大師良源(りょうげん)の像。平安時代中期の第18世天台宗座主で、火災で荒れ果てていた比叡山延暦寺の復興に尽力した「延暦寺中興の祖」と仰がれた高僧です。良源は1月3日に亡くなられたことから、民衆から「元三大師」の呼び名で親しまれました。そして別途、天皇からは没後に慈恵大師(じえいだいし)という諡(おくりな)されています。疫病に打ち勝ったお大師様として人々から篤い信仰を集め様々な伝説を残しました。
こちらは、今回の「京の冬の旅」での、御前立鬼大師像の看板の写真です。
元三大師像の前には御前立の鬼大師像(鬼面坐像)が安置されています。あるとき、宮中の宴に招かれた元三大師良源は、その席で鬼の姿に変化し、「民衆が疫病で苦しんでいる時に、この騒ぎは何事か」と公家たちを戒めたと伝わります。その時の姿を写したのが、この鬼大師像(鬼面坐像)と云わります。
こちらは、帰りに授与所でいただいた「角大師護符」です。以前から知ってて、今回いただくつもりで、ここに来ました。
角大師(つのだいし)護符のお札は、京都の街中では良く見かけます。平安時代に疫病が蔓延し、亡くなる方も多かった。その時、元三大師が疫病の元となるものを自分の中に取り入れて、疫病退散のご祈祷をなされていた際に、鏡に映った自らの姿を描き取らせて厄除けの護符としたもの。その護符を貼った家々には、たちまち疫病がなくなったと、非常に霊験のあるお札と云わるものです。
堂内の向かって左に厨子があって、今回は開いてません。聞きましたが、メモして無かったので忘れました😊。そして不動明王立像、蔵王權現像、が並んでいて、そして今回3回目ですね、目にするには・・・?。
明智光秀公の念持仏と言われる地蔵菩薩像です。前回は本堂内に安置されてました。今回の公開は、元三大師堂内でしたね。
地蔵菩薩像の周りを囲む厨子は、岩窟表現するという大変珍しいものです。念持仏とは毎日手を合わせて拝んでいたと言われる仏様のことで、今で言う仏壇の原型とも言われています。1571年(元亀3年)の織田信長の比叡山焼き討ち時に、第106代天皇の正親町天皇が勅命を出されますが、それを承けたまわったのが明智光秀で、それが縁で廬山寺に念持仏を寄進されました。この地蔵菩薩のお顔が磨り減っています。これは毎日明智光秀が祈願する際、お顔を擦りつけて祈願していたのではないかと言われています。また、光秀は戦の時にも持ち歩いていたのでしょう、地蔵菩薩がいつでも持ち出せるように台から直ぐに離れるようになっていました。軍の守り本尊にしたのでしょう。右には不動明王像、左には毘沙門天像が祀られいますが、こちらは持ち運ぶ事は出来ないようになっています。武将の念持仏として、地蔵菩薩は珍しく、上杉謙信は毘沙門天で知られています。
帰りにいただいた、期間限定の御朱印をいただきました。「若紫」の絵図ですね。
前途した中川の地は、源氏物語では、度々登場します。第3帖「空蝉」の世界では、中川にあった紀伊守の邸宅を。第11帖「花散里(はなちるさと)」では、光源氏が中川を通りかかった場面が出てきます。第9帖「葵」では、葵祭の見物場所を巡って光源氏の妻と愛人がぶつかる、車争いという事件が起こりますが、その現場となった一条大路は、中川にあった紫式部邸のすぐ近くにあったとされています。紫式部は、自分の周辺で起こる出来事を物語に取り入れていたようです😊。
帰りは地下鉄烏丸線丸太町駅を利用します。10時45分頃の電車に乗りたかったので、10時18分にここを出ました。
廬山寺を出て、10時19分に「梨木神社」の前を通りました。今日は寄る時間はありません。
10時20分に京都御苑「清和院御門(せいわもんごもん)」を入ります。丸太町駅まで京都御苑を斜めに横切って行きます。
この京都御苑に来たのは、近道ということもありますが、この駒札があるから来た訳です。駒札には「土御門第跡」と書いてありました。NHK大河ドラマ「光る君へ」を見てなかったら来なかったでしょう。
平安時代中期に摂政太政大臣となった藤原道長の邸宅跡で、拡充された南北二町に及び、上乗門第(じょうとうもんてい)、京極第(きょうごくてい)などとも呼ばれました。道長の長女藤原彰子が一条天皇のお后となり、里内裏である当邸で、後の後一条天皇や後朱雀天皇になる皇子達も、誕生した。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思えば」の歌は、この邸で催された宴席で詠まれたものといいます。
道長が、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(この世を、我が世と思う。望月(満月)が欠けることもないと思うから) という、かの有名な「望月の歌」を詠んだのは、威子(いし)の立后の儀式が終わったあとに催された、土御門第での酒宴の席でした。藤原道長は、長女の彰子を一条天皇に入内させて皇后に立て、次女の妍子は三条天皇の中宮にし、彰子が産んだ敦成親王を後一条天皇として即位させると、天皇の外祖父として摂政になり、摂政を嫡子の頼道に譲ったのちも実権を掌握。さらには三女の威子(いし)を後一条天皇の中宮にして、藤原氏による摂関政治の最盛期を築きました。
NHK大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道隆は井浦新さんが演じ、道隆の長女で、第66代天皇の一条天皇には塩野瑛久さんが演じます。その妃となる藤原定子を高畑充希さん、道長の長女で紫式部(まひろ)が出仕する藤原彰子を見上愛さんが三条天皇に木村達成さんが演じます。これからの展開が楽しみです。
この日は、最高気温が12.0℃でした。暖かくはありませんが、少し歩くと少し汗をかきました。
ここは仙洞御所の北西角に立っています。写真は向かいの京都御所を撮りました。
仙洞御所では、午後から参観について、当日受付をされてました。私は、4月下旬に抽選に当たり行く予定にしています。
京都御所の東にある「建春門」を撮りました。
そして京都御苑を斜めに歩き、振り返った所が、正面に「仙洞御所正門」が見えて、奥に五山の送り火「大の文字」が見えました。
北を見れば京都御所の「建礼門」が見えました。
京都御苑を斜めに横切り、綺麗な梅の花を見て「下立売御門」を10時36分に出ました。横切るだけで16分もかかりました。やっぱり京都御苑は広いです。
そして地下鉄烏丸線「丸太町駅」のホームには10時43分に降りてきました。10時45分頃が目的でしたが、ギリギリでした。
このあと、直ぐ来た電車に乗り、次の烏丸御池で東西線に乗り換えました。予定より3分早く乗ることが出来たので余裕が出来ましたね。
京都御苑は広いですね。明治維新までは、公家の屋敷がぎっしり京都御所を取り囲むように建っていたのに、今は京都市民の憩いの広場になっています。明治維新で、天皇や公家、商人たちが東京に移動したため、京都は寂れてしまうのを、先般放送されたNHK歴史探偵で、詳しく説明されてました。千年の都「古都」京都を、これからも巡って行きたいと思います。
廬山寺には何度か行ってます。最近では2021年(令和3年)7月15日に行ってますし、2019年(令和元年)11月2日には「令和元年度 第55回京都非公開文化財特別公開」で、2015年(平成27年)5月10日には「平成27年度 春季京都非公開文化財特別公開」で行ってるので、当初は行くつもりは無かったところ、今年はNHK大河ドラマ「光る君へ」で、紫式部が主人公となり、廬山寺にも多くの方が来られていると報道を見た訳です。今回は、通常非公開の元三大師堂にも入れるみたいで、私が入ったのが2015年(平成27年)5月10日と、9年前のこともあって、久しぶりに行ってみようと思い、本日来た訳です。
「裁判所前バス停」で下車し、京都御苑には「富小路口」から9時46分に入りました。
京都御苑内を東に向いて斜めに歩いて行きます。そして次に「寺町御門(てらまちごもん)」から京都御苑を9時49分に出て行きました。
ここから廬山寺にある北に向かって、寺町通り沿いを歩いて行きます。今は何の面影もありませんが・・・?。
紫式部の時代、暮らしていた屋敷の通りは「東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)」といい、その東京極大路に沿って中川が流れていました。廬山寺の前の通り、現在は寺町通りですが、当時は「中川」が流れていたんですね。少し離れた鴨川と中川に挟まれた堤防には多くの公家屋敷があって、紫式部が暮らしてした邸宅も、そこにあったとされています。その貴族達の屋敷には大きな庭がありました。その庭には池があったので、中川や鴨川から水を引いていたと考えられています。
9時56分に廬山寺の「医薬門」前に着きました。門前には「紫式部邸宅址」の石碑も門前に立っています。
ここから境内を見ると、ざっと20名ぐらいの人が待たれているように思いました。やっぱりNHK大河ドラマ「光る君へ」効果ですね。
医薬門を入って正面に「元三大師堂」があって、通常は非公開です。今回、久しぶりに公開されるときき、本日訪問させて貰いました。ここで廬山寺について復習です😊。
廬山寺は、天台圓浄宗の大本山で、正式にはは廬山天台講寺(ろざんてんだいこうじ)といいます。元三大師良源により宮中に参内する宿坊として938年(天慶元年)に京都の北、船岡山の山麓に開いた輿願金剛院が始まりとされています。元三大師良源は、第十八世天台座主になられた方で、比叡山の復興に努められ、命日が正月3日であることから元三大師と呼ばれるようになりました。その後、1245年(寛元3年)住心房覚瑜上人らよって、廬山寺は出雲路に開かれますが、南北朝時代に輿願金剛院と廬山寺の二ケ寺を兼務した明導照源上人により統合され、この時より廬山天台講寺と改め、円、密、戒、浄の四宗兼学道場となりました。その後、応仁の乱の兵火に遭い伽藍は焼失してしまい、1571年(元亀3年)の織田信長の比叡山焼き討ち時に、危機に扮しますが、第106代天皇の正親町天皇勅命により危機を免れました。元々廬山寺は船岡山の山麓にあったため、その前の通りは今でも廬山寺通りと呼ばれており、現在のこの場所に移転してきたのは1573年(天正元年)と言われています。時代は遡り1965年(昭和40年)に歴史学者・角田文衞により、紫式部の邸宅址であることが判明しました。こちらの邸宅は紫式部の曾祖父藤原兼輔(三十六歌仙のひとり)が邸宅を構え、その広い邸宅は鴨川の西側の堤防沿いにあったため、堤邸と呼ばれ兼輔は、堤中納言(つつみちゅうなごん)と呼ばれました。そのため、ここの庭園は整備され「源氏の庭」と名付けられ、桔梗が綺麗に咲き誇ります。本堂は、1708年(宝永5年)と1788年(天明8年)に火災に見舞われ焼失してます。1794年(寛政6年)第119代天皇の光格天皇が仙洞御所の一部を移築し再建されたものです。これは光格天皇の父親・閑院宮典仁親王の葬儀を執り行うためでした。ご本尊は阿弥陀三尊像で、中央に阿弥陀如来、右に観音菩薩、左に勢至菩薩が祀られており、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて造られ定朝様式たと言われています。明治維新まで宮中の仏事を司る御黒戸四箇院(二尊院・遣迎院・般舟院・廬山寺)でした。
この写真は帰りに撮ったものです。「本堂玄関」前には多くの方が、扉が開くのを待たれてました。結果、10時少し回ってから開きましたね。
私は、列に並ばず、先にこの石碑を撮りました。ただ解説の文字が掠れてしまって、読めなくなってました。
本堂玄関前にあった「紫式部歌碑」です。「有馬山 いなのささ原 風吹けば いでそよ人を忘れやはする」(大貳三位)、「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲隠れにし 夜半の月かな」(紫式部)とあります。大貳三位は紫式部の娘、NHK大河ドラマ「光る君へ」では、黒島結菜さんが演じられます。紫式部は吉高由里子さんですね😊。
10時過ぎに受付で、拝観料800円を納めました。撮影の有無は、受付前の紫式部像と庭園のみ。堂内は禁止とのことです。
10時10分ぐらいまで、自由に庭の写真を撮ったり、寺宝をゆっくり観賞させて貰いました。そしてガイドさんより、「案内を始めるので仏間の前に集まって下さい」と言われたので皆さん集まります。ざっと20名ぐらいでしょうか、私は何度か行っているので、ガイドさんの話しはパスさせて貰いました。
廬山寺の本堂の前に広がる庭園は、「源氏の庭」といいます。この地で暮らし、源氏物語を執筆した紫式部を思い、初夏から秋の初めまで、この庭園では、紫の桔梗が咲き誇ります。
紫式部は、曾祖父藤原兼輔の建てた邸宅で暮らしていました。源氏物語の大半をこの地で執筆したと考えられています。源氏物語の執筆の時期は定かではありませんが、一説には紫式部が20歳の頃、夫藤原宣孝(ふじわらののぶたか)を亡くしたのが、物語を書くきっかけとされ、夫の死後も、この邸宅で暮らし続け、物語の大半をこの地で執筆したと考えられています。
この「源氏の庭」には、「紫式部邸宅址」の石碑があります。言語学者の新村出(しんむらいづる)博士が顕著碑に揮毫されました。
遠いので、はっきり分かりませんが、庭には柑橘系の実がなってました。
庭園内にある「黒門」です。かつて廬山寺は宮中の仏事を担っていたため、たびたび勅使の来訪がありました。黒門はその際にだけ使用されていましたが、明治の廃仏毀釈によって開かずの門になりました。
庭園の向かって左にあるのが「尊牌殿(そんぱいでん)」という御尊碑を安置する堂です。祀られているのは第119代天皇の光格天皇と、その妃にあたる新清和院(しんせいわいん)皇后です。
桔梗の花が咲き誇る頃に再訪したいです。前途したとおり庭の写真を撮って、寺宝をじっくり見て、仏間のご本尊にお参りしたら、ガイドさんから案内の声がかかりました。写真は撮れませんが、寺宝の案内です。
入って最初の部屋には「貝合わせ」など。そして次の部屋には、源氏物語ゆかりの掛け軸が展示されていました。
江戸時代の絵師住吉廣尚(すみよしなおひろ)が描いた源氏物語第5帖「若紫」の図。従者を連れた光源氏が若紫を垣間見る場面。
源氏物語の世界には平安貴族の生活様式や暮らしぶりがリアルに描かれています。この掛け軸に描かれてる女性の髪の毛は身長と同じぐらい長くて・・・平安時代の女性は、長くて黒い髪を大切にしていて、小さい時から伸ばし始めるそうです。何ヶ月も髪の毛を洗ってはいけないという時期があったようで、洗って良い日と悪い日を見定めてから洗ったといいます。余談でした😊。
江戸時代の土佐派を代表する絵師土佐光起(とさみつおき)筆の源氏物語第51帖「浮舟」の図。櫓をこぐ舟人のほかに、貴族の男女がひと組、際立って色鮮やかに描かれています。
また余談です。平安時代の女性の装束にはついて、何枚も着重ねています。後世には、こうした装束のことを「十二単」と呼ばれるようになりました。かさねの色目は季節にあった色目にあったのが美人の基準となったようです。
住吉廣尚の父住吉廣行筆の「絵合(えあわせ)」の図。そして初公開でしょうか、与謝野晶子自筆の和歌集「源氏物語礼賛」がありました。与謝野晶子が源氏物語の各帖の情景を詠み込んだもの。
そして、月が本堂です。本堂は江戸時代に仙洞御所の一部を移築したものです。ご本尊は来迎の阿弥陀三尊像で、中央に阿弥陀如来、右に観音菩薩、左に勢至菩薩が祀られており、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて造られ定朝様式たと言われています。
そして、最後の部屋はには源氏物語第49帖「源氏物語屏風 宿木」「源氏物語屏風(本間六曲一隻)」などが展示されてて、ゆっくり観賞させて貰いました。
次に、今回の特別公開では入れる「元三大師堂」に向かいます。その中庭ですね。下の写真は授与所で、帰りに御朱印をいただきました。
暗くて見にくいですが、本堂の前で多くの方がガイドさんの話しを聞かれてました。
「元三大師堂」の入口です。2015年(平成27年)5月10日には「平成27年度 春季京都非公開文化財特別公開」と同様にお堂の裏側から入りました。堂内は撮影禁止です。
江戸時代に再建された元三大師堂。ご本尊として大師の自作と伝わる白い頭巾を被った元三大師坐像が祀られています。そして向かって左に「暹賀童子」(せんがどうじ)、右に「聖救童子」も安置されてました。
元三大師堂(がんさんだいしどう)は通常非公開。内陣中央の奥に安置されているのが、廬山寺の開山、元三大師良源(りょうげん)の像。平安時代中期の第18世天台宗座主で、火災で荒れ果てていた比叡山延暦寺の復興に尽力した「延暦寺中興の祖」と仰がれた高僧です。良源は1月3日に亡くなられたことから、民衆から「元三大師」の呼び名で親しまれました。そして別途、天皇からは没後に慈恵大師(じえいだいし)という諡(おくりな)されています。疫病に打ち勝ったお大師様として人々から篤い信仰を集め様々な伝説を残しました。
こちらは、今回の「京の冬の旅」での、御前立鬼大師像の看板の写真です。
元三大師像の前には御前立の鬼大師像(鬼面坐像)が安置されています。あるとき、宮中の宴に招かれた元三大師良源は、その席で鬼の姿に変化し、「民衆が疫病で苦しんでいる時に、この騒ぎは何事か」と公家たちを戒めたと伝わります。その時の姿を写したのが、この鬼大師像(鬼面坐像)と云わります。
こちらは、帰りに授与所でいただいた「角大師護符」です。以前から知ってて、今回いただくつもりで、ここに来ました。
角大師(つのだいし)護符のお札は、京都の街中では良く見かけます。平安時代に疫病が蔓延し、亡くなる方も多かった。その時、元三大師が疫病の元となるものを自分の中に取り入れて、疫病退散のご祈祷をなされていた際に、鏡に映った自らの姿を描き取らせて厄除けの護符としたもの。その護符を貼った家々には、たちまち疫病がなくなったと、非常に霊験のあるお札と云わるものです。
堂内の向かって左に厨子があって、今回は開いてません。聞きましたが、メモして無かったので忘れました😊。そして不動明王立像、蔵王權現像、が並んでいて、そして今回3回目ですね、目にするには・・・?。
明智光秀公の念持仏と言われる地蔵菩薩像です。前回は本堂内に安置されてました。今回の公開は、元三大師堂内でしたね。
地蔵菩薩像の周りを囲む厨子は、岩窟表現するという大変珍しいものです。念持仏とは毎日手を合わせて拝んでいたと言われる仏様のことで、今で言う仏壇の原型とも言われています。1571年(元亀3年)の織田信長の比叡山焼き討ち時に、第106代天皇の正親町天皇が勅命を出されますが、それを承けたまわったのが明智光秀で、それが縁で廬山寺に念持仏を寄進されました。この地蔵菩薩のお顔が磨り減っています。これは毎日明智光秀が祈願する際、お顔を擦りつけて祈願していたのではないかと言われています。また、光秀は戦の時にも持ち歩いていたのでしょう、地蔵菩薩がいつでも持ち出せるように台から直ぐに離れるようになっていました。軍の守り本尊にしたのでしょう。右には不動明王像、左には毘沙門天像が祀られいますが、こちらは持ち運ぶ事は出来ないようになっています。武将の念持仏として、地蔵菩薩は珍しく、上杉謙信は毘沙門天で知られています。
帰りにいただいた、期間限定の御朱印をいただきました。「若紫」の絵図ですね。
前途した中川の地は、源氏物語では、度々登場します。第3帖「空蝉」の世界では、中川にあった紀伊守の邸宅を。第11帖「花散里(はなちるさと)」では、光源氏が中川を通りかかった場面が出てきます。第9帖「葵」では、葵祭の見物場所を巡って光源氏の妻と愛人がぶつかる、車争いという事件が起こりますが、その現場となった一条大路は、中川にあった紫式部邸のすぐ近くにあったとされています。紫式部は、自分の周辺で起こる出来事を物語に取り入れていたようです😊。
帰りは地下鉄烏丸線丸太町駅を利用します。10時45分頃の電車に乗りたかったので、10時18分にここを出ました。
廬山寺を出て、10時19分に「梨木神社」の前を通りました。今日は寄る時間はありません。
10時20分に京都御苑「清和院御門(せいわもんごもん)」を入ります。丸太町駅まで京都御苑を斜めに横切って行きます。
この京都御苑に来たのは、近道ということもありますが、この駒札があるから来た訳です。駒札には「土御門第跡」と書いてありました。NHK大河ドラマ「光る君へ」を見てなかったら来なかったでしょう。
平安時代中期に摂政太政大臣となった藤原道長の邸宅跡で、拡充された南北二町に及び、上乗門第(じょうとうもんてい)、京極第(きょうごくてい)などとも呼ばれました。道長の長女藤原彰子が一条天皇のお后となり、里内裏である当邸で、後の後一条天皇や後朱雀天皇になる皇子達も、誕生した。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思えば」の歌は、この邸で催された宴席で詠まれたものといいます。
道長が、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(この世を、我が世と思う。望月(満月)が欠けることもないと思うから) という、かの有名な「望月の歌」を詠んだのは、威子(いし)の立后の儀式が終わったあとに催された、土御門第での酒宴の席でした。藤原道長は、長女の彰子を一条天皇に入内させて皇后に立て、次女の妍子は三条天皇の中宮にし、彰子が産んだ敦成親王を後一条天皇として即位させると、天皇の外祖父として摂政になり、摂政を嫡子の頼道に譲ったのちも実権を掌握。さらには三女の威子(いし)を後一条天皇の中宮にして、藤原氏による摂関政治の最盛期を築きました。
NHK大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道隆は井浦新さんが演じ、道隆の長女で、第66代天皇の一条天皇には塩野瑛久さんが演じます。その妃となる藤原定子を高畑充希さん、道長の長女で紫式部(まひろ)が出仕する藤原彰子を見上愛さんが三条天皇に木村達成さんが演じます。これからの展開が楽しみです。
この日は、最高気温が12.0℃でした。暖かくはありませんが、少し歩くと少し汗をかきました。
ここは仙洞御所の北西角に立っています。写真は向かいの京都御所を撮りました。
仙洞御所では、午後から参観について、当日受付をされてました。私は、4月下旬に抽選に当たり行く予定にしています。
京都御所の東にある「建春門」を撮りました。
そして京都御苑を斜めに歩き、振り返った所が、正面に「仙洞御所正門」が見えて、奥に五山の送り火「大の文字」が見えました。
北を見れば京都御所の「建礼門」が見えました。
京都御苑を斜めに横切り、綺麗な梅の花を見て「下立売御門」を10時36分に出ました。横切るだけで16分もかかりました。やっぱり京都御苑は広いです。
そして地下鉄烏丸線「丸太町駅」のホームには10時43分に降りてきました。10時45分頃が目的でしたが、ギリギリでした。
このあと、直ぐ来た電車に乗り、次の烏丸御池で東西線に乗り換えました。予定より3分早く乗ることが出来たので余裕が出来ましたね。
京都御苑は広いですね。明治維新までは、公家の屋敷がぎっしり京都御所を取り囲むように建っていたのに、今は京都市民の憩いの広場になっています。明治維新で、天皇や公家、商人たちが東京に移動したため、京都は寂れてしまうのを、先般放送されたNHK歴史探偵で、詳しく説明されてました。千年の都「古都」京都を、これからも巡って行きたいと思います。
この記事へのコメント
放送中の大河ドラマと合わせ、想いが深まりますね。
成程と思わせる風情です。
源氏物語関連だと、熱心に聞きたくなります。
元三大師堂のお話も心打たれます。
鬼大師像(鬼面坐像)の角大師護符は厄除けのお札なんですか。
以降、源氏物語を彷彿とさせるロケーションでした。
廬山寺には何度かきてましたが、元三大師堂には久しく入ってないので、今回行くことにしました。
今は、廬山寺の前は寺町通りですが、当時は中川が流れており、そこは中川の堤防でした。廬山寺の前には京都御所がありますが、当時は公家の屋敷があったとされています。「光る君へ」が放送され、NHKでは、紫式部ゆかりの地を紹介されてることもあって、再度来て見ました。多くの方が来られてましたね。大河人気でしょう。