第58回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 泉涌寺 舎利殿へ
東福寺から泉涌寺には、九条通りに出て、泉涌寺口から坂を登っていくコースが一般ですが、抜け道もあります。2017年(平成29年)11月24日には、東福寺勝林院から泉涌寺雲龍院へ行くために抜け道を通りました。雲龍院 秋の特別拝観と夜間ライトアップで、暗がりを懐中電灯で歩いて行ったのを覚えています。ただ、今日は雲龍院に行かないので、手前の抜け道を通り予定です。
東福寺「日下門」を9時40分に出て、北に向いて歩きます。途中「臥雲橋」から見た「通天橋」を撮りました。「東福寺 栗棘庵」の前を通ると、突き当たりを、今度は東に向いて歩きます。
東に向いて、緩やかに登って行くと、突き当たりに「京都市立日吉ケ丘高等学校」があるので、高校沿いに坂を登って行きます。
高校沿いの石垣に沿って歩いてくと、9時52分に緑の手摺りがる通路に出会います。次は、ここを登って行きます。
左手が「京都市立日吉ケ丘高等学校」で、高校生が部活の練習をしてました。高校生を写すと拙いので、写さないように撮りました😊。
ここまで緩やかに登ってきて、最後に、この石段はキツかったです。
ここを抜けると泉涌寺山内 悲田院に出ます。2020年(令和2年)10月29日に「令和2年度「第56回京都非公開文化財特別公開」に行って以来です。
泉涌寺山内 悲田院には行かず、泉涌寺の「大門」を目指し、緩やかに登って行きます。
ここまで来たらゴールは間近でです。今日は特別公開されてる雲龍院には行きません。
計算通り泉涌寺「大門」前に10時に着きました。
この日の目的は、第58回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 泉涌寺 舎利殿でした。ここは常時拝観しているので、9時から開門しています。それは、ここに来て確認しました。ただ舎利殿の公開は10時から、そのため、ここの拝観者は多かったです。
東山三十六峰の南端部分にある泉涌寺。真言宗泉涌寺派の総本山。皇室との関連が深く御寺(みてら)とも呼ばれる。鎌倉時代初期、月輪大師(俊芿しゅんじょう)を開山として創建され、寺地の一角から清水が湧き出たことにより「泉涌寺」と名付けられた。1242年(仁治3年)、第87代天皇の四条天皇葬儀が当地で営まれ、山陵が当寺に造営された。その後、歴代天皇・皇后の御葬儀は当山で執り行われ、山陵境内に設けられて「月輪陵」と名づけられた。こうして当山は皇室の御香華院として、長く篤い信仰を集めることとなり、泉涌寺が「御寺(みてら)」と呼ばれるようになり、皇室の御香華院(ごこうげいん)(菩提所)として栄えた。寺宝としては、国宝の泉涌寺勧縁疏(かんえんそ)の文書のほか多数の貴重な文化財を蔵している。
入ると、先ずは「仏殿」を目指しました。3月8日(金)~3月17日(日)まで、堂内では「大涅槃図」が公開されていました。(写真は以前のものを使いました)
入ろうとしても、人が多すぎて入れません。外からも「大涅槃図」は見えましたが、多分、団体さんが入られたのでしょう。次に舎利殿のあと、入り直した次第です。
堂内は撮影禁止でした。「大涅槃図」は、あまりに巨大で、天井から床まで折り返しになってました。
京都の報恩寺の住職も務めた明誉古礀(めいよこかん)によって描かれた日本最大級の涅槃図。太く自由な線で釈迦の死を嘆く人々を表現しています。
この日は、大涅槃図が架かっていて、天井は見えませんでした。通常拝観の時には、狩野探幽が描いた「蟠龍」が見られました。
仏殿(重文)は、泉涌寺の本堂。江戸幕府4代将軍徳川家綱の再建で、運慶派作と伝える過去・現在・未来を表す三世仏の釈迦如来坐像、右に弥勒菩薩坐像、左に弥勒菩薩坐像を安置。天井には狩野探幽筆で「蟠龍」はとぐろを巻く姿。高さ16㍍にあり、京畳の八畳分の大きさ。絵を保護するために金網越しに見ることになります。
仏殿内は、団体さんが去ったあとも、人が多くて大涅槃図をゆっくり見られなかったのは残念ですし、天井もです。舎利殿の公開時間に合わせて来ましたが、もっと早く来たら良かったなぁが感想です。そして次に特別公開されている「舎利殿」です。
約7㍍の四方形、入母屋造り、裳階(もこし)つき、本瓦葺。御所の御文庫を1642年(寛永19年)に移築し、仏殿として改造したもの。花頭窓があって禅宗仏殿風ですが、蔀戸(しとみど)は御所の名残です。
2014年(平成26年)10月11日の「東山区民ふれあい文化財鑑賞会」で初めて入りました。その時、ここが公開されるのは12年に一度辰年に公開されると聞いた覚えがあります。
舎利殿は、釈迦の牙舎利(歯)を安置する堂で、堂内には牙舎利を納めた宝塔とこれを守護する韋駄天像(重文)と月蓋長者像(重文)を安置。そして天井には狩野山雪が1647年(正保4年)に描いた「蟠番龍図」が。とぐろを巻いた龍ということで、まだ昇天してない龍を表します。下で手を叩くと共鳴が起こるので鳴龍として知られています。
撮影禁止のため看板の写真です。堂内は暗いので、このようには見えないです。確かに反響はしますが、人が多かったので、私には響いたように思えなかったです。
内陣の左右には、板壁に「十六羅漢図」が8人づつ描かれています。1668年(寛文8年)に6代目木村了啄の作。
手前が「舎利殿」、奥が「仏殿」です。ここで写真を撮っていると、お寺の方より呼ばれました・・・・?。
「仏殿」の鬼瓦の眼が光っていると・・・?。本当に光っているように見えました。理屈は、写真に撮ったら分かりますね。肉眼では本当に光ってましたね😊。
京菓子の笹谷伊織さんがお店を出されてて、泉涌寺限定販売の「み月」をいただきました。600円でしたが、美味しかったので、家族の土産に買って帰りました。
泉涌寺では、「御座所」「御座所庭園」「海会堂」を見るのに特別拝観料500円が必要で、いつでも入れます。ただ今日は入りません。次に、前から気になっていた「唐門」へ向かいました。
いつからか「唐門」を開門されて、「霊明殿」を正面から見えるようになりました。通常非公開で、歴代天皇、皇后、親王の御位牌が祀られています。
霊明殿は、1884年(明治17年)明治天皇により再建された宸殿造の建物で、奥から内陣・中陣・外陣で構成された建物です。その内陣には、第87代四条天皇・第121代孝明天皇・第122代明治天皇・第123代大正天皇・第124代昭和天皇の御位牌を安置。泉涌寺で初めて祀られたのが四条天皇だそうで、以降、泉涌寺は天皇家との関わりが深くなっていきます。中陣には天皇家から下賜(かし)された仏具などがあって、内陣には前途した御位牌の他に、四条天皇の木像が安置されていました。
唐門を出て、再び「舎利殿」と「仏殿」の横を通りました。
このまま歩いて行くと、清少納言の歌碑がありました。「夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」これは、清少納言が藤原行成と交わしたものだそうです。
清少納言は、ファーストサマーウイカさんが演じてますし、藤原行成(ふじわらのゆきなり)は、渡辺大知さんが演じいます。行成は、藤原道長よりも6歳下。道長政権下で蔵人頭に抜擢されると、細やかな気遣いで実務に能力を発揮、欠かせない存在として支え続ける。文字の美しさでは右に出る者がおらず、もてはやされた。とNHKでは紹介されています。藤原行成と清少納言の関係は・・・?。行成が最初に仕えたのは第66代天皇の一条天皇。 一条天皇には、塩野瑛久さんが演じます、その后である藤原定子には高畑充希さんが演じます。藤原定子に仕えていたのが清少納言でした。清少納言は晩年には、藤原定子が眠る鳥辺野近くの東山月輪に隠棲したのだという。その東山月輪には、清少納言の父・清原元輔'演者は大森博史さん)の邸宅があったと云われています。
次に、泉涌寺の名前の由来になった井戸「泉涌水屋形」に行きました。今も泉が湧き続け、1667年(寛永7年)の再建。京都府文化財に指定されています。
「浴室」で、京都指定文化財です。ここの内部は見たことがありません。
そこから坂を上がり、大門近くの「楊貴妃観音堂」に寄って行きました。
久しぶりに「楊貴妃観音像」を見ました。美しい観音像でした。そして次に「心照殿」に入ります。ここは通常の拝見で入れるので、寄らないと損します😊。
今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」にちなんで、江戸時代後期の絵師土佐光文筆の「源氏物語屏風図」が展示されていました。
源氏物語 第47帖「総角(あげまき)」の場面。宇治川に舟遊びや紅葉狩りを催す匂宮(におうみや)の姿が描かれている。
源氏物語 第34帖「若葉上」の場面。蹴鞠に興じる柏木(かしわぎ)が、唐猫(からねこ)が跳ね上げた女三宮(おんなさんのみや)の姿を垣間見る姿を描いている。
10時40分頃に泉涌寺大門から出て行きました。
そこからは、九条通りに出るまで下りです。膝が悪いので、下りの方が堪えます。九条通りに出たら泉涌寺道バス停から市バスに乗り、大石橋(地下鉄九条駅)まで乗り、そこから地下鉄烏丸線九条駅で地下鉄に乗り換えです。
余談ですが、この九条駅が、京都市営地下鉄の乗降客数で、ワースト1位となっています。
この九条駅は、仕事で何度か利用したので、慣れたものです。ただリタイアした今は、懐かしいですね。九条駅から次の京都駅で、どっと降りるかと思いきや、降りる人は殆どいなくて、半端なく多くの方が乗って来られます。その殆どの方が四条駅で降りられるですけど。私は、次の御池駅で東西線に乗り換えて帰路につきました。
東福寺「日下門」を9時40分に出て、北に向いて歩きます。途中「臥雲橋」から見た「通天橋」を撮りました。「東福寺 栗棘庵」の前を通ると、突き当たりを、今度は東に向いて歩きます。
東に向いて、緩やかに登って行くと、突き当たりに「京都市立日吉ケ丘高等学校」があるので、高校沿いに坂を登って行きます。
高校沿いの石垣に沿って歩いてくと、9時52分に緑の手摺りがる通路に出会います。次は、ここを登って行きます。
左手が「京都市立日吉ケ丘高等学校」で、高校生が部活の練習をしてました。高校生を写すと拙いので、写さないように撮りました😊。
ここまで緩やかに登ってきて、最後に、この石段はキツかったです。
ここを抜けると泉涌寺山内 悲田院に出ます。2020年(令和2年)10月29日に「令和2年度「第56回京都非公開文化財特別公開」に行って以来です。
泉涌寺山内 悲田院には行かず、泉涌寺の「大門」を目指し、緩やかに登って行きます。
ここまで来たらゴールは間近でです。今日は特別公開されてる雲龍院には行きません。
計算通り泉涌寺「大門」前に10時に着きました。
この日の目的は、第58回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 泉涌寺 舎利殿でした。ここは常時拝観しているので、9時から開門しています。それは、ここに来て確認しました。ただ舎利殿の公開は10時から、そのため、ここの拝観者は多かったです。
東山三十六峰の南端部分にある泉涌寺。真言宗泉涌寺派の総本山。皇室との関連が深く御寺(みてら)とも呼ばれる。鎌倉時代初期、月輪大師(俊芿しゅんじょう)を開山として創建され、寺地の一角から清水が湧き出たことにより「泉涌寺」と名付けられた。1242年(仁治3年)、第87代天皇の四条天皇葬儀が当地で営まれ、山陵が当寺に造営された。その後、歴代天皇・皇后の御葬儀は当山で執り行われ、山陵境内に設けられて「月輪陵」と名づけられた。こうして当山は皇室の御香華院として、長く篤い信仰を集めることとなり、泉涌寺が「御寺(みてら)」と呼ばれるようになり、皇室の御香華院(ごこうげいん)(菩提所)として栄えた。寺宝としては、国宝の泉涌寺勧縁疏(かんえんそ)の文書のほか多数の貴重な文化財を蔵している。
入ると、先ずは「仏殿」を目指しました。3月8日(金)~3月17日(日)まで、堂内では「大涅槃図」が公開されていました。(写真は以前のものを使いました)
入ろうとしても、人が多すぎて入れません。外からも「大涅槃図」は見えましたが、多分、団体さんが入られたのでしょう。次に舎利殿のあと、入り直した次第です。
堂内は撮影禁止でした。「大涅槃図」は、あまりに巨大で、天井から床まで折り返しになってました。
京都の報恩寺の住職も務めた明誉古礀(めいよこかん)によって描かれた日本最大級の涅槃図。太く自由な線で釈迦の死を嘆く人々を表現しています。
この日は、大涅槃図が架かっていて、天井は見えませんでした。通常拝観の時には、狩野探幽が描いた「蟠龍」が見られました。
仏殿(重文)は、泉涌寺の本堂。江戸幕府4代将軍徳川家綱の再建で、運慶派作と伝える過去・現在・未来を表す三世仏の釈迦如来坐像、右に弥勒菩薩坐像、左に弥勒菩薩坐像を安置。天井には狩野探幽筆で「蟠龍」はとぐろを巻く姿。高さ16㍍にあり、京畳の八畳分の大きさ。絵を保護するために金網越しに見ることになります。
仏殿内は、団体さんが去ったあとも、人が多くて大涅槃図をゆっくり見られなかったのは残念ですし、天井もです。舎利殿の公開時間に合わせて来ましたが、もっと早く来たら良かったなぁが感想です。そして次に特別公開されている「舎利殿」です。
約7㍍の四方形、入母屋造り、裳階(もこし)つき、本瓦葺。御所の御文庫を1642年(寛永19年)に移築し、仏殿として改造したもの。花頭窓があって禅宗仏殿風ですが、蔀戸(しとみど)は御所の名残です。
2014年(平成26年)10月11日の「東山区民ふれあい文化財鑑賞会」で初めて入りました。その時、ここが公開されるのは12年に一度辰年に公開されると聞いた覚えがあります。
舎利殿は、釈迦の牙舎利(歯)を安置する堂で、堂内には牙舎利を納めた宝塔とこれを守護する韋駄天像(重文)と月蓋長者像(重文)を安置。そして天井には狩野山雪が1647年(正保4年)に描いた「蟠番龍図」が。とぐろを巻いた龍ということで、まだ昇天してない龍を表します。下で手を叩くと共鳴が起こるので鳴龍として知られています。
撮影禁止のため看板の写真です。堂内は暗いので、このようには見えないです。確かに反響はしますが、人が多かったので、私には響いたように思えなかったです。
内陣の左右には、板壁に「十六羅漢図」が8人づつ描かれています。1668年(寛文8年)に6代目木村了啄の作。
手前が「舎利殿」、奥が「仏殿」です。ここで写真を撮っていると、お寺の方より呼ばれました・・・・?。
「仏殿」の鬼瓦の眼が光っていると・・・?。本当に光っているように見えました。理屈は、写真に撮ったら分かりますね。肉眼では本当に光ってましたね😊。
京菓子の笹谷伊織さんがお店を出されてて、泉涌寺限定販売の「み月」をいただきました。600円でしたが、美味しかったので、家族の土産に買って帰りました。
泉涌寺では、「御座所」「御座所庭園」「海会堂」を見るのに特別拝観料500円が必要で、いつでも入れます。ただ今日は入りません。次に、前から気になっていた「唐門」へ向かいました。
いつからか「唐門」を開門されて、「霊明殿」を正面から見えるようになりました。通常非公開で、歴代天皇、皇后、親王の御位牌が祀られています。
霊明殿は、1884年(明治17年)明治天皇により再建された宸殿造の建物で、奥から内陣・中陣・外陣で構成された建物です。その内陣には、第87代四条天皇・第121代孝明天皇・第122代明治天皇・第123代大正天皇・第124代昭和天皇の御位牌を安置。泉涌寺で初めて祀られたのが四条天皇だそうで、以降、泉涌寺は天皇家との関わりが深くなっていきます。中陣には天皇家から下賜(かし)された仏具などがあって、内陣には前途した御位牌の他に、四条天皇の木像が安置されていました。
唐門を出て、再び「舎利殿」と「仏殿」の横を通りました。
このまま歩いて行くと、清少納言の歌碑がありました。「夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」これは、清少納言が藤原行成と交わしたものだそうです。
清少納言は、ファーストサマーウイカさんが演じてますし、藤原行成(ふじわらのゆきなり)は、渡辺大知さんが演じいます。行成は、藤原道長よりも6歳下。道長政権下で蔵人頭に抜擢されると、細やかな気遣いで実務に能力を発揮、欠かせない存在として支え続ける。文字の美しさでは右に出る者がおらず、もてはやされた。とNHKでは紹介されています。藤原行成と清少納言の関係は・・・?。行成が最初に仕えたのは第66代天皇の一条天皇。 一条天皇には、塩野瑛久さんが演じます、その后である藤原定子には高畑充希さんが演じます。藤原定子に仕えていたのが清少納言でした。清少納言は晩年には、藤原定子が眠る鳥辺野近くの東山月輪に隠棲したのだという。その東山月輪には、清少納言の父・清原元輔'演者は大森博史さん)の邸宅があったと云われています。
次に、泉涌寺の名前の由来になった井戸「泉涌水屋形」に行きました。今も泉が湧き続け、1667年(寛永7年)の再建。京都府文化財に指定されています。
「浴室」で、京都指定文化財です。ここの内部は見たことがありません。
そこから坂を上がり、大門近くの「楊貴妃観音堂」に寄って行きました。
久しぶりに「楊貴妃観音像」を見ました。美しい観音像でした。そして次に「心照殿」に入ります。ここは通常の拝見で入れるので、寄らないと損します😊。
今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」にちなんで、江戸時代後期の絵師土佐光文筆の「源氏物語屏風図」が展示されていました。
源氏物語 第47帖「総角(あげまき)」の場面。宇治川に舟遊びや紅葉狩りを催す匂宮(におうみや)の姿が描かれている。
源氏物語 第34帖「若葉上」の場面。蹴鞠に興じる柏木(かしわぎ)が、唐猫(からねこ)が跳ね上げた女三宮(おんなさんのみや)の姿を垣間見る姿を描いている。
10時40分頃に泉涌寺大門から出て行きました。
そこからは、九条通りに出るまで下りです。膝が悪いので、下りの方が堪えます。九条通りに出たら泉涌寺道バス停から市バスに乗り、大石橋(地下鉄九条駅)まで乗り、そこから地下鉄烏丸線九条駅で地下鉄に乗り換えです。
余談ですが、この九条駅が、京都市営地下鉄の乗降客数で、ワースト1位となっています。
この九条駅は、仕事で何度か利用したので、慣れたものです。ただリタイアした今は、懐かしいですね。九条駅から次の京都駅で、どっと降りるかと思いきや、降りる人は殆どいなくて、半端なく多くの方が乗って来られます。その殆どの方が四条駅で降りられるですけど。私は、次の御池駅で東西線に乗り換えて帰路につきました。
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