令和6年 春の特別公開 「京都御所 宮廷文化の紹介」へ
令和6年 春の特別公開 「京都御所 宮廷文化の紹介」が、3月20日(水・祝)~24日(日)の日程で開催されました。9時に開門で、参観料は無料、入口で手荷物検査ありと案内には書いてありました。
8時59分に着いて並びました。以前のように長蛇の列ではありませんね。私の時計で9時0分30秒ぐらいで、「開門です」と大きな声が聞こえ行列が前に進みだしました。
京都御所の参観入口である「清所門」を入ると、手荷物検査があります。列が進みだした段階で、荷物を開けてました。皇宮警察官も中を覗くだけです。ほぼ何も入ってないので、直ぐに終わり、いよいよ参観開始です。
並んだので、9時3分頃に入りました。自由参観のため、自分のペースで見ていきます。
最初の特別公開は「宜秋門番所(ぎしゅうもんばんしょ)」にありました。旧桂宮家が所蔵していた「源氏物語」屏風です。
右隻の屏風の左上には第22帖「玉鬘」(玉鬘の九州脱出)、右上が第22帖「玉鬘」(玉鬘の長谷寺参詣)。下の左が第23帖「初音」、下の中が第8帖「花宴」、下の右が第7帖「紅葉賀」。
屏風の右隻では、青海波(せいがいは)の舞(紅葉賀)、光源氏の朧月夜との出会い(花宴)、玉鬘(たまかずら)の九州脱出(玉鬘)、玉鬘の長谷寺参詣や、正月の儀式(初音)があらわされています。
左隻の屏風の左上には第18帖「松風」、中の上が第13帖「明石」、右上が第12帖「須磨」。下の左が第10帖「賢木(さかき)」、下の中が第4帖「夕顔」、下の右が第3帖「空蝉」。
屏風の左隻では、源氏が空蝉を垣間見る様子(空蝉)、夕顔から和歌を送られる情景(夕顔)、六条御息所を訪れる場面(賢木)や、須磨へ下った源氏の暮らし(須磨)、明石の君を訪ねる場面(明石)、桂の院に殿上人を迎えた光源氏(松風)が描かれています。
宜秋門番所のお隣が、先程、外から見ていた「宜秋門(ぎしゅうもん)」です。2016年(平成28年)4月10日の「平成28年 京都御所春季一般公開」の入口は、ここでした。
京都御所の西面の中央の門で、平安京内裏の外郭門の1つ。車寄せに通じ、皇族や公卿、その他官人の出入りした門で、俗に公卿門といいます。
その向かいにあるのが「御車寄(おくるまよせ)」です。外国人観光客が家族写真を撮られるので、待ちました😊。
儀式や天皇との対面のため参内(さんだい)した者を迎える玄関です。公卿・殿上人など、限られた者だけが使用しました。諸大夫の間や清涼殿、小御所と廊下で繋がっています。
参内した者の控えの間であった「諸大夫の間(しょだいぶのま)」で、ガラス越しで室内が見られます。
正式な御用で参内した公家や使用軍家の使者の控えの間として使われました。身分に応じて部屋が決まっており、建物に向かって右に行くほど各が高く、身分に応じて部屋が決まってました。部屋の格式は畳縁の色違いなどにも反映されています。「虎の間」「鶴の間」を使用する者については、左の沓脱石から参入りしました。写真左から「桜の間」で、畳縁は緋曽代絹縁(紅絹縁)。「鶴の間」(中)「虎の間」(右)で、畳縁は絹経小紋縁(小紋高麗縁)となっています。なお、「桜の間」の襖絵は、原在照が、「鶴の間」の襖絵は狩野永岳が、「虎の間」の襖絵は岸岱が描きました。
ここまでは、人が多かったので、先を急ぎました。ただ、見逃した所はありせん。次は、さらに奥に進みます。
「新御車寄(しんみくるまよせ)」です。2021年(令和3年)4月8日の令和3年春の特別公開「京都御所 宮廷文化の紹介」では、この前に「牛車(ぎっしゃ)」が展示されてました。
1915年(大正4年)に大正天皇即位礼が紫宸殿で行われる際に馬車による行幸に対応する玄関として新設されたものです。天皇が御所の南側から出入りされた伝統を踏まえ南向きに建てられています。現在の天皇は、車で来られ、ここから出入りされます。内部は、ガラスや照明器具があって、絨毯敷となっており洋風になっています。
新御車寄(しんみくるまよせ)から「月華門」に行き、紫宸殿を見てみました。ここからは出入りできません。
平安京内裏内郭の門の一つ。紫宸殿南庭の西側にあり、日華門と対しています。
月華門の南側に「武徳門」がありました。東側に見えているのは「日華門」です。ここから南側に移動します。
承明門の西側にある「永安門」から見た「紫宸殿」です。今回の特別公開時には紫宸殿の前まで行けます。
「承明門」から見た「紫宸殿」です。この辺りは人が多かったです。
承明門は、平安京内裏の内郭12門の一つ。外郭門の建礼門に相対し、紫宸殿の南正面にあたる門で、中央は天皇のみが通行されました。東西にそれぞれに5間離れて長楽、永安の2門が配置され、兵衛府が警備にあたっていました。
承明門の前の「建礼門(けんれいもん)」です。こちらも外側から見られます。
京都御所南面にある正門です。かつては即位の礼など紫宸殿で行われる儀式の時には開かれました。現在は、天皇・皇后両陛下や外国の国家元首が通る時だけ使用される格式の高い門です。
承明門には、紫宸殿内にある「高御座(たかみくら)」と「御帳台(みちょうだい)」が、この特別公開時では見られます。ただ距離もあるし、暗いので、肉眼では厳しいです。
承明門の東側にある「長楽門」から見た「紫宸殿」です。見たところ空いているようですね。
次に東側に移動し、「延政門」を見ました。西側に見えているが「月華門」です。
「春興殿(しゅんこうでん)」の前には、「雅楽の実演」を20日(水)、21日(木)、22日(金)の10時と11時にされるようで、準備されてました。
「日華門」から紫宸殿に入ります。なお、隣の「宣陽殿(ぎようでん)」の「大臣宿所(だいじんしゅくしょ)」では、人形を用いた装束(束帯)、十二単の展示がありますが、順路通りに進みます。
日華門は平安京内裏内郭門の一つ。紫宸殿南庭の東側にある門で、西側の月華門と相対しています。
先程、人が多くて全景を撮れなかった「承明門」です。日華門を入った所から撮りました。紫宸殿の前には白砂を敷き詰めた広々とした「南庭」があって、即位の礼が、ここでされました。
紫宸殿前の「左近の桜」は、まだ蕾です。2007年(平成19年)4月4日の時、満開の桜を見ることができました。
「紫宸殿」を、こうして近くで正面から見られるのは、この特別公開だけです。
紫宸殿は、1855年(安政2年)の再建。京都御所で、即位礼などの重要な儀式を執り行う最も格式の高い正殿であり、京都御所の象徴ともいえる存在です。第122代天皇の明治天皇、第123代天皇の大正天皇、第124代天皇の昭和天皇の三代天皇の即位礼もここで行われました。階段脇には,東に左近の桜、西に右近の橘があり、前面には回廊に囲まれた白砂の南庭が広がり、建物と同様に庭も重要な役割を果たしています。
ズームで捉えた天皇の御座「高御座(たかみくら)」です。これを見るのはコンパクトな望遠鏡が必要ですね。暗くて遠いから。
高御座の脇には、皇后の御座「 御帳台(みちょうだい)」です。こちらの方が遠いので、ズームで捉えたかどうか帰って見るまで分かりませんでした。
「高御座」「御帳台」とともに即位の礼で用いられる調度品です。現在の高御座と御帳台は、1913年(大正2年)に制作され、大正・昭和・平成、令和の即位の礼で使用されました。高御座は朱塗りの高欄を巡らした黒漆塗りの台上にあり、天蓋の形は八角形で、8本の円柱で支えており、天蓋には大鳳1羽と小鳳8羽を載せています。
紫宸殿の右手には「右近の橘」があります。平安時代、右近衛府の官人がこの橘から南に陣列したことからいう。
紫宸殿から、ここを通って清涼殿に出ます。ここを通るのは特別公開のみです。
「清涼殿」の内部が見えます・・・と言っても通常参観でも見られます。以前は、人形の展示もありました。
中央には畳みが見えますが「昼御座(ひのおまし)」と言って、天皇の日常の御座(ござ)です。また、向かって左には「石灰壇(いしばいだん)」(白の屏風の前)があって、ここで天皇が毎朝、伊勢神宮や賢所など、遠く離れた場所に祈りを捧げました。
清涼殿の向かって左に「漢竹(かわたけ)」、右に「呉竹(くれたけ)」です。儀式の時には、庭上に整列したり座を敷設したりする時、目印とすることがあったようです。清涼殿の前には、白砂を敷き詰めただけの「東庭」が広がります。
清涼殿は、平安時代中期(10世紀中頃)以降、天皇の日常の住まいとして定着した御殿であり、政事・神事などの重要な儀式もここで行われました。平安時代には、源氏物語や枕草子など王朝文学の舞台となりました。1590年(天正18年)に御常御殿にお住まいが移ってからは、主に儀式の際に使用されました。伝統的な儀式を行うために、平安時代中期の建築空間や調度が古制に則って伝えられています。建物は、1855年(嘉永7年)に平安時代の様式を用いて再建された宸殿造風になっています。
左手に見えている建物は「小御所」で、あとで正面から見てみます。そして門を出て右手に行き、「宣陽殿(ぎようでん)(大臣宿所)」に向かいます。
ここも、今回の特別公開の見所の一つです。人形を用いた装束(しょうぞく)、束帯(そくたい)、十二単(じゅうにひとえ)の展示がありました。
十二単は、宮廷における女子の正装です。始まりは平安時代と言われています。時代の経過で様々なスタイルに変化しましたが、江戸時代中頃には、平安時代に近い形に戻りました。正式には、着用する各装束の名称をとって「五衣(いつづぎぬ)・唐衣・裳」と呼びます。そして、小袖の上から単・五衣・打衣(うちぎぬ)・表着・唐衣・裳の順にに重ね着して、装束を重ね、その際に襟元や袖口を少しずつずらすことで、装束の色目の重なりを見せていました。
順路に従って、この門をくぐります。入ると右手に日本庭園が見えます。
小御所、御学問所に面して「御池庭(おいけにわ)」が広がります。紫宸殿の「南庭」や清涼殿の「東庭」と異なり、池泉回遊式庭園となっています。
1606年(慶長11年)に造営が始まりました。広い池の中央に蓬莱島、その左右には橋を架けた2島を配する。州浜から池泉へと10個の飛石が打たれ、先端が舟着場になっています。春の舟遊び、秋の月見の宴と回遊を楽しみました。
御池庭の西側には「小御所(こごしょ)」があります。1954年(昭和29年)に鴨川の花火大会の火の粉により焼失したため、1958年(昭和33年)に復元されたものです。
鎌倉時代以降に建てられるようになった御殿で、江戸時代は将軍や大名などの武家との対面や儀式の場として使用されました。幕末の1867年(慶応2年)には、ここで明治天皇隣席の下、新政府の政治家が集まり、江戸幕府15代将軍徳川慶喜に対する処置を定めた「小御所会議」が行われたことでも有名です。上段・中段・下段の3室のまわりに広い板敷(廂)が付き、様々な儀式に対応できる実用的な建物でした。
小御所と御学問所の間の四角い庭を「蹴鞠の庭」と呼ばれ、ここで貴族が蹴鞠をされたようです。3月23日(土)、24日(日)の10時と11時の2回「蹴鞠の実演」されます。場所は、ここではなく、新御車寄前とありました。
蹴鞠は、実際に天皇ご覧のもとに行われたこともありました。蹴鞠は7世紀、仏教とともに中国から伝わり、現在、京都では蹴鞠保存会によって古来の方式を受け継がれています。
「蹴鞠の庭」の北側の、御池に向いて右側の建物が「御学問所」です。
1613年(慶長18年)に清涼殿から独立した御殿。御読書始や和歌の会なとが行われました。1867年(慶応3年)には、この建物で明治天皇が親王・諸臣を引見され「王政復興の大号令」を発せられました。御殿での儀式では、雁の間に衣冠姿の公卿や殿上人などが列座した後、童髪に直衣姿の親王が上段の間から中段の間に入り着座されます。建築様式は書院造風となっています。
先に述べましたが、今朝は雪が薄ら積もりました。最低気温も0.5℃しかなく、京都御所の建物の屋根にも雪が少し残っています。
次は「長押門(なげしもん)」から入ります。そこには「御内庭(ごないてい)」があります。
入ると右手に「土橋」が見えます。その奥には木々で見にくいなか、茶室「錦台」があります。
この「御内庭(ごないてい)」で、咲いていた梅の木です。
「石橋」があって、右に見えているのが「鉄灯籠」で、小高い所にあるのが前途した茶室「錦台」です。
右に見えているのが「八ツ橋」です。中央に見えている建物が「泉殿」です。杮葺の建物で、茶会や歌会で使われました。
御内庭(ごないてい)は、「流れの庭」とも呼ばれ、鑓水を中心に、その流れに沿って、築山、飛石、四季の植栽が続きます。流れの庭と言われるだけに、所々に土橋や石橋が架かり、灯籠や庭石を配した優雅な庭園です。
参観コースは、ここまです。「龍泉門」の奥にある建物が「御涼所(おすずみしょ)」と、その先に吹き抜けの渡り廊下を通って、茶室「聴雪(ちょうせつ)」があるそうです。ただし非公開です。
龍泉門の向かって右に、玉石を円形に敷き詰めた直径1㍍の座があるそうです。そこで天皇は、伊勢神宮へ向かって、毎朝遙拝されてました。
この建物は「迎春(こうしゅん)」です。第121代天皇の孝明天皇の書見の間として建てられたものだそうです。
参観コースは、ここまでて、順路に従って引き返します。
「御内庭(ごないてい)」に面して建てられている「御常御殿(おつねごでん)」です。清涼殿内に設けられていた常御所が、1590年(天正18年)から天皇の住まいとなった所です。
御常御殿内は、15室あって、全て畳敷で当時の生活に合わせた造りとにっています。この建物には天皇の日常のお住まいとし、お休みになるための「御寝の間」や、食事や身繕いに使用された部屋があります。建物の北側、向かって右手の方向には、細い渡り廊下を通って、書斎や茶室として使用された離れへと続いています。
このあと「御常御殿」の北側に出て、そこには白梅と紅梅が咲いてました。白梅は終わってましたが、紅梅綺麗でした。
今回の特別公開で、最後のみどころが、「御三間(おみま)」の室内の公開でした。普段、ここの室内は閉まってます。
内部が公開され、右から「上段の間」です。「朝賀」が住吉弘貫(すみよしひろつら)によって描かれており、朝賀とは天皇が群臣から新年の祝賀を受ける儀式のことです。
「中段の間」の障壁画は、「賀茂祭群参」で葵祭の行列を、駒井孝礼(こまいこうれい)が画きました。
「下段の間」は、岸誠(がんせい)が「駒引」を描いています。駒引とは、朝廷で行われた御馬披露及び分配の儀式のこと。
御三間は、茅の輪くぐりや七夕などの内向き行事が行われた御殿で、明治天皇の成長儀礼なども行われました。孝明天皇崩御後しばらくは、明治天皇の臨時のお住まいにもなりました。
参観は、これで終わりで出口に向かいます。その前に「御学問所」の裏手の屋根に雪が残ってました。今朝、京都では雪が降ったからです。
ここから紫宸殿の屋根が見えました。少し雪が残ってます。ただ、これから日が出ると直ぐに雪は溶けました。
御三間から出口に向かっています。それと、前から気になっていたは・・・?。この広くて大きな広場「御台所跡」のことです。
「御台所跡」は、戦前まで御台所などたくさんの建物や渡り廊下がありました。第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)に、空襲よる火災の延焼防止のため、取り壊されました。現在は、四季折々の花が楽しめる空間となっています。
9時35分に「清所門」から出ました。桜咲く前の3月末の特別公開ということで、来られる人は少ないように思えました。
2022年(令和4年)11月15日の「紅葉の京都御所の参観」や、2022年(令和4年)4月19日「躑躅咲く京都御所の参観」、2021年(令和3年)4月8日の「令和3年春の京都御所 宮廷文化の紹介」の参観、古くは2016年(平成28年)4月10日の「平成28年 京都御所春季一般公開」などに行ってました。
9時37分に京都御苑の「乾御門」から出て行きました。ここから地下鉄烏丸線今出川駅に向かいます。
この日は、3月21日というこで、和泉式部忌が誠心院であるため、行くつもりにしてました。この京都御所から向かうつもりでしたが、所用があって、どうしても帰ることになり断念しました。来年、覚えていたら行くつもりです😊。
8時59分に着いて並びました。以前のように長蛇の列ではありませんね。私の時計で9時0分30秒ぐらいで、「開門です」と大きな声が聞こえ行列が前に進みだしました。
京都御所の参観入口である「清所門」を入ると、手荷物検査があります。列が進みだした段階で、荷物を開けてました。皇宮警察官も中を覗くだけです。ほぼ何も入ってないので、直ぐに終わり、いよいよ参観開始です。
並んだので、9時3分頃に入りました。自由参観のため、自分のペースで見ていきます。
最初の特別公開は「宜秋門番所(ぎしゅうもんばんしょ)」にありました。旧桂宮家が所蔵していた「源氏物語」屏風です。
右隻の屏風の左上には第22帖「玉鬘」(玉鬘の九州脱出)、右上が第22帖「玉鬘」(玉鬘の長谷寺参詣)。下の左が第23帖「初音」、下の中が第8帖「花宴」、下の右が第7帖「紅葉賀」。
屏風の右隻では、青海波(せいがいは)の舞(紅葉賀)、光源氏の朧月夜との出会い(花宴)、玉鬘(たまかずら)の九州脱出(玉鬘)、玉鬘の長谷寺参詣や、正月の儀式(初音)があらわされています。
左隻の屏風の左上には第18帖「松風」、中の上が第13帖「明石」、右上が第12帖「須磨」。下の左が第10帖「賢木(さかき)」、下の中が第4帖「夕顔」、下の右が第3帖「空蝉」。
屏風の左隻では、源氏が空蝉を垣間見る様子(空蝉)、夕顔から和歌を送られる情景(夕顔)、六条御息所を訪れる場面(賢木)や、須磨へ下った源氏の暮らし(須磨)、明石の君を訪ねる場面(明石)、桂の院に殿上人を迎えた光源氏(松風)が描かれています。
宜秋門番所のお隣が、先程、外から見ていた「宜秋門(ぎしゅうもん)」です。2016年(平成28年)4月10日の「平成28年 京都御所春季一般公開」の入口は、ここでした。
京都御所の西面の中央の門で、平安京内裏の外郭門の1つ。車寄せに通じ、皇族や公卿、その他官人の出入りした門で、俗に公卿門といいます。
その向かいにあるのが「御車寄(おくるまよせ)」です。外国人観光客が家族写真を撮られるので、待ちました😊。
儀式や天皇との対面のため参内(さんだい)した者を迎える玄関です。公卿・殿上人など、限られた者だけが使用しました。諸大夫の間や清涼殿、小御所と廊下で繋がっています。
参内した者の控えの間であった「諸大夫の間(しょだいぶのま)」で、ガラス越しで室内が見られます。
正式な御用で参内した公家や使用軍家の使者の控えの間として使われました。身分に応じて部屋が決まっており、建物に向かって右に行くほど各が高く、身分に応じて部屋が決まってました。部屋の格式は畳縁の色違いなどにも反映されています。「虎の間」「鶴の間」を使用する者については、左の沓脱石から参入りしました。写真左から「桜の間」で、畳縁は緋曽代絹縁(紅絹縁)。「鶴の間」(中)「虎の間」(右)で、畳縁は絹経小紋縁(小紋高麗縁)となっています。なお、「桜の間」の襖絵は、原在照が、「鶴の間」の襖絵は狩野永岳が、「虎の間」の襖絵は岸岱が描きました。
ここまでは、人が多かったので、先を急ぎました。ただ、見逃した所はありせん。次は、さらに奥に進みます。
「新御車寄(しんみくるまよせ)」です。2021年(令和3年)4月8日の令和3年春の特別公開「京都御所 宮廷文化の紹介」では、この前に「牛車(ぎっしゃ)」が展示されてました。
1915年(大正4年)に大正天皇即位礼が紫宸殿で行われる際に馬車による行幸に対応する玄関として新設されたものです。天皇が御所の南側から出入りされた伝統を踏まえ南向きに建てられています。現在の天皇は、車で来られ、ここから出入りされます。内部は、ガラスや照明器具があって、絨毯敷となっており洋風になっています。
新御車寄(しんみくるまよせ)から「月華門」に行き、紫宸殿を見てみました。ここからは出入りできません。
平安京内裏内郭の門の一つ。紫宸殿南庭の西側にあり、日華門と対しています。
月華門の南側に「武徳門」がありました。東側に見えているのは「日華門」です。ここから南側に移動します。
承明門の西側にある「永安門」から見た「紫宸殿」です。今回の特別公開時には紫宸殿の前まで行けます。
「承明門」から見た「紫宸殿」です。この辺りは人が多かったです。
承明門は、平安京内裏の内郭12門の一つ。外郭門の建礼門に相対し、紫宸殿の南正面にあたる門で、中央は天皇のみが通行されました。東西にそれぞれに5間離れて長楽、永安の2門が配置され、兵衛府が警備にあたっていました。
承明門の前の「建礼門(けんれいもん)」です。こちらも外側から見られます。
京都御所南面にある正門です。かつては即位の礼など紫宸殿で行われる儀式の時には開かれました。現在は、天皇・皇后両陛下や外国の国家元首が通る時だけ使用される格式の高い門です。
承明門には、紫宸殿内にある「高御座(たかみくら)」と「御帳台(みちょうだい)」が、この特別公開時では見られます。ただ距離もあるし、暗いので、肉眼では厳しいです。
承明門の東側にある「長楽門」から見た「紫宸殿」です。見たところ空いているようですね。
次に東側に移動し、「延政門」を見ました。西側に見えているが「月華門」です。
「春興殿(しゅんこうでん)」の前には、「雅楽の実演」を20日(水)、21日(木)、22日(金)の10時と11時にされるようで、準備されてました。
「日華門」から紫宸殿に入ります。なお、隣の「宣陽殿(ぎようでん)」の「大臣宿所(だいじんしゅくしょ)」では、人形を用いた装束(束帯)、十二単の展示がありますが、順路通りに進みます。
日華門は平安京内裏内郭門の一つ。紫宸殿南庭の東側にある門で、西側の月華門と相対しています。
先程、人が多くて全景を撮れなかった「承明門」です。日華門を入った所から撮りました。紫宸殿の前には白砂を敷き詰めた広々とした「南庭」があって、即位の礼が、ここでされました。
紫宸殿前の「左近の桜」は、まだ蕾です。2007年(平成19年)4月4日の時、満開の桜を見ることができました。
「紫宸殿」を、こうして近くで正面から見られるのは、この特別公開だけです。
紫宸殿は、1855年(安政2年)の再建。京都御所で、即位礼などの重要な儀式を執り行う最も格式の高い正殿であり、京都御所の象徴ともいえる存在です。第122代天皇の明治天皇、第123代天皇の大正天皇、第124代天皇の昭和天皇の三代天皇の即位礼もここで行われました。階段脇には,東に左近の桜、西に右近の橘があり、前面には回廊に囲まれた白砂の南庭が広がり、建物と同様に庭も重要な役割を果たしています。
ズームで捉えた天皇の御座「高御座(たかみくら)」です。これを見るのはコンパクトな望遠鏡が必要ですね。暗くて遠いから。
高御座の脇には、皇后の御座「 御帳台(みちょうだい)」です。こちらの方が遠いので、ズームで捉えたかどうか帰って見るまで分かりませんでした。
「高御座」「御帳台」とともに即位の礼で用いられる調度品です。現在の高御座と御帳台は、1913年(大正2年)に制作され、大正・昭和・平成、令和の即位の礼で使用されました。高御座は朱塗りの高欄を巡らした黒漆塗りの台上にあり、天蓋の形は八角形で、8本の円柱で支えており、天蓋には大鳳1羽と小鳳8羽を載せています。
紫宸殿の右手には「右近の橘」があります。平安時代、右近衛府の官人がこの橘から南に陣列したことからいう。
紫宸殿から、ここを通って清涼殿に出ます。ここを通るのは特別公開のみです。
「清涼殿」の内部が見えます・・・と言っても通常参観でも見られます。以前は、人形の展示もありました。
中央には畳みが見えますが「昼御座(ひのおまし)」と言って、天皇の日常の御座(ござ)です。また、向かって左には「石灰壇(いしばいだん)」(白の屏風の前)があって、ここで天皇が毎朝、伊勢神宮や賢所など、遠く離れた場所に祈りを捧げました。
清涼殿の向かって左に「漢竹(かわたけ)」、右に「呉竹(くれたけ)」です。儀式の時には、庭上に整列したり座を敷設したりする時、目印とすることがあったようです。清涼殿の前には、白砂を敷き詰めただけの「東庭」が広がります。
清涼殿は、平安時代中期(10世紀中頃)以降、天皇の日常の住まいとして定着した御殿であり、政事・神事などの重要な儀式もここで行われました。平安時代には、源氏物語や枕草子など王朝文学の舞台となりました。1590年(天正18年)に御常御殿にお住まいが移ってからは、主に儀式の際に使用されました。伝統的な儀式を行うために、平安時代中期の建築空間や調度が古制に則って伝えられています。建物は、1855年(嘉永7年)に平安時代の様式を用いて再建された宸殿造風になっています。
左手に見えている建物は「小御所」で、あとで正面から見てみます。そして門を出て右手に行き、「宣陽殿(ぎようでん)(大臣宿所)」に向かいます。
ここも、今回の特別公開の見所の一つです。人形を用いた装束(しょうぞく)、束帯(そくたい)、十二単(じゅうにひとえ)の展示がありました。
十二単は、宮廷における女子の正装です。始まりは平安時代と言われています。時代の経過で様々なスタイルに変化しましたが、江戸時代中頃には、平安時代に近い形に戻りました。正式には、着用する各装束の名称をとって「五衣(いつづぎぬ)・唐衣・裳」と呼びます。そして、小袖の上から単・五衣・打衣(うちぎぬ)・表着・唐衣・裳の順にに重ね着して、装束を重ね、その際に襟元や袖口を少しずつずらすことで、装束の色目の重なりを見せていました。
順路に従って、この門をくぐります。入ると右手に日本庭園が見えます。
小御所、御学問所に面して「御池庭(おいけにわ)」が広がります。紫宸殿の「南庭」や清涼殿の「東庭」と異なり、池泉回遊式庭園となっています。
1606年(慶長11年)に造営が始まりました。広い池の中央に蓬莱島、その左右には橋を架けた2島を配する。州浜から池泉へと10個の飛石が打たれ、先端が舟着場になっています。春の舟遊び、秋の月見の宴と回遊を楽しみました。
御池庭の西側には「小御所(こごしょ)」があります。1954年(昭和29年)に鴨川の花火大会の火の粉により焼失したため、1958年(昭和33年)に復元されたものです。
鎌倉時代以降に建てられるようになった御殿で、江戸時代は将軍や大名などの武家との対面や儀式の場として使用されました。幕末の1867年(慶応2年)には、ここで明治天皇隣席の下、新政府の政治家が集まり、江戸幕府15代将軍徳川慶喜に対する処置を定めた「小御所会議」が行われたことでも有名です。上段・中段・下段の3室のまわりに広い板敷(廂)が付き、様々な儀式に対応できる実用的な建物でした。
小御所と御学問所の間の四角い庭を「蹴鞠の庭」と呼ばれ、ここで貴族が蹴鞠をされたようです。3月23日(土)、24日(日)の10時と11時の2回「蹴鞠の実演」されます。場所は、ここではなく、新御車寄前とありました。
蹴鞠は、実際に天皇ご覧のもとに行われたこともありました。蹴鞠は7世紀、仏教とともに中国から伝わり、現在、京都では蹴鞠保存会によって古来の方式を受け継がれています。
「蹴鞠の庭」の北側の、御池に向いて右側の建物が「御学問所」です。
1613年(慶長18年)に清涼殿から独立した御殿。御読書始や和歌の会なとが行われました。1867年(慶応3年)には、この建物で明治天皇が親王・諸臣を引見され「王政復興の大号令」を発せられました。御殿での儀式では、雁の間に衣冠姿の公卿や殿上人などが列座した後、童髪に直衣姿の親王が上段の間から中段の間に入り着座されます。建築様式は書院造風となっています。
先に述べましたが、今朝は雪が薄ら積もりました。最低気温も0.5℃しかなく、京都御所の建物の屋根にも雪が少し残っています。
次は「長押門(なげしもん)」から入ります。そこには「御内庭(ごないてい)」があります。
入ると右手に「土橋」が見えます。その奥には木々で見にくいなか、茶室「錦台」があります。
この「御内庭(ごないてい)」で、咲いていた梅の木です。
「石橋」があって、右に見えているのが「鉄灯籠」で、小高い所にあるのが前途した茶室「錦台」です。
右に見えているのが「八ツ橋」です。中央に見えている建物が「泉殿」です。杮葺の建物で、茶会や歌会で使われました。
御内庭(ごないてい)は、「流れの庭」とも呼ばれ、鑓水を中心に、その流れに沿って、築山、飛石、四季の植栽が続きます。流れの庭と言われるだけに、所々に土橋や石橋が架かり、灯籠や庭石を配した優雅な庭園です。
参観コースは、ここまです。「龍泉門」の奥にある建物が「御涼所(おすずみしょ)」と、その先に吹き抜けの渡り廊下を通って、茶室「聴雪(ちょうせつ)」があるそうです。ただし非公開です。
龍泉門の向かって右に、玉石を円形に敷き詰めた直径1㍍の座があるそうです。そこで天皇は、伊勢神宮へ向かって、毎朝遙拝されてました。
この建物は「迎春(こうしゅん)」です。第121代天皇の孝明天皇の書見の間として建てられたものだそうです。
参観コースは、ここまでて、順路に従って引き返します。
「御内庭(ごないてい)」に面して建てられている「御常御殿(おつねごでん)」です。清涼殿内に設けられていた常御所が、1590年(天正18年)から天皇の住まいとなった所です。
御常御殿内は、15室あって、全て畳敷で当時の生活に合わせた造りとにっています。この建物には天皇の日常のお住まいとし、お休みになるための「御寝の間」や、食事や身繕いに使用された部屋があります。建物の北側、向かって右手の方向には、細い渡り廊下を通って、書斎や茶室として使用された離れへと続いています。
このあと「御常御殿」の北側に出て、そこには白梅と紅梅が咲いてました。白梅は終わってましたが、紅梅綺麗でした。
今回の特別公開で、最後のみどころが、「御三間(おみま)」の室内の公開でした。普段、ここの室内は閉まってます。
内部が公開され、右から「上段の間」です。「朝賀」が住吉弘貫(すみよしひろつら)によって描かれており、朝賀とは天皇が群臣から新年の祝賀を受ける儀式のことです。
「中段の間」の障壁画は、「賀茂祭群参」で葵祭の行列を、駒井孝礼(こまいこうれい)が画きました。
「下段の間」は、岸誠(がんせい)が「駒引」を描いています。駒引とは、朝廷で行われた御馬披露及び分配の儀式のこと。
御三間は、茅の輪くぐりや七夕などの内向き行事が行われた御殿で、明治天皇の成長儀礼なども行われました。孝明天皇崩御後しばらくは、明治天皇の臨時のお住まいにもなりました。
参観は、これで終わりで出口に向かいます。その前に「御学問所」の裏手の屋根に雪が残ってました。今朝、京都では雪が降ったからです。
ここから紫宸殿の屋根が見えました。少し雪が残ってます。ただ、これから日が出ると直ぐに雪は溶けました。
御三間から出口に向かっています。それと、前から気になっていたは・・・?。この広くて大きな広場「御台所跡」のことです。
「御台所跡」は、戦前まで御台所などたくさんの建物や渡り廊下がありました。第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)に、空襲よる火災の延焼防止のため、取り壊されました。現在は、四季折々の花が楽しめる空間となっています。
9時35分に「清所門」から出ました。桜咲く前の3月末の特別公開ということで、来られる人は少ないように思えました。
2022年(令和4年)11月15日の「紅葉の京都御所の参観」や、2022年(令和4年)4月19日「躑躅咲く京都御所の参観」、2021年(令和3年)4月8日の「令和3年春の京都御所 宮廷文化の紹介」の参観、古くは2016年(平成28年)4月10日の「平成28年 京都御所春季一般公開」などに行ってました。
9時37分に京都御苑の「乾御門」から出て行きました。ここから地下鉄烏丸線今出川駅に向かいます。
この日は、3月21日というこで、和泉式部忌が誠心院であるため、行くつもりにしてました。この京都御所から向かうつもりでしたが、所用があって、どうしても帰ることになり断念しました。来年、覚えていたら行くつもりです😊。
この記事へのコメント
流石に広いですね。それに中の建物も素晴らしいです。
私なんか30mも歩くと息切れしますから、入場門まで行くにも大変です。
ガラス越しに室内が見れるというのは、珍しいというか。
近年の細工なんでしょうね。
京都御所は、以前は申込制でしたが、今は予約なしで入れます。それに無料ですから是非、行ってみてください。
それと、無料でガイドさんの案内もあるのでお勧めです。
紫宸殿の近くまで行けて中も覗けるのですね。
御常御殿、御三間の室内が何と言っても素晴らしいです。
こんな豪華の襖絵をこれだけのスケール見ることはなかなかありません。
贅沢なことです。いいですね~。
憧れてしまいます。
以前の特別公開は、もっと人形も多く豪華だったように思います。
少し残念でしたね。
左近の桜も、まだ蕾でしたし、ここの桜が満開を見たのは一度だけです。
参観が終わったら京都土産の出店が出ていたんですが、それも無かったです。
桂離宮以外は無料で見られるので、その点は良かったです。桂離宮や修学院離宮は、なかなか抽選あたらないですね。