遅咲きの梅を見に随心院「小野梅園」へ
3月22日(金)の最低気温は0.3℃、昨日が0.5℃と二日続いて冷え込みました。今季最後の寒波襲来と言ってますが、4月に入ると暖かくなるでしょうか?。
ご覧のように、「愛宕山」が真っ白に染まってました。ただ日差しが3月に入って強くなったので、お昼過ぎには愛宕山の雪も溶けたようです。
さて、この日は、2006年(平成18年)3月25日以来、行って無い随心院 小野梅園に行きました。
境内の名勝・小野梅園には約200本もの梅の木があり、3月9日(土)~24日(日)まで一般公開されます。例年、2月末から咲き始め、3月中旬に見頃を迎える、京都市内でも遅咲きの梅「はねずの梅」として知られています。3月31日(日)には、小野小町の伝説をモチーフにした地元に伝わる踊り「はねず踊り」が開催されます。
随心院には地下鉄東西線小野駅から歩いて5分程度です。8時52分に随心院「総門」前に着きました。
総門前に「小野梅園」と31日(日)に行われる「はねず踊り」の看板が出てました。ここは遅咲きの梅ですが、さてどうでしょうか?。
「はねず踊り」の幟が出ていまは。今年は3月31日(日)に行われます。私は見たことがありません。ニュース映像もないですね。
8時55分に着きました。開園の準備をされているようで、少し外で待つことにしました。
時間前だったので少しウロウロ。こちらは勅使門だと思って撮りましたが「薬医門」でした。
薬医門とは格式の高い門の様式で、寛永年間(1624~1631)に天真院尼(てんしんいんに)から寄進されたものです。
天真院尼、聞いた事が無かったのて調べてみると豊臣完子(とよとみさだこ)の父は豊臣秀勝、母は江(崇源院)でした。江は江戸幕府2代将軍徳川秀忠の正室。院号は天真院。豊臣秀頼の義姉・従姉・従姪、徳川家光の異父姉、第109代天皇の明正天皇の伯母にあたります。
8時57分に、拝観受付所に行ってみました。
8時58分に受付してくれました。拝観料は300円です。2006年(平成18年)3月25日以来久しぶりに入ります。
2006年(平成18年)3月25日には枝垂れ梅が綺麗でしたが、園内を見たところ無さそう・・・です。
遅咲きの梅ですが、温暖化の影響でしょうか、見頃は過ぎているように私には見えました。
見頃が過ぎているためかどうか、誰も入って来られ無いので、園内をくまなく巡ります。
今年は、見事な梅の花を北野天満宮の梅苑で見ているので、どうしても見劣りはしてしまいます。
さほど広くない園内を一回りして9時6分に出て行きました。
小野梅園に来たので、随心院の拝観にも行きました。人気の御朱印をいただきたいからです。
拝観受付所は、「庫裏」の中にあります。ここには2016年(平成28年)4月3日、2022年(令和4年)5月2日に来ています。
五摂家の一つだある二条家の寄進により同家の政所を1753年(宝暦3年)に移築したものです。屋根には煙出しが設置され、竈が現存します。ながらく僧侶の生活空間として使用されていました。
その庫裏の前に小野小町の歌碑がありました。「花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」。桜の花の色は、むなしく衰え色あせてしまった、春の長雨が降っている間に。ちょうど私の美貌が衰えたように、恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに。
拝観料を納めて、靴を下駄箱に入れ正面の納経所に行くと、お目当ての御朱印がsold-outになってました。これでは拝観した意味がありません・・・😢。
真言宗善通寺派の大本山であり、弘法大師より8代目の弟子にあたる仁海僧正(にかいそうじょう)が991年(正暦2年)に創建。もとの名は牛皮山曼荼羅寺といい、仁海僧正一夜の夢に、亡き母が牛に生まれ変わっていることを見て、その牛を鳥羽のあたりに尋ね求めて、飼養しましたが、日なくして死に、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を画き本尊にしたことに由来しています。その後、第五世、増俊(そうしゅん)が、曼荼羅寺の塔頭として、隨心院を建立し、ついで第七世、親厳の時、1229年(寛喜元年)第86代天皇の後堀河天皇より、門跡の宣旨を賜り、以来隨心院門跡となりました。堂舎も次第に整備され、七堂伽藍は壮美を誇っていましたが、「応仁の乱」にあって焼失。その後、1599年(慶長4年)に本堂が再建され、以後九条二条両摂家より門跡が入山し、両摂家の由緒をもって寄進再建されました。この辺り小野は小野一族が栄えた場所であり、このことから絶世の美女として名高い小野小町ゆかりの寺としても知られています。境内には小町に寄せられた多くの恋文を埋めたという文塚や、化粧の井戸などが残されています。梅の美しい寺としても有名で、3月の最終日曜日には、小野小町に恋した深草少将の百夜通いの悲恋伝説をテーマにした「はねず踊り」が披露されます。
順路にしたがって最初に見るのは「大玄関」です。先程外から見た「医薬門」も開いています。
寛永年間(1624~1631)の再建。五摂家の一つだある九条家にゆかりのあるの江戸幕府2代将軍徳川秀忠の正室の娘、天真院尼(てんしんいんに)の寄進によるもの。左右には「小玄関」と「使者の間」が備えてあります。
さらに奥に進みます。
次に「表書院」に入ります。本堂が工事中のため、「如意輪観世音菩薩坐像」(重文)、「阿弥陀如来坐像」(重文)はこちらに安置されていました。
江戸初期に、天真院尼(てんしんいんに)の寄進したもので、住職である門跡が勅使と応対する書院。障壁画は狩野派の絵師によって描かれました。
「能の間」は、宝暦年間(1751~1764)に九条家の寄進によるもの。1991年(平成3年)に改修された。現在は「花の間」として人気スポットの一つになっています。
京都の絵描きユニット「だるま商店」が奉納した作品「極彩色梅匂小町絵図」といい、2009年(平成21年)に奉納されたました。絶世の美女と言われた小野小町の一生を描いた作品です。
残念ながら、昨日までが「花の間2024開催」でした。拝観開始から入られ、花の撤去作業をされています。ここも楽しみの一つだったので残念でした。
「本堂」に行ってみると、今年の3月末まで工事のため入れません。ただ、これがアップする頃には公開が始まるでしょう。
「表書院」と「本堂」の前には庭園が拡がっています。奥には池もありました。本堂に入れないので、早々と次へと向かいます。
本堂から表書院の裏側へ進むと、廊下の左手に「地蔵堂」が附属しています。堂内は撮影禁止でした。中央には小町文張地蔵尊像、右手には小野小町白描画の軸、左手には卒塔婆小町坐像が祀られていました。
さらに奥に進むと、右手に「小町堂」が見えます。小野小町が見えますが、ここは納骨堂です。
ここから「奥書院」に入りました。手前から「宮廷人物図」「賢聖障子絵」「竹虎図」で、狩野派の絵師が描きました。
奥書院は江戸時代初期の建築にして「奥の間」「控の間」には狩野派の絵師が描いた襖絵があります。
先程の裏手には「賢者の間」あります。襖絵は京都御所紫宸殿に描かれた賢者の障子で、天正年間御造営の折に、狩野派の筆によるものです。
このあと、庫裏に戻り玄関から出て行きました。小野小町の御朱印が売り切れが分かっていたら、多分、来なかったでしょう。
9時23分に「総門」から出て行きました。
9時33分に地下鉄東西線小野駅から帰路につきました。
朝は寒かったので、最高気温は12.4℃しか上がりませんでした。3月に入り、ずっと平年より下回っているように思います。これでは桜の開花遅くなるでしょう。
ご覧のように、「愛宕山」が真っ白に染まってました。ただ日差しが3月に入って強くなったので、お昼過ぎには愛宕山の雪も溶けたようです。
さて、この日は、2006年(平成18年)3月25日以来、行って無い随心院 小野梅園に行きました。
境内の名勝・小野梅園には約200本もの梅の木があり、3月9日(土)~24日(日)まで一般公開されます。例年、2月末から咲き始め、3月中旬に見頃を迎える、京都市内でも遅咲きの梅「はねずの梅」として知られています。3月31日(日)には、小野小町の伝説をモチーフにした地元に伝わる踊り「はねず踊り」が開催されます。
随心院には地下鉄東西線小野駅から歩いて5分程度です。8時52分に随心院「総門」前に着きました。
総門前に「小野梅園」と31日(日)に行われる「はねず踊り」の看板が出てました。ここは遅咲きの梅ですが、さてどうでしょうか?。
「はねず踊り」の幟が出ていまは。今年は3月31日(日)に行われます。私は見たことがありません。ニュース映像もないですね。
8時55分に着きました。開園の準備をされているようで、少し外で待つことにしました。
時間前だったので少しウロウロ。こちらは勅使門だと思って撮りましたが「薬医門」でした。
薬医門とは格式の高い門の様式で、寛永年間(1624~1631)に天真院尼(てんしんいんに)から寄進されたものです。
天真院尼、聞いた事が無かったのて調べてみると豊臣完子(とよとみさだこ)の父は豊臣秀勝、母は江(崇源院)でした。江は江戸幕府2代将軍徳川秀忠の正室。院号は天真院。豊臣秀頼の義姉・従姉・従姪、徳川家光の異父姉、第109代天皇の明正天皇の伯母にあたります。
8時57分に、拝観受付所に行ってみました。
8時58分に受付してくれました。拝観料は300円です。2006年(平成18年)3月25日以来久しぶりに入ります。
2006年(平成18年)3月25日には枝垂れ梅が綺麗でしたが、園内を見たところ無さそう・・・です。
遅咲きの梅ですが、温暖化の影響でしょうか、見頃は過ぎているように私には見えました。
見頃が過ぎているためかどうか、誰も入って来られ無いので、園内をくまなく巡ります。
今年は、見事な梅の花を北野天満宮の梅苑で見ているので、どうしても見劣りはしてしまいます。
さほど広くない園内を一回りして9時6分に出て行きました。
小野梅園に来たので、随心院の拝観にも行きました。人気の御朱印をいただきたいからです。
拝観受付所は、「庫裏」の中にあります。ここには2016年(平成28年)4月3日、2022年(令和4年)5月2日に来ています。
五摂家の一つだある二条家の寄進により同家の政所を1753年(宝暦3年)に移築したものです。屋根には煙出しが設置され、竈が現存します。ながらく僧侶の生活空間として使用されていました。
その庫裏の前に小野小町の歌碑がありました。「花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」。桜の花の色は、むなしく衰え色あせてしまった、春の長雨が降っている間に。ちょうど私の美貌が衰えたように、恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに。
拝観料を納めて、靴を下駄箱に入れ正面の納経所に行くと、お目当ての御朱印がsold-outになってました。これでは拝観した意味がありません・・・😢。
真言宗善通寺派の大本山であり、弘法大師より8代目の弟子にあたる仁海僧正(にかいそうじょう)が991年(正暦2年)に創建。もとの名は牛皮山曼荼羅寺といい、仁海僧正一夜の夢に、亡き母が牛に生まれ変わっていることを見て、その牛を鳥羽のあたりに尋ね求めて、飼養しましたが、日なくして死に、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を画き本尊にしたことに由来しています。その後、第五世、増俊(そうしゅん)が、曼荼羅寺の塔頭として、隨心院を建立し、ついで第七世、親厳の時、1229年(寛喜元年)第86代天皇の後堀河天皇より、門跡の宣旨を賜り、以来隨心院門跡となりました。堂舎も次第に整備され、七堂伽藍は壮美を誇っていましたが、「応仁の乱」にあって焼失。その後、1599年(慶長4年)に本堂が再建され、以後九条二条両摂家より門跡が入山し、両摂家の由緒をもって寄進再建されました。この辺り小野は小野一族が栄えた場所であり、このことから絶世の美女として名高い小野小町ゆかりの寺としても知られています。境内には小町に寄せられた多くの恋文を埋めたという文塚や、化粧の井戸などが残されています。梅の美しい寺としても有名で、3月の最終日曜日には、小野小町に恋した深草少将の百夜通いの悲恋伝説をテーマにした「はねず踊り」が披露されます。
順路にしたがって最初に見るのは「大玄関」です。先程外から見た「医薬門」も開いています。
寛永年間(1624~1631)の再建。五摂家の一つだある九条家にゆかりのあるの江戸幕府2代将軍徳川秀忠の正室の娘、天真院尼(てんしんいんに)の寄進によるもの。左右には「小玄関」と「使者の間」が備えてあります。
さらに奥に進みます。
次に「表書院」に入ります。本堂が工事中のため、「如意輪観世音菩薩坐像」(重文)、「阿弥陀如来坐像」(重文)はこちらに安置されていました。
江戸初期に、天真院尼(てんしんいんに)の寄進したもので、住職である門跡が勅使と応対する書院。障壁画は狩野派の絵師によって描かれました。
「能の間」は、宝暦年間(1751~1764)に九条家の寄進によるもの。1991年(平成3年)に改修された。現在は「花の間」として人気スポットの一つになっています。
京都の絵描きユニット「だるま商店」が奉納した作品「極彩色梅匂小町絵図」といい、2009年(平成21年)に奉納されたました。絶世の美女と言われた小野小町の一生を描いた作品です。
残念ながら、昨日までが「花の間2024開催」でした。拝観開始から入られ、花の撤去作業をされています。ここも楽しみの一つだったので残念でした。
「本堂」に行ってみると、今年の3月末まで工事のため入れません。ただ、これがアップする頃には公開が始まるでしょう。
「表書院」と「本堂」の前には庭園が拡がっています。奥には池もありました。本堂に入れないので、早々と次へと向かいます。
本堂から表書院の裏側へ進むと、廊下の左手に「地蔵堂」が附属しています。堂内は撮影禁止でした。中央には小町文張地蔵尊像、右手には小野小町白描画の軸、左手には卒塔婆小町坐像が祀られていました。
さらに奥に進むと、右手に「小町堂」が見えます。小野小町が見えますが、ここは納骨堂です。
ここから「奥書院」に入りました。手前から「宮廷人物図」「賢聖障子絵」「竹虎図」で、狩野派の絵師が描きました。
奥書院は江戸時代初期の建築にして「奥の間」「控の間」には狩野派の絵師が描いた襖絵があります。
先程の裏手には「賢者の間」あります。襖絵は京都御所紫宸殿に描かれた賢者の障子で、天正年間御造営の折に、狩野派の筆によるものです。
このあと、庫裏に戻り玄関から出て行きました。小野小町の御朱印が売り切れが分かっていたら、多分、来なかったでしょう。
9時23分に「総門」から出て行きました。
9時33分に地下鉄東西線小野駅から帰路につきました。
朝は寒かったので、最高気温は12.4℃しか上がりませんでした。3月に入り、ずっと平年より下回っているように思います。これでは桜の開花遅くなるでしょう。
この記事へのコメント
かなり遅咲きの梅なんですね。
「花の色は移りに…」の歌の「花」は
桜の事でしょうけど、艶やかな紅梅の姿は、
小野小町のイメージと重なる気もします。
随心院は以前一度訪ねたことのあるお寺さん。
懐かしい思いで拝見しました。
ここは遅咲きで有名ですが、少し見頃過ぎてました。満開の時は、本当に見事な梅の花が見られます。
今年は北野天満宮の梅苑で、満開の梅の花を見てしまったので、どうしても見劣りしてました。
随心院では、春の特別公開がまもなく始まり、ご本尊など特別に公開される予定です。
遅咲きの梅も綺麗ですし、小野小町ゆかりの随心院、その内部も素晴らしく見応えがありますね。覚えておきたいと思います。
小野梅園も久しぶりに行きました。ここの梅は遅咲きでしたが、少し見頃過ぎてました。
いつも、桜の開花と小野梅園の梅が重なるので、桜の方に行ってしまうので久しぶりとなりました。( ^_^)