建仁寺塔頭 両足院「3月・4月の禅語御朱印直書き会」へ
建仁寺塔頭 両足院では、月に2回「禅語御朱印直書き会」を開催されています。3月は1日(金)と15日(金)の2日で、私は3月15日(金)の10時~12時に行きました。
10時10分に建仁寺「西門」から境内に入りました。
堂内には龍図が公開されている「法堂」の前を通ります。
そして10時15分に両足院に入りました。御朱印の時間は、10時から12時となってますが、何だか様子が・・・?。
両足院の「2月の禅語御朱印直書き会」は、2月1日(木)の10時過ぎに行きました。その時と違って様子が変だなぁ・・・と思い聞いてみると、「この日は座禅会があって、その坐禅がまだ行われているので、御朱印は待って貰っている」と。どうりで10名ぐらいの人が待合に座られてました。ネットで周知したと言われましたが、そんなの見る訳がないので、皆さん待たれているのでしょう。「時間ありますか?」と聞かれたので、「帰ります」と言って、ここを出たわけです。本当に所用があって、ここを10時30分までに出る必要があったから。結局御朱印を貰わずに帰りました。交通費大損なやなぁ・・・と。帰り際に「次に来られたら3月分も書かして貰います」と言われてましたが、来月行くかどうか・・・?。
そして、「4月の禅語御朱印直書き会」は、4月1日(月)と15日(月)の10時から12時でした。4月1日(月)は醍醐寺の花見に行ったので、両足院には行けません。そして15日(月)は、遅咲きの桜も見頃を過ぎたこともあって、行くことにしました。ただ、両足院だけでは行かなかったと思います。それは後程😊。
ここに来るのは、同じバスと京阪で来るので、建仁寺「西門」には10時10分に着きました。
入ると遅咲きの桜が咲いてました。
すっかり忘れてましたが、「法堂」の周りにはボタンがこの時期咲くですね。綺麗に咲いてました。
10時14分に両足院に入りました。この日は、御朱印を書かれる僧侶の方も居ますし、受付もして貰いました。もちろん3月分と4月分をお願いした訳です。
余談ですが、書いて貰っている間に、同じ建仁寺の塔頭寺院に行ってきました。NHKのニュース映像で公開を知ったので、この日の御朱印と合わせて来て見ました。
3月のテーマは、春来草自生(はるきたって くさおのずからしょうず)です。いつもの通り、禅語のことは、分からないので、両足院さんのHPでは以下の通り説明されてました。
「兀然(こつねん)として無事に坐すれば、春来たって草自ずから生ず」という禅語の一節。すべての計らいを捨てただ黙々と坐禅をしていれば、春になって草が自然と生えるように、時がくれば必ず悟ることができるだろう。という意味と解釈されています。春が来れば、草木は芽を出します。それを人がさまざまに理屈で解釈しようとも、それが現実、それが自然です。しかるべき時に、しかるべきことが起こります。同じように、黙々と坐禅をしていれば、しかるべき時に、必ず道はひらける。それが現実で、それが自然だ、ということを表現しているのでしょう。これを日常生活の視点でみてみると、「自分の人生が思うように開けないと感じていても、機が熟すときが必ず来るので、日々精進し続けることが大切だ」と励まされる気がします。ところで、草花の春の芽吹きは象徴的で、物事の始まりを連想させる明るい出来事です。対照的に、冬の間は寒さを耐え忍び、春が来るのをじっと待っているようなイメージがあります。しかし私は、「冬を耐え春を待っている」という草花のイメージは、私たちヒトにとって「そう見えるだけ」と思っています。冬の間、多くの植物の目立つ部分である花や葉は枯れ落ちて、ヒトからみるとまるで止まっている、あるいは「枯れる=死」すら連想させます。しかし、植物をよく観察してみると、秋に葉を落とした時には、もう次の芽がしっかり準備されていたり、あるいは種となって、冬の間もヒトの目には見えないところでぐんぐん変化していたりします。ヒトの目には機を待っているように見えても、植物はいつでも現在進行形で変化し続けているのです。待っている時など一瞬たりともないと思うのです。私は、坐禅についても同じことを思います。「悟り=春の芽生え」を目指して「黙々と坐る=冬を耐える」のではなく、いつであろうと坐っているその瞬間が全てだということ。変えようのない過去への後悔や、おきてもいない未来への恐怖など、自分の頭の中だけの話で、今目の前で起きていることが、100%現実なわけです。自分の思い込みを自分で剥がし、現実を知るための技術。それが坐禅だと思っています。常に機は熟しているし、いつでも「その時」はきているのです。
4月のテーマは弄花香満衣(はなをろうすれば こうえにみつ)です。
中国は唐の時代の詩人、于良史の「春山夜月」という美しい詩の一部の、「水を掬すれば月手に在り、花を弄すれば香衣に満つ」という一節が、禅語として知られています。「春山夜月」という詩は、春の山の素晴らしさを詠んだものと言われています。意訳してみると、春の山を、自然と一体となって楽しむ詩人の姿が浮かんできます。
さて、このうち「水を掬すれば月手に在り、花を弄すれば香衣に満つ」の部分は、なぜ禅語として捉えられているのでしょうか。それはこの一節が、「自分と他者という分別を超えた、自他がひとつになった境地」を美しく表現しているものだから、と理解されています。空に浮かぶ月が、自分の手の中に浮かんでいること。戯れていた花と、自分とが同じ香りを放っていること。つまり、見る者と見られる者、あるいは主観と客観は、実は一つである、という禅の境地を端的に表現しているからでしょう。そういう視点で日常を観察してみると、私たちのなにげない日常のなかからも、象徴的な光景を切り取ることができるかもしれません。楽しみ方の一つとして。
帰りに御朱印帳を受け取って、建仁寺を出ました。予定していたバスが10時40分発だったので、急いで四条京阪前バス停に向かいました。予想していたとは言え、乗る予定にしていた京都バスは、時間通りに来ません。そして予定外の市バス11号系統の嵐山経由山越中町行きのバスが来たので、そちらに乗りました。混雑必至のバスで私はこのバスは苦手なんですが、ここから一本で帰れるので、仕方無く乗りました。いつも混雑しているので、何処から混むのかなぁ・・・と興味もありましたが、答えは河原町三条から。ここで座れる座席は埋まりましたが、私以外は全て外国人観光客です。四条河原町でも多くの方が乗って来られましたが、日本人は私ともうお一人だけ。そして四条高倉から混雑で前が見えなくなりました。四条京阪前から車折神社前までが1時間弱、嵐山まで1時間5分、天龍寺が1時間10分、普段は嵐山から天龍寺まで2分ぐらいで行けます。嵐山が混雑して動きませんでした。野々宮でいつものように外国人観光客の大半は降りられ空きます。それにしても中辻通りの混雑は半端じゃないので、ここを車で来るのは怖いですね。バスの中から竹林の小経見ると、大阪の通勤ラッシュ並に混んでます。近寄りたくありませんね😊。それより買い物に来られていたお年寄りが可愛そうです。外国人観光客は席を変わってくれますが、全員じゃないので。本当にオーバーツリヅズムなんとかして欲しいです。京都市民が京都市バスに乗れないなんて・・・。
10時10分に建仁寺「西門」から境内に入りました。
堂内には龍図が公開されている「法堂」の前を通ります。
そして10時15分に両足院に入りました。御朱印の時間は、10時から12時となってますが、何だか様子が・・・?。
両足院の「2月の禅語御朱印直書き会」は、2月1日(木)の10時過ぎに行きました。その時と違って様子が変だなぁ・・・と思い聞いてみると、「この日は座禅会があって、その坐禅がまだ行われているので、御朱印は待って貰っている」と。どうりで10名ぐらいの人が待合に座られてました。ネットで周知したと言われましたが、そんなの見る訳がないので、皆さん待たれているのでしょう。「時間ありますか?」と聞かれたので、「帰ります」と言って、ここを出たわけです。本当に所用があって、ここを10時30分までに出る必要があったから。結局御朱印を貰わずに帰りました。交通費大損なやなぁ・・・と。帰り際に「次に来られたら3月分も書かして貰います」と言われてましたが、来月行くかどうか・・・?。
そして、「4月の禅語御朱印直書き会」は、4月1日(月)と15日(月)の10時から12時でした。4月1日(月)は醍醐寺の花見に行ったので、両足院には行けません。そして15日(月)は、遅咲きの桜も見頃を過ぎたこともあって、行くことにしました。ただ、両足院だけでは行かなかったと思います。それは後程😊。
ここに来るのは、同じバスと京阪で来るので、建仁寺「西門」には10時10分に着きました。
入ると遅咲きの桜が咲いてました。
すっかり忘れてましたが、「法堂」の周りにはボタンがこの時期咲くですね。綺麗に咲いてました。
10時14分に両足院に入りました。この日は、御朱印を書かれる僧侶の方も居ますし、受付もして貰いました。もちろん3月分と4月分をお願いした訳です。
余談ですが、書いて貰っている間に、同じ建仁寺の塔頭寺院に行ってきました。NHKのニュース映像で公開を知ったので、この日の御朱印と合わせて来て見ました。
3月のテーマは、春来草自生(はるきたって くさおのずからしょうず)です。いつもの通り、禅語のことは、分からないので、両足院さんのHPでは以下の通り説明されてました。
「兀然(こつねん)として無事に坐すれば、春来たって草自ずから生ず」という禅語の一節。すべての計らいを捨てただ黙々と坐禅をしていれば、春になって草が自然と生えるように、時がくれば必ず悟ることができるだろう。という意味と解釈されています。春が来れば、草木は芽を出します。それを人がさまざまに理屈で解釈しようとも、それが現実、それが自然です。しかるべき時に、しかるべきことが起こります。同じように、黙々と坐禅をしていれば、しかるべき時に、必ず道はひらける。それが現実で、それが自然だ、ということを表現しているのでしょう。これを日常生活の視点でみてみると、「自分の人生が思うように開けないと感じていても、機が熟すときが必ず来るので、日々精進し続けることが大切だ」と励まされる気がします。ところで、草花の春の芽吹きは象徴的で、物事の始まりを連想させる明るい出来事です。対照的に、冬の間は寒さを耐え忍び、春が来るのをじっと待っているようなイメージがあります。しかし私は、「冬を耐え春を待っている」という草花のイメージは、私たちヒトにとって「そう見えるだけ」と思っています。冬の間、多くの植物の目立つ部分である花や葉は枯れ落ちて、ヒトからみるとまるで止まっている、あるいは「枯れる=死」すら連想させます。しかし、植物をよく観察してみると、秋に葉を落とした時には、もう次の芽がしっかり準備されていたり、あるいは種となって、冬の間もヒトの目には見えないところでぐんぐん変化していたりします。ヒトの目には機を待っているように見えても、植物はいつでも現在進行形で変化し続けているのです。待っている時など一瞬たりともないと思うのです。私は、坐禅についても同じことを思います。「悟り=春の芽生え」を目指して「黙々と坐る=冬を耐える」のではなく、いつであろうと坐っているその瞬間が全てだということ。変えようのない過去への後悔や、おきてもいない未来への恐怖など、自分の頭の中だけの話で、今目の前で起きていることが、100%現実なわけです。自分の思い込みを自分で剥がし、現実を知るための技術。それが坐禅だと思っています。常に機は熟しているし、いつでも「その時」はきているのです。
4月のテーマは弄花香満衣(はなをろうすれば こうえにみつ)です。
中国は唐の時代の詩人、于良史の「春山夜月」という美しい詩の一部の、「水を掬すれば月手に在り、花を弄すれば香衣に満つ」という一節が、禅語として知られています。「春山夜月」という詩は、春の山の素晴らしさを詠んだものと言われています。意訳してみると、春の山を、自然と一体となって楽しむ詩人の姿が浮かんできます。
さて、このうち「水を掬すれば月手に在り、花を弄すれば香衣に満つ」の部分は、なぜ禅語として捉えられているのでしょうか。それはこの一節が、「自分と他者という分別を超えた、自他がひとつになった境地」を美しく表現しているものだから、と理解されています。空に浮かぶ月が、自分の手の中に浮かんでいること。戯れていた花と、自分とが同じ香りを放っていること。つまり、見る者と見られる者、あるいは主観と客観は、実は一つである、という禅の境地を端的に表現しているからでしょう。そういう視点で日常を観察してみると、私たちのなにげない日常のなかからも、象徴的な光景を切り取ることができるかもしれません。楽しみ方の一つとして。
帰りに御朱印帳を受け取って、建仁寺を出ました。予定していたバスが10時40分発だったので、急いで四条京阪前バス停に向かいました。予想していたとは言え、乗る予定にしていた京都バスは、時間通りに来ません。そして予定外の市バス11号系統の嵐山経由山越中町行きのバスが来たので、そちらに乗りました。混雑必至のバスで私はこのバスは苦手なんですが、ここから一本で帰れるので、仕方無く乗りました。いつも混雑しているので、何処から混むのかなぁ・・・と興味もありましたが、答えは河原町三条から。ここで座れる座席は埋まりましたが、私以外は全て外国人観光客です。四条河原町でも多くの方が乗って来られましたが、日本人は私ともうお一人だけ。そして四条高倉から混雑で前が見えなくなりました。四条京阪前から車折神社前までが1時間弱、嵐山まで1時間5分、天龍寺が1時間10分、普段は嵐山から天龍寺まで2分ぐらいで行けます。嵐山が混雑して動きませんでした。野々宮でいつものように外国人観光客の大半は降りられ空きます。それにしても中辻通りの混雑は半端じゃないので、ここを車で来るのは怖いですね。バスの中から竹林の小経見ると、大阪の通勤ラッシュ並に混んでます。近寄りたくありませんね😊。それより買い物に来られていたお年寄りが可愛そうです。外国人観光客は席を変わってくれますが、全員じゃないので。本当にオーバーツリヅズムなんとかして欲しいです。京都市民が京都市バスに乗れないなんて・・・。
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