建仁寺塔頭 正伝永源院「春の庭園特別公開 寺宝展」へ
4月22日(月)は前日のしっかりと降った雨は上がりましたが、最低気温16.4℃に加えて湿度も高かったこともあって朝から曇り空でしたが蒸し暑さを感じる天気でした。今日は、四条大宮に所用があったので、先ずは嵐電に乗って四条大宮に行き、所用を済ませたあと、今度は阪急に乗って河原町まで行き、そこから徒歩で向かったのが今日の目的地でした。
写真は、昨日利用した嵐電「鹿王院駅」です。平日では嵐山を9時33分に発車する電車まで2両編成です。通勤ラッシュより嵐山に向かう外国人観光客が増えたからでしょう。
河原町駅を出て、四条大橋を渡っています。この時、9時40分頃でしたが、平日でも歩いている人は多いです。特に学生さんが。
そのまま四条通りを東に進み、花見小路通りまで来ました。最近は観光公害で話題になっているエリアです。
花見小路通りは歩行者専用道ではありません。最近は、外国人観光客の迷惑行為が問題となっており、「私道での撮影禁止」と書かれた看板を目にします。また芸舞妓への執拗なつきまといや写真撮影も。私道に入った芸舞妓をそのまま追いかけたり、取り囲んだりするトラブルも確認されており、違反者に罰金1万円を課すことになっているようです。
4月1日(月)より、祇園甲部歌舞練場で「都をどり」を4月30日(火)まで行われています。私は一度だけ、2013年(平成25年)4月26日に行きました。
以前、会社が祇園エリアにあったので、昼休みに散歩に度々出掛けました。その時から想像もできないぐらい外国人観光客増えましたね。今なら人が多すぎて出掛けてないです。(この通りは撮影禁止ではありません)
この日はの目的地は、建仁寺塔頭 正伝永源院で、「春の庭園特別公開 寺宝展」が5月6日(月・祝)まで開催中で、今日、四条大宮まで来たので、ついでに寄ってみた訳です。
早いなぁ・・・と思って来ました。着いたのが9時49分、まだ10分もあります。ただお二人の方が先に待たれてました。
ここには2011年(平成23年)1月14日に「第45回 京の冬の旅」で初めて来ました。そして2013年(平成25年)5月2日に「躑躅」を見に、2013年(平成25年)11月21日には「紅葉」を見来ました。最近では、2022年(令和4年)2月4日に「第56回 京の冬の旅」で来てました。この日、来たのは、X(旧Twitter)などで躑躅が満開と出ていたので、それが目当てでしたね。ただ四条大宮に行く用事が無かったら来て無いです😊。
拝観料は800円で、特別御朱印もあるようですが、2022年(令和4年)2月4日にいただいているので。
本当は並びつもりは無かったです。懐かしの祇園の街を散策するつもりでしたが、まさか2名の方が待たれているとは・・・ただ、9時55分に受付始まりました。
山門を入ると左手に「中門」があります。とその前に・・・?。
さっそく「躑躅(ツツジ)」が咲いています。また、「花水木(ハナミズキ)」も綺麗です。
「中門」を入ったら、忘れてましたが「織田有楽斎の墓」などがありますが、帰りに寄ることにして、先を急ぎます。
次に「唐門」を入って、靴を脱いで堂内に上がります。
中門を入ると、いきなり満開のキリシマツツジが出迎えてくれます。
2013年(平成25年)5月2日にも来てツツジ見ましたが、格段と綺麗になっています。あれから11年も経って花数も増えたように思えます。
方丈に上がって最初は「礼の間」に入りました。ここには細川護熙元首相が描いた襖絵「知音(ちいん)」がありました。京都東山の夜桜を表しています。
「礼の間」の庭園側の障子が外されてて、引いて写真を撮れるようにされてました。ここから見るツツジが綺麗ですし、皆さん写真撮られてました。
よくよく見ると少し盛りは過ぎているのようですが、これでも充分楽しめました。この日は多くの方が来られてましたね。
次に「方丈前庭」を見ます。こちらは「武野紹鴎(たけの じょうおう)供養塔」で、2021年(令和3年)春に復興されました。
武野紹鴎は堺の承認で千利休の師としても知られている。25回忌にあたる1579年(天正7年)娘婿で弟子の今井宗久が堺の寺に供養塔を建立。江戸時代初期に、茶人であった織田有楽斎が隠棲していた正伝院の境内に移した記録が残る。しかし、明治初期の神仏分離令で正伝院の土地が没収され、供養塔も1916年(大正5年)に藤田家が入手。その藤田家の邸宅跡地「太閤園」に置かれていたが、2021年(令和3年)春、運営していた藤田観光が太閤園を売却したのを機に約100年振りに、正伝永源院に戻すことになった。奇しくも有楽斎没後400年の節目でした。
「永源庵」と「正伝院」の二つの扁額がかかる方丈です。写真は「仏間」だけNGでした。ただ、以前見た狩野山楽筆「蓮鷲図(れんろず)」の襖絵は外されてました。
正伝永源院は建仁寺の塔頭寺院の一つで、「正伝院」と「永源庵」の二つの歴史を持っています。正伝院は鎌倉時代中期、文永年間(1264年~75年)において、大覚禅師の法嗣(はっす)である中国僧義翁紹仁勅謚普覚禅師によって開山となりました。永源庵は南北朝時代、正平年間(1346年~70年)に建仁寺39世・鉄庵道生の法嗣である無涯仁浩禅師によって創建されました。正伝院は戦国時代の天文年間(1532年~55年)に荒廃しますが、1618年(元和4年)に織田信長の弟・織田有楽斎(長益)により再興し、隠居所と茶室「如庵」が建てられました。1868年(明治元年)神仏分離令後の廃仏毀釈後、建仁寺塔頭の多くが廃され、無住となっていた永源庵は堂宇のみを残すのみとなりました。しかし堂宇の取り壊しは免れたところ、正伝院が境内の建物を放棄し、寺号のみを残して旧永源庵の現在地に移ります。のち「永源」の名を受けつぎ、「正伝永源院」と改めました。ご本尊は釈迦如来で、寺宝には織田有楽斎に関する遺品が多い。現在も方丈には「永源庵」と「正伝院」の二つの扁額架かっています。
内陣の左手に「織田有楽斎像」、中央に「惟忠通恕(いちゅうつうじょ)像」(永源庵二世)、「無涯仁浩(むがいにんこう)像」(永源庵開山)、「義翁紹仁(ぎおうしょうにん)像」(正伝院開山)、「細川頼有(ほそかわよりあり)像」(永源庵開基)が祀られてました。
庭園を見るために、方丈内の襖が外されてて、この時間には私一人だけでした。(ガイドさんは一人居ます)
次に「檀那の間」に入りました。ここは撮影OKと確認しています。「寺宝展」とありましたが、ここだけでしたね。何かイマイチな感じが・・・。
方丈裏にも庭園がありました。ここにもツツジが咲いています。その奥には「茶室」があるような・・・?。
「方丈」西側の庭園です。ここはツツジが無いので、これからメインの方丈前庭を見に行きます。
次にスリッパに履き替え茶室「如庵」の見学です。スリッパの数が少ないので、先に降りました。
国宝犬山城の東にある有楽苑に、明治期の廃仏毀釈を受け「正伝院」から移築された国宝に指定されてる「如庵」があって、こちらは今から約30年前、前住職であった真神仁宏により中村昌生氏の監修のもとに、細川護貞氏、織田五二七氏、千家十職や当院の責任役員永楽即全氏、善五郎氏ら多くの法縁者の援助により、1996年(平成8年)10月に本物と瓜二つで造られたものです。
ガイドさんから「飛石づたいに歩いてください」と言われたとおり、慎重に茶室まで行き、内部を撮りました。
庭に降りたので、そこから「方丈前庭」を撮りました。この庭にもツツジ咲いています。
この枝垂れ桜が咲く時期も公開されているので、いつか満開の桜も見てみたいです。
こちらが前途した「武野紹鴎(たけの じょうおう)供養塔」です。次に、茶室「如庵」から、この供養塔の近くまで行ってみます。
このように近くまで行けるですね。これ以上は行けませんが、「キリシマツツジ」綺麗です。多分、赤いモミジは「ノムラモミジ」でしょう。
スリッパの数も少ないことから、これで「方丈」に上がりました。
再び「礼の間」に入って、暫く座って庭を見てました。そしたら10名ぐらいの団体さんが入って来られましたね。私は座ったままですが。
この団体さん、添乗員さんが居るようで、このツツジの写真を撮ったあと、仏間に入られたあとガイドさんの案内が始まりました。帰りのバスの時間調整をしてましたが、10時20分に出て行きました。
ここで行きにスルーした供養塔を見て行きます。
「関白一条昭良(いちじょうあきよし)室の墓」(織田有楽斎の孫・織田頼長の長女)。織田頼長の長女は、関白一条昭良の妻となりました。
左に「織田長好の墓」。織田長好は、織田有樂斎の次男織田頼長の長男として生れました。江戸時代には、茶人として有楽流を継承し活躍したそうです。
更に左に行くと「織田有楽斎夫人の墓(雲仙院)」があります。雲仙院は、平手政秀の娘。政秀は、「信長の奇行を憂い、自身の死で諌めるため」との美談として有名ですが、真意は・・・?。
こちらが「織田有楽斎の墓」です。有楽斎は織田信長の弟で、長益と号した。信長の死後、剃髪し、千利休に師事して茶道の宗匠となり、茶道三昧の生活を送りました。1621年(元和7年)71歳で没した。
次に南側に目を向けると、以前に無かった立て札があって「福島正則並家臣の墓」とあります。どれがどれだか分からなかったです。
最後になりましたが、「細川石」と書かれた大きな石碑があります。熊本藩主・細川家の菩提寺が「永源庵」で、明治に入り廃仏毀釈により「永源」の名が消えることを憂した細川侯爵が名を残すことを希望され、「正伝永源院」となった経緯がありました。
永源庵は無涯仁浩(むがいにんこう)が開山であり、許水坂鷲峯下に同庵を構えました。当時の備後守護であった細川頼有(ほそかわよりあり)が同庵の門前で無涯に会い馬上から門法したことが縁で師檀の関係ができ、以後、細川家か同門住持に対する帰依は深まり同家から同庵に出家したり住職になるものとえ出ました。1372年 (建徳3年・応安5年)永源庵は、ここで建仁寺塔頭に列し、以後細川家の比護となり、明治まで続くことになり、現在の客殿は、細川三斎により再建され、その時の住持は、やはり細川家より出家した、九岩中達(建仁寺第300世)でした。2013年(平成25年)3月に第79代内閣総理大臣細川護熙氏揮毫により襖絵24面か奉納されました。
次に「中門」から出て行きますが、なにやら外が賑やかです。何故かなぁ?。
山門を出ると人だかり・・・拝観受付所前に20名を超えると思われる人が居ました。団体さんが来られたようですね、早めに出てきて正解でした😊。この日は、最高気温が24.3℃と、前日より3.6℃も上がりました。5月上旬の暑さとなりましたし、もう汗だくでした。今日は、これだけで帰りました。
写真は、昨日利用した嵐電「鹿王院駅」です。平日では嵐山を9時33分に発車する電車まで2両編成です。通勤ラッシュより嵐山に向かう外国人観光客が増えたからでしょう。
河原町駅を出て、四条大橋を渡っています。この時、9時40分頃でしたが、平日でも歩いている人は多いです。特に学生さんが。
そのまま四条通りを東に進み、花見小路通りまで来ました。最近は観光公害で話題になっているエリアです。
花見小路通りは歩行者専用道ではありません。最近は、外国人観光客の迷惑行為が問題となっており、「私道での撮影禁止」と書かれた看板を目にします。また芸舞妓への執拗なつきまといや写真撮影も。私道に入った芸舞妓をそのまま追いかけたり、取り囲んだりするトラブルも確認されており、違反者に罰金1万円を課すことになっているようです。
4月1日(月)より、祇園甲部歌舞練場で「都をどり」を4月30日(火)まで行われています。私は一度だけ、2013年(平成25年)4月26日に行きました。
以前、会社が祇園エリアにあったので、昼休みに散歩に度々出掛けました。その時から想像もできないぐらい外国人観光客増えましたね。今なら人が多すぎて出掛けてないです。(この通りは撮影禁止ではありません)
この日はの目的地は、建仁寺塔頭 正伝永源院で、「春の庭園特別公開 寺宝展」が5月6日(月・祝)まで開催中で、今日、四条大宮まで来たので、ついでに寄ってみた訳です。
早いなぁ・・・と思って来ました。着いたのが9時49分、まだ10分もあります。ただお二人の方が先に待たれてました。
ここには2011年(平成23年)1月14日に「第45回 京の冬の旅」で初めて来ました。そして2013年(平成25年)5月2日に「躑躅」を見に、2013年(平成25年)11月21日には「紅葉」を見来ました。最近では、2022年(令和4年)2月4日に「第56回 京の冬の旅」で来てました。この日、来たのは、X(旧Twitter)などで躑躅が満開と出ていたので、それが目当てでしたね。ただ四条大宮に行く用事が無かったら来て無いです😊。
拝観料は800円で、特別御朱印もあるようですが、2022年(令和4年)2月4日にいただいているので。
本当は並びつもりは無かったです。懐かしの祇園の街を散策するつもりでしたが、まさか2名の方が待たれているとは・・・ただ、9時55分に受付始まりました。
山門を入ると左手に「中門」があります。とその前に・・・?。
さっそく「躑躅(ツツジ)」が咲いています。また、「花水木(ハナミズキ)」も綺麗です。
「中門」を入ったら、忘れてましたが「織田有楽斎の墓」などがありますが、帰りに寄ることにして、先を急ぎます。
次に「唐門」を入って、靴を脱いで堂内に上がります。
中門を入ると、いきなり満開のキリシマツツジが出迎えてくれます。
2013年(平成25年)5月2日にも来てツツジ見ましたが、格段と綺麗になっています。あれから11年も経って花数も増えたように思えます。
方丈に上がって最初は「礼の間」に入りました。ここには細川護熙元首相が描いた襖絵「知音(ちいん)」がありました。京都東山の夜桜を表しています。
「礼の間」の庭園側の障子が外されてて、引いて写真を撮れるようにされてました。ここから見るツツジが綺麗ですし、皆さん写真撮られてました。
よくよく見ると少し盛りは過ぎているのようですが、これでも充分楽しめました。この日は多くの方が来られてましたね。
次に「方丈前庭」を見ます。こちらは「武野紹鴎(たけの じょうおう)供養塔」で、2021年(令和3年)春に復興されました。
武野紹鴎は堺の承認で千利休の師としても知られている。25回忌にあたる1579年(天正7年)娘婿で弟子の今井宗久が堺の寺に供養塔を建立。江戸時代初期に、茶人であった織田有楽斎が隠棲していた正伝院の境内に移した記録が残る。しかし、明治初期の神仏分離令で正伝院の土地が没収され、供養塔も1916年(大正5年)に藤田家が入手。その藤田家の邸宅跡地「太閤園」に置かれていたが、2021年(令和3年)春、運営していた藤田観光が太閤園を売却したのを機に約100年振りに、正伝永源院に戻すことになった。奇しくも有楽斎没後400年の節目でした。
「永源庵」と「正伝院」の二つの扁額がかかる方丈です。写真は「仏間」だけNGでした。ただ、以前見た狩野山楽筆「蓮鷲図(れんろず)」の襖絵は外されてました。
正伝永源院は建仁寺の塔頭寺院の一つで、「正伝院」と「永源庵」の二つの歴史を持っています。正伝院は鎌倉時代中期、文永年間(1264年~75年)において、大覚禅師の法嗣(はっす)である中国僧義翁紹仁勅謚普覚禅師によって開山となりました。永源庵は南北朝時代、正平年間(1346年~70年)に建仁寺39世・鉄庵道生の法嗣である無涯仁浩禅師によって創建されました。正伝院は戦国時代の天文年間(1532年~55年)に荒廃しますが、1618年(元和4年)に織田信長の弟・織田有楽斎(長益)により再興し、隠居所と茶室「如庵」が建てられました。1868年(明治元年)神仏分離令後の廃仏毀釈後、建仁寺塔頭の多くが廃され、無住となっていた永源庵は堂宇のみを残すのみとなりました。しかし堂宇の取り壊しは免れたところ、正伝院が境内の建物を放棄し、寺号のみを残して旧永源庵の現在地に移ります。のち「永源」の名を受けつぎ、「正伝永源院」と改めました。ご本尊は釈迦如来で、寺宝には織田有楽斎に関する遺品が多い。現在も方丈には「永源庵」と「正伝院」の二つの扁額架かっています。
内陣の左手に「織田有楽斎像」、中央に「惟忠通恕(いちゅうつうじょ)像」(永源庵二世)、「無涯仁浩(むがいにんこう)像」(永源庵開山)、「義翁紹仁(ぎおうしょうにん)像」(正伝院開山)、「細川頼有(ほそかわよりあり)像」(永源庵開基)が祀られてました。
庭園を見るために、方丈内の襖が外されてて、この時間には私一人だけでした。(ガイドさんは一人居ます)
次に「檀那の間」に入りました。ここは撮影OKと確認しています。「寺宝展」とありましたが、ここだけでしたね。何かイマイチな感じが・・・。
方丈裏にも庭園がありました。ここにもツツジが咲いています。その奥には「茶室」があるような・・・?。
「方丈」西側の庭園です。ここはツツジが無いので、これからメインの方丈前庭を見に行きます。
次にスリッパに履き替え茶室「如庵」の見学です。スリッパの数が少ないので、先に降りました。
国宝犬山城の東にある有楽苑に、明治期の廃仏毀釈を受け「正伝院」から移築された国宝に指定されてる「如庵」があって、こちらは今から約30年前、前住職であった真神仁宏により中村昌生氏の監修のもとに、細川護貞氏、織田五二七氏、千家十職や当院の責任役員永楽即全氏、善五郎氏ら多くの法縁者の援助により、1996年(平成8年)10月に本物と瓜二つで造られたものです。
ガイドさんから「飛石づたいに歩いてください」と言われたとおり、慎重に茶室まで行き、内部を撮りました。
庭に降りたので、そこから「方丈前庭」を撮りました。この庭にもツツジ咲いています。
この枝垂れ桜が咲く時期も公開されているので、いつか満開の桜も見てみたいです。
こちらが前途した「武野紹鴎(たけの じょうおう)供養塔」です。次に、茶室「如庵」から、この供養塔の近くまで行ってみます。
このように近くまで行けるですね。これ以上は行けませんが、「キリシマツツジ」綺麗です。多分、赤いモミジは「ノムラモミジ」でしょう。
スリッパの数も少ないことから、これで「方丈」に上がりました。
再び「礼の間」に入って、暫く座って庭を見てました。そしたら10名ぐらいの団体さんが入って来られましたね。私は座ったままですが。
この団体さん、添乗員さんが居るようで、このツツジの写真を撮ったあと、仏間に入られたあとガイドさんの案内が始まりました。帰りのバスの時間調整をしてましたが、10時20分に出て行きました。
ここで行きにスルーした供養塔を見て行きます。
「関白一条昭良(いちじょうあきよし)室の墓」(織田有楽斎の孫・織田頼長の長女)。織田頼長の長女は、関白一条昭良の妻となりました。
左に「織田長好の墓」。織田長好は、織田有樂斎の次男織田頼長の長男として生れました。江戸時代には、茶人として有楽流を継承し活躍したそうです。
更に左に行くと「織田有楽斎夫人の墓(雲仙院)」があります。雲仙院は、平手政秀の娘。政秀は、「信長の奇行を憂い、自身の死で諌めるため」との美談として有名ですが、真意は・・・?。
こちらが「織田有楽斎の墓」です。有楽斎は織田信長の弟で、長益と号した。信長の死後、剃髪し、千利休に師事して茶道の宗匠となり、茶道三昧の生活を送りました。1621年(元和7年)71歳で没した。
次に南側に目を向けると、以前に無かった立て札があって「福島正則並家臣の墓」とあります。どれがどれだか分からなかったです。
最後になりましたが、「細川石」と書かれた大きな石碑があります。熊本藩主・細川家の菩提寺が「永源庵」で、明治に入り廃仏毀釈により「永源」の名が消えることを憂した細川侯爵が名を残すことを希望され、「正伝永源院」となった経緯がありました。
永源庵は無涯仁浩(むがいにんこう)が開山であり、許水坂鷲峯下に同庵を構えました。当時の備後守護であった細川頼有(ほそかわよりあり)が同庵の門前で無涯に会い馬上から門法したことが縁で師檀の関係ができ、以後、細川家か同門住持に対する帰依は深まり同家から同庵に出家したり住職になるものとえ出ました。1372年 (建徳3年・応安5年)永源庵は、ここで建仁寺塔頭に列し、以後細川家の比護となり、明治まで続くことになり、現在の客殿は、細川三斎により再建され、その時の住持は、やはり細川家より出家した、九岩中達(建仁寺第300世)でした。2013年(平成25年)3月に第79代内閣総理大臣細川護熙氏揮毫により襖絵24面か奉納されました。
次に「中門」から出て行きますが、なにやら外が賑やかです。何故かなぁ?。
山門を出ると人だかり・・・拝観受付所前に20名を超えると思われる人が居ました。団体さんが来られたようですね、早めに出てきて正解でした😊。この日は、最高気温が24.3℃と、前日より3.6℃も上がりました。5月上旬の暑さとなりましたし、もう汗だくでした。今日は、これだけで帰りました。
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