京都御苑「閑院宮邸跡」へ
4月26日(金)は、2020年(令和2年)以来の仙洞御所改め、京都仙洞御所の参観を予約していました。京都仙洞御所には抽選が当たりましたが、本当は桂離宮に行きたかったですが、またまた外れました。ここ10回ぐらい抽選外れてて、京都仙洞御所も同じぐら外れてたのに、やっとやっと当たりました😊。
京都仙洞御所の参観時間が9時30分から、開門が9時10分でしたので、烏丸丸太町を8時38分に着くバスに乗って、ほぼ定刻通り降りることができました。
京都御苑には「間之町口」から入りました。
入ると左手に進むと「コデマリ(小手毬)」が綺麗に咲いてました。
このまま京都御苑内の歩いて行くと、閑院宮邸跡の前に出ました。どこかの京都御苑内にある休憩所で、座って待つつもりでしたが、「東門」が空いていたので、見ていくことにしました。
この時、8時43分でした。ここに入るのは2019年(令和元年)9月24日以来です。
閑院宮家(かんいんのみやけ)は、江戸時代の皇位継承権のあるの四親王家(ししんのうけ)の一つです。四親王家とは、伏見宮(ふしみのみや)・有栖川宮(ありすがわのみや)・桂宮(かつらのみや)をいいます。東山天皇の皇子、直仁(なおひと)親王を始祖として1710年(宝永7年)に創立。一時絶えますが、た1872年(明治5年)伏見宮載仁(ことひと)親王が再興。創建当初の建物は天明の大火で焼失。同宮家が東京に移った1877年(明治10年)以降は、華族会館や裁判所として利用され、1883年(明治16年)に旧宮内庁京都支庁が設置された際に、現在の建物に新築されました。、2003年(平成15年)から3ケ年をかけて全面的な改修と周辺整備が行われました。
少し覗くつもりでしたが、庭園が綺麗に整備されてて、それなら時間もあるし、見て行くことにしました。
閑院宮邸は総面積498坪にも及び大規模なもので、庭園の造営時期や当初の池の位置など詳しいことはわかっていませんでした。ただ、発掘調査の結果、進級2つの池底や州浜状の礫敷が確認され、18世紀中頃に作庭されたものが、度重なる改修を経て現在の形になったと考えられています。現在の池は、平成15~17年に行われた閑院宮邸跡の全面的な整備で復元されたもの。発掘された作庭当時の遺構は保存のために埋め戻され、その上に緩やかな玉石の州浜を設けて当時の池の意匠を再現しました。
こちらの建物は「収納展示室」で、9時開館です。ただ今日は京都仙洞御所に行くため入りません。
庭園の奥には、新たに散策路が出来ていたので行ってみます。
この辺りには、かつて「私室棟主室」がありました。この主室からの眺めが案内版に書かれていました。
ここには来客棟から庭の方へ張り出して建てられていた私室棟の先端の座敷がありました。部屋からは矢跡の残る白河石を起点に鑓水が池に注ぐ庭園の全景を眺めることができました。庭園には形の異なる5つの灯籠が配され、流れと池の周囲には鞍馬石や緑色片岩などの名石が据えられ靴脱石から庭の近くに降りられました。
こちらには「主室」と案内が出ていました。そして来客棟主室からの眺めの案内によると・・・?。
この部屋は八畳敷き東側に床と床脇棚を設け、床柱は栂の四方柱の角柱など格調を備えた数奇屋風の造りでした。部屋からは、庭園を北東から南西に流れる鑓水を楽しむことができました。流れの上流には沢飛石があり鑓水を渡ることができ、庭石には鞍馬石や緑色片岩、矢跡の残る白川石などの名石が効果的に配されてました。
この敷地には、かつて「宮内庁所長官舎」がありました。明治期に閑院宮家の邸宅が宮内省の所管となり1892年(明治25年)に前途した所長官舎が建てられました。
ここから見る庭園の特徴は、鑓水と圓池の組み合わせです。鑓水は庭園内に水を導き流れるようにする伝統的な手法で、京都御所御常御殿庭園などにも見られます。本庭園は江戸時代の公家が好んだ庭園意匠を踏襲し、小規模ながらも気品ある趣を醸し出しています。平成15~17年に行われた閑院宮邸跡の全面的な整備するのにあたり、かつての建物や室内からの庭園の眺めを再現するため、古写真、考古学調査からおよその位置を特定し、縁側、居室、廊下、中庭、玄関など官舎の特徴的な部分の間取りを案内版に表示しています。
苑路を進むと、元の苑路まで戻って来ました。
前途したとおり、「収納展示室」には入りません。「玄関」だけ撮って出て行くことにしました。
8時50分に「東門」から出て行きました。
京都仙洞御所に向かう途中に、東を見ると「京都仙洞御所正門」が遠くに見えました。
そのまま北に向かって歩いて行くと京都御所の「建礼門」が近くに見えて来ました。
ここから東進みます。向こうに見えているのが京都仙洞御所の「正門」です。こちには参観時に内側から見られます。
こちらは京都御所の南東角です。見えているのが「建春門」です。
この反対側が京都仙洞御所の北西角にあたります。既に時計の針が9時10分を回っていたので、京都仙洞御所の「北門」に向かいました。
京都仙洞御所の参観時間が9時30分から、開門が9時10分でしたので、烏丸丸太町を8時38分に着くバスに乗って、ほぼ定刻通り降りることができました。
京都御苑には「間之町口」から入りました。
入ると左手に進むと「コデマリ(小手毬)」が綺麗に咲いてました。
このまま京都御苑内の歩いて行くと、閑院宮邸跡の前に出ました。どこかの京都御苑内にある休憩所で、座って待つつもりでしたが、「東門」が空いていたので、見ていくことにしました。
この時、8時43分でした。ここに入るのは2019年(令和元年)9月24日以来です。
閑院宮家(かんいんのみやけ)は、江戸時代の皇位継承権のあるの四親王家(ししんのうけ)の一つです。四親王家とは、伏見宮(ふしみのみや)・有栖川宮(ありすがわのみや)・桂宮(かつらのみや)をいいます。東山天皇の皇子、直仁(なおひと)親王を始祖として1710年(宝永7年)に創立。一時絶えますが、た1872年(明治5年)伏見宮載仁(ことひと)親王が再興。創建当初の建物は天明の大火で焼失。同宮家が東京に移った1877年(明治10年)以降は、華族会館や裁判所として利用され、1883年(明治16年)に旧宮内庁京都支庁が設置された際に、現在の建物に新築されました。、2003年(平成15年)から3ケ年をかけて全面的な改修と周辺整備が行われました。
少し覗くつもりでしたが、庭園が綺麗に整備されてて、それなら時間もあるし、見て行くことにしました。
閑院宮邸は総面積498坪にも及び大規模なもので、庭園の造営時期や当初の池の位置など詳しいことはわかっていませんでした。ただ、発掘調査の結果、進級2つの池底や州浜状の礫敷が確認され、18世紀中頃に作庭されたものが、度重なる改修を経て現在の形になったと考えられています。現在の池は、平成15~17年に行われた閑院宮邸跡の全面的な整備で復元されたもの。発掘された作庭当時の遺構は保存のために埋め戻され、その上に緩やかな玉石の州浜を設けて当時の池の意匠を再現しました。
こちらの建物は「収納展示室」で、9時開館です。ただ今日は京都仙洞御所に行くため入りません。
庭園の奥には、新たに散策路が出来ていたので行ってみます。
この辺りには、かつて「私室棟主室」がありました。この主室からの眺めが案内版に書かれていました。
ここには来客棟から庭の方へ張り出して建てられていた私室棟の先端の座敷がありました。部屋からは矢跡の残る白河石を起点に鑓水が池に注ぐ庭園の全景を眺めることができました。庭園には形の異なる5つの灯籠が配され、流れと池の周囲には鞍馬石や緑色片岩などの名石が据えられ靴脱石から庭の近くに降りられました。
こちらには「主室」と案内が出ていました。そして来客棟主室からの眺めの案内によると・・・?。
この部屋は八畳敷き東側に床と床脇棚を設け、床柱は栂の四方柱の角柱など格調を備えた数奇屋風の造りでした。部屋からは、庭園を北東から南西に流れる鑓水を楽しむことができました。流れの上流には沢飛石があり鑓水を渡ることができ、庭石には鞍馬石や緑色片岩、矢跡の残る白川石などの名石が効果的に配されてました。
この敷地には、かつて「宮内庁所長官舎」がありました。明治期に閑院宮家の邸宅が宮内省の所管となり1892年(明治25年)に前途した所長官舎が建てられました。
ここから見る庭園の特徴は、鑓水と圓池の組み合わせです。鑓水は庭園内に水を導き流れるようにする伝統的な手法で、京都御所御常御殿庭園などにも見られます。本庭園は江戸時代の公家が好んだ庭園意匠を踏襲し、小規模ながらも気品ある趣を醸し出しています。平成15~17年に行われた閑院宮邸跡の全面的な整備するのにあたり、かつての建物や室内からの庭園の眺めを再現するため、古写真、考古学調査からおよその位置を特定し、縁側、居室、廊下、中庭、玄関など官舎の特徴的な部分の間取りを案内版に表示しています。
苑路を進むと、元の苑路まで戻って来ました。
前途したとおり、「収納展示室」には入りません。「玄関」だけ撮って出て行くことにしました。
8時50分に「東門」から出て行きました。
京都仙洞御所に向かう途中に、東を見ると「京都仙洞御所正門」が遠くに見えました。
そのまま北に向かって歩いて行くと京都御所の「建礼門」が近くに見えて来ました。
ここから東進みます。向こうに見えているのが京都仙洞御所の「正門」です。こちには参観時に内側から見られます。
こちらは京都御所の南東角です。見えているのが「建春門」です。
この反対側が京都仙洞御所の北西角にあたります。既に時計の針が9時10分を回っていたので、京都仙洞御所の「北門」に向かいました。
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