令和6年度「春期京都非公開文化財特別公開」宝筐院へ
5月8日(水)の昨日は、鹿王院に行きましたが、この日令和6年度「春期京都非公開文化財特別公開」の宝筐院に行きました。
大型連休中は天気も良く、気温も高かったけど、6日から7日にかけて雨か降ったあと寒気が入ってきて、この日の最高気温は20.1℃で、これは4月中旬頃の気温だそうです。朝方は上着が無ければ寒さを感じるぐらいでしたね。
この日は宝筐院の近くに用事があったので、宝筐院の「山門」前に着いたのは14時44分でした。ここを昼から来ることは稀で、多分2度目だと思います。
約2週間前の4月23日(火)に来てますが、その日は雨降りでした。この日は寒気が入って曇りの予報が、この時は晴れて来ました。
ここの庭園を撮るには、この時間では逆行になります。何度か来て知ってましたが、今日の目的は、茶室と書院を見ること😊。それより、ここの主催者は撮影禁止にすることが多いので、庭園も撮れないかも・・・です。門を入って右手に拝観受付所があるので、鹿王院と同様に学生さんが受付をされてました。ここで1000円を納めて庭園に入ります。普段は自販機の券売機で拝観券を購入します。普段は500円です。
入口は通常と同じでした。私の予想では、式台玄関から入るのかなぁ・・・と思ってましたが、そのまま庭園を進みます。
逆行でも新緑が綺麗に撮れました。それと、予想外に空いてます。
本堂前に置いてある靴袋を持って、先ずは「客殿」に入って、「書院」を見学するようです。
ここで客殿に入ろうとしたら、中から声が聞こえたのと、次の茶室に人が居ないようなので、私は先に茶室を見ることにしました。
こちらが初公開された茶室「丹照庵」です。普段から外観は、遠くから見えてました。こんなに近くまで来られてのは初めてです。
表千家の久田家の「半床庵」の写しです。3畳台目中板。明治期より京都市中に建っていたが、乃木希典大将愛用の茶室を1935年(昭和10年)代に移築されました。
茶室内は除くだけです。上がることも写真を撮ることも禁止でした。茶室前には「蹲踞」がありました。
普段は写真を撮れないエリアのため、撮って置きました。このあと、客殿に入って非公開の「書院」を見学しました。書院内は撮影禁止のため写真はありません。
次に「客殿」に入りました。私のよそう通り、客殿から数名が出てこられ茶室に向かわれました。
室内は撮影禁止のため看板の写真です。ここでは学生さんがガイドしてくれました。この襖絵は手前から春・夏・秋・冬と描かれてることを教えて貰いました。掛け軸は、楠木正行が描かれています。
書院は岐阜県多治見市にあった建物を、美濃焼を発展に貢献した西浦圓治の庭園内にあった離れで1880年(明治13年)の明治天皇巡行の際にの行在所となりました。1917年(大正6年)の宝筐院再興時に川崎芳太郎によって移築されたそうです。襖絵8面は、谷文中によって描かれた「四季花鳥図」です。
隣の部屋には、昭和初期(1930年頃)に楠木正成公に関するお祭りがあって、宝筐院は楠木正成の子楠木正行ゆかりの寺ということで、その時の模様である甲冑(復元)が展示されていました。嵐山から宝筐院まで練り歩いたそうです。
公開は、この2間だけですので直ぐに出て来ました。靴袋はそのままで、次に「本堂」に入ります。ただ、こちらは常時拝観されています。
ここに来る前は、「本堂」で宝筐院の歴史などガイドさんが案内されると思ってました。ただガイドさん居ません。ちょっと拍子抜けでしたね。
先の鹿王院もそうでしたが、今回のガイドさんは物足り無いです。はっきり言って、ただ立ってるだけ・・・でした。以前なら人を集めて、お寺の歴史について、真っ先に話されるのに無かったしね。拝観料も1000円に値上げされたのに・・・😡。
本堂内陣の中央には、ご本尊の「十一面千手観世音菩薩」が。1917年(大正6年)に楠木正行を弔う寺として再興されたとき本尊として迎えられたものです。
左隣には「楠木正行像」が祀られています。正行は1348年(正平3年)四條畷の合戦で討ち死にし、その首級を生前交流のあった黙庵善入寺に葬ったとの寺伝があります。
次に順路は、本堂横から裏手を通って庭園内を巡るコースですが、私は何度も来てるので、ここから順路は無視します😊。
ここから墓所に向かいますが、晴れて来たので、この時間では逆行となります。
いつも朝しか行かないので、こんなに正面から太陽の光を浴びるとは・・・眩しい光を遮り墓所に着きました。
ここには、生前敵同士であった「足利義詮の墓」(左)と、楠木正成の子「楠木正行の首塚」(右)が仲良く並んで建っています。これは義詮が正行の人柄を慕い、そばに葬るように遺言したためといわれています。
ここではガイドさんの案内があるのものと思ってました。常時拝観してるからでしょうね。
宝筐院は、善入(ぜんにゅう)山と号する臨済宗の単立寺院。寺伝によると、平安時代に第72代天皇の白河天皇の勅願寺として創建され、善入寺と称した。南北朝時代に夢窓疎石の高弟である黙庵周諭(もくあんしゅうゆ)禅師が入寺し、室町幕府2代将軍足利義詮(よしあきら)の保護を受け衰退していた伽藍が復興され、これ以降臨済宗の寺となった。1367年(貞治6年)に義詮の没後、善入寺は義詮の菩提寺となり、その院号に因んで宝筐院と改められた。室町幕府足利将軍家の保護もあって寺も隆盛したが、応仁の乱以降は経済的に困窮し衰退し明治の初めには廃寺となった。また、南朝時代する武将の楠木正行(くすのきまさつら)(小楠公、楠木正成の長男)は、黙庵周諭禅師に帰依しており、1348年(正平3年・貞和4年)の「四條畷の戦い」で足利方の高師直・師泰兄弟に討ち取られた後、その首級を生前の交誼により善入寺に葬った。時は明治になり、1891年(明治24年)、京都府知事北垣国道は楠木正行の遺跡が荒れているのを知り、正行ゆかりの遺跡を守ろうと天龍寺管長・高木龍淵や神戸の実業家・川崎芳太郎によって、旧境内地が買い戻され、建物も移築されて伽藍が整えられ、1916年(大正5年)宝筐院の再興が行われた。その後茶室が移築され、本堂が新築されてる。
墓所の横には1891年(明治24年の建立の「欽忠碑」が建っています。京都府知事の北垣国道が正行の遺跡が人知れず埋もれていることを惜しみ、これを世に知らせるために首塚の由来を記してた撰文です。
墓所の北側には楠木正行の辞世の句が書かれた歌碑があります。「かえらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る 名をぞ 止(とど)むる」と書いてあります。
この苑路を通って本堂に出ます。4月23日(火)には、山部や躑躅が咲いてましたが、シャガの花だけ見つけました。
「瀧組石」に着いてみると、何でしょうね、花か実か・・・?・・・分かりません😊。
庭園を回って来て本堂まで戻って来ました。苑路沿いに咲いていた、あの紫の花、ここでは名札が無いので分かりません😊。
ここでは、先に客殿に入られて、茶室見学されたいて方と出会いました。心配そうに「ここ行ったら戻って来られるのかなぁ」と大きな声で聞こえて来ましたが、聞かれなかったので、そのままに通り過ぎました😊。そんなに広い庭園では無いので、迷子になることはあり得ません😊。
今日は、さほど天気は良く無かったのに、ここに来て晴れました。晴れたら基本庭園では逆行となります。それで本堂には上がらずに出て行くことにしました。
本堂の前で、また5名ぐらいの方が来られて、何処に行けば良いのかウロウロされていたので、看板を指さし教えました。案内版を見たら分かるのにね😊。
帰りは、まだ通って無かった、南の苑路を通って出口までやって来ました。これで全て宝筐院の庭園は巡ったことになります。
15時3分に、出て来ました。特別公開は良かったけど、通常拝観でもガイドさんの説明が欲しかったです。物足りなさはありました。
清涼寺(嵯峨釈迦堂)の仁王門前には宝筐院の道標がありました。「つきあたり 小楠公の御首塚の寺」と書いてあります。
帰りに森嘉豆腐でも寄るつもりが、昨日と今日は定休日でした。残念。ここから帰路に着きました。
大型連休中は天気も良く、気温も高かったけど、6日から7日にかけて雨か降ったあと寒気が入ってきて、この日の最高気温は20.1℃で、これは4月中旬頃の気温だそうです。朝方は上着が無ければ寒さを感じるぐらいでしたね。
この日は宝筐院の近くに用事があったので、宝筐院の「山門」前に着いたのは14時44分でした。ここを昼から来ることは稀で、多分2度目だと思います。
約2週間前の4月23日(火)に来てますが、その日は雨降りでした。この日は寒気が入って曇りの予報が、この時は晴れて来ました。
ここの庭園を撮るには、この時間では逆行になります。何度か来て知ってましたが、今日の目的は、茶室と書院を見ること😊。それより、ここの主催者は撮影禁止にすることが多いので、庭園も撮れないかも・・・です。門を入って右手に拝観受付所があるので、鹿王院と同様に学生さんが受付をされてました。ここで1000円を納めて庭園に入ります。普段は自販機の券売機で拝観券を購入します。普段は500円です。
入口は通常と同じでした。私の予想では、式台玄関から入るのかなぁ・・・と思ってましたが、そのまま庭園を進みます。
逆行でも新緑が綺麗に撮れました。それと、予想外に空いてます。
本堂前に置いてある靴袋を持って、先ずは「客殿」に入って、「書院」を見学するようです。
ここで客殿に入ろうとしたら、中から声が聞こえたのと、次の茶室に人が居ないようなので、私は先に茶室を見ることにしました。
こちらが初公開された茶室「丹照庵」です。普段から外観は、遠くから見えてました。こんなに近くまで来られてのは初めてです。
表千家の久田家の「半床庵」の写しです。3畳台目中板。明治期より京都市中に建っていたが、乃木希典大将愛用の茶室を1935年(昭和10年)代に移築されました。
茶室内は除くだけです。上がることも写真を撮ることも禁止でした。茶室前には「蹲踞」がありました。
普段は写真を撮れないエリアのため、撮って置きました。このあと、客殿に入って非公開の「書院」を見学しました。書院内は撮影禁止のため写真はありません。
次に「客殿」に入りました。私のよそう通り、客殿から数名が出てこられ茶室に向かわれました。
室内は撮影禁止のため看板の写真です。ここでは学生さんがガイドしてくれました。この襖絵は手前から春・夏・秋・冬と描かれてることを教えて貰いました。掛け軸は、楠木正行が描かれています。
書院は岐阜県多治見市にあった建物を、美濃焼を発展に貢献した西浦圓治の庭園内にあった離れで1880年(明治13年)の明治天皇巡行の際にの行在所となりました。1917年(大正6年)の宝筐院再興時に川崎芳太郎によって移築されたそうです。襖絵8面は、谷文中によって描かれた「四季花鳥図」です。
隣の部屋には、昭和初期(1930年頃)に楠木正成公に関するお祭りがあって、宝筐院は楠木正成の子楠木正行ゆかりの寺ということで、その時の模様である甲冑(復元)が展示されていました。嵐山から宝筐院まで練り歩いたそうです。
公開は、この2間だけですので直ぐに出て来ました。靴袋はそのままで、次に「本堂」に入ります。ただ、こちらは常時拝観されています。
ここに来る前は、「本堂」で宝筐院の歴史などガイドさんが案内されると思ってました。ただガイドさん居ません。ちょっと拍子抜けでしたね。
先の鹿王院もそうでしたが、今回のガイドさんは物足り無いです。はっきり言って、ただ立ってるだけ・・・でした。以前なら人を集めて、お寺の歴史について、真っ先に話されるのに無かったしね。拝観料も1000円に値上げされたのに・・・😡。
本堂内陣の中央には、ご本尊の「十一面千手観世音菩薩」が。1917年(大正6年)に楠木正行を弔う寺として再興されたとき本尊として迎えられたものです。
左隣には「楠木正行像」が祀られています。正行は1348年(正平3年)四條畷の合戦で討ち死にし、その首級を生前交流のあった黙庵善入寺に葬ったとの寺伝があります。
次に順路は、本堂横から裏手を通って庭園内を巡るコースですが、私は何度も来てるので、ここから順路は無視します😊。
ここから墓所に向かいますが、晴れて来たので、この時間では逆行となります。
いつも朝しか行かないので、こんなに正面から太陽の光を浴びるとは・・・眩しい光を遮り墓所に着きました。
ここには、生前敵同士であった「足利義詮の墓」(左)と、楠木正成の子「楠木正行の首塚」(右)が仲良く並んで建っています。これは義詮が正行の人柄を慕い、そばに葬るように遺言したためといわれています。
ここではガイドさんの案内があるのものと思ってました。常時拝観してるからでしょうね。
宝筐院は、善入(ぜんにゅう)山と号する臨済宗の単立寺院。寺伝によると、平安時代に第72代天皇の白河天皇の勅願寺として創建され、善入寺と称した。南北朝時代に夢窓疎石の高弟である黙庵周諭(もくあんしゅうゆ)禅師が入寺し、室町幕府2代将軍足利義詮(よしあきら)の保護を受け衰退していた伽藍が復興され、これ以降臨済宗の寺となった。1367年(貞治6年)に義詮の没後、善入寺は義詮の菩提寺となり、その院号に因んで宝筐院と改められた。室町幕府足利将軍家の保護もあって寺も隆盛したが、応仁の乱以降は経済的に困窮し衰退し明治の初めには廃寺となった。また、南朝時代する武将の楠木正行(くすのきまさつら)(小楠公、楠木正成の長男)は、黙庵周諭禅師に帰依しており、1348年(正平3年・貞和4年)の「四條畷の戦い」で足利方の高師直・師泰兄弟に討ち取られた後、その首級を生前の交誼により善入寺に葬った。時は明治になり、1891年(明治24年)、京都府知事北垣国道は楠木正行の遺跡が荒れているのを知り、正行ゆかりの遺跡を守ろうと天龍寺管長・高木龍淵や神戸の実業家・川崎芳太郎によって、旧境内地が買い戻され、建物も移築されて伽藍が整えられ、1916年(大正5年)宝筐院の再興が行われた。その後茶室が移築され、本堂が新築されてる。
墓所の横には1891年(明治24年の建立の「欽忠碑」が建っています。京都府知事の北垣国道が正行の遺跡が人知れず埋もれていることを惜しみ、これを世に知らせるために首塚の由来を記してた撰文です。
墓所の北側には楠木正行の辞世の句が書かれた歌碑があります。「かえらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る 名をぞ 止(とど)むる」と書いてあります。
この苑路を通って本堂に出ます。4月23日(火)には、山部や躑躅が咲いてましたが、シャガの花だけ見つけました。
「瀧組石」に着いてみると、何でしょうね、花か実か・・・?・・・分かりません😊。
庭園を回って来て本堂まで戻って来ました。苑路沿いに咲いていた、あの紫の花、ここでは名札が無いので分かりません😊。
ここでは、先に客殿に入られて、茶室見学されたいて方と出会いました。心配そうに「ここ行ったら戻って来られるのかなぁ」と大きな声で聞こえて来ましたが、聞かれなかったので、そのままに通り過ぎました😊。そんなに広い庭園では無いので、迷子になることはあり得ません😊。
今日は、さほど天気は良く無かったのに、ここに来て晴れました。晴れたら基本庭園では逆行となります。それで本堂には上がらずに出て行くことにしました。
本堂の前で、また5名ぐらいの方が来られて、何処に行けば良いのかウロウロされていたので、看板を指さし教えました。案内版を見たら分かるのにね😊。
帰りは、まだ通って無かった、南の苑路を通って出口までやって来ました。これで全て宝筐院の庭園は巡ったことになります。
15時3分に、出て来ました。特別公開は良かったけど、通常拝観でもガイドさんの説明が欲しかったです。物足りなさはありました。
清涼寺(嵯峨釈迦堂)の仁王門前には宝筐院の道標がありました。「つきあたり 小楠公の御首塚の寺」と書いてあります。
帰りに森嘉豆腐でも寄るつもりが、昨日と今日は定休日でした。残念。ここから帰路に着きました。
この記事へのコメント
非公開の文化財が見れるとは興味津々ですね。
5月の新緑、庭園の緑がきれいです。
この茶室前の雰囲気が好きです。
宝筐院は楠木正成の子楠木正行ゆかりの寺なんですか。
へ~です。
ガイドさんが残念ですが、本堂は立派です。
貴重な「楠木正行像」、これは撮影できるんですね。
花が咲く自然の中を庭園散策出来て広いことが分かりました。
ここは紅葉が綺麗で、何度か来てますが、書院や茶室の公開が初めてで来て見ました。
最近、特別公開も値上がりして、800円から1000円となったので、そう何箇所も回れなくなりましたね。
今回も鹿王院と宝筐院の二箇所だけです。
特別公開は付加価値があって、ガイドさんの説明も興味ありましたが、あれではね。( ^_^)