元禄の俳人向井去来の遺跡「落柿舎」へ

落柿舎には、最近では2021年(令和3年)5月19日2021年(令和3年)9月1日に来ています。今日は、寄るつもりは無かったですが、門前の張り紙を見て入ってみようと思った次第です。

IMG_9797.jpg9時27分に門前に着きました。常寂光寺と同様に門前の写真だけ撮って帰るつもりでしたが・・・?。

IMG_9856.jpgIMG_9855.jpgIMG_9859.jpgここは、元禄の俳人向井去来の遺跡で寺ではありませんし神社でもありません。ただ、「御朱印があります」と書いてあります。それに興味を引かれました。

落柿舎は、蕉門十哲(しょうもんじってつ)の一人、向井去来の閑居(かんきょ)の跡として知られています。当時、庭にあった40本の柿の実が一夜のうちに、殆ど落ち尽くすことに。かねて庭の柿を買約中たった商人を気の毒に思った去来は、柿の代金を全額返してやったのが、落柿舎の名の由来です。松尾芭蕉も晩年、三度も来庵を訪れ、落柿舎を拠点として嵯峨嵐山の名所名刹を巡ったことは名作「嵯峨日記」として遺されています。去来は長崎の生まれ、芭蕉に師事して俳諧を学ぶ、その芭蕉をして、「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」と言わしめたと伝わります。かつて武人であった去来は、極めて篤実真摯な人柄で、芭蕉に仕えるさまは、ちょうど親に対するようであったと。

門を入ると入れ替わりに出て行かれたので、多分私一人です。入庵料300円を払って、御朱印は帰りに寄ることとにします。

IMG_9798.jpg入ると先ずは、重要文化財に指定されている「本庵」から見て行きます。

入口にある「簔と笠」には意味があります。それは庵主の在宅を示すことを表しています。

IMG_9854.jpg先ずは「玄関」から入ります。上がることはできませんが見学は出来ます。

IMG_9800.jpgIMG_9801.jpgIMG_9803.jpgIMG_9804.jpg右手に進むと「土間」があります。京都では「おくどさん」と呼ばれる、台所ですね。私が育った家にも竈ありました。ただ井戸は無かったです😊。

IMG_9802.jpg現在、立入禁止のため上がれませんが、玄関からここを通って部屋に入ったのでしょう。

IMG_9806.jpgIMG_9583.jpg玄関から上がることは出来ませんがここから「去来像」をズームにしたら見えました。

IMG_9805.jpg本庵を覗いたあと、いったん玄関から外に出ます。

IMG_9807.jpgIMG_9853.jpgIMG_9851.jpg玄関」は二畳です。ただ入室は禁止されています。ここには松尾芭蕉嵯峨日記」の写しがありました。

嵯峨日記は、1753年(宝暦3年)刊行。松尾芭蕉は、1691年(元禄4年)4月18日から5月4日まで、嵯峨の向井去来の別宅落柿舎に滞在した時の日記で、芭蕉の日常生活や、去来・野沢凡兆・川井乙州・河合曽良など芭蕉諸家との交渉・追記したもの。

IMG_9808.jpgIMG_9809.jpgIMG_9810.jpgIMG_9811.jpg「本庵」の手前が四畳半、奥が三畳の部屋があって、奥にも庭があるようです。入れませんが・・・。「落柿舎制礼俳諧奉行向井去来」は読んで面白いですね。

IMG_9812.jpg次に句碑巡りです。①「向井去来句碑」「柿主(かきぬし)や梢(こずえ)はちかきあらし山」で、1772年(安永元年)に建立された洛中第一に古い句碑と言われています。

IMG_9813.jpgIMG_9814.jpgIMG_9815.jpg本庵の裏には「手水」があります。この茅葺きの屋根、良いですね。京都市内では、殆ど見なくなりました。

IMG_9816.jpgIMG_9817.jpg本庵から次庵に行く前に石碑巡りです。③「高浜虚子句碑」「(およ)そ天下に去来ほどの小さき墓に詣(まい)りけり」。虚子の生前最後の自筆句碑だそうです。

IMG_9818.jpgその横には④「昭憲皇太后(第122代明治天皇の皇后)句碑」「加茂川のはやせの波のうちこえしことばのしらべ世にひびきけり」でした。

IMG_9819.jpgこのエリア最後は②「松尾芭蕉句碑」「五月雨(さみだれ)や色紙へぎたる壁の跡(あと)」で、芭蕉が「嵯峨日記」の最後にしるした句です。

IMG_9820.jpg芭蕉の句碑の奥、こちらは句碑ではありません。⑤「釋瓢斎供養塔」。落柿舎の昭和復興に功のあった十世庵主永井瓢斎(ながいひょうさい)の供養塔です。

IMG_9824.jpgIMG_9826.jpg次に「次庵」に移動します。目立たない句碑ですが⑧「保田與重郎句碑」「何もない庭の日ざしや冬来る」。昭和の文人保田與重郎の句。

IMG_9828.jpg次庵の向かいです。⑥「俳人塔」。1970年(昭和45年)に十一世庵主工藤芝蘭子(くどうしらんし) が、過去・現在・未来も含めた俳人供養のために建立したもの。

IMG_9829.jpgその左横⑦「平澤興句碑」「春の雨天地(あめつち)ここに俳人塔」。平澤興は元京大総長、前途した俳人塔竣工祭の折り作品。

IMG_9830.jpgこちらが句会席をされている「次庵」です。内部はいつも見えないです。

IMG_9831.jpgIMG_9832.jpg次庵の奥に進むと「鹿威し」がありますが、水が出てないので音も鳴りません。

IMG_9833.jpgIMG_9834.jpgその向かい⑩「山鹿栢年句碑」「草の戸やわが名月の山はなれ」。山鹿栢年(やまがはくねん)は落柿舎八世庵主。近代における落柿舎復興の営みは明治の栢年より始まったといいます。この句は1876年(明治9年)落柿舎退庵の折り作品。

IMG_9835.jpgこの落柿舎のもっとも奥には「藤棚」があって、そこには⑪「下平可都三(しもだいらかつみ)句碑」「草の戸やわが名月の山はなれ」がありました。

IMG_9836.jpg今年は京都のアジサイ開花が早かったですが、ここにもアジサイありました。まだこの状態では開花とは言えませんが、ガクが綺麗でした。

IMG_9838.jpgIMG_9839.jpg藤棚」の近くには、ガクアジサイが咲いてました。

IMG_9841.jpg思わず通り過ぎる所でした。、⑨「工藤芝蘭子句碑」「十三畳半の落柿舎冬支度(ふゆじたく)」。工藤芝蘭子落柿舎十一世庵主。永井瓢斎(ながいひょうさい)の志を継ぎ、堂島の相場師から一転、私財を投じて戦後の落柿舎の再建に尽力しました。

IMG_9842.jpgIMG_9843.jpg入口で俳句の投稿を勧められましたが、何も思い浮かばなかったです。毎日放送の「プレバト」では、間違いなく才能無と言われるでしょう😊。

IMG_9846.jpgIMG_9847.jpgIMG_9848.jpgIMG_9857.jpg帰りに受付で、俳句の御朱印をいただきました。9時38分に出ていくときに、入れ替わりに1組2名が入ってこられました。

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①「向井去来句碑」らあった、「柿主(かきぬし)や梢(こずえ)はちかきあらし山」の俳句が書かれてます。

嵐山から歩いて来たので、少々お疲れです😊。しかし、あと一箇所寄ることにしました。それが森嘉豆腐店です。

IMG_9864.jpgその前に、5月26日(日)に嵯峨祭があって、愛宕神社御旅所では神輿が見られたので寄りました。

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清涼寺(嵯峨釈迦堂)の東隣に嵯峨豆腐の名店「森嘉」があります。家族に頼まれたので、ここで買い物してから帰りました。

帰りも歩いて帰ったので、相当疲れました😊。ただ良い汗をかいたなぁ・・・が実感です。これから気温が上がって、湿気も高くなるので、こうした運動は出来なくなりそうです。

この記事へのコメント

2024年06月23日 12:03
いかにも古いつくりの「落柿舎」。
この周りに40本も柿の木があったのですか。
今は様変わりですね、
でもおくどさんが生々しいです。
松尾芭蕉ともゆかりが深く、文化財的遺産ですね。
句碑や塔が沢山あり、文化財遺産巡りみたいです・
あまり見ないですが、俳句の御朱印はここの特徴ですか。

嵯峨豆腐の名店「森嘉」がゴールでしたか!
京都はもう酷暑でしょうから、熱中症にご注意くださいね。
壬生里
2024年06月25日 15:41
アルクノさんへコメントありがとうございます。

京都は連日、熱中症情報は厳重警戒が出ています。蒸し蒸しと暑いですね。
落柿舎は、元禄の俳人向井去来の草庵のあとで、今は珍しい茅葺きの屋根もあるので、時々空いていたら入ります。
いつも入口で俳句の投稿を言われるんですが、まったく思い浮かびません。プレバトなら「才能無し」は間違いないでしょうね。( ^_^)