祇園祭 後祭へ
7月22日(月)、京都市の最高気温は38℃まで上がりました。熱中症警戒アラートも出されましたが、それより話題になったのは、名古屋と浜松の間が普通になった東海道新幹線のニュースでしたね。結果終日運休になったようです。
翌7月23日(火)は、始発から通常運転に戻ったようで、夏休みに入った子供たちにとっては良かったですが、朝から相変わらず暑いです。この日の予報では、最高気温が38℃と出てました。多分、最低気温は27℃ぐらいでしょう、昨日夕方に雷が鳴って夕立が降ったから気温が下がったようです。下がったと言っても熱帯夜には違いないですけど・・・。
こんな暑い朝でも、今日は用事があって、四条大宮に行くことになってました。嵐電に乗って四条大宮に向かいましたが、西院から大宮の間は、私の故郷です。車窓から見る風景は懐かしい反面、大きく変わってしまった街並みに少し寂しさもあります。
四条大宮で用事を済ませ、阪急大宮駅から烏丸駅まで阪急を利用しました・・・が、これが大変なことに・・・?。あとで調べても分からなかったですが、電車が遅れてて・・・来た電車に乗り込む時、押しつぶされそうになりました。大宮から烏丸まで、ドアに密着してました。まったく身動きできない状態でしたが、2分で着いて助かった・・・😊。
参考までに、京都市の最低気温は26.2℃。大阪市は29.0℃(7月のタイ記録)もありました。この日の京都市の最高気温は37.2℃でした。
阪急烏丸駅を降り地上にあがると、四条通りを西に進みました。何故、ここに来たかと言うと、今日は祇園祭(後祭)宵山の日です。それで、夜には行かないので、涼しい間に鉾や山を見に来たわけです。そして最初に見るのは四条通りの新町を下がった所にある「大船鉾」です。後祭に来たのは2016年(平成28年)7月22日以来かも。
神功皇后の朝鮮出兵伝説にちなみ、鉾全体で船型をかたどり、後祭の最終を飾る鉾。屋形中央部に神功皇后、屋形前部に副将住吉明神、艫部に操舵手に鹿島明神、舳先(へさき)に龍神安曇磯良(あづみのいそら)の四神を安置。舳先の飾り物として1813年(文化10年)製の大金幣と1804年(文化元年)製の龍頭を隔年使用していましたが、1864年(元治元年)の「禁門の変(蛤御門の変)」による大火により焼失。大金幣のみ現存。古来、四条町は南北に分かれており、交代でこの鉾を出してました。龍頭は北四条町、大金幣は南四条町の所有で各々担当の年に舳先を飾っていましたが、明治に入り南北が統合され現在に至っています。前懸・後懸は紅地雲青海文綴織で17世紀末~18世紀の作、他に文化文政年間(1804~1829)に作られた天水引・下水引・大楫(おおかじ)などを所蔵。胴幕に使われている羅紗は16世紀ポルトガル製と伝わります。なお、この鉾は前途した「禁門の変(蛤御門の変)」の大火にて懸装品類を除き全てを焼失。以来150年間休み鉾となっていましたが、2014年(平成26年)に復興を遂げました。
8時45分に着きました。これから鉾を一周して見て行きます。この時間では、もちろん鉾内部の見学も授与品の販売もされてません。
この時は知らなかったですが、翌日にKBS京都での山鉾巡行の中継を見ていて話されたいたことです。
山鉾巡行では、しんがりを務める大船鉾は2014年(平成26年)に約150年ぶりに巡行復帰を果たしましたた。その際、1953年(昭和28年(から菊水鉾が使用していた車輪を譲り受け、修理した上で使用してきたが傷みも目立ってきたので、この度、車輪を新調されたようです。新しい車輪は直径2・13㍍、重さは685㌔あり、すべての山鉾の中で史上最大という。今年は色は塗らずに白木のままで巡行されました。
このあと、新町通りを北上します。先ずは四条通りを渡りますが、信号待ちしている間も暑かったです。なお、前祭と違って、後祭では歩行者専用道路の設定はありません。もちろん新町通りに鉾や山が建ち並んでいるので、車は通れません。ただ、自転車は関係無かったですね、縦横無尽に走ってました。次に見るのは「南観音山」で、8時52分に着きました。
「下り観音山」とも言われ、後祭の最後を行く曳山。現在は巡行全体の最後を務めます。善財童子が南へ南へと53人の聖者を順に訪ねて、それぞれの教えを乞うといい、華厳経の菩薩道修行の説話は、東海道五十三次や指南の語源として知られていますが、28番目の観音は美しい南海の畔に住み、一切の苦悩からの衆生救済を教えたといいます。ご本尊の楊柳観音像(ようりゅうかんのん)は悠然と瞑想する鎌倉時代の坐像でしたが、1788年(天明8年)の「天明の大火」で頭胸部を残して焼失し他は後に補修されました。巡行には柳の大枝を差し、山の四隅には菊竹梅蘭の木彫薬玉を付け諸病を防ぐと言われてます。天水引は塩川文鱗(しおかわぶんりん)下絵の「四神の図」で、近年復元新調、下水引は加山又造の原画により飛天泰楽。見送りは中国明代の綴織でしたが、1988年(昭和63年)に加山又造の「龍王渡海図」を新調して使用。他に異无須織(いむすおり)といわれる17世紀製作の華麗なペルシャ絹絨毯の旧前懸や日本最古・1684年(貞享元年)のインド更紗の旧打藪や山水花鳥文様の旧前懸など、逸品を保存されています。
四条通りからでも見えてますが、錦小路通りを渡ってから撮りました。ここから車は通れません。
ここは一周せず、新町通りを南から北に見て行きました。ここは12時から内部の見学できるみたいです。
次に森町通りを蛸薬師通りまで来ました。次は「北観音山」です。8時54分に着きました。
「上り観音山」ともいわれ、後祭の先頭を行きます。1353年(文和2年)創建であることが町内に残る古文書に記され、山の舞台には楊柳観音像(ようりゅうかんのん)と韋駄天像を安置する曳山で、1833年(天保4年)に飾屋根を付けられた。波風下の木彫雲鶴は片岡友輔作、天引は観音唐草と雲龍図を隔年で使用。金地異国祭礼行列図の下水引は中島来章の下絵、胴懸類は17~18世紀の花文インド絨毯を用いていたが、近年、前・後懸は19世紀のペルシャ絨毯、胴懸はトルキスタン絨毯に変更。2番、3番水引は共に山鹿清華作の手織錦でしたが、2006年(平成18年)より「赤地牡丹唐草文様綴織」を2番水引に「金地紅白牡丹文様唐織」を3番水引(復元新調)にと江戸時代の姿に戻しています。四隅の房掛金具は祇園守。欄縁の唐獅子牡丹など錺金具の精巧さはこの山の華麗さを際出させています。見送りには唐子嬉遊図を好んで使用していたが、現在は1986年(昭和61年)購入の明末清初のものを使用しています。巡行時に柳の枝を差し出しているのは諸病を治してくれる楊柳観音に因んでいます。1651年(慶安4年)の旧観音尊衣装花菱襷文様繻珍錦は大切に保存されています。
新町通りの蛸薬師から撮りました。このように後祭では新町通りに鉾や山が並んでいます。
南観音山と同様に、新町通りを南から北に見て行きました。こちらも内部の見学をできるようですね、まだ受付前でしたが。国登録有形文化財、京都市景観重要建造物に指定されている「京都生活工藝館無名舎 吉田家」も参観の準備されてました。
7月19日、「北観音山」と「南観音山」では、「真松」と呼ばれる山鉾の中心部に据える松の木を選ぶ「松取式」が行われました。トラックで長さ7㍍ほどの松の木2本が運び込まれると、2つの山の代表が優先的に選ぶ権利を決めるくじをひき、ことしは「北観音山」が当たりました。
次に、新町通りを六角まで上がります。六角通りまで来ると、ここではガードマンさんが交通整理をされてました。車やバイクはもちろん、自転車も押すように指導されてましたね。8時56分に「八幡山(はちまんやま)」に着きました。
応仁の乱以前の由緒を持つ山で、常は会所の庭に祀っている八幡宮を宵山から巡行の間、山の上に勧請。この八幡宮はもともと下京にあった若宮八幡宮が東山五条に遷る時、分祀されたと伝わります。山の上の少祠は総金箔の美麗なもので天明年間(1781~1788)の製作といわれています。水引は今までの金地花鳥仙園図唐繍に替わって1986年(昭和61年)より十長生図の刺繍が用いられてます。「十長生」とは不老長寿を意味します。前懸は慶寿群仙人図で1690年(元禄3年)に寄進されたものを1987年(昭和62年)に復元新調したものです。見送は日輪双凰人物文様の綴織と藍地雲龍文様蝦夷錦があります。欄縁の彫金飛鶴は河原林秀興作と伝えられ、また巡行の折、朱塗の鳥居の上には左甚五郎作と伝わる木彫胡粉彩色の鳩が飾られています。雄雌一対の鳩であるため夫婦和合の御利益があるとされます。鳩は古来より八幡神の使いとされ、八幡宮のシンボルでもあります。その他に美術品として海北友雪筆の祇園会還幸祭図屏風(京都市指定文化財)を肖像しています。
八幡山に前には、レトロ建築の「旧川崎家住宅」があって、ここも参観の準備されてました。多分、多くの方が来られると思います。ここも新町通りを南から北へと見て行きました。
八幡山を北に上がると三条通りに出ます。その三条通りを東に入ると、私にとって初めて見る山・・・「鷹山」がありました。8時58分に着きました。
鷹山は、第58代天皇の光孝天皇のお供で在原業平が鷹狩りをする場面を表すとされる。御神体は、鷹匠、犬遣い、樽負の三体であり、能装束を身に付けてます。鷹は鷹匠の左腕にあり、尾根上の松には雉が宿っています。犬達は猟犬を従え、樽負(たるおい)は手に粽を持ってます。1467年(応仁元年)の「応仁の乱」以前より山鉾巡行に参加してました。当初は舁山(かきやま)であったが、江戸時代までに曳山となりました。1826年(文政9年)の巡行において暴風雨で損傷し休山となっていたところ、1864年(元治元年)の「禁門の変(蛤御門の変)」に伴う大火により焼失。1770年(明和7年)製である御神体の御頭と御腕だけは焼失を免れ、保存継承されています。以後、居祭を継続してきました。その後、当地衣棚町の古文書などを基に復興し、2022年(令和4年)に196年振りに山鉾巡行に復帰しました。前後の胴懸はトルコ製、左右の胴懸はイラン製の絨毯を用い、古来より伝わる図様を掲げてあります。1番水引は金地瑞雲麒麟図錦、2番水引は紺地鳳凰草花文様錦、3番水引は白地桐唐草文様金欄。鳳凰や麒麟は、平和や安寧を象徴する瑞獣です。
一昨年復活したので、メディアにも取り上げられました。中々行ける機会が無かったけど、ようやく雄大な姿を見られて、暑いなか来て見て良かったです😊。今年は前祭で「厄除けちまき」は購入してましたが、本当は、ここのがあれば買って帰るつもりでした。見たところ「食べる粽」はありましたが・・・。
鷹山から東に進み、次に室町通りを南下します。そして六角通りに手前にある「黒主山」に、9時2分に着きました。
謡曲「志賀」にちなみ、平安時代の六歌仙の一人、大伴黒主が桜の花を仰ぎ眺めている姿をあらわす、御神体(人形)は1789年(寛政元年)5月、辻又七郎狛元澄作の銘を持つ、山に飾る桜の造花は粽と同様に戸口に挿すと悪事が入って来ないと言われています。水引は雲龍文様の繻珍、前懸は萬暦帝御服(平成元年復元新調)と伝わり、胴懸は草花胡蝶文様の綴錦(昭和58年復元新調)、見送は牡丹双鳳凰文様綴錦(平成15年復元新調)と宝散し額紅地唐子嬉遊図(平成18年復元新調)の二枚が隔年交代で用いられます。後懸の飛龍文様錦入刺繍も2001年(平成13年)に新調されました。人形着用の古衣装には1675年(延寶3年)在銘の紺地菊唐草文金襴小袖、及び1711年(正徳元年)在銘の萌葱絽地牡丹文色入金襴大口袴があり、江戸時代初期在銘の貴重なものです。なお、旧前懸の波濤飛龍図は16世紀の明(中国)の時代のもので、琉球最後の君主尚寧王が師にあたる京の袋中上人に献上した由緒あるものです。
こちらも室町通りを北から南へ見て行きましたが、帰りも寄りました。そしてれ南から北への写真もあります😊。
黒主山から六角通りを通過し、南下します。そして次に「鯉山」に9時4分に着きました。
山の上に大きな鯉が跳躍しており、龍門の滝を登る鯉の雄姿をあらわしています。この滝を鯉が登るとすう中国の伝説があり「登竜門」の語源となりました。前面には朱塗りの鳥居をたて、山の奥には朱塗りの小さな洞を安置し素戔嗚尊が祀られてます。その脇から下がる白麻緒は滝に見立てて、欄縁その他の金具はすべて波濤文様に藤一されています。山を飾る前懸、胴懸二枚、水引二枚、見送は16世紀にベルギーのブリュッセルで製作された一枚の毛綴(タペストリー)を裁断して用いたもので、重要文化財に指定。最近、ベルギー王室美術歴史博物館の調査により、その図柄はギリシャの詩人ホメロスの作「イーリアス」物語の一場面で、トロイヤのプリアモス王とその后へカベーを描いたものといわれており、現在巡行には復元新調品が用いられています。別に旧胴懸としてインド更紗のものもあります。
この山には、大きな鯉が鎮座してますが、今はもちろん外されます。ただ、翌日の巡行を見ましたが、やっぱり外されてました。解説では、雨が降りそうだからと。予想どおり、最初は晴れてましたが、途中、ゲリラ豪雨に見舞われましたね。
こちらは入れました。ここに来たのは、2012年(平成24年)7月16日以来です。御神体にお参りさせて貰い、懸装品の展示も見て出て行きました。
ここから下がって蛸薬師通りを東に入ると「橋弁慶山」がありました。事前に調べて、鉾や山の位置は頭に入れていたつもりが忘れてしまって、ここだけ見ずに帰りましたね、暑いからかも😢。鯉山から再び室町通りを上がり、六角通りを東に入ったところにある「浄妙山」に9時8分に着きました。
平家物語の「橋合戦」に由来する山。1180年(治承4年)の宇治川での源平合戦に、源氏方で三井寺の僧兵筒井浄妙(つついじょうみょう)が橋桁を渡り奮戦していたところ、一来法師(いちらいほうし)が頭上を飛び越え「悪しゅう候、御免あれ」と先陣を取ってしまったという。その瞬間の情景を二体の御神体(人形)を組み合わせることにより表現しています。黒漆塗の橋桁に刺さる数本の矢は激戦の様子を物語ります。この故事により「悪しゅう候山」とも呼ばれた時期がありました。水引は宇治川を表現する波濤文様の彫刻、胴懸はビロード織りの「琴棋書画図(きんきしょうがず)」の他、1983年(昭和58年)、1984年(昭和59年)制作の長谷川等伯原画の「柳橋水車図」などがあります。前懸・後懸には2006年(平成18年)、2007年(平成19年)に智積院所蔵の障壁画を原画として新調した長谷川等伯・久蔵父子筆の「桜図」、「楓図」その他もあります。見送の「かがり織・雲文様」は当町の住人であった本山善右衛門の作となります。なお、浄妙坊着用の「黒韋威肩白胴丸」は室町時代の作で、重要文化財に指定されてます。
六角通りを東から入って、一回りして西から出て来ました。御神体は、翌日の巡行時に見られました。
浄妙山から西に進み、再び室町通りに出ます。そして北に上がり、黒主山を通り、三条通り越えて綾小路通りの手前にある「役行者山」まで来ました。この時、9時14分でした。
役行者山は応仁の乱からの舁山(かきやま)で、御神体(人形)は修験道の開祖・役子角(えんのおづぬ)「神変大菩薩役行者」と「一言主神(ひとことぬしのかみ)」と「葛城神(かつらぎのかみ)」の三神で、役行者が一言主神を使って葛城山と大峰山の間に橋を架けさせたという伝承を想起させます。正面に役行者が帽子(もうす)を被り袈裟・掛絡(くわら)を纏い、経巻・錫杖を手に洞に座し、葛城神は女神で手に輪宝を、一言主神は鬼形で赤熊を被り斧を携えてます。水引は綴織の名手・西山勘七作の唐子遊図、2番水引は萌黄地龍文図に正面に壽を織り出し、前懸は岩牡丹胡蝶図を中央に、左右に雲龍文様の三枚繋ぎ、胴懸は眞向龍文様、見送は袋中上人請来の朝鮮軍旗で、昇龍波濤文様の二枚繋ぎを紅地古金襴安楽庵裂で縁取ったものと、中国明朝の官営工場で織られた金地唐美人園遊図と、それを1982年(昭和57年)復元新調した三種があります。欄縁の黒漆塗に高浮彫雲龍と輪宝文様の鍍金金具は見事です。2008年(平成20年)浅葱色と朱色の飾り房30本が復元新調されました。宵山の7月23日なは本山修験宗総本山聖護院により護摩木焚きが行われます。
こちらの山の前に山伏数名居ました。そのため、邪魔をしないように写真だけ撮って、直ぐに出て行きました。翌日の巡行にも山伏参加されてましたね。
室町通りの綾小路を東に進みます。そして烏丸通りまで出ると、今度は少し下がったところにある「鈴鹿山」が最後です。9時16分に着きました。
鈴鹿権現を祀る。東海道の難所である伊勢国鈴鹿山で道行く人々を苦しめた悪鬼を退治したという鈴鹿権現(瀬織津姫神)を、金の烏帽子を被り、手に大長刀を持つ女人の姿であらわしてあります。山洞には鬼首を示す赭熊を掛け、この山に限って松には鈴鹿関をあらわす山・木立・鳥居裏面に宝珠を描いた絵馬がつけられ、盗難除けの護摩府として珍重されてます。前懸は1989年(平成元年)新調の「黄砂の道」と称する駱駝の図綴織。胴懸は1999年(平成11年)新調の「桜図」と2001年(平成13年)新調の「紅葉図」で、共に今井俊満原画の綴織。見送は1816年(文化13年)購入の中国明代の雲龍文様、1622年(天啓2年)の年記を持つ紺紙金泥文字、1902年(明治35年)製作の牡丹鳳凰文様総刺繍を伝えますが、1982年(昭和57年)より皆川月華作の染彩ハワイの蘭花を用いてます。欄縁金具は、山鹿清華下絵の四季花鳥文様、旧胴懸の中国清朝の綴織は百仙人襤褄錦、屏風綴幔幕と呼ばれ大切に保存されています。
ここは烏丸通りに面しているので、見るのは西側と正面だけです。交通量の多い烏丸通り、危ないです。
鉾や山を10基見て回りました。私の勘違いで10基だと思い込んでました。翌日の巡行で「橋弁慶山」は見せて貰いました。
毎年、我が家では、「厄除けちまき」を購入します。今年は函谷鉾にしました。余談ですが、一番人気の長刀鉾の粽は、2時間待ちの大行列だったそうです。
年々祇園祭に行くのに、躊躇います。暑すぎるから。宵山には会社の帰りに寄ったことがありまが、人混みに向かって行く勇気は無いです。巡行はテレビで充分です😊。
翌7月23日(火)は、始発から通常運転に戻ったようで、夏休みに入った子供たちにとっては良かったですが、朝から相変わらず暑いです。この日の予報では、最高気温が38℃と出てました。多分、最低気温は27℃ぐらいでしょう、昨日夕方に雷が鳴って夕立が降ったから気温が下がったようです。下がったと言っても熱帯夜には違いないですけど・・・。
こんな暑い朝でも、今日は用事があって、四条大宮に行くことになってました。嵐電に乗って四条大宮に向かいましたが、西院から大宮の間は、私の故郷です。車窓から見る風景は懐かしい反面、大きく変わってしまった街並みに少し寂しさもあります。
四条大宮で用事を済ませ、阪急大宮駅から烏丸駅まで阪急を利用しました・・・が、これが大変なことに・・・?。あとで調べても分からなかったですが、電車が遅れてて・・・来た電車に乗り込む時、押しつぶされそうになりました。大宮から烏丸まで、ドアに密着してました。まったく身動きできない状態でしたが、2分で着いて助かった・・・😊。
参考までに、京都市の最低気温は26.2℃。大阪市は29.0℃(7月のタイ記録)もありました。この日の京都市の最高気温は37.2℃でした。
阪急烏丸駅を降り地上にあがると、四条通りを西に進みました。何故、ここに来たかと言うと、今日は祇園祭(後祭)宵山の日です。それで、夜には行かないので、涼しい間に鉾や山を見に来たわけです。そして最初に見るのは四条通りの新町を下がった所にある「大船鉾」です。後祭に来たのは2016年(平成28年)7月22日以来かも。
神功皇后の朝鮮出兵伝説にちなみ、鉾全体で船型をかたどり、後祭の最終を飾る鉾。屋形中央部に神功皇后、屋形前部に副将住吉明神、艫部に操舵手に鹿島明神、舳先(へさき)に龍神安曇磯良(あづみのいそら)の四神を安置。舳先の飾り物として1813年(文化10年)製の大金幣と1804年(文化元年)製の龍頭を隔年使用していましたが、1864年(元治元年)の「禁門の変(蛤御門の変)」による大火により焼失。大金幣のみ現存。古来、四条町は南北に分かれており、交代でこの鉾を出してました。龍頭は北四条町、大金幣は南四条町の所有で各々担当の年に舳先を飾っていましたが、明治に入り南北が統合され現在に至っています。前懸・後懸は紅地雲青海文綴織で17世紀末~18世紀の作、他に文化文政年間(1804~1829)に作られた天水引・下水引・大楫(おおかじ)などを所蔵。胴幕に使われている羅紗は16世紀ポルトガル製と伝わります。なお、この鉾は前途した「禁門の変(蛤御門の変)」の大火にて懸装品類を除き全てを焼失。以来150年間休み鉾となっていましたが、2014年(平成26年)に復興を遂げました。
8時45分に着きました。これから鉾を一周して見て行きます。この時間では、もちろん鉾内部の見学も授与品の販売もされてません。
この時は知らなかったですが、翌日にKBS京都での山鉾巡行の中継を見ていて話されたいたことです。
山鉾巡行では、しんがりを務める大船鉾は2014年(平成26年)に約150年ぶりに巡行復帰を果たしましたた。その際、1953年(昭和28年(から菊水鉾が使用していた車輪を譲り受け、修理した上で使用してきたが傷みも目立ってきたので、この度、車輪を新調されたようです。新しい車輪は直径2・13㍍、重さは685㌔あり、すべての山鉾の中で史上最大という。今年は色は塗らずに白木のままで巡行されました。
このあと、新町通りを北上します。先ずは四条通りを渡りますが、信号待ちしている間も暑かったです。なお、前祭と違って、後祭では歩行者専用道路の設定はありません。もちろん新町通りに鉾や山が建ち並んでいるので、車は通れません。ただ、自転車は関係無かったですね、縦横無尽に走ってました。次に見るのは「南観音山」で、8時52分に着きました。
「下り観音山」とも言われ、後祭の最後を行く曳山。現在は巡行全体の最後を務めます。善財童子が南へ南へと53人の聖者を順に訪ねて、それぞれの教えを乞うといい、華厳経の菩薩道修行の説話は、東海道五十三次や指南の語源として知られていますが、28番目の観音は美しい南海の畔に住み、一切の苦悩からの衆生救済を教えたといいます。ご本尊の楊柳観音像(ようりゅうかんのん)は悠然と瞑想する鎌倉時代の坐像でしたが、1788年(天明8年)の「天明の大火」で頭胸部を残して焼失し他は後に補修されました。巡行には柳の大枝を差し、山の四隅には菊竹梅蘭の木彫薬玉を付け諸病を防ぐと言われてます。天水引は塩川文鱗(しおかわぶんりん)下絵の「四神の図」で、近年復元新調、下水引は加山又造の原画により飛天泰楽。見送りは中国明代の綴織でしたが、1988年(昭和63年)に加山又造の「龍王渡海図」を新調して使用。他に異无須織(いむすおり)といわれる17世紀製作の華麗なペルシャ絹絨毯の旧前懸や日本最古・1684年(貞享元年)のインド更紗の旧打藪や山水花鳥文様の旧前懸など、逸品を保存されています。
四条通りからでも見えてますが、錦小路通りを渡ってから撮りました。ここから車は通れません。
ここは一周せず、新町通りを南から北に見て行きました。ここは12時から内部の見学できるみたいです。
次に森町通りを蛸薬師通りまで来ました。次は「北観音山」です。8時54分に着きました。
「上り観音山」ともいわれ、後祭の先頭を行きます。1353年(文和2年)創建であることが町内に残る古文書に記され、山の舞台には楊柳観音像(ようりゅうかんのん)と韋駄天像を安置する曳山で、1833年(天保4年)に飾屋根を付けられた。波風下の木彫雲鶴は片岡友輔作、天引は観音唐草と雲龍図を隔年で使用。金地異国祭礼行列図の下水引は中島来章の下絵、胴懸類は17~18世紀の花文インド絨毯を用いていたが、近年、前・後懸は19世紀のペルシャ絨毯、胴懸はトルキスタン絨毯に変更。2番、3番水引は共に山鹿清華作の手織錦でしたが、2006年(平成18年)より「赤地牡丹唐草文様綴織」を2番水引に「金地紅白牡丹文様唐織」を3番水引(復元新調)にと江戸時代の姿に戻しています。四隅の房掛金具は祇園守。欄縁の唐獅子牡丹など錺金具の精巧さはこの山の華麗さを際出させています。見送りには唐子嬉遊図を好んで使用していたが、現在は1986年(昭和61年)購入の明末清初のものを使用しています。巡行時に柳の枝を差し出しているのは諸病を治してくれる楊柳観音に因んでいます。1651年(慶安4年)の旧観音尊衣装花菱襷文様繻珍錦は大切に保存されています。
新町通りの蛸薬師から撮りました。このように後祭では新町通りに鉾や山が並んでいます。
南観音山と同様に、新町通りを南から北に見て行きました。こちらも内部の見学をできるようですね、まだ受付前でしたが。国登録有形文化財、京都市景観重要建造物に指定されている「京都生活工藝館無名舎 吉田家」も参観の準備されてました。
7月19日、「北観音山」と「南観音山」では、「真松」と呼ばれる山鉾の中心部に据える松の木を選ぶ「松取式」が行われました。トラックで長さ7㍍ほどの松の木2本が運び込まれると、2つの山の代表が優先的に選ぶ権利を決めるくじをひき、ことしは「北観音山」が当たりました。
次に、新町通りを六角まで上がります。六角通りまで来ると、ここではガードマンさんが交通整理をされてました。車やバイクはもちろん、自転車も押すように指導されてましたね。8時56分に「八幡山(はちまんやま)」に着きました。
応仁の乱以前の由緒を持つ山で、常は会所の庭に祀っている八幡宮を宵山から巡行の間、山の上に勧請。この八幡宮はもともと下京にあった若宮八幡宮が東山五条に遷る時、分祀されたと伝わります。山の上の少祠は総金箔の美麗なもので天明年間(1781~1788)の製作といわれています。水引は今までの金地花鳥仙園図唐繍に替わって1986年(昭和61年)より十長生図の刺繍が用いられてます。「十長生」とは不老長寿を意味します。前懸は慶寿群仙人図で1690年(元禄3年)に寄進されたものを1987年(昭和62年)に復元新調したものです。見送は日輪双凰人物文様の綴織と藍地雲龍文様蝦夷錦があります。欄縁の彫金飛鶴は河原林秀興作と伝えられ、また巡行の折、朱塗の鳥居の上には左甚五郎作と伝わる木彫胡粉彩色の鳩が飾られています。雄雌一対の鳩であるため夫婦和合の御利益があるとされます。鳩は古来より八幡神の使いとされ、八幡宮のシンボルでもあります。その他に美術品として海北友雪筆の祇園会還幸祭図屏風(京都市指定文化財)を肖像しています。
八幡山に前には、レトロ建築の「旧川崎家住宅」があって、ここも参観の準備されてました。多分、多くの方が来られると思います。ここも新町通りを南から北へと見て行きました。
八幡山を北に上がると三条通りに出ます。その三条通りを東に入ると、私にとって初めて見る山・・・「鷹山」がありました。8時58分に着きました。
鷹山は、第58代天皇の光孝天皇のお供で在原業平が鷹狩りをする場面を表すとされる。御神体は、鷹匠、犬遣い、樽負の三体であり、能装束を身に付けてます。鷹は鷹匠の左腕にあり、尾根上の松には雉が宿っています。犬達は猟犬を従え、樽負(たるおい)は手に粽を持ってます。1467年(応仁元年)の「応仁の乱」以前より山鉾巡行に参加してました。当初は舁山(かきやま)であったが、江戸時代までに曳山となりました。1826年(文政9年)の巡行において暴風雨で損傷し休山となっていたところ、1864年(元治元年)の「禁門の変(蛤御門の変)」に伴う大火により焼失。1770年(明和7年)製である御神体の御頭と御腕だけは焼失を免れ、保存継承されています。以後、居祭を継続してきました。その後、当地衣棚町の古文書などを基に復興し、2022年(令和4年)に196年振りに山鉾巡行に復帰しました。前後の胴懸はトルコ製、左右の胴懸はイラン製の絨毯を用い、古来より伝わる図様を掲げてあります。1番水引は金地瑞雲麒麟図錦、2番水引は紺地鳳凰草花文様錦、3番水引は白地桐唐草文様金欄。鳳凰や麒麟は、平和や安寧を象徴する瑞獣です。
一昨年復活したので、メディアにも取り上げられました。中々行ける機会が無かったけど、ようやく雄大な姿を見られて、暑いなか来て見て良かったです😊。今年は前祭で「厄除けちまき」は購入してましたが、本当は、ここのがあれば買って帰るつもりでした。見たところ「食べる粽」はありましたが・・・。
鷹山から東に進み、次に室町通りを南下します。そして六角通りに手前にある「黒主山」に、9時2分に着きました。
謡曲「志賀」にちなみ、平安時代の六歌仙の一人、大伴黒主が桜の花を仰ぎ眺めている姿をあらわす、御神体(人形)は1789年(寛政元年)5月、辻又七郎狛元澄作の銘を持つ、山に飾る桜の造花は粽と同様に戸口に挿すと悪事が入って来ないと言われています。水引は雲龍文様の繻珍、前懸は萬暦帝御服(平成元年復元新調)と伝わり、胴懸は草花胡蝶文様の綴錦(昭和58年復元新調)、見送は牡丹双鳳凰文様綴錦(平成15年復元新調)と宝散し額紅地唐子嬉遊図(平成18年復元新調)の二枚が隔年交代で用いられます。後懸の飛龍文様錦入刺繍も2001年(平成13年)に新調されました。人形着用の古衣装には1675年(延寶3年)在銘の紺地菊唐草文金襴小袖、及び1711年(正徳元年)在銘の萌葱絽地牡丹文色入金襴大口袴があり、江戸時代初期在銘の貴重なものです。なお、旧前懸の波濤飛龍図は16世紀の明(中国)の時代のもので、琉球最後の君主尚寧王が師にあたる京の袋中上人に献上した由緒あるものです。
こちらも室町通りを北から南へ見て行きましたが、帰りも寄りました。そしてれ南から北への写真もあります😊。
黒主山から六角通りを通過し、南下します。そして次に「鯉山」に9時4分に着きました。
山の上に大きな鯉が跳躍しており、龍門の滝を登る鯉の雄姿をあらわしています。この滝を鯉が登るとすう中国の伝説があり「登竜門」の語源となりました。前面には朱塗りの鳥居をたて、山の奥には朱塗りの小さな洞を安置し素戔嗚尊が祀られてます。その脇から下がる白麻緒は滝に見立てて、欄縁その他の金具はすべて波濤文様に藤一されています。山を飾る前懸、胴懸二枚、水引二枚、見送は16世紀にベルギーのブリュッセルで製作された一枚の毛綴(タペストリー)を裁断して用いたもので、重要文化財に指定。最近、ベルギー王室美術歴史博物館の調査により、その図柄はギリシャの詩人ホメロスの作「イーリアス」物語の一場面で、トロイヤのプリアモス王とその后へカベーを描いたものといわれており、現在巡行には復元新調品が用いられています。別に旧胴懸としてインド更紗のものもあります。
この山には、大きな鯉が鎮座してますが、今はもちろん外されます。ただ、翌日の巡行を見ましたが、やっぱり外されてました。解説では、雨が降りそうだからと。予想どおり、最初は晴れてましたが、途中、ゲリラ豪雨に見舞われましたね。
こちらは入れました。ここに来たのは、2012年(平成24年)7月16日以来です。御神体にお参りさせて貰い、懸装品の展示も見て出て行きました。
ここから下がって蛸薬師通りを東に入ると「橋弁慶山」がありました。事前に調べて、鉾や山の位置は頭に入れていたつもりが忘れてしまって、ここだけ見ずに帰りましたね、暑いからかも😢。鯉山から再び室町通りを上がり、六角通りを東に入ったところにある「浄妙山」に9時8分に着きました。
平家物語の「橋合戦」に由来する山。1180年(治承4年)の宇治川での源平合戦に、源氏方で三井寺の僧兵筒井浄妙(つついじょうみょう)が橋桁を渡り奮戦していたところ、一来法師(いちらいほうし)が頭上を飛び越え「悪しゅう候、御免あれ」と先陣を取ってしまったという。その瞬間の情景を二体の御神体(人形)を組み合わせることにより表現しています。黒漆塗の橋桁に刺さる数本の矢は激戦の様子を物語ります。この故事により「悪しゅう候山」とも呼ばれた時期がありました。水引は宇治川を表現する波濤文様の彫刻、胴懸はビロード織りの「琴棋書画図(きんきしょうがず)」の他、1983年(昭和58年)、1984年(昭和59年)制作の長谷川等伯原画の「柳橋水車図」などがあります。前懸・後懸には2006年(平成18年)、2007年(平成19年)に智積院所蔵の障壁画を原画として新調した長谷川等伯・久蔵父子筆の「桜図」、「楓図」その他もあります。見送の「かがり織・雲文様」は当町の住人であった本山善右衛門の作となります。なお、浄妙坊着用の「黒韋威肩白胴丸」は室町時代の作で、重要文化財に指定されてます。
六角通りを東から入って、一回りして西から出て来ました。御神体は、翌日の巡行時に見られました。
浄妙山から西に進み、再び室町通りに出ます。そして北に上がり、黒主山を通り、三条通り越えて綾小路通りの手前にある「役行者山」まで来ました。この時、9時14分でした。
役行者山は応仁の乱からの舁山(かきやま)で、御神体(人形)は修験道の開祖・役子角(えんのおづぬ)「神変大菩薩役行者」と「一言主神(ひとことぬしのかみ)」と「葛城神(かつらぎのかみ)」の三神で、役行者が一言主神を使って葛城山と大峰山の間に橋を架けさせたという伝承を想起させます。正面に役行者が帽子(もうす)を被り袈裟・掛絡(くわら)を纏い、経巻・錫杖を手に洞に座し、葛城神は女神で手に輪宝を、一言主神は鬼形で赤熊を被り斧を携えてます。水引は綴織の名手・西山勘七作の唐子遊図、2番水引は萌黄地龍文図に正面に壽を織り出し、前懸は岩牡丹胡蝶図を中央に、左右に雲龍文様の三枚繋ぎ、胴懸は眞向龍文様、見送は袋中上人請来の朝鮮軍旗で、昇龍波濤文様の二枚繋ぎを紅地古金襴安楽庵裂で縁取ったものと、中国明朝の官営工場で織られた金地唐美人園遊図と、それを1982年(昭和57年)復元新調した三種があります。欄縁の黒漆塗に高浮彫雲龍と輪宝文様の鍍金金具は見事です。2008年(平成20年)浅葱色と朱色の飾り房30本が復元新調されました。宵山の7月23日なは本山修験宗総本山聖護院により護摩木焚きが行われます。
こちらの山の前に山伏数名居ました。そのため、邪魔をしないように写真だけ撮って、直ぐに出て行きました。翌日の巡行にも山伏参加されてましたね。
室町通りの綾小路を東に進みます。そして烏丸通りまで出ると、今度は少し下がったところにある「鈴鹿山」が最後です。9時16分に着きました。
鈴鹿権現を祀る。東海道の難所である伊勢国鈴鹿山で道行く人々を苦しめた悪鬼を退治したという鈴鹿権現(瀬織津姫神)を、金の烏帽子を被り、手に大長刀を持つ女人の姿であらわしてあります。山洞には鬼首を示す赭熊を掛け、この山に限って松には鈴鹿関をあらわす山・木立・鳥居裏面に宝珠を描いた絵馬がつけられ、盗難除けの護摩府として珍重されてます。前懸は1989年(平成元年)新調の「黄砂の道」と称する駱駝の図綴織。胴懸は1999年(平成11年)新調の「桜図」と2001年(平成13年)新調の「紅葉図」で、共に今井俊満原画の綴織。見送は1816年(文化13年)購入の中国明代の雲龍文様、1622年(天啓2年)の年記を持つ紺紙金泥文字、1902年(明治35年)製作の牡丹鳳凰文様総刺繍を伝えますが、1982年(昭和57年)より皆川月華作の染彩ハワイの蘭花を用いてます。欄縁金具は、山鹿清華下絵の四季花鳥文様、旧胴懸の中国清朝の綴織は百仙人襤褄錦、屏風綴幔幕と呼ばれ大切に保存されています。
ここは烏丸通りに面しているので、見るのは西側と正面だけです。交通量の多い烏丸通り、危ないです。
鉾や山を10基見て回りました。私の勘違いで10基だと思い込んでました。翌日の巡行で「橋弁慶山」は見せて貰いました。
毎年、我が家では、「厄除けちまき」を購入します。今年は函谷鉾にしました。余談ですが、一番人気の長刀鉾の粽は、2時間待ちの大行列だったそうです。
年々祇園祭に行くのに、躊躇います。暑すぎるから。宵山には会社の帰りに寄ったことがありまが、人混みに向かって行く勇気は無いです。巡行はテレビで充分です😊。
この記事へのコメント
それでも、四条通り新町界隈では、こんなふうに涼しい間に鉾や山を見ることができるのですか。それはそれは、素晴らしいです。
それぞれ豪華で歴史的なエピソードもたくさん。さすが祇園祭ですね。
しかも結構外国産の絨毯などの装飾品が使われているはびっくりでした。
以前は、必ずに祇園祭に行ってましたが、ここ最近の暑さに参って、行ってませんでした。
会社が祇園近くにあったときは、会社終わりで、毎年行ったものです。
祇園祭前祭は用事があったので行けませんでしたが、なんとか後祭には行けました。
朝に行ったですが、それでも暑かったです。暑すぎて夕方から出掛ける気になりませんね。