「後宇多天皇 蓮華峯寺陵」と「広沢池」へ
8月2日(金)の昨日は38.3℃まで気温が上がって、この日は予報では39℃、上振れしたら40℃と出てました。なるべく日中は出掛けないほうが良いようで、災害級の高温が週末まで続くと出ています。特に予定は無かったけど、昨日、「後宇多天皇皇后 姈子内親王 今林陵」に行ったので、もっと足を伸ばして「後宇多天皇 蓮華峯寺陵(れんげぶじのみささぎ)」まで行くことにしました。
ただ朝から暑いので、家を6時前に出ます。参考までに、この日の最低気温は27.0℃でした。5時台ですが、充分明るいし涼しいです・・・と言いたいところ、家を出た瞬間、蒸し暑いなぁと感じました。
猛烈な暑さとなった8月2日(金)、京都市の最高気温は今年2番目に高い38・7℃まで上昇した。3日(土)の予想最高気温は京都市で38℃、舞鶴市で36℃で災害級の暑さが続く見通しで、3日(土)の京都府には熱中症警戒アラートが発表された。京都府上空は、夏の太平洋高気圧とチベット高気圧の「2層構造」で良く晴れ、猛烈な日射で気温が上昇しやすい状況が続いている。2日(金)17時までの各地の最高気温は、京都市38・7℃、京田辺市38・5℃、南丹市園部町37・8℃(今年最高)、南丹市美山町36.1℃(今年最高)など。京田辺市は史上7位、南丹市園部町は史上8位の高温だった。熱中症警戒アラートは、気温のほか、湿度や放射熱によって算出する「暑さ指数」が33以上になると予想される際に発表される。暑さ指数31以上は、危険な状況で、特に子どもの運動は原則中止が望ましいとされる。3日(土)に予想される「暑さ指数」は、京丹後市間人33、宮津市33、舞鶴市33、福知山市33、南丹市美山町33、南丹市園部町33、京都市33、京田辺市33。(京都新聞より速報値)
昨日と同様、「後宇多天皇皇后 姈子内親王 今林陵」の近くに行き、久しぶりに「嵯峨天皇 嵯峨山上陵」の前も通りました。今日は登りません。涼しいより寒くなってから登りたいです。ずっと以前は、度々歩いていたので久しぶりに見る風景でしたし、そんなに変わってなかったです。
早朝でも、ご近所の方が散歩に歩かれてます。何人と擦れ違ったかなぁと思ったぐらいです。皆さん暑さを避けて歩かれているみたいでした。
6時15分ぐらいに着きました。ここは正面から見えなくて、奥に奥に歩いて行きます。ここは2016年(平成28年)9月18日以来です。
御廟は南向きに建っています。「後宇多天皇」「亀山天皇皇后佶子」「亀山天皇分骨所」「後二条天皇分骨所」「後宇多天皇皇后姈子内親王分骨所」です。
「後宇多天皇 亀山天皇皇后佶子 蓮華峯寺陵」と書かれた石碑が見えます。
暑くなったら熱中症が怖いので、早々と出て行きます。ここも散歩の方が来られてましたね。大覚寺で後宇多天皇のことを知りましたが、帰ってからいつものように調べました。
後宇多天皇(ごうだてんのう)は、第91代天皇。1267年(文永4年)に、第90代天皇の亀山天皇の第二皇子として生まれ、8歳で第91代天皇に即位したため、亀山上皇(大覚寺統)による院政が行われました。そして20歳で退位し、持明院統の伏見天皇(第92代天皇)に譲位。当時は、皇統が大覚寺統と持明院統の二つに分裂し、皇位が交互に継承されるという状態にありました。持明院統と大覚寺統による皇位の争奪に対し、調停策として出された幕府の両統迭立案に基づく皇統の分裂が続きます。伏見天皇が11歳の後伏見天皇(93代天皇)に攘夷しますが、2代続けて持明院統が天皇となったため、勢力を巻き返した大覚寺統や幕府の圧力を受け、1301年(正安3年)、大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子である後二条天皇(第91代天皇)に譲位しました。後宇多上皇は、後二条天皇在位期間院政を敷きます。しかし、後宇多上皇は1307年(徳治2年)7月、皇后の遊義門院(姈子)が亡くなったことを悲しみ、東寺において出家します。翌年正月には、東寺において仁和寺真光院禅助から広沢流の伝法灌頂を受け、「金剛性」という法名を与えられました。そのとき、大覚寺を御所とすると同時に入寺、大覚寺門跡となります。そして1308年翌(徳治3年)には第91代天皇の後二条天皇が崩御したため、天皇の父(治天の君)としての実権と地位を失い、後醍醐天皇(第96代天皇)即位までの間、政務から離れることとなりました。持明院統の花園天皇(第95代天皇)を挟んで、第二皇子の尊治親王(後醍醐天皇)が1318年(文保2年)に即位すると再び院政を開始。1321年(元亨元年)に院政を停止し隠居。以後、第96代天皇の後醍醐天皇の親政が始まりました。1324年(元亨4年)6月25日に、大覚寺御所にて崩御。
鎌倉時代、大覚寺 「正寝殿」(通常非公開)(重文)で、後宇多法皇が上皇として院政を執られた御在所です。2020年(令和2年)3月16日から非公開となりましたが、それ以前は拝観できましたし、写真も撮れました。 「正寝殿」の「上段の間」では後宇多法皇が院政を執った部屋で、執務の際は御冠を傍らに置いたことから、「御冠の間」と呼ばれてました。先月の30日(火)に大覚寺を訪れて、今日ここに来たきっかけとなりました。
次に、ここから東に緩やかに下って行った先にある広沢池に向かいました。ここは車で、数え切れないほど通過しています。歩いてきたのは久しぶりですが、私は、この広沢池の風景が昔から好きでした。
東から歩いてきたので、広沢池の西側の風景です。広沢池に突き出た「観音島」に入りました。余談ですが、ここでラジオ体操されてたので、邪魔しないように写真撮りました😊。
石像の「千手観音」の前を通ります。
「広沢池築造一千年記念碑」の前を通ります。
池に突き出た「壹美白辨財天社」です。
ここから見ると「遍照寺山」で、別名は「嵯峨富士」と呼ばれています。
前途したとおり、ラジオ体操されてたので、早々と「観音島」から出て行きました。次は広沢行けの東側に移動します。
東側に向かって歩いて行く途中に、ここの田園風景を撮りました。今日は朝から天気が良いので「愛宕山」「嵯峨天皇 嵯峨山上陵」「鳥居形(曼荼羅山)」が見えました。
広沢池は、宇多天皇の孫に当たる寛朝僧正(かんちょうそうじょう)が、平安時代中期に、池の北側(遍照山の麓)に遍照寺を建立したことに併せて造られた説と、この付近一帯の用水池として掘られた説、秦氏が造成の説があります。遍照寺は、池の畔に釣殿・月見堂などを設けた美しい風景を前にした大きな寺であったが、早い時期に荒廃してしまいました。その後、ここから南の所に再建され、堂内には、創建当時の遺像と伝わる十一面観音菩薩(重文)と不動明王坐像(重文)を安置しています。この池は西に位置する大沢池とともに、古くから観月の名所として知られ、多くの歌人によって数多くの詩が詠まれました。現在は、鯉などの養殖が行われており、年末には池の水を抜いて成長した鯉を収穫する「池ざらい」は、京の冬の風物詩になっています。また兒(ちご)神社は、寛朝僧正が他界した際、悲しみに打ちひしがれて池に身を沈めた僧正の稚児を弔うために建てられました。
次に広沢行けの東側まで来ました。地元の人はご存じだと思いますが、広沢池の南側には歩道がありません。一条通りの南側には歩道があるので、そちらで移動しました。
広沢池の南東側まで来ると、湖畔にキバナコスモスが咲いてました。次に石段を降りて湖畔まで行ってみます。
今日は山頂まで綺麗に見えている「愛宕山」をズームで撮りました。手前に石段が見えているのが「嵯峨天皇 嵯峨山上陵」です。
次に「五山の送り火」の曼荼羅山「鳥居形」をズームで撮りました。16日の送り火、綺麗に見えるでしょう。
8月16日には「遍照寺 灯籠流し」があります。五山送り火の日に広沢池で行われる精霊送りの行事で、五色の灯籠が広沢池一面に流されるようで、当日はKBS京都で生放送があるそうです。
この石段で上がりました。予定外の広沢池まで来たので疲れました。なんと言っても暑いので・・・。
ここから、歩いて10分足らずの市バス「山越中町」まで行き、バスで帰宅しました。早朝でも、ここ最近は暑いです。全身汗だくで帰った次第です😊。
ただ朝から暑いので、家を6時前に出ます。参考までに、この日の最低気温は27.0℃でした。5時台ですが、充分明るいし涼しいです・・・と言いたいところ、家を出た瞬間、蒸し暑いなぁと感じました。
猛烈な暑さとなった8月2日(金)、京都市の最高気温は今年2番目に高い38・7℃まで上昇した。3日(土)の予想最高気温は京都市で38℃、舞鶴市で36℃で災害級の暑さが続く見通しで、3日(土)の京都府には熱中症警戒アラートが発表された。京都府上空は、夏の太平洋高気圧とチベット高気圧の「2層構造」で良く晴れ、猛烈な日射で気温が上昇しやすい状況が続いている。2日(金)17時までの各地の最高気温は、京都市38・7℃、京田辺市38・5℃、南丹市園部町37・8℃(今年最高)、南丹市美山町36.1℃(今年最高)など。京田辺市は史上7位、南丹市園部町は史上8位の高温だった。熱中症警戒アラートは、気温のほか、湿度や放射熱によって算出する「暑さ指数」が33以上になると予想される際に発表される。暑さ指数31以上は、危険な状況で、特に子どもの運動は原則中止が望ましいとされる。3日(土)に予想される「暑さ指数」は、京丹後市間人33、宮津市33、舞鶴市33、福知山市33、南丹市美山町33、南丹市園部町33、京都市33、京田辺市33。(京都新聞より速報値)
昨日と同様、「後宇多天皇皇后 姈子内親王 今林陵」の近くに行き、久しぶりに「嵯峨天皇 嵯峨山上陵」の前も通りました。今日は登りません。涼しいより寒くなってから登りたいです。ずっと以前は、度々歩いていたので久しぶりに見る風景でしたし、そんなに変わってなかったです。
早朝でも、ご近所の方が散歩に歩かれてます。何人と擦れ違ったかなぁと思ったぐらいです。皆さん暑さを避けて歩かれているみたいでした。
6時15分ぐらいに着きました。ここは正面から見えなくて、奥に奥に歩いて行きます。ここは2016年(平成28年)9月18日以来です。
御廟は南向きに建っています。「後宇多天皇」「亀山天皇皇后佶子」「亀山天皇分骨所」「後二条天皇分骨所」「後宇多天皇皇后姈子内親王分骨所」です。
「後宇多天皇 亀山天皇皇后佶子 蓮華峯寺陵」と書かれた石碑が見えます。
暑くなったら熱中症が怖いので、早々と出て行きます。ここも散歩の方が来られてましたね。大覚寺で後宇多天皇のことを知りましたが、帰ってからいつものように調べました。
後宇多天皇(ごうだてんのう)は、第91代天皇。1267年(文永4年)に、第90代天皇の亀山天皇の第二皇子として生まれ、8歳で第91代天皇に即位したため、亀山上皇(大覚寺統)による院政が行われました。そして20歳で退位し、持明院統の伏見天皇(第92代天皇)に譲位。当時は、皇統が大覚寺統と持明院統の二つに分裂し、皇位が交互に継承されるという状態にありました。持明院統と大覚寺統による皇位の争奪に対し、調停策として出された幕府の両統迭立案に基づく皇統の分裂が続きます。伏見天皇が11歳の後伏見天皇(93代天皇)に攘夷しますが、2代続けて持明院統が天皇となったため、勢力を巻き返した大覚寺統や幕府の圧力を受け、1301年(正安3年)、大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子である後二条天皇(第91代天皇)に譲位しました。後宇多上皇は、後二条天皇在位期間院政を敷きます。しかし、後宇多上皇は1307年(徳治2年)7月、皇后の遊義門院(姈子)が亡くなったことを悲しみ、東寺において出家します。翌年正月には、東寺において仁和寺真光院禅助から広沢流の伝法灌頂を受け、「金剛性」という法名を与えられました。そのとき、大覚寺を御所とすると同時に入寺、大覚寺門跡となります。そして1308年翌(徳治3年)には第91代天皇の後二条天皇が崩御したため、天皇の父(治天の君)としての実権と地位を失い、後醍醐天皇(第96代天皇)即位までの間、政務から離れることとなりました。持明院統の花園天皇(第95代天皇)を挟んで、第二皇子の尊治親王(後醍醐天皇)が1318年(文保2年)に即位すると再び院政を開始。1321年(元亨元年)に院政を停止し隠居。以後、第96代天皇の後醍醐天皇の親政が始まりました。1324年(元亨4年)6月25日に、大覚寺御所にて崩御。
鎌倉時代、大覚寺 「正寝殿」(通常非公開)(重文)で、後宇多法皇が上皇として院政を執られた御在所です。2020年(令和2年)3月16日から非公開となりましたが、それ以前は拝観できましたし、写真も撮れました。 「正寝殿」の「上段の間」では後宇多法皇が院政を執った部屋で、執務の際は御冠を傍らに置いたことから、「御冠の間」と呼ばれてました。先月の30日(火)に大覚寺を訪れて、今日ここに来たきっかけとなりました。
次に、ここから東に緩やかに下って行った先にある広沢池に向かいました。ここは車で、数え切れないほど通過しています。歩いてきたのは久しぶりですが、私は、この広沢池の風景が昔から好きでした。
東から歩いてきたので、広沢池の西側の風景です。広沢池に突き出た「観音島」に入りました。余談ですが、ここでラジオ体操されてたので、邪魔しないように写真撮りました😊。
石像の「千手観音」の前を通ります。
「広沢池築造一千年記念碑」の前を通ります。
池に突き出た「壹美白辨財天社」です。
ここから見ると「遍照寺山」で、別名は「嵯峨富士」と呼ばれています。
前途したとおり、ラジオ体操されてたので、早々と「観音島」から出て行きました。次は広沢行けの東側に移動します。
東側に向かって歩いて行く途中に、ここの田園風景を撮りました。今日は朝から天気が良いので「愛宕山」「嵯峨天皇 嵯峨山上陵」「鳥居形(曼荼羅山)」が見えました。
広沢池は、宇多天皇の孫に当たる寛朝僧正(かんちょうそうじょう)が、平安時代中期に、池の北側(遍照山の麓)に遍照寺を建立したことに併せて造られた説と、この付近一帯の用水池として掘られた説、秦氏が造成の説があります。遍照寺は、池の畔に釣殿・月見堂などを設けた美しい風景を前にした大きな寺であったが、早い時期に荒廃してしまいました。その後、ここから南の所に再建され、堂内には、創建当時の遺像と伝わる十一面観音菩薩(重文)と不動明王坐像(重文)を安置しています。この池は西に位置する大沢池とともに、古くから観月の名所として知られ、多くの歌人によって数多くの詩が詠まれました。現在は、鯉などの養殖が行われており、年末には池の水を抜いて成長した鯉を収穫する「池ざらい」は、京の冬の風物詩になっています。また兒(ちご)神社は、寛朝僧正が他界した際、悲しみに打ちひしがれて池に身を沈めた僧正の稚児を弔うために建てられました。
次に広沢行けの東側まで来ました。地元の人はご存じだと思いますが、広沢池の南側には歩道がありません。一条通りの南側には歩道があるので、そちらで移動しました。
広沢池の南東側まで来ると、湖畔にキバナコスモスが咲いてました。次に石段を降りて湖畔まで行ってみます。
今日は山頂まで綺麗に見えている「愛宕山」をズームで撮りました。手前に石段が見えているのが「嵯峨天皇 嵯峨山上陵」です。
次に「五山の送り火」の曼荼羅山「鳥居形」をズームで撮りました。16日の送り火、綺麗に見えるでしょう。
8月16日には「遍照寺 灯籠流し」があります。五山送り火の日に広沢池で行われる精霊送りの行事で、五色の灯籠が広沢池一面に流されるようで、当日はKBS京都で生放送があるそうです。
この石段で上がりました。予定外の広沢池まで来たので疲れました。なんと言っても暑いので・・・。
ここから、歩いて10分足らずの市バス「山越中町」まで行き、バスで帰宅しました。早朝でも、ここ最近は暑いです。全身汗だくで帰った次第です😊。
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