「二條天皇陵 香隆寺陵」と「三條天皇 北山陵」へ
8月7日(水)は、通院日で朝早くから病院に行き受診、そして終わってから市バスに乗って「二條天皇陵 香隆寺陵(こうりゅうじのみささぎ)に行って来ました。すっかり忘れてまたが、ここには2012年(平成24年)9月15日に一度来てました。
現在放送中のNHK大河ドラマ「光る君へ」では、第66代天皇の一条天皇が描かれ、俳優の塩野 瑛久さんが演じています。この日訪れた二条天皇は、第78代天皇で随分先です。
第66代 一条天皇、第67代 三条天皇、第68代 後一条天皇、第69代 後朱雀天皇、第70代 後冷泉天皇、第71代 後三条天皇、第72代 白河天皇、第73代 堀河天皇、第74代 鳥羽天皇、第75代 崇徳天皇、第76代 近衛天皇、第77代 後白河天皇、第78代 二条天皇と続くわけでドラマでは藤原氏の最盛期ですが、二条天皇の時代は、平清盛の最盛期でしょうか?、帰ってから調べました。
二条天皇は、第78代の天皇。1143年(康治2年)~1165年(永万元年)、在位は、1158年(保元3年)~1165年(永万元年)。後白河天皇(第77代天皇)の第一皇子。母は藤原経実(つねざね)の娘懿子(いし)が出産直後に急死したことで、祖父である鳥羽法皇(第74代天皇)に引き取られ、その后の美福門院に養育された。仁和寺に入室するも、近衛天皇(第76代天皇)が後嗣の決まらないまま早世したとき、祖父鳥羽上皇、養母美福門院、関白藤原忠通らは、守仁(後の二条天皇)を皇位につけようと画策。しかし、父雅仁(後白河天皇)を差し置いて実現できず、1155年(久寿2年)に、後白河天皇の即位と同時に皇太子となり、「保元の乱」が後白河天皇方の勝利に終わると、父の譲位によって1158年(保元3年)に即位した。しかし、後白河上皇、信西らの院政派と二条天皇らの親政派との併立は「平治の乱」に発展していった。法皇の院政に抵抗し、自らの天皇親政を実現しようとした二条天皇は、その意志と勇気にもかかわらず病弱でした。そのため1165年(永万元年)に皇子順仁(のぶひと)親王に譲位し、六条天皇となりますが、このとき満0歳。病弱だった二条天皇は譲位した翌月崩御、満22歳でした。
NHK大河ドラマ「平清盛」では、関白藤原忠通を堀部圭亮さんが、後白河法皇を松田翔太さんが、鳥羽法皇を三上博史さんが、近衛天皇を北村匠海さんが、二条天皇を冨浦智嗣さんが、美福門院得子を松雪泰子さんが演じてました。六条天皇も登場しましたが、演者の名前ありません。簡単に調べると、0歳で即位した六条天皇は、満4歳で退位し、 憲仁が即位しました。 高倉天皇(第80代天皇)です。六条天皇は、満11歳で病気のため崩御。高倉天皇は、後に平清盛の娘徳子を中宮にし、やがて言仁皇子を生みます。のちの安徳天皇(第81代天皇)でした。
バス停「衣笠校前」から歩いて直ぐ、嵐電「北野白梅町」駅から歩いて10分程度でしょう、住宅街の真ん中にありました。
住宅街にあるので、早々に出て行きました。今日は急遽、ここに来たので・・・本当は、ここからバスに乗って金閣寺道バス停まで行くつもりでした。
この日は暑かったですね、最高気温は、36.7℃まで上がりました。朝の気温も26.6℃もあって、用事があるので、今日はここだけで帰りました。この続きは別途、日を改めて😊。
「二條天皇陵 香隆寺陵」と当初、同日で行く予定だったのが「三條天皇 北山陵」で、日を改めた8月10日(土)の早朝に車で行きました。現在、放送中のNHK大河ドラマ「光る君へ」では、三条天皇を木村 達成さんが演じる予定になっています。この訪れた日では、まだ一条天皇で、三条天皇は出て来てません。
この日のことは、まだアップしてないので、某所から車で向かい、先ずは「一条天皇・三条天皇火葬塚」に向かいました。火葬塚は埋葬地である陵墓や火葬墓とは異なり、火葬を行った場所の跡地に塚を築いたもの。
車は、仁和寺や龍安寺の前を通り、「きぬがけの路」を金閣寺まで走ります。金閣寺の黒門前の通りを、そのまま直進したいところ、一方通行のため鞍馬口通りを通って、西大路通りに出ます。そして西大路通りから北大路通りに変わる手前で左折し、平野通りを北上。右手に鏡石公園が目印で、その先に車を停め向かったのが前途した「一条天皇・三条天皇火葬塚」で、6時30分頃に着きました。
こちらの火葬塚は、西に向いています。参道は狭いです。
ここに居たのは2分弱。早々に車に戻りました。
一条天皇は、NHK大河ドラマ「光る君へ」では、塩野 瑛久さんが演じています。陵墓は龍安寺朱七陵にあって、「一条天皇 圓融寺北陵」には行ってました。NHK大河ドラマ「光る君へ」では一条天皇を下記のように紹介されています。
一條天皇は、わずか7歳で即位。藤原道長(柄本佑さん)の兄藤原道隆(井浦新さん)の長女で、幼くして入内した藤原定子(高畑充希さん)を寵愛するが、のちに道長の長女藤原彰子(見上愛さん)も入内し、世継ぎをめぐる政争に巻き込まれます。藤原定子(高畑充希さん)に仕えた清少納言(ファーストサマーウイカさん)や、藤原彰子(見上愛さん)に仕えた紫式部(吉高由里子さん)など、一條天皇の時代には宮廷文化が栄華を極め、ことに女流文学が栄えることになります。
次に、右折すると「しょうざんリゾート京都」がありますが、左折し鏡石通りを下って行きます。車で2分ぐらい、左手に見えてきたのが「三條天皇 北山陵」で、6時44分に着きました。
御陵の西側から入ったので、正面から朝陽を浴びることに・・・。眩しくて前が・・・。
東側から出ました。少し小高い所にありました。
ここも2分足らずにで出て行きました。鏡石通りは、この辺りでは広いので大丈夫でしたが、早朝とはいえ早々に出て行くことに。
三条天皇は、第67代天皇。976年(天延4年)~1017年(寛仁元年)。在位は、1011年(寛弘8年)~1016年(長和5年)。諱は居貞(おきさだ)冷泉天皇(第63代天皇)の第二皇子。母は摂政太政大臣藤原兼家(段田安則)の長女藤原超子。花山天皇第(65代天皇・本郷奏多)の異母弟。冷泉天皇が在位2年で譲位し、その弟が円融天皇として即位。しかし、藤原兼家の圧力によりやむなく譲位に至ると、冷泉天皇の第一皇子花山天皇が即位します。ただ、その花山天皇も、突然の出家により退位。そして986年(寛和2年)、円融天皇の第一皇子が一条天皇として即位し、三条天皇(居貞親王)は藤原兼家の後押しで東宮(皇太子)となりました。このとき、一条天皇7歳、三条天皇(居貞親王)11歳。その後、25年にものぼる年月を東宮として過ごすことになります。1011年(寛弘8年)に、病に臥していた一条天皇が三条天皇(居貞親王)に譲位し、三条天皇は36歳で、第67代天皇として即位します。天皇には、敦明親王がいたにもかかわらず、皇太子には、藤原道長(柄本佑)の長女で一条天皇の中宮藤原彰子(見上愛)の産んだ、敦成親王(後一条天皇)が立てられました。この時代は、藤原道長が、皇位継承に大きな影響を与えていました。そして即位後、間もなく目の病を患った三条天皇に対し、藤原道長は病を理由に退位を勧めます。そして1016年(長和5年)に、三条天皇は眼病が悪化したことにより、藤原道長によって退位させられました。1017年(寛仁元年)に出家、同年に42歳で崩御。短い在位期間でしたが、退位の際に詠んだ和歌は、「三条院」の名で「小倉百人一首」に採られ、多くの人々へその心情を伝えてきました。即位し譲位したのは、伏原道長の外孫後一条天皇で、わずか9歳。藤原道長が摂政となり、このあと藤原氏の絶頂期を迎えます。
「心にも あらで憂き世に 長らへば 恋しかるべき 夜半(よは)の月かな」という譲位の直前に詠まれた和歌は、小倉百人一首に採用。「もしもこの辛い世で不本意にも生き存えて(いきながらえて)しまえば、夜更けに見る月を恋しく思うだろう」という意味で、退位を決めた三条天皇が、宮中で見た月に自分の思いを重ねた歌だそうです。
藤原道長の「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」という和歌を詠んだシーン放送されるでしょうか?これからも楽しみです😊。ただ主役は紫式部ですが。
NHK大河ドラマ「光る君へ」を見ていて、その時代からの歴代天皇を調べてみました。第64代 圓融天皇、第65代 花山天皇、第66代 一条天皇、第67代 三条天皇、第68代 後一条天皇、第69代 後朱雀天皇、第70代 後冷泉天皇、第71代 後三条天皇、第72代 白河天皇、第73代 堀河天皇、第74代 鳥羽天皇、第75代 崇徳天皇、第76代 近衛天皇、第77代 後白河天皇、第78代 二条天皇、第79代 六条天皇、第80代 高倉天皇、第81代 安徳天皇。後半は、「平清盛」で放送されました。
鏡石通りは一歩通行で、そのまま進むと金閣寺の前に出てきます。まだ7時前で、ガードマンさんも居ませんし、駐車場も閉まっています。もちろん誰も居ません、外国人観光客も😊。帰りにコンビニ寄って帰路につきました。
現在放送中のNHK大河ドラマ「光る君へ」では、第66代天皇の一条天皇が描かれ、俳優の塩野 瑛久さんが演じています。この日訪れた二条天皇は、第78代天皇で随分先です。
第66代 一条天皇、第67代 三条天皇、第68代 後一条天皇、第69代 後朱雀天皇、第70代 後冷泉天皇、第71代 後三条天皇、第72代 白河天皇、第73代 堀河天皇、第74代 鳥羽天皇、第75代 崇徳天皇、第76代 近衛天皇、第77代 後白河天皇、第78代 二条天皇と続くわけでドラマでは藤原氏の最盛期ですが、二条天皇の時代は、平清盛の最盛期でしょうか?、帰ってから調べました。
二条天皇は、第78代の天皇。1143年(康治2年)~1165年(永万元年)、在位は、1158年(保元3年)~1165年(永万元年)。後白河天皇(第77代天皇)の第一皇子。母は藤原経実(つねざね)の娘懿子(いし)が出産直後に急死したことで、祖父である鳥羽法皇(第74代天皇)に引き取られ、その后の美福門院に養育された。仁和寺に入室するも、近衛天皇(第76代天皇)が後嗣の決まらないまま早世したとき、祖父鳥羽上皇、養母美福門院、関白藤原忠通らは、守仁(後の二条天皇)を皇位につけようと画策。しかし、父雅仁(後白河天皇)を差し置いて実現できず、1155年(久寿2年)に、後白河天皇の即位と同時に皇太子となり、「保元の乱」が後白河天皇方の勝利に終わると、父の譲位によって1158年(保元3年)に即位した。しかし、後白河上皇、信西らの院政派と二条天皇らの親政派との併立は「平治の乱」に発展していった。法皇の院政に抵抗し、自らの天皇親政を実現しようとした二条天皇は、その意志と勇気にもかかわらず病弱でした。そのため1165年(永万元年)に皇子順仁(のぶひと)親王に譲位し、六条天皇となりますが、このとき満0歳。病弱だった二条天皇は譲位した翌月崩御、満22歳でした。
NHK大河ドラマ「平清盛」では、関白藤原忠通を堀部圭亮さんが、後白河法皇を松田翔太さんが、鳥羽法皇を三上博史さんが、近衛天皇を北村匠海さんが、二条天皇を冨浦智嗣さんが、美福門院得子を松雪泰子さんが演じてました。六条天皇も登場しましたが、演者の名前ありません。簡単に調べると、0歳で即位した六条天皇は、満4歳で退位し、 憲仁が即位しました。 高倉天皇(第80代天皇)です。六条天皇は、満11歳で病気のため崩御。高倉天皇は、後に平清盛の娘徳子を中宮にし、やがて言仁皇子を生みます。のちの安徳天皇(第81代天皇)でした。
バス停「衣笠校前」から歩いて直ぐ、嵐電「北野白梅町」駅から歩いて10分程度でしょう、住宅街の真ん中にありました。
住宅街にあるので、早々に出て行きました。今日は急遽、ここに来たので・・・本当は、ここからバスに乗って金閣寺道バス停まで行くつもりでした。
この日は暑かったですね、最高気温は、36.7℃まで上がりました。朝の気温も26.6℃もあって、用事があるので、今日はここだけで帰りました。この続きは別途、日を改めて😊。
「二條天皇陵 香隆寺陵」と当初、同日で行く予定だったのが「三條天皇 北山陵」で、日を改めた8月10日(土)の早朝に車で行きました。現在、放送中のNHK大河ドラマ「光る君へ」では、三条天皇を木村 達成さんが演じる予定になっています。この訪れた日では、まだ一条天皇で、三条天皇は出て来てません。
この日のことは、まだアップしてないので、某所から車で向かい、先ずは「一条天皇・三条天皇火葬塚」に向かいました。火葬塚は埋葬地である陵墓や火葬墓とは異なり、火葬を行った場所の跡地に塚を築いたもの。
車は、仁和寺や龍安寺の前を通り、「きぬがけの路」を金閣寺まで走ります。金閣寺の黒門前の通りを、そのまま直進したいところ、一方通行のため鞍馬口通りを通って、西大路通りに出ます。そして西大路通りから北大路通りに変わる手前で左折し、平野通りを北上。右手に鏡石公園が目印で、その先に車を停め向かったのが前途した「一条天皇・三条天皇火葬塚」で、6時30分頃に着きました。
こちらの火葬塚は、西に向いています。参道は狭いです。
ここに居たのは2分弱。早々に車に戻りました。
一条天皇は、NHK大河ドラマ「光る君へ」では、塩野 瑛久さんが演じています。陵墓は龍安寺朱七陵にあって、「一条天皇 圓融寺北陵」には行ってました。NHK大河ドラマ「光る君へ」では一条天皇を下記のように紹介されています。
一條天皇は、わずか7歳で即位。藤原道長(柄本佑さん)の兄藤原道隆(井浦新さん)の長女で、幼くして入内した藤原定子(高畑充希さん)を寵愛するが、のちに道長の長女藤原彰子(見上愛さん)も入内し、世継ぎをめぐる政争に巻き込まれます。藤原定子(高畑充希さん)に仕えた清少納言(ファーストサマーウイカさん)や、藤原彰子(見上愛さん)に仕えた紫式部(吉高由里子さん)など、一條天皇の時代には宮廷文化が栄華を極め、ことに女流文学が栄えることになります。
次に、右折すると「しょうざんリゾート京都」がありますが、左折し鏡石通りを下って行きます。車で2分ぐらい、左手に見えてきたのが「三條天皇 北山陵」で、6時44分に着きました。
御陵の西側から入ったので、正面から朝陽を浴びることに・・・。眩しくて前が・・・。
東側から出ました。少し小高い所にありました。
ここも2分足らずにで出て行きました。鏡石通りは、この辺りでは広いので大丈夫でしたが、早朝とはいえ早々に出て行くことに。
三条天皇は、第67代天皇。976年(天延4年)~1017年(寛仁元年)。在位は、1011年(寛弘8年)~1016年(長和5年)。諱は居貞(おきさだ)冷泉天皇(第63代天皇)の第二皇子。母は摂政太政大臣藤原兼家(段田安則)の長女藤原超子。花山天皇第(65代天皇・本郷奏多)の異母弟。冷泉天皇が在位2年で譲位し、その弟が円融天皇として即位。しかし、藤原兼家の圧力によりやむなく譲位に至ると、冷泉天皇の第一皇子花山天皇が即位します。ただ、その花山天皇も、突然の出家により退位。そして986年(寛和2年)、円融天皇の第一皇子が一条天皇として即位し、三条天皇(居貞親王)は藤原兼家の後押しで東宮(皇太子)となりました。このとき、一条天皇7歳、三条天皇(居貞親王)11歳。その後、25年にものぼる年月を東宮として過ごすことになります。1011年(寛弘8年)に、病に臥していた一条天皇が三条天皇(居貞親王)に譲位し、三条天皇は36歳で、第67代天皇として即位します。天皇には、敦明親王がいたにもかかわらず、皇太子には、藤原道長(柄本佑)の長女で一条天皇の中宮藤原彰子(見上愛)の産んだ、敦成親王(後一条天皇)が立てられました。この時代は、藤原道長が、皇位継承に大きな影響を与えていました。そして即位後、間もなく目の病を患った三条天皇に対し、藤原道長は病を理由に退位を勧めます。そして1016年(長和5年)に、三条天皇は眼病が悪化したことにより、藤原道長によって退位させられました。1017年(寛仁元年)に出家、同年に42歳で崩御。短い在位期間でしたが、退位の際に詠んだ和歌は、「三条院」の名で「小倉百人一首」に採られ、多くの人々へその心情を伝えてきました。即位し譲位したのは、伏原道長の外孫後一条天皇で、わずか9歳。藤原道長が摂政となり、このあと藤原氏の絶頂期を迎えます。
「心にも あらで憂き世に 長らへば 恋しかるべき 夜半(よは)の月かな」という譲位の直前に詠まれた和歌は、小倉百人一首に採用。「もしもこの辛い世で不本意にも生き存えて(いきながらえて)しまえば、夜更けに見る月を恋しく思うだろう」という意味で、退位を決めた三条天皇が、宮中で見た月に自分の思いを重ねた歌だそうです。
藤原道長の「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」という和歌を詠んだシーン放送されるでしょうか?これからも楽しみです😊。ただ主役は紫式部ですが。
NHK大河ドラマ「光る君へ」を見ていて、その時代からの歴代天皇を調べてみました。第64代 圓融天皇、第65代 花山天皇、第66代 一条天皇、第67代 三条天皇、第68代 後一条天皇、第69代 後朱雀天皇、第70代 後冷泉天皇、第71代 後三条天皇、第72代 白河天皇、第73代 堀河天皇、第74代 鳥羽天皇、第75代 崇徳天皇、第76代 近衛天皇、第77代 後白河天皇、第78代 二条天皇、第79代 六条天皇、第80代 高倉天皇、第81代 安徳天皇。後半は、「平清盛」で放送されました。
鏡石通りは一歩通行で、そのまま進むと金閣寺の前に出てきます。まだ7時前で、ガードマンさんも居ませんし、駐車場も閉まっています。もちろん誰も居ません、外国人観光客も😊。帰りにコンビニ寄って帰路につきました。
この記事へのコメント
帝位にあった方なんですね。歴史の教科書には、
「後白河法皇の院政時代」と強調されて、
その時の天皇のお名前は、多分扱いが小さいんじゃ
無いでしょうか。私もすぐ思い出せなくて…。
住宅街の真ん中にお墓があるんですね。
京都は暑いから、お墓参りも大変でしたでしょう。
京都の日中があまりにも暑いので、早朝に行ける所を散策しています。
NHK大河ドラマ「光る君へ」を見ていて、平安時代の歴史に興味を持ちました。これからドラマは一条天皇から三条天皇にうつります。先に歴史を調べると見ていて楽しいので。( ^_^)
歴史に興味がない妻に教える意味もあるんですが、先ずは自分が知る必要があるので勉強しています。( ^_^)
後白河上皇が大きな力を振るおうとしていて、ぶつかったのですね。
そんな皇室間の争いが、戦となり武士の台頭へと歴史は転換していくのが面白いです。三條天皇をはじめ、折角、天皇となっても無念の思いを持って譲位された例が多かったこと。権力者も辛いものがあるなと感じざるをえません。
現在放送中のNHK大河ドラマ「光る君へ」で、平安時代の貴族の生活が描かれています。その時代を背景なんか調べていると、京都では天皇陵が点在していることがわかり、日中は暑すぎて出掛けることができないので、早朝に行ける天皇陵に行って、歴史を調べています。
ドラマを見ていても楽しいですし。これから一条天皇から三条天皇に変わり、道長との確執が描かれるでしょう。