嵐山 亀山公園「後嵯峨天皇・亀山天皇・後伏見天皇 火葬塚」へ
8月8日(木)の朝、涼しいとは言いがたいけど、熱帯夜から開放されました。公式には24.4℃でしたが、外に出てみると爽やかな風が吹いていたので、ここ数日の蒸し暑さは感じませんでしたね。この貴重な涼しさ?が勿体ないので、急遽、6時過ぎに嵐山まで散歩に出掛けることに😊。当初は、市バスに乗って、帰路に歩いて帰るかと思ってましたが、朝6時にはバスが走って無いので、歩いて行き、帰りに市バスに乗って帰ることにしました😊。
嵐山に向かう途中に、今年の7月3日(水)に訪れた「小倉池」に寄ってみました。7月3日(水)では、蓮の花は咲き始めてでしたが、この日は一面咲いています。見頃に来られて良かったです。
ここから急峻な坂を登って先ずは「大河内山荘」前まで来ました。この時、6時30分頃でしたが、さすがに空いてます。
そして、外国人観光客に大人気の「竹林の小経」も、こんなに空いてます。あと1時間もすれば、めっちゃ人は増えてきます。ほぼ海外の方ですね。
次に私は、「亀山公園」に向かいます。すると後ろから、ご近所の方が海外の方に「この先の展望台綺麗やで」と。私は通じましたが、海外の方はキョトンと😊。
嵐山「亀山地区」です。通称「亀山公園」で、ここから左手に行き展望台を目指します。
私の前の海外の方は、地図を見ながら行かれるみたいです。私は何度も来てるので、通常のルートから外れて最短距離で向かいました。
「展望台」に着きました。5月24日(金)以来です。大河内山荘から4分で着きました。
ここに来るとき、外国人観光客の1組の家族連れが居ました。直ぐに出て行かれて、そのあとに先の海外の方が来られた次第です。
次の方も来られたので、早々に出ました。陽があがり、暑くなってきました。さすがに、ここは爽やかな風が吹いてましたが。
次の「展望台」まで行きました。その先にもありますが、今日は行きません。
展望台から嵐山までは、ずっと下りとなります。この先は歩くには楽になりますが、暑さが・・・。この先の右手に柵がしてあります。そこには・・・?。
この先の右手に「津崎村岡局の銅像」があります。大覚寺 大沢池にも石碑が残る幕末の勤王家でした。
津崎矩子(つざきのりこ)は1786年(天明6年)嵯峨に生まれ、近衛忠煕に仕え村岡局(むらおかのつぼね)と名乗る。幕末から維新にかけてこの女性勤王派で清水寺成就院の僧月照(げっしょう)や西郷隆盛らと交友をもち運動を助ける。晩年は北嵯峨の直指庵に隠居し付近の子女の教育に尽くし庶民の慈悲として親しまれる。嵐山にある「亀山公園」には銅像があります。
以前から存在は知ってましたが、今日の散歩で寄ってみました。「後嵯峨天皇・亀山天皇・後伏見天皇 火葬塚」です。
遠くから見るだけで、その先に何があるのか分かりません。暑いし疲れて来たし、早々に出ました。
「後嵯峨天皇嵯峨南陵 亀山天皇亀山陵」は天龍寺境内にあるので、行ったことはあります。今年は5月19日(日)に行ってます。
後伏見天皇は、京都市伏見区の「後伏見天皇 深草北陵(ごふしみてんのう ふかくさのきたのみささぎ)」にあって、未訪です。近くまでは行ったことがありますが・・・。
後嵯峨天皇は、第88代天皇。1220年4月1日(承久2年)~1272年(文永9年)。在位は、1242年(仁治3年)~1246年(寛元4年)。諱は邦仁(くにひと)。土御門天皇(第83代天皇)の皇子。母は源通宗の娘の通子。23歳になるまで元服をしていなかったが、12歳で先代の四条天皇(第87代天皇)が崩御したため、鎌倉幕府3代執権北条泰時によって天皇に即位したことは、当時の人々も予想外のことでした。後嵯峨天皇は、後深草天皇に皇位を譲ったあとも、院政を敷いて朝廷の政治体制を作り、幕府との緊密な関係を目指して熱心に政務に励んだことで知られている。また、仏教を深く信仰し、管弦や和歌などにも長じた多才な人物でした。1268年(文永5年)に出家し大覚寺に移り、1272年(文永9年)崩御。ただ、後嵯峨上皇が、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子にして、次に続く皇統を曖昧にしたままこの世を去ったことが、後の北朝・持明院統(後深草天皇の血統)と南朝・大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなり、それが日本史における南北朝時代、更には後南朝まで続く200年に渡る大乱の源となった。
亀山天皇は、第90代天皇。1249年(建長元年)~1305年(嘉元3年)。在位は、1260年(正元元年) ~1274年(文永11年)。諱は恒仁(つねひと)。後嵯峨天皇(第88代天皇)の皇子。母は中宮・西園寺姞子(大宮院)。南朝(大覚寺統)の祖。父親の後嵯峨天皇に好まれて天皇に即位した人物。1274年(文永11年)に上皇となって皇太子世仁親王(後宇多天皇)に譲位し院政で実権を握り、意欲的な改革に取り組み推進した。また、2度の「元寇」(文永・弘安の役)という国難にも直面。また、後深草上皇の血統(持明院統)とは別に、自らの血統(大覚寺統)の繁栄に力を注ぎ、皇統を二分(持明院統系と大覚寺統系)してしまう問題の端緒となる。亀山天皇は、儒学、音楽、漢詩文などに造詣が深く、「勅撰和歌集」の編纂事業も実施した。さらに1289年(正応2年)に南禅寺で出家し法皇となる。法名は金剛源。禅宗に帰依し、公家社会への浸透へとつなげた人物でもあります。
後伏見天皇は、第93代天皇。1288年(弘安11年)~1336年(延元元年)。在位:は、1298年(永仁6年)~1301年(正安3年)。諱は胤仁(たねひと)。伏見天皇(第92代天皇)の第一皇子。母は、参議左近衛中将五辻経氏の娘五辻経子。持明院統。1298年(永仁6年)に父・伏見天皇からの譲位により、11歳で即位。伏見上皇が院政を執り行った。2代続けて持明院統が天皇となったため、勢力を巻き返した大覚寺統や幕府の圧力を受け1301年(正安3年)、大覚寺統の後宇多上皇(第91代天皇)の第一皇子・後二条天皇(第94代天皇)に譲位した。1308年(徳治3年)、後二条天皇が急死し、後伏見天皇の弟の花園天皇が第95代天皇として即位。しばらく後、伏見上皇が出家して院政を停止したので、これを引き継いで1313年(正和2年)から1318年(文保2年)の間、院政を敷いた。1318年(文保2年)、在位10年で花園天皇は大覚寺統の後醍醐天皇(第96代天皇)に譲位した。その皇太子には大覚寺統の邦良親王(後二条天皇皇子)がなり、後伏見上皇の皇子量仁親王(光厳天皇)はその次の皇太子となることが決められた。1326年(嘉暦元年)に邦良親王が病死し、幕府の裁定で量仁親王がようやく皇太子に立った。しかし、後醍醐天皇は譲位に応じず、1331年(元弘元年)、幕府に反旗を翻し捕らえられた。幕府により皇太子量仁が即位して光厳天皇(北朝初代天皇(となり、後伏見上皇はしばらく院政を行った。1333年(元弘3年)、足利尊氏が後醍醐天皇に呼応して京都の六波羅探題を襲撃すると、北条仲時(六波羅探題北方)らに擁され、光厳天皇・花園上皇とともに東国に逃れようとした。しかし道中で仲時らは討ち死にし、両上皇と天皇は捕らえられて京都に連れ戻された。光厳天皇は廃位され、後伏見上皇は出家剃髪した。1336年(延元元年)、崩御。
まもなく亀山公園を出ますが、その手前には「周恩来総理 記念詩碑 雨中嵐山」がありますが、疲れて来たので寄りません。
6時50分頃に「大堰川」まで来ました。家を出たときの涼しいさは、この時間では感じません。
嵐山の渡月橋まで行くつもりが、暑くて疲れてきたので、天龍寺の境内へ向かいます。
「嵯峨嵐山文華館」の前を通ります。10時の開館まで、まだまだです。
紅葉の名所「天龍寺塔頭 宝厳院」の前も通りました。山門工事中ですね。秋の特別拝観には行ってみようかなぁ。
「勅使門」前の「放生池」の蓮の花、未だ咲いています。少しだけ撮って、バス停に向かいました。
計算通り7時過ぎのバスに乗って帰りました。約1時間歩いたので、全身汗だくに。早朝とはいえ、陽が出ると暑くなります。この日は、最高気温36.6℃まで上がりました。
嵐山に向かう途中に、今年の7月3日(水)に訪れた「小倉池」に寄ってみました。7月3日(水)では、蓮の花は咲き始めてでしたが、この日は一面咲いています。見頃に来られて良かったです。
ここから急峻な坂を登って先ずは「大河内山荘」前まで来ました。この時、6時30分頃でしたが、さすがに空いてます。
そして、外国人観光客に大人気の「竹林の小経」も、こんなに空いてます。あと1時間もすれば、めっちゃ人は増えてきます。ほぼ海外の方ですね。
次に私は、「亀山公園」に向かいます。すると後ろから、ご近所の方が海外の方に「この先の展望台綺麗やで」と。私は通じましたが、海外の方はキョトンと😊。
嵐山「亀山地区」です。通称「亀山公園」で、ここから左手に行き展望台を目指します。
私の前の海外の方は、地図を見ながら行かれるみたいです。私は何度も来てるので、通常のルートから外れて最短距離で向かいました。
「展望台」に着きました。5月24日(金)以来です。大河内山荘から4分で着きました。
ここに来るとき、外国人観光客の1組の家族連れが居ました。直ぐに出て行かれて、そのあとに先の海外の方が来られた次第です。
次の方も来られたので、早々に出ました。陽があがり、暑くなってきました。さすがに、ここは爽やかな風が吹いてましたが。
次の「展望台」まで行きました。その先にもありますが、今日は行きません。
展望台から嵐山までは、ずっと下りとなります。この先は歩くには楽になりますが、暑さが・・・。この先の右手に柵がしてあります。そこには・・・?。
この先の右手に「津崎村岡局の銅像」があります。大覚寺 大沢池にも石碑が残る幕末の勤王家でした。
津崎矩子(つざきのりこ)は1786年(天明6年)嵯峨に生まれ、近衛忠煕に仕え村岡局(むらおかのつぼね)と名乗る。幕末から維新にかけてこの女性勤王派で清水寺成就院の僧月照(げっしょう)や西郷隆盛らと交友をもち運動を助ける。晩年は北嵯峨の直指庵に隠居し付近の子女の教育に尽くし庶民の慈悲として親しまれる。嵐山にある「亀山公園」には銅像があります。
以前から存在は知ってましたが、今日の散歩で寄ってみました。「後嵯峨天皇・亀山天皇・後伏見天皇 火葬塚」です。
遠くから見るだけで、その先に何があるのか分かりません。暑いし疲れて来たし、早々に出ました。
「後嵯峨天皇嵯峨南陵 亀山天皇亀山陵」は天龍寺境内にあるので、行ったことはあります。今年は5月19日(日)に行ってます。
後伏見天皇は、京都市伏見区の「後伏見天皇 深草北陵(ごふしみてんのう ふかくさのきたのみささぎ)」にあって、未訪です。近くまでは行ったことがありますが・・・。
後嵯峨天皇は、第88代天皇。1220年4月1日(承久2年)~1272年(文永9年)。在位は、1242年(仁治3年)~1246年(寛元4年)。諱は邦仁(くにひと)。土御門天皇(第83代天皇)の皇子。母は源通宗の娘の通子。23歳になるまで元服をしていなかったが、12歳で先代の四条天皇(第87代天皇)が崩御したため、鎌倉幕府3代執権北条泰時によって天皇に即位したことは、当時の人々も予想外のことでした。後嵯峨天皇は、後深草天皇に皇位を譲ったあとも、院政を敷いて朝廷の政治体制を作り、幕府との緊密な関係を目指して熱心に政務に励んだことで知られている。また、仏教を深く信仰し、管弦や和歌などにも長じた多才な人物でした。1268年(文永5年)に出家し大覚寺に移り、1272年(文永9年)崩御。ただ、後嵯峨上皇が、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子にして、次に続く皇統を曖昧にしたままこの世を去ったことが、後の北朝・持明院統(後深草天皇の血統)と南朝・大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなり、それが日本史における南北朝時代、更には後南朝まで続く200年に渡る大乱の源となった。
亀山天皇は、第90代天皇。1249年(建長元年)~1305年(嘉元3年)。在位は、1260年(正元元年) ~1274年(文永11年)。諱は恒仁(つねひと)。後嵯峨天皇(第88代天皇)の皇子。母は中宮・西園寺姞子(大宮院)。南朝(大覚寺統)の祖。父親の後嵯峨天皇に好まれて天皇に即位した人物。1274年(文永11年)に上皇となって皇太子世仁親王(後宇多天皇)に譲位し院政で実権を握り、意欲的な改革に取り組み推進した。また、2度の「元寇」(文永・弘安の役)という国難にも直面。また、後深草上皇の血統(持明院統)とは別に、自らの血統(大覚寺統)の繁栄に力を注ぎ、皇統を二分(持明院統系と大覚寺統系)してしまう問題の端緒となる。亀山天皇は、儒学、音楽、漢詩文などに造詣が深く、「勅撰和歌集」の編纂事業も実施した。さらに1289年(正応2年)に南禅寺で出家し法皇となる。法名は金剛源。禅宗に帰依し、公家社会への浸透へとつなげた人物でもあります。
後伏見天皇は、第93代天皇。1288年(弘安11年)~1336年(延元元年)。在位:は、1298年(永仁6年)~1301年(正安3年)。諱は胤仁(たねひと)。伏見天皇(第92代天皇)の第一皇子。母は、参議左近衛中将五辻経氏の娘五辻経子。持明院統。1298年(永仁6年)に父・伏見天皇からの譲位により、11歳で即位。伏見上皇が院政を執り行った。2代続けて持明院統が天皇となったため、勢力を巻き返した大覚寺統や幕府の圧力を受け1301年(正安3年)、大覚寺統の後宇多上皇(第91代天皇)の第一皇子・後二条天皇(第94代天皇)に譲位した。1308年(徳治3年)、後二条天皇が急死し、後伏見天皇の弟の花園天皇が第95代天皇として即位。しばらく後、伏見上皇が出家して院政を停止したので、これを引き継いで1313年(正和2年)から1318年(文保2年)の間、院政を敷いた。1318年(文保2年)、在位10年で花園天皇は大覚寺統の後醍醐天皇(第96代天皇)に譲位した。その皇太子には大覚寺統の邦良親王(後二条天皇皇子)がなり、後伏見上皇の皇子量仁親王(光厳天皇)はその次の皇太子となることが決められた。1326年(嘉暦元年)に邦良親王が病死し、幕府の裁定で量仁親王がようやく皇太子に立った。しかし、後醍醐天皇は譲位に応じず、1331年(元弘元年)、幕府に反旗を翻し捕らえられた。幕府により皇太子量仁が即位して光厳天皇(北朝初代天皇(となり、後伏見上皇はしばらく院政を行った。1333年(元弘3年)、足利尊氏が後醍醐天皇に呼応して京都の六波羅探題を襲撃すると、北条仲時(六波羅探題北方)らに擁され、光厳天皇・花園上皇とともに東国に逃れようとした。しかし道中で仲時らは討ち死にし、両上皇と天皇は捕らえられて京都に連れ戻された。光厳天皇は廃位され、後伏見上皇は出家剃髪した。1336年(延元元年)、崩御。
まもなく亀山公園を出ますが、その手前には「周恩来総理 記念詩碑 雨中嵐山」がありますが、疲れて来たので寄りません。
6時50分頃に「大堰川」まで来ました。家を出たときの涼しいさは、この時間では感じません。
嵐山の渡月橋まで行くつもりが、暑くて疲れてきたので、天龍寺の境内へ向かいます。
「嵯峨嵐山文華館」の前を通ります。10時の開館まで、まだまだです。
紅葉の名所「天龍寺塔頭 宝厳院」の前も通りました。山門工事中ですね。秋の特別拝観には行ってみようかなぁ。
「勅使門」前の「放生池」の蓮の花、未だ咲いています。少しだけ撮って、バス停に向かいました。
計算通り7時過ぎのバスに乗って帰りました。約1時間歩いたので、全身汗だくに。早朝とはいえ、陽が出ると暑くなります。この日は、最高気温36.6℃まで上がりました。
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