嵐山を散策「安倍晴明墓所」と「長慶天皇 嵯峨東陵」へ
8月11日(日)の早朝、起きてスマホを見ると、パリオリンピック陸上、女子やり投げの北口榛花さん金メダルのニュースが飛び込んできました。そのあと3時過ぎか時間は正確ではありませんが、テレビ観戦してました。エアコンは未明まで使わないので、窓を開けると涼しい風が入ってきて、次の日に最低気温を見ると25.5℃でした。熱帯夜でしたが、ここ最近最低気温が28℃台だったので、涼しく感じたのかも😊。
毎週、日曜日は用事があるので出掛けますが、涼しさを感じたので、何時もは市バスで行くところ、早朝に歩いて向かうことに。先ずは嵐山に寄りました。写真は有名な「渡月橋」です。
渡月橋の由来は、亀山天皇が橋の上空を渡る月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」(橋の上から夜空を眺めていると、まるで月が橋を渡っているようだった)と述べたことが名前の由来と言われています。
写真は訳あって別の日のものですが、お盆に入った日曜日の早朝では、人出は少なかったです。ご近所の方が散歩されてました。犬を連れての散歩でしょう。
s渡月橋が見える、この場所に、非公開の「臨済宗天龍寺派 臨川寺」があって、山門は閉まっています。今年も特別公開されていたようです。不定期に😊。
この臨川寺から東に進み、高架道を渡った先に「瀬戸川」が流れてて、その川沿いに北上します。そして住宅街の路地を西に入ると、そこには「安倍晴明墓所」があるので、散歩のついでに来て見ました。
NHK大河ドラマ「光る君へ」では、安倍晴明をユースケサンタマリアさんが演じています。安倍晴明(あべのはるあきら)と呼ばれていますね。
陰陽博士安倍晴明公は、本邦昜占天文暦学の開祖にして平安朝の中期第61代天皇の朱雀天皇より第62代天皇の村上天皇、第63代天皇の冷泉天皇、第64代天皇の圓融天皇、第65代天皇の花山天皇、そして第66代天皇の一条天皇に至るまで、六代の帝に仕え、太政大臣藤原道長の信も篤かった。移り行く星雲を見て宮中の変事を豫知し遠国の動静掌中にあるが如く神道自在の妙術を得られ朝野の信望極めて斯くて、1005年(寛弘2年)9月26日嵯峨野の地で85歳で没。
嵯峨野地で没し、この地にあった天龍寺塔頭壽寧院に葬られと伝わります。その後、荒廃していたところ1972年(昭和47年)4月に神道式に改修されて建立されました。
住宅街の狭い路地にあるので、静かに出て行きました。
安倍晴明墓所を出て、再び瀬戸川沿いに出ます。北に向かって歩く右手(東側)には「長慶天皇 嵯峨東陵」があって、そこそこ規模の大きい陵墓です。
ここまで来たので、寄って行きます。長慶天皇は、宮内省による調査を経て、1926年(大正15年)に皇統加列の詔書が発布され、正式に第98代天皇として公認されたようです。
長慶天皇 嵯峨東陵
長慶天皇(ちょうけいてんのう)は、第98代天皇。1343年(興国4年/康永2年)~1394年(応永元年)。南朝第3代天皇。在位は、1368年(正平23年/応安元年)~1383年(弘和3年/永徳3年)。諱は寛成(ゆたなり)。後村上(ごむらかみ)天皇の第1皇子。母は未詳。南北朝時代の南朝側のため、在位を証する史料に乏しく、近世以来諸家の間で天皇の在位・非在位をめぐる議論があり、宮内省による調査を経て、1926年(大正15年)に皇統加列の詔書が発布され、長慶天皇の在位の事実が公認されるに至った。崩御の地は明らかでないし諸説あり。長慶天皇の別称を「慶寿院」といい、嵯峨にあった天龍寺塔頭慶寿院に基づくが、天皇が晩年ここに居住し崩御したように思われるが、これも諸説あり。皇子海門承朝(かいもんじょうちょう)が亡父天皇の菩提のために建立したものと考えられる説もある。御陵は1944年(昭和19年)天龍寺塔頭慶寿院址に決定、嵯峨東陵と名づけられた。
西向きの御陵のため、早朝では正面から朝陽が飛び込んできて、強烈な逆行です。ここは以前から知っていて、しかし長慶天皇の名に馴染みが無かったのも事実です。
その南側には「長慶天皇皇子 承朝王墓」があります。
こちらには百日紅(サルスベリ)が綺麗に咲いてました。長慶天皇皇子 承朝も調べてみましたが・・・?。
長慶天皇の第1皇子海門承朝(かいもんじょうちょう)は、南北朝合一後に落飾し、臨済宗夢窓派に属する。嵯峨慈済院に籍を置いて、空谷明応(くうこくみょうおう)に師事してその法をつぐ。京都の相国寺、南禅寺の住持となり、相国寺鹿苑院院主として僧録を司る。1443年(嘉吉3年)、朝に鹿苑院を出て天龍寺慶寿院に向かい、夜半に亡くなったという。長慶天皇の没後、父の菩提のために慶寿院を建立したと伝わり、その址地とされるのが「長慶天皇皇子 承朝王墓」とされている。
長慶天皇も南朝関係史料の少なさから、在位も確認されたのが明治になったからだそうで、しかし、陵墓の規模は大きいです。元天龍寺塔頭寺院の址らしいですね。
「長慶天皇 嵯峨東陵」の東側から出て行きました。理由は、これから嵐電に乗るためです。
「嵐電嵯峨」駅に向かっていると、四条大宮駅行きが来ました。別に急ぎじゃないので、無理に乗りません。
走れば待ってくれると思うけど、無理して乗りません。車内は、見たところガラガラのようです。
四条大宮駅の電車が発車し、踏切を渡り、四条大宮行きのホームに着きました。そこから嵐電嵐山駅方向を見ています。
向かいは「嵐電嵐山」駅のホームです。この時、7時過ぎだったので、日曜日の朝、空いてます。
暑かったけど、10分待ちました。その間に水分補給と、汗を拭いました。
待っている間に、嵐山行きの電車が入ってきました。そんなにお客さん乗ってませんね。
嵐電嵯峨で乗り、鹿王院、そして車折神社で降りました。
7時を過ぎて暑くなってきたので「車折神社」も誰も居ません。
ここで妻と待ち合わせてて、所用先で用事を済ませたあと、涼しかったら歩いて帰るか市バスで帰るか迷いましたが、定期券がある嵐電で帰ることに。妻は市バスで帰ります。
9時頃に乗りましたが、珍しく空いてました。いつもは朝早くから外国人観光客が車内を占拠?しているのに😊。
毎日暑いので、日中に運動は無理です。こうして早朝に体を動かすようにしています。
毎週、日曜日は用事があるので出掛けますが、涼しさを感じたので、何時もは市バスで行くところ、早朝に歩いて向かうことに。先ずは嵐山に寄りました。写真は有名な「渡月橋」です。
渡月橋の由来は、亀山天皇が橋の上空を渡る月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」(橋の上から夜空を眺めていると、まるで月が橋を渡っているようだった)と述べたことが名前の由来と言われています。
写真は訳あって別の日のものですが、お盆に入った日曜日の早朝では、人出は少なかったです。ご近所の方が散歩されてました。犬を連れての散歩でしょう。
s渡月橋が見える、この場所に、非公開の「臨済宗天龍寺派 臨川寺」があって、山門は閉まっています。今年も特別公開されていたようです。不定期に😊。
この臨川寺から東に進み、高架道を渡った先に「瀬戸川」が流れてて、その川沿いに北上します。そして住宅街の路地を西に入ると、そこには「安倍晴明墓所」があるので、散歩のついでに来て見ました。
NHK大河ドラマ「光る君へ」では、安倍晴明をユースケサンタマリアさんが演じています。安倍晴明(あべのはるあきら)と呼ばれていますね。
陰陽博士安倍晴明公は、本邦昜占天文暦学の開祖にして平安朝の中期第61代天皇の朱雀天皇より第62代天皇の村上天皇、第63代天皇の冷泉天皇、第64代天皇の圓融天皇、第65代天皇の花山天皇、そして第66代天皇の一条天皇に至るまで、六代の帝に仕え、太政大臣藤原道長の信も篤かった。移り行く星雲を見て宮中の変事を豫知し遠国の動静掌中にあるが如く神道自在の妙術を得られ朝野の信望極めて斯くて、1005年(寛弘2年)9月26日嵯峨野の地で85歳で没。
嵯峨野地で没し、この地にあった天龍寺塔頭壽寧院に葬られと伝わります。その後、荒廃していたところ1972年(昭和47年)4月に神道式に改修されて建立されました。
住宅街の狭い路地にあるので、静かに出て行きました。
安倍晴明墓所を出て、再び瀬戸川沿いに出ます。北に向かって歩く右手(東側)には「長慶天皇 嵯峨東陵」があって、そこそこ規模の大きい陵墓です。
ここまで来たので、寄って行きます。長慶天皇は、宮内省による調査を経て、1926年(大正15年)に皇統加列の詔書が発布され、正式に第98代天皇として公認されたようです。
長慶天皇 嵯峨東陵
長慶天皇(ちょうけいてんのう)は、第98代天皇。1343年(興国4年/康永2年)~1394年(応永元年)。南朝第3代天皇。在位は、1368年(正平23年/応安元年)~1383年(弘和3年/永徳3年)。諱は寛成(ゆたなり)。後村上(ごむらかみ)天皇の第1皇子。母は未詳。南北朝時代の南朝側のため、在位を証する史料に乏しく、近世以来諸家の間で天皇の在位・非在位をめぐる議論があり、宮内省による調査を経て、1926年(大正15年)に皇統加列の詔書が発布され、長慶天皇の在位の事実が公認されるに至った。崩御の地は明らかでないし諸説あり。長慶天皇の別称を「慶寿院」といい、嵯峨にあった天龍寺塔頭慶寿院に基づくが、天皇が晩年ここに居住し崩御したように思われるが、これも諸説あり。皇子海門承朝(かいもんじょうちょう)が亡父天皇の菩提のために建立したものと考えられる説もある。御陵は1944年(昭和19年)天龍寺塔頭慶寿院址に決定、嵯峨東陵と名づけられた。
西向きの御陵のため、早朝では正面から朝陽が飛び込んできて、強烈な逆行です。ここは以前から知っていて、しかし長慶天皇の名に馴染みが無かったのも事実です。
その南側には「長慶天皇皇子 承朝王墓」があります。
こちらには百日紅(サルスベリ)が綺麗に咲いてました。長慶天皇皇子 承朝も調べてみましたが・・・?。
長慶天皇の第1皇子海門承朝(かいもんじょうちょう)は、南北朝合一後に落飾し、臨済宗夢窓派に属する。嵯峨慈済院に籍を置いて、空谷明応(くうこくみょうおう)に師事してその法をつぐ。京都の相国寺、南禅寺の住持となり、相国寺鹿苑院院主として僧録を司る。1443年(嘉吉3年)、朝に鹿苑院を出て天龍寺慶寿院に向かい、夜半に亡くなったという。長慶天皇の没後、父の菩提のために慶寿院を建立したと伝わり、その址地とされるのが「長慶天皇皇子 承朝王墓」とされている。
長慶天皇も南朝関係史料の少なさから、在位も確認されたのが明治になったからだそうで、しかし、陵墓の規模は大きいです。元天龍寺塔頭寺院の址らしいですね。
「長慶天皇 嵯峨東陵」の東側から出て行きました。理由は、これから嵐電に乗るためです。
「嵐電嵯峨」駅に向かっていると、四条大宮駅行きが来ました。別に急ぎじゃないので、無理に乗りません。
走れば待ってくれると思うけど、無理して乗りません。車内は、見たところガラガラのようです。
四条大宮駅の電車が発車し、踏切を渡り、四条大宮行きのホームに着きました。そこから嵐電嵐山駅方向を見ています。
向かいは「嵐電嵐山」駅のホームです。この時、7時過ぎだったので、日曜日の朝、空いてます。
暑かったけど、10分待ちました。その間に水分補給と、汗を拭いました。
待っている間に、嵐山行きの電車が入ってきました。そんなにお客さん乗ってませんね。
嵐電嵯峨で乗り、鹿王院、そして車折神社で降りました。
7時を過ぎて暑くなってきたので「車折神社」も誰も居ません。
ここで妻と待ち合わせてて、所用先で用事を済ませたあと、涼しかったら歩いて帰るか市バスで帰るか迷いましたが、定期券がある嵐電で帰ることに。妻は市バスで帰ります。
9時頃に乗りましたが、珍しく空いてました。いつもは朝早くから外国人観光客が車内を占拠?しているのに😊。
毎日暑いので、日中に運動は無理です。こうして早朝に体を動かすようにしています。
この記事へのコメント
安倍晴明は、当時として信じられな程、高齢だったでしょう。
それだけでカリスマ性があったのではないでしょうか。
ちょっと新しめの墓石には違和感がありますが、偉大な存在であったことが伺われます。
長慶天皇は、南北朝時代の南朝の天皇でしか。ちょっと思い浮かびませんでした。それでも、朝の天皇廟の風景は、上品さと威厳を感じます。
今年の残暑は厳しいですし、8月は大変暑かったです。京都の年間猛暑日記録をただいま更新中です。
そんな暑い京都でも、海外の方は来られます。それも早朝から。こんなに暑いのに、楽しめないでしょう・・・と思ってしまいます。
そんな暑いなか、早朝に行ける天皇陵に行ったわけです。