大化の改新で有名な「天智天皇 山科陵(御廟野古墳)」へ
8月14日(水)は、和尚さんにお経をあげに来て貰ってます(棚経)。毎年、6時に来られるので、家を5時30分に出ました。この日は早朝でも暑かったです。あとで調べると、この日の最低気温は26.7℃もありました。台風が南海上にいくつも発生したので、湿った南風が吹き込んだんでしょう。参考までに最高気温は、37.9℃まで上がり、大変暑い一日でした。
和尚さんは忙しいので、直ぐに帰られたので、私は妻に太秦天神川まで送って貰い(お盆の期間は日曜ダイヤルのためバスは、この時間ではありません)ました。
天神川を6時39分発の六地蔵行きに乗れました。車内はガラガラでしたね、目的地の御陵駅に着くまでは・・・。
地下鉄東西線「御陵」駅に着きました。事前に調べて2番出入口から地上に上がります。この駅の利用は、2022年(令和4年)10月11日に西国番外札所の元慶寺に行った時、以来です。
ここは京都市山科区ですが、三条通りを東に進みます。約5分で目的地に着きました。
この日の目的地は、「天智天皇 山科陵(御廟野古墳)」です。以前から気になってましたが、やっと来られました。歴史の教科書では必ず習う「大化の改新」で、この時は、中大兄皇子でしたが。天智天皇についても調べました。
天智天皇(てんじてんのう)は、第38代天皇。626年(推古天皇34年)~671年(天智天皇10年)。在位は、668年(天智天皇7年)~671年(天智天皇10年)。諱は葛城(かづらき)。皇子時代の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/なかのおおえのみこ)の名でも知られる。
天智天皇を知る上で、第34代から第40代天皇の名を並べてみました。第35代と第37代は同一人物です。
舒明天皇(じょめいてんのう)(第34代天皇)、皇極天皇(こうぎょくてんのう)(第35代天皇)、孝徳天皇(第36代天皇)、孝徳天皇(第36代天皇)、斉明天皇(第37代天皇)、天智天皇(第38代天皇)、弘文天皇(第39代天皇)、天武天皇(第40代天皇)。
御陵駅から歩いて5分で、「天智天皇 山科陵」の入口に着きました。この時、7時5分でしたが、今日は朝から暑いです。山科区も同様でした。
ここから御陵まで、緩やかな坂道を歩いて行きます。暑いからでしょう、ご近所の方が散歩されてました。
この御陵は、天智天皇(中大兄皇子)の古墳。古墳時代終末期のもので、正八角形の形をしている。一説によれば、天智天皇は山科の森へ狩猟に出かけてから消息不明になり、沓が発見された場所に墓が築かれたという。山々の緑に覆われた一帯は静かで神聖な雰囲気があり。参拝所までは、一本道が整備されている。
入口から綺麗に整備された一本道を歩いて行きます。写真では分からないでしょうけど、緩やかに登っています。
途中で、中門がありましたが、そこからも長かったです。入口から5分、7時10分に着きました。規模の大きい古墳ですね。
天智天皇は、舒明天皇(じょめいてんのう)(第34代天皇)の第二皇子。母は皇極天皇(こうぎょくてんのう)(第35代天皇)(重祚して斉明天皇・第37代天皇)。645年(皇極天皇4年)、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターの「乙巳の変(いっしのへん)」を起こす。これは、聖徳太子が亡くなってから、豪族の蘇我入鹿が力を持ち、天皇さえもしのごうとしたから。これにより、蘇我一族の勢力はおとろえました。この事件のあと天皇が治める新しい政治の仕組みをつくることをめざしまし、そしてこの年、中国にならって、初めて、「大化(たいか)」という年号を定めました。この改革を、後に「大化の改新」といいました。先帝の斉明天皇が661年(斉明天皇7年)に崩御したあと、長い間、皇太子のまま過ごした中大兄皇子でしたが、668年(天智天皇7年)、それまで数々の天皇の皇居であった「飛鳥宮」から「近江大津宮」に遷都し即位しました。そのわけは・・・?
唐と新羅の連合軍によって、攻め込まれた百済。その百済を救おうと古代日本が海を渡って出兵した戦い、戦いの舞台が朝鮮半島の西側にある「白村江」という川だったので、「白村江の戦い」と呼ばれている。この当時、朝鮮半島では高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)の3国が互いに争っていました。660年(斉明天皇6年)に百済が大軍の侵略をうけ滅亡します。中大兄皇子は百済復興軍を支援するために朝鮮半島に派兵。日本にいた百済王子・扶余豊璋(ふようほうしょう)を百済王に擁立したいと援軍要請を受けてのことでした。結果は歴史に残る大惨敗を喫しました。この戦いのあと唐軍の侵入を防ぐ水城と山城を構築。さらに都を飛鳥から近江大津宮に国土防衛のため遷都したわけです。
668年(天智天皇7年)には日本初の体系的な法典「近江令」が、670年(天智天皇9年)には日本初の全国的な戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」が完成し、年貢の量を正しく確認したり、より多くの兵を動員したりできるようになりました。しかし、天智天皇は翌671年(天智10年)に病死。享年45歳でした。一説では、天智天皇は山中で行方不明になったとも。天智天皇は生前、天皇を中心とした中央集権体制の強化を進めました。天智天皇が行った数々の改革は革新的であり、国家の礎を築く重要な取り組みでしたが、急激な改革は有力な豪族や人民を疲弊させ、人々の間に不満が募っていきます。天智天皇崩御後の672年(弘文元年)皇位継承を巡って、天智天皇の嫡男であり、天智天皇が後継者に望んでいた 大友皇子(おおとものおうじ)と、天智天皇の弟大海人皇子(おおあまのおうじ)が対立。天智天皇の政治に不満を持っていた豪族達は大海人皇子の味方となり、大友皇子は敗北しました。この争いは「壬申の乱(じんしんのらん)」と呼ばれている。壬申の乱により近江大津宮は廃絶となりました。勝利した大海人皇子は、673年(天武2年)に「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)」で第40代天皇の天武天皇として即位します。
第39代天皇は、弘文天皇と言われてます。壬申の乱で敗れた大友皇子が即位したとか、ただ即位したと確証はないらしい。1870年(明治3年)に第39代天皇として追諡されました。
早朝でも、他の人も来られてました。私は、今日はここだけのため来たので、これから駅へ戻ります。
帰りはゆっくり歩いたので、7分かかりました。早朝でも暑かったです。
行きのとき、気づかずにスルーしていて、日時計がありました。天智天皇が日本で最初の水時計を作ったと伝わることから作られたそうです。「近江神宮」でもあったので見てました。
この「天智天皇 山科陵(御廟野古墳)」は、琵琶湖疎水船に乗って、裏手を見てました。暑いので、御陵駅まで歩きですが、ゆっくり歩きます。
帰りは6分かかりました。7時34分発の太秦天神川行きの電車に乗ることができました。
駅に着いた電車を見たら、驚いたことに人で一杯です。もちろん座れません。お盆の期間中は、日曜ダイヤのため、ある程度の混雑は覚悟してましたが。そして太秦天神川に着くと、真っ直ぐ帰らずに、所用先に向かうので、嵐電を使います。いつもなら、この時間の嵐電は2両編成ですが、日曜ダイヤのため1車両です。それで嵐電も混んでました。
最後に、天智天皇の中大兄皇子と、その立役者である中臣鎌足は、「大化の改新」の功績がみとめられ、「藤原」という格式のある姓をもらいます。その子孫は代々貴族として栄えました。NHK大河ドラマ「光る君へ」では、藤原氏の最盛期が描かれています。
和尚さんは忙しいので、直ぐに帰られたので、私は妻に太秦天神川まで送って貰い(お盆の期間は日曜ダイヤルのためバスは、この時間ではありません)ました。
天神川を6時39分発の六地蔵行きに乗れました。車内はガラガラでしたね、目的地の御陵駅に着くまでは・・・。
地下鉄東西線「御陵」駅に着きました。事前に調べて2番出入口から地上に上がります。この駅の利用は、2022年(令和4年)10月11日に西国番外札所の元慶寺に行った時、以来です。
ここは京都市山科区ですが、三条通りを東に進みます。約5分で目的地に着きました。
この日の目的地は、「天智天皇 山科陵(御廟野古墳)」です。以前から気になってましたが、やっと来られました。歴史の教科書では必ず習う「大化の改新」で、この時は、中大兄皇子でしたが。天智天皇についても調べました。
天智天皇(てんじてんのう)は、第38代天皇。626年(推古天皇34年)~671年(天智天皇10年)。在位は、668年(天智天皇7年)~671年(天智天皇10年)。諱は葛城(かづらき)。皇子時代の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/なかのおおえのみこ)の名でも知られる。
天智天皇を知る上で、第34代から第40代天皇の名を並べてみました。第35代と第37代は同一人物です。
舒明天皇(じょめいてんのう)(第34代天皇)、皇極天皇(こうぎょくてんのう)(第35代天皇)、孝徳天皇(第36代天皇)、孝徳天皇(第36代天皇)、斉明天皇(第37代天皇)、天智天皇(第38代天皇)、弘文天皇(第39代天皇)、天武天皇(第40代天皇)。
御陵駅から歩いて5分で、「天智天皇 山科陵」の入口に着きました。この時、7時5分でしたが、今日は朝から暑いです。山科区も同様でした。
ここから御陵まで、緩やかな坂道を歩いて行きます。暑いからでしょう、ご近所の方が散歩されてました。
この御陵は、天智天皇(中大兄皇子)の古墳。古墳時代終末期のもので、正八角形の形をしている。一説によれば、天智天皇は山科の森へ狩猟に出かけてから消息不明になり、沓が発見された場所に墓が築かれたという。山々の緑に覆われた一帯は静かで神聖な雰囲気があり。参拝所までは、一本道が整備されている。
入口から綺麗に整備された一本道を歩いて行きます。写真では分からないでしょうけど、緩やかに登っています。
途中で、中門がありましたが、そこからも長かったです。入口から5分、7時10分に着きました。規模の大きい古墳ですね。
天智天皇は、舒明天皇(じょめいてんのう)(第34代天皇)の第二皇子。母は皇極天皇(こうぎょくてんのう)(第35代天皇)(重祚して斉明天皇・第37代天皇)。645年(皇極天皇4年)、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターの「乙巳の変(いっしのへん)」を起こす。これは、聖徳太子が亡くなってから、豪族の蘇我入鹿が力を持ち、天皇さえもしのごうとしたから。これにより、蘇我一族の勢力はおとろえました。この事件のあと天皇が治める新しい政治の仕組みをつくることをめざしまし、そしてこの年、中国にならって、初めて、「大化(たいか)」という年号を定めました。この改革を、後に「大化の改新」といいました。先帝の斉明天皇が661年(斉明天皇7年)に崩御したあと、長い間、皇太子のまま過ごした中大兄皇子でしたが、668年(天智天皇7年)、それまで数々の天皇の皇居であった「飛鳥宮」から「近江大津宮」に遷都し即位しました。そのわけは・・・?
唐と新羅の連合軍によって、攻め込まれた百済。その百済を救おうと古代日本が海を渡って出兵した戦い、戦いの舞台が朝鮮半島の西側にある「白村江」という川だったので、「白村江の戦い」と呼ばれている。この当時、朝鮮半島では高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)の3国が互いに争っていました。660年(斉明天皇6年)に百済が大軍の侵略をうけ滅亡します。中大兄皇子は百済復興軍を支援するために朝鮮半島に派兵。日本にいた百済王子・扶余豊璋(ふようほうしょう)を百済王に擁立したいと援軍要請を受けてのことでした。結果は歴史に残る大惨敗を喫しました。この戦いのあと唐軍の侵入を防ぐ水城と山城を構築。さらに都を飛鳥から近江大津宮に国土防衛のため遷都したわけです。
668年(天智天皇7年)には日本初の体系的な法典「近江令」が、670年(天智天皇9年)には日本初の全国的な戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」が完成し、年貢の量を正しく確認したり、より多くの兵を動員したりできるようになりました。しかし、天智天皇は翌671年(天智10年)に病死。享年45歳でした。一説では、天智天皇は山中で行方不明になったとも。天智天皇は生前、天皇を中心とした中央集権体制の強化を進めました。天智天皇が行った数々の改革は革新的であり、国家の礎を築く重要な取り組みでしたが、急激な改革は有力な豪族や人民を疲弊させ、人々の間に不満が募っていきます。天智天皇崩御後の672年(弘文元年)皇位継承を巡って、天智天皇の嫡男であり、天智天皇が後継者に望んでいた 大友皇子(おおとものおうじ)と、天智天皇の弟大海人皇子(おおあまのおうじ)が対立。天智天皇の政治に不満を持っていた豪族達は大海人皇子の味方となり、大友皇子は敗北しました。この争いは「壬申の乱(じんしんのらん)」と呼ばれている。壬申の乱により近江大津宮は廃絶となりました。勝利した大海人皇子は、673年(天武2年)に「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)」で第40代天皇の天武天皇として即位します。
第39代天皇は、弘文天皇と言われてます。壬申の乱で敗れた大友皇子が即位したとか、ただ即位したと確証はないらしい。1870年(明治3年)に第39代天皇として追諡されました。
早朝でも、他の人も来られてました。私は、今日はここだけのため来たので、これから駅へ戻ります。
帰りはゆっくり歩いたので、7分かかりました。早朝でも暑かったです。
行きのとき、気づかずにスルーしていて、日時計がありました。天智天皇が日本で最初の水時計を作ったと伝わることから作られたそうです。「近江神宮」でもあったので見てました。
この「天智天皇 山科陵(御廟野古墳)」は、琵琶湖疎水船に乗って、裏手を見てました。暑いので、御陵駅まで歩きですが、ゆっくり歩きます。
帰りは6分かかりました。7時34分発の太秦天神川行きの電車に乗ることができました。
駅に着いた電車を見たら、驚いたことに人で一杯です。もちろん座れません。お盆の期間中は、日曜ダイヤのため、ある程度の混雑は覚悟してましたが。そして太秦天神川に着くと、真っ直ぐ帰らずに、所用先に向かうので、嵐電を使います。いつもなら、この時間の嵐電は2両編成ですが、日曜ダイヤのため1車両です。それで嵐電も混んでました。
最後に、天智天皇の中大兄皇子と、その立役者である中臣鎌足は、「大化の改新」の功績がみとめられ、「藤原」という格式のある姓をもらいます。その子孫は代々貴族として栄えました。NHK大河ドラマ「光る君へ」では、藤原氏の最盛期が描かれています。
この記事へのコメント
凄いですね。さすが、広く知られた
天智天皇ならではと思いました。
天智・天武・持統天皇と続く時代は、
日本の古代国家の原形が整った頃。
額田王など万葉歌でも同じみなだけに、
親しみを覚えます。なるほど立派な古墳ですね。
今年の夏の暑さは異常で、この日も早朝に出掛けたのに、もう暑くて暑くて、けっこう大きな規模の古墳でした。
以前、疎水船にのって、この御陵の背後か見てました。
教科書では中大兄皇子で習ったように、歴史的に有名ですよね。
ただ、ここに来て晩年のことも知りました。
この辺りで行方不明になったとか、まだまだ古代史については知らないことが多いです。