真夏の真如堂と「陽成天皇 神楽岡東陵」「後一條天皇 菩提樹院陵」へ
京都円山駐車場を6時36分に出て、東大路通りを北上します。丸太町通りまで北上し、そこで右折し丸太町通りを東へ進むと、最初の信号がある岡崎道を左折し、再び北上すると突き当たるので、右折します。そのまま進むと金戒光明寺に入るので、「高麗門」の手前を左折し道なりに北上、道幅は狭いけど早朝なら車は少ないので大丈夫でした。そして真正極楽寺(真如堂)の「赤門」手前にある、「三井のリパーク真正極楽寺真如堂」に6時49分に車を入れました。
この日の目的は、NHK大河ドラマ「光る君へ」で現在は、一条天皇の時代ですが、次は三条天皇が即位します。演者も木村達成さんに決まっています。その三条天皇の次が、後一条天皇です。その後一条天皇の演者は、まだ発表されていません。主役が紫式部のため、この時代のことをどう描かれるか楽しみです。この後一条天皇の御陵が、真如堂の近くにあって、その側に陽成天皇の御陵もあったので、あわせて来て見たわけです。
真如堂「赤門」から、境内に入らずに、先ずは赤門からまっすぐに西に向かって歩きます。
赤門から都母1分ぐらいの所あった「陽成天皇 神楽岡東陵」です。私は後陽成天皇(第107代天皇)は知ってましたが、陽成天皇は調べました。
陽成天皇(ようぜいてんのう)は、第57代天皇。869年(貞観10年)~ 949年(天暦3年)。在位は、876年(貞観18年)~ 884年(元慶8年)。諱は貞明(さだあきら)。清和天皇(第56代天皇)の第一皇子。母は摂政藤原基経の妹藤原高子。乳児の頃に皇太子となり、876年(貞観18年)に、父清和天皇から9歳で譲位され即位。摂政藤原基経が政務と取り仕切ることに。在位の初めは、藤原基経との関係は良好でしたが、882年(元慶6年)に15歳となった陽成天皇が元服の儀を終える頃には、陽成天皇と藤原基経は激しく対立するようになったのです。そして883年(元慶7年)には藤原基経は出仕を拒否するようになり、私邸に引きこもって一切政務を執らず、政局を混乱させていきます。両者の対立が決定的になったきっかけは、883年(元慶7年)11月、宮中で起きた殺人事件。陽成天皇の乳母である紀全子(きのまたこ)の子源益(みなもとのみつ)が、陽成天皇のそばに控えている殿上で、何者かに殴殺される事件が起こる。一連の事件を受け、藤原基経は「風紀を乱している」として陽成天皇に退位を迫り、884年(元慶8年)、陽成天皇は藤原基経の擁立した光孝天皇(第58代天皇)へ譲位することになりました。この時、17歳で、在位期間はたったの8年でした。若くして上皇となった陽成天皇は、退位してからも乱行が目立っていきます。このように傍若無人だった陽成天皇ですが、老境に差しかかる頃には5人の妃と6人の親王・内親王に恵まれ、豊かな晩年を過ごしました。949年(天暦3年)には、当時としては異例の82歳で大往生を遂げ、「神楽岡東陵」に埋葬されたのです。上皇歴65年は歴代1位で、2位の後水尾上皇の50年を大きく引き離す。宇多天皇(第59代天皇)の次代の醍醐天皇(第60代天皇)よりも長生きし、さらに続く朱雀天皇(第61代天皇)、村上天皇(第62代天皇)と光孝天皇(第58代天皇)の系統による皇位継承も見届けた。





赤門から近かったです。周りが住宅街に囲まれてて、ここも何回か通ってました。
そして、そのまま西に進み宗忠神社に寄って行きます。ただ、上には登りません。ここは春の桜で有名で、私も見に来たことがあります。



ここの狛犬が珍しい備前焼の「逆立ちした狛犬」があるので、これだけ撮っておきました。
宗忠神社から見た風景です。正面が真如堂の「赤門」が、左手に「陽成天皇 神楽岡東陵」が見えています。
ここから北に向かって歩いて行きます。左手の坂を登って行くと、吉田神社に出ることができます。その先に目的地が見えています。
その先の一段高いところにあるのが「後一條天皇 菩提樹院陵」です。
後一条天皇(ごいちじょうてんのう)は、第68代天皇。1008年(寛弘5年)~1036年(長元9年)。在位は、1016年(長和5年)~1036年(長元9年)。諱は敦成(あつひら)。一条天皇(第66代天皇)(演:塩野瑛久)の第二皇子。母は藤原道長娘上東門院彰子(演:見上愛)。同母弟に後朱雀天皇(第69代天皇)。当初三条天皇(第67代天皇、演:木村達成)は、第一皇子の敦明親王を皇太子に立てたが、藤原道長(演:柄本佑)の圧力の前に自ら皇太子の身位を辞退し、敦良親王(後の後一条天皇)を皇太子とした。1016年(長和5年)三条天皇の譲位により即位。8歳で即位したので、藤原道長が摂政となり、のちに長男頼道に摂政を譲り、関白となって権勢をふるうことに。藤原道長の三女藤原威子(いし)を中宮としたが、世継ぎの皇子には恵まれぬまま、数え29歳で崩御した。遺詔により喪を秘して弟の敦良親王への譲位(後の後朱雀天皇)の儀を行ったとされる。その後に上皇としての葬儀が行われた。








この時は、後一條天皇の陵墓と思ってきました。ただ、ここに来て「後冷泉天皇中宮章子内親王 菩提樹院陵」と石碑に書いてあるのが分かりました。後冷泉天皇中宮章子内親王って誰?。こちらも帰ってから調べることになりました😂。
後冷泉天皇中宮章子内親王は、後一条天皇(第68代天皇)の第一皇女。1027年(万寿4年)~1105年(長治2年)。母は藤原道長三女・藤原威子(いし)。後冷泉天皇(第70代天皇)中宮、女院。院号は二条院(にじょういん)。1037年(長暦元年)、12歳で皇太子親仁親王(のちの後冷泉天皇)に入内。1068年(治暦4年)後冷泉天皇崩御。太皇太后となり、1074年(延久6年)、院号宣下を受けて以後二条院と称する。1105年(長治2年)崩御。享年80歳。陵墓は、は父後一条天皇と同じ「菩提樹院陵」。
そして後冷泉天皇のことも簡単に調べました。
後冷泉天皇(第70代天皇)は、後朱雀天皇(第69代天皇)の皇子。1025年(万寿2年)~1068年(治暦4年)。在位は1045年(寛徳2年)~1068年(治暦4年)。母は藤原道長の六女・藤原嬉子(きし) 。1055年(天喜3年)新立の荘園を停止させるなど政治の刷新を行ったが、藤原頼通が関白として実権を握っていた時代。平安時代後期の陸奥国(東北地方)で起こった戦い「前九年の役」で、地方政治は乱れ、治安が悪化した。後冷泉天皇の崩御により、異母弟で藤原氏を直接の外戚としない後三条天皇が(宇多天皇以来190年ぶりに)即位することになる。
現在放送中のNHK大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道長(演:柄本佑)は、左大臣です。道長の長男藤原 頼通(演:大野 遥斗くん)は、まだ子供。一条天皇(演:塩野 瑛久)の第一皇子で、母は藤原定子(演:高畑充希)。敦康親王(あつやすしんのう)を池田 旭陽くんが演じています。藤原道長、頼道と藤原氏最盛期をこれから迎えるわけですね。
ここに車を停めているので、再び「赤門」まで戻って来ました。これから境内を散策します。



真如堂の境内は、春には桜。秋には紅葉が見事です。拝観料も要らないので、散策には良いですね。
真如堂のご本尊は、11月15日にだけ公開されます。私は昨年に「年に一度の特別拝観」でお参りしました。





「赤門」を出たところで、正面を見ると「宗忠神社」が見えます。「陽成天皇 神楽岡東陵」は、その手前の右手(北側)にあります。
「三井のリパーク真正極楽寺真如堂」に戻り精算すると6時49分~7時10分で、100円でした。ここから今出川通りに出て、実家に寄ってから帰りました。
この日の目的は、NHK大河ドラマ「光る君へ」で現在は、一条天皇の時代ですが、次は三条天皇が即位します。演者も木村達成さんに決まっています。その三条天皇の次が、後一条天皇です。その後一条天皇の演者は、まだ発表されていません。主役が紫式部のため、この時代のことをどう描かれるか楽しみです。この後一条天皇の御陵が、真如堂の近くにあって、その側に陽成天皇の御陵もあったので、あわせて来て見たわけです。

赤門から都母1分ぐらいの所あった「陽成天皇 神楽岡東陵」です。私は後陽成天皇(第107代天皇)は知ってましたが、陽成天皇は調べました。
陽成天皇(ようぜいてんのう)は、第57代天皇。869年(貞観10年)~ 949年(天暦3年)。在位は、876年(貞観18年)~ 884年(元慶8年)。諱は貞明(さだあきら)。清和天皇(第56代天皇)の第一皇子。母は摂政藤原基経の妹藤原高子。乳児の頃に皇太子となり、876年(貞観18年)に、父清和天皇から9歳で譲位され即位。摂政藤原基経が政務と取り仕切ることに。在位の初めは、藤原基経との関係は良好でしたが、882年(元慶6年)に15歳となった陽成天皇が元服の儀を終える頃には、陽成天皇と藤原基経は激しく対立するようになったのです。そして883年(元慶7年)には藤原基経は出仕を拒否するようになり、私邸に引きこもって一切政務を執らず、政局を混乱させていきます。両者の対立が決定的になったきっかけは、883年(元慶7年)11月、宮中で起きた殺人事件。陽成天皇の乳母である紀全子(きのまたこ)の子源益(みなもとのみつ)が、陽成天皇のそばに控えている殿上で、何者かに殴殺される事件が起こる。一連の事件を受け、藤原基経は「風紀を乱している」として陽成天皇に退位を迫り、884年(元慶8年)、陽成天皇は藤原基経の擁立した光孝天皇(第58代天皇)へ譲位することになりました。この時、17歳で、在位期間はたったの8年でした。若くして上皇となった陽成天皇は、退位してからも乱行が目立っていきます。このように傍若無人だった陽成天皇ですが、老境に差しかかる頃には5人の妃と6人の親王・内親王に恵まれ、豊かな晩年を過ごしました。949年(天暦3年)には、当時としては異例の82歳で大往生を遂げ、「神楽岡東陵」に埋葬されたのです。上皇歴65年は歴代1位で、2位の後水尾上皇の50年を大きく引き離す。宇多天皇(第59代天皇)の次代の醍醐天皇(第60代天皇)よりも長生きし、さらに続く朱雀天皇(第61代天皇)、村上天皇(第62代天皇)と光孝天皇(第58代天皇)の系統による皇位継承も見届けた。






そして、そのまま西に進み宗忠神社に寄って行きます。ただ、上には登りません。ここは春の桜で有名で、私も見に来たことがあります。






その先の一段高いところにあるのが「後一條天皇 菩提樹院陵」です。
後一条天皇(ごいちじょうてんのう)は、第68代天皇。1008年(寛弘5年)~1036年(長元9年)。在位は、1016年(長和5年)~1036年(長元9年)。諱は敦成(あつひら)。一条天皇(第66代天皇)(演:塩野瑛久)の第二皇子。母は藤原道長娘上東門院彰子(演:見上愛)。同母弟に後朱雀天皇(第69代天皇)。当初三条天皇(第67代天皇、演:木村達成)は、第一皇子の敦明親王を皇太子に立てたが、藤原道長(演:柄本佑)の圧力の前に自ら皇太子の身位を辞退し、敦良親王(後の後一条天皇)を皇太子とした。1016年(長和5年)三条天皇の譲位により即位。8歳で即位したので、藤原道長が摂政となり、のちに長男頼道に摂政を譲り、関白となって権勢をふるうことに。藤原道長の三女藤原威子(いし)を中宮としたが、世継ぎの皇子には恵まれぬまま、数え29歳で崩御した。遺詔により喪を秘して弟の敦良親王への譲位(後の後朱雀天皇)の儀を行ったとされる。その後に上皇としての葬儀が行われた。









後冷泉天皇中宮章子内親王は、後一条天皇(第68代天皇)の第一皇女。1027年(万寿4年)~1105年(長治2年)。母は藤原道長三女・藤原威子(いし)。後冷泉天皇(第70代天皇)中宮、女院。院号は二条院(にじょういん)。1037年(長暦元年)、12歳で皇太子親仁親王(のちの後冷泉天皇)に入内。1068年(治暦4年)後冷泉天皇崩御。太皇太后となり、1074年(延久6年)、院号宣下を受けて以後二条院と称する。1105年(長治2年)崩御。享年80歳。陵墓は、は父後一条天皇と同じ「菩提樹院陵」。
そして後冷泉天皇のことも簡単に調べました。
後冷泉天皇(第70代天皇)は、後朱雀天皇(第69代天皇)の皇子。1025年(万寿2年)~1068年(治暦4年)。在位は1045年(寛徳2年)~1068年(治暦4年)。母は藤原道長の六女・藤原嬉子(きし) 。1055年(天喜3年)新立の荘園を停止させるなど政治の刷新を行ったが、藤原頼通が関白として実権を握っていた時代。平安時代後期の陸奥国(東北地方)で起こった戦い「前九年の役」で、地方政治は乱れ、治安が悪化した。後冷泉天皇の崩御により、異母弟で藤原氏を直接の外戚としない後三条天皇が(宇多天皇以来190年ぶりに)即位することになる。
現在放送中のNHK大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道長(演:柄本佑)は、左大臣です。道長の長男藤原 頼通(演:大野 遥斗くん)は、まだ子供。一条天皇(演:塩野 瑛久)の第一皇子で、母は藤原定子(演:高畑充希)。敦康親王(あつやすしんのう)を池田 旭陽くんが演じています。藤原道長、頼道と藤原氏最盛期をこれから迎えるわけですね。





真如堂のご本尊は、11月15日にだけ公開されます。私は昨年に「年に一度の特別拝観」でお参りしました。






「三井のリパーク真正極楽寺真如堂」に戻り精算すると6時49分~7時10分で、100円でした。ここから今出川通りに出て、実家に寄ってから帰りました。
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