奥嵯峨散策「後龜山天皇 嵯峨小倉陵」へ
8月18日(日)は、用事があるので、7時過ぎには家を出る予定でしたが、まだ涼しい間に、行ってみたいところがあるので、早朝に家を出ました。
台風の影響でしょうか、8月16日(金)に最高気温が32.9℃と8月に入って3度目の猛暑日から開放。翌日の17日(土)にも33.4℃と猛暑日にはなりませんでした。それで、早朝に家を出たときのに思ったのは涼しいでした。これなら目的地まで、楽に歩けるかなぁ・・・と。
目的地は、「後龜山天皇 嵯峨小倉陵」でした。8月16日(土)に、この前を通りましたが、護摩木が目的だったので、寄らなかったので、この日再訪したわけです。
清滝街道から愛宕街道を歩きます。お盆の期間中は行列ができていた「森嘉豆腐」です。17日(土)~23日(金)まで夏季休暇と書いてありました。
今日は清涼寺(嵯峨釈迦堂)の境内を通りません。なるべく日陰を歩きたかったから。
次に「宝筐院」の前を通りました。


16日(金)も開いていた「慈眼堂」は、この日も開いてました。地蔵盆でもされるかなぁ・・・と思い通過。
秋には見事な紅葉となる「二尊院」ですが、早朝のため閉まってます。ただ、外国人観光客居ましたね。

この先を真っ直ぐ進むと「祇王寺」と「滝口寺」に行けます。石標も建っているので迷うことは無いでしょう。

その先には、夏季休館中の「京都さがの 人形の家」9月14日より再開されると書いてありました。
そして、登り坂を歩き続けて、やっと「後龜山天皇 嵯峨小倉陵」の入口に着きました。
ここには調べると2度来てました。2011年(平成23年)2月26日と紅葉が綺麗だった2011年(平成23年)12月4日でした。すっかり忘れてましたが。
後亀山天皇(ごかめやまてんのう)は、第99代天皇・南朝4代天皇。北朝を擁護する室町幕府第3代将軍足利義満が提示した講和条件を受諾して、三種の神器を北朝の後小松天皇(第100代天皇・北朝第6代天皇)に伝えて、南北朝合一を実現した。1350年(正平5年)~1424年(応永31年)。在位は、1383年(弘和3年/永徳3年)~1392年(元中9年/明徳3年)。諱は熙成(ひろなり)。長らく皇位が否定されてきたが、1911年(明治44年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇に加えられることとなった。後村上天皇(第97代天皇/南朝第2代天皇)の第2皇子。母は嘉喜門院藤原勝子。同母兄長慶天皇の譲位を受け即位。当時南朝方の勢威は地に落ち、もはや回復の期待も失われ、朝廷では和平派が力を得、北朝方も多年の兵乱に苦しみ和平を望んでいた。1392年(元中9年/明徳3年)室町幕府第3代将軍足利義満の側から和平の勧説があり、南朝の正統性の承認、以後の両統迭立などを条件として両朝の合一がはかられた。よって天皇は吉野より京都の大覚寺へ還幸、三種の神器を北朝後小松天皇に伝え、後小松天皇の土御門内裏に移された。ここに南北朝時代は終わり南北朝合一が実現した。天皇は太上天皇の尊号を受け嵯峨大覚寺を仙洞として住した。しかし、義満の没後,武家側の待遇も悪く、和平条件は履行されず、1410年(応永 17年)突如嵯峨を出奔して吉野に潜幸し、次いで伊勢国司北畠満雅の挙兵もあり、南朝再興の動きも盛んとなったが、1422年(応永29年)和議が成立し、翌年幕府の請によって帰洛し、晩年は大覚寺で過ごした。
「後龜山天皇 嵯峨小倉陵 参拝道」と書かれた石碑が建っています。それでは奥に進みます。



下は砂利道、緩やかに登って行くので歩きづらいです。それに、足が疲れて来てました。





長いこと来て無かったので、すっかり忘れてました。今日は帰りのバスの時刻だけ見てきたので、それに間に合うように、ここを出ます。





この石碑に書いてある「清和天皇 水尾山陵」は、柚子で有名な水尾にあるのは知ってます。「檀林皇后陵」は探しても、地図に載ってません。清滝の山の中らしいけど。
16日(金)に「護摩木奉納」した所まで来ました。この先に「化野念仏寺」や「愛宕念仏寺」があります。今日は行きません。

この路地の突き当たりの右手には瀬戸内寂聴さんゆかりの「寂庵」があります。私は入ったことがありません、
朝陽が登って来て、暑くなってきました。汗が噴き出てきます。

「瀬戸川」沿いから見た「曼荼羅山」そして「鳥居形」です。



この「瀬戸川」は、ここから下って、嵯峨小学校の東側を流れ、そして「安倍晴明墓所」の近くから桂川に流れていきます。
清滝街道に出ました。ここからも「鳥居形」綺麗に見えます。16日(金)は人が多かったでしょう。
7時過ぎに京都バス「大覚寺道」バス停に着きました。ここは日陰で涼しかったです。
7時15分発でしたが、ほぼ時間通り来ました。




三条京阪行きですが、京都バスは嵐山を経由します。いったん阪急嵐山駅に入るため、市バスに比べて遠回りですが、清滝方面は京都バスしか走ってないので仕方無いです。
余談ですが、平日なら中辻通りを通るので、嵐電の定期を持っている私は、そこで乗り換えしたかったけど、土曜と日曜は高架道を通るので、中辻通りは通りません。今日は、これだけで帰りました。
台風の影響でしょうか、8月16日(金)に最高気温が32.9℃と8月に入って3度目の猛暑日から開放。翌日の17日(土)にも33.4℃と猛暑日にはなりませんでした。それで、早朝に家を出たときのに思ったのは涼しいでした。これなら目的地まで、楽に歩けるかなぁ・・・と。
目的地は、「後龜山天皇 嵯峨小倉陵」でした。8月16日(土)に、この前を通りましたが、護摩木が目的だったので、寄らなかったので、この日再訪したわけです。











そして、登り坂を歩き続けて、やっと「後龜山天皇 嵯峨小倉陵」の入口に着きました。

後亀山天皇(ごかめやまてんのう)は、第99代天皇・南朝4代天皇。北朝を擁護する室町幕府第3代将軍足利義満が提示した講和条件を受諾して、三種の神器を北朝の後小松天皇(第100代天皇・北朝第6代天皇)に伝えて、南北朝合一を実現した。1350年(正平5年)~1424年(応永31年)。在位は、1383年(弘和3年/永徳3年)~1392年(元中9年/明徳3年)。諱は熙成(ひろなり)。長らく皇位が否定されてきたが、1911年(明治44年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇に加えられることとなった。後村上天皇(第97代天皇/南朝第2代天皇)の第2皇子。母は嘉喜門院藤原勝子。同母兄長慶天皇の譲位を受け即位。当時南朝方の勢威は地に落ち、もはや回復の期待も失われ、朝廷では和平派が力を得、北朝方も多年の兵乱に苦しみ和平を望んでいた。1392年(元中9年/明徳3年)室町幕府第3代将軍足利義満の側から和平の勧説があり、南朝の正統性の承認、以後の両統迭立などを条件として両朝の合一がはかられた。よって天皇は吉野より京都の大覚寺へ還幸、三種の神器を北朝後小松天皇に伝え、後小松天皇の土御門内裏に移された。ここに南北朝時代は終わり南北朝合一が実現した。天皇は太上天皇の尊号を受け嵯峨大覚寺を仙洞として住した。しかし、義満の没後,武家側の待遇も悪く、和平条件は履行されず、1410年(応永 17年)突如嵯峨を出奔して吉野に潜幸し、次いで伊勢国司北畠満雅の挙兵もあり、南朝再興の動きも盛んとなったが、1422年(応永29年)和議が成立し、翌年幕府の請によって帰洛し、晩年は大覚寺で過ごした。





























7時15分発でしたが、ほぼ時間通り来ました。





余談ですが、平日なら中辻通りを通るので、嵐電の定期を持っている私は、そこで乗り換えしたかったけど、土曜と日曜は高架道を通るので、中辻通りは通りません。今日は、これだけで帰りました。
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