洛東鹿ヶ谷の名刹 「法然院」と「冷泉天皇 櫻本陵」へ
8月23日(金)の最高気温が38.0℃まで上がり、次の24日(土)は朝から暑かったです。日本列島から遠く離れた南海上には台風10号があって、27日(火)か28日(水)には日本列島を直撃するルートが予想され、不気味動きを見せてました。日中は暑くて出掛けることは危険な「熱中症警戒アラート」が出ていたので、この日も早朝に家を出ました。
先日、28日(水)に「村上天皇 村上陵」に行きました。村上天皇は第62代の天皇で、その第2皇子が、この日訪れる予定の「冷泉天皇 櫻本陵」の冷泉天皇は、第63代天皇。その第二皇子が、第67代天皇になる三条天皇です。この日、訪れた段階では、まだ一条天皇(第66代天皇)の時代で、三条天皇は即位されてません。三条天皇は、俳優の木村達成さんが演じられます。
早朝に家を車で出て、鹿ヶ谷にある「フルーツパーク鹿ヶ谷西寺ノ前町」に車を6時23分に停めました。
事前に地図を見て、何処に車を入れるか入念に調べました。そして、調べた結果が、ここです。桜が咲く時期以外は、何処でも空いていたでしょう。
この、コインパーキングの前が「哲学の道」で、京都で屈しの桜の名所として知られています。桜が満開の「哲学の道」は、こちらです。
この「哲学の道」を銀閣寺の方向・・・北に向かって歩いて行くと、最短で「冷泉天皇 櫻本陵」に行けますが、少し遠回りして行きます。先ずは「鹿ヶ谷通り」に出て、北上すると、そこには・・・?。
最初に寄ったのは「冷泉天皇火葬塚」です。
ここは、手前の柵に鍵がかかっているので、奥に進めません。ここだけ写真を撮って、次に向かいました。
ここから鹿ヶ谷通りを北上し、最初の通りを東に進みます。地図では分からなかったことですが、ずっと登りなんですね。
東に登って行くと、再び「哲学の道」に出ました。コインパーキングから、ここまで遠回りしてきたことになります。
その「哲学の道」から、東に向かって突き当たりが、次の目的地です。
振り返ると、京都市街地が見えました。これだけ登って来たと言うことです。
この日の次の目的地が「冷泉天皇 櫻本陵(さくらもとのみささぎ)」です。
6時31分に着きました。「哲学の道」では早朝でも散歩の方が、数名居ましたが、ここには誰も居ません。冷泉天皇のことも知らなかったので調べると興味深いものがありました。
冷泉天皇(れいぜいてんのう)は、日本の第63代天皇。950年(天暦4年)~1011年(寛弘8年)。在位は、967年(康保4年)~969年(安和2年)。諱は憲平(のりひら)。村上天皇(第62代天皇)の第2皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘藤原安子(第62代村上天皇中宮)。円融天皇の同母兄。第2皇子であったが、異母兄の第1皇子の広平親王(ひろひらしんのう)を押しのけて(外戚の力関係)により、生後間もなく立太子される。967年(康保4年)、村上天皇(第62代天皇)の崩御を受けて18歳で即位。冷泉天皇には奇行の病があったので、長く置かれてなかった関白に藤原実頼が就任。同時に太政大臣に補任。冷泉天皇の「皇太子時代からの奇行が多い」という理由で、藤原氏の摂政関白が常設化し藤原氏全盛時代に入ることに。その後、後継者問題である、為平親王(左大臣源高明が推す村上天皇第四皇子)と守平親王(右大臣藤原師尹が推す村上天皇第七皇子)との皇太子をめぐる対立が起き、969年(安和2年)の「安和の変」により左大臣源高明が失脚。藤原氏の後ろ楯を受け皇太子に守平親王(圓融天皇)が立った。969年(安和2年)8月に在位2年で、同母弟の円融天皇に譲位し、太上天皇となる。以降譲位後は冷泉院と称される。62歳で崩御。
冷泉天皇の奇行についても記録が残っているそうです。(死後に書かれたもので真否は諸説あり)
足が傷つくのも全く構わず、一日中蹴鞠を続けた。(「元亨四年具注暦井裏書」)
幼い頃、父帝(村上天皇)に手紙の返事として、陰茎が大きく描かれた絵を送りつけた。(「元亨四年具注暦井裏書」)
清涼殿(天皇の住まい)近くの番小屋の屋根の上に座り込んだ。(「元亨四年具注暦井裏書」)
病気で床に伏していた時、大声で歌っていた。
退位後に住んでいた御所が火事になった折、避難するときに牛車の中で大声で歌った。
冷泉天皇も、その子花山天皇も奇行で知られています。ともに後世の創作とも言われていますが、怨霊説もありました。
御陵は西に向いています。この時、曇っていたので、逆行ですが撮れました。ここから遠くに愛宕山見えました。
今日は、もう一箇所行くつもりにしてました。早々にここを出て行きました。
こちらは帰りに撮ったものです。偶然でしたが、御陵の北東に辺ります。
ここから下って、「哲学の道」に出ました。その哲学の道を北に向かって歩きます。そして最初の路地を北に向かって登って行くと・・・?。
住宅街を抜けると、6時37分に着いたのが、洛東の鹿ヶ谷(ししがたに)にある法然院です。本当に久々に来て、以前は2005年(平成17年)4月9日、2010年(平成22年)8月1日、2011年(平成23年)4月5日に来てました。
13年振りの訪問です。毎年、4月1日~7日に堂内を公開されるので、4月に訪れたのは「春季特別公開」で来たのでしょう。
法然院の正式名は「善気山 法然院 萬無教寺(ぜんきさん ほうねんいん ばんぶきょうじ)」といい、浄土宗系単立寺院です。浄土宗の開祖で、専修念佛の元祖法然上人が弟子の安楽(あんらく)・住蓮(じゅうれん)とももに念佛三昧の修行をされた草庵を発祥としています。しかしその後、江戸時代の寛永年間(1624~1644)には草庵は荒廃廃絶していたのを、1680年(延宝8年)に、知恩院の萬無心阿上人によって再建を発願され、その弟子忍澂(にんきょう)和尚より現在の伽藍の基礎が築かれ中興したもです。この再建された和尚様にちなんで「萬無教寺」を寺名とされています。山号の「善気山」は、東山三十六峰のひとつで、法然院の背後にそびえる山の名。その名前からも、清々しい自然の力を感じられるようです。本堂には惠心僧都作の阿弥陀如来坐像と法然上人自作木像を安置し、直壇には毎晨朝(じんじょう)に二十五の生花を散華。方丈は桃山御陵の遺物を移建したものといわれ、襖絵十四面の「桐に竹図」「若松図」「槇に海棠図」及び屏風の松図は、いずれも重要文化財に指定されています。境内には池泉と「白砂壇(びゃくさだん)」があり、本堂北側の方丈庭園には京の名水として名高い清水「善気水」が湧出。墓地には谷崎潤一郎や河上肇ら著名人の墓が多い。
住宅街から風景が一変して、鬱蒼とした茂った木々の中に「総門」の石段が見えてきます。左側の石碑にある「圓光大師」とは、浄土宗の開祖法然上人のこと。
鎌倉時代に生きた法然上人ですが、江戸時代の1697年(元禄10年)に初めての大師号(高徳な僧に朝廷から贈られる尊称)が贈られました。大師号といえば、最澄の「伝教大師」、空海の「弘法大師」が有名です。法然上人は、現在までに8つの大師号を下賜され、生前の遺徳を讃えられています。参考までに、大師号は、東山天皇(第113代天皇)より「圓光大師」を賜ってより五百回忌の行なわれた1711年(正徳元年)以降、50年ごとに天皇より加諡され、現在、圓光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、明照大師、和順大師、法爾大師と8つの大師号を下賜されています。それは日本史上最大です。法爾大師は、現在の上皇陛下より下賜されました。
石段を上がり「総門」を入ります。久しぶりに来たので、所々思い出しながら歩いて行くことに。
ここから山門まで、長い参道を歩いて行きます。ここの開門は6時から。誰かと出会うかなぁ?。
鬱蒼として木々に覆われる参道を進むと、左手に歌碑がありました。「河野裕子・永田和宏の歌碑」だそうです。
戦後生まれを代表する女性歌人として活躍し、2010年(平成22年)に64歳で死去した河野裕子さんと、夫で歌人の永田和宏さん(75)の歌碑が9日、河野さんの十三回忌を機に京都市左京区の法然院に2022年(令和4年)9月に建立され、除幕式が行われました。刻まれた河野さんの歌は、「われを呼ぶうら若きこゑよ喉ぼとけ桃の核ほどひかりてゐたる」。永田さんの歌は、「きみに逢(あ)う以前のぼくに遭いたくて海へのバスに揺られていたり」。いずれも若き日に互いを思って詠んだ相聞歌だそうです。
茅葺きの山門の横に立つ石碑に記されるのは、「不許葷辛酒肉入山門」の文字。「葷辛酒肉(くんしんしゅにく)、山門に入るを許さず」とは、ニンニクやネギなどの臭みが強い野菜や、お酒・肉を山門内に持ち込むことを禁ずる、ということだそうです。
茅葺きの「山門」です。茅葺き屋根を覆う苔も綺麗ですし、ここは紅葉が大変綺麗です。
山門から境内を見ています。山門を入ると、両側に「白砂壇(びゃくさだん)」綺麗に見えています。こちらも見所の一つです。
「白砂壇(びゃくさだん)」と呼ばれる白い盛り砂です。砂壇の上に描かれるのは、水を表す紋様だそうです。現在は、真夏のため水流を表す砂紋などが描かれています。お坊様が数日ごとに砂をひかれていているそうで、アーティスティックな造形が目を惹きます。
この「白砂壇」は、やっぱり上から見る方が、模様が分かって面白いと思います。
本堂に向かいますが、その右手に「講堂」がありました。ここは内部を見たことはありません。禅寺の浴室に似ているような・・・?。
1694年(元禄7年)に建立された大浴室でしたが、当院第30世峰雄(ほうゆう)和尚の発願により、1977(昭和52年)に内部を改装し、現在は講堂として講演会・個展・コンサートなどに利用されています。
鯉が泳ぐ「放生池」に架かる石橋を渡ります。
次に、案内に従って「本堂」に向かいます。久々ですが、本堂の位置、思い出しました。
「花手水」でしょうか、「芙蓉の花」綺麗でした。
「十萬霊塔」と書いてあります。この石塔は、2018年(平成30年)9月4日の台風21号の強風により倒れたそうです。
現在、台風10号が、日本列島に向かって北上中です。前途した台風21号と同じコース、同じ勢力で近づいてて、少々と言うより、はっきり怖いです。それて欲しいけど、上陸は間違い無い情勢に。あの時の強風の記憶が蘇ります。
「本堂」です。堂内は暗いけど、2005年(平成17年)4月9日と2011年(平成23年)4月5日に堂内に入ってます。外からお参りさせて貰いました。
ご本尊の前の須弥壇には、阿弥陀如来坐像、観音菩薩像、勢至菩薩像が祀られてますが、ほぼ見えません。阿弥陀仏が“往生を願う者”を浄土に迎える際に伴う「二十五菩薩」にちなんだ“25の生花”が散華されています。こちらは堂内に入ったときの印象が強く覚えています。
本堂の向い側、石段の上に祀られる「地蔵菩薩像」です。別名は「祠の地蔵」と呼ばれ、本堂とほぼ時を同じくして祀られたそうです。
本堂前にあった句碑。俳人鈴鹿野風呂(すずかのぶろ)「鴬や今日の本尊にこやかに」にと書いてありました。
「放生池」に架かる、1本の大木。まさか真意は不明で想像ですが、台風21号の強風で倒れたのかなぁ。
次に玄関に向かいます。こちらの庭も苔が綺麗ですね。
普段は、堂内には入れません。毎年、「4月1日~7日」と「11月18日~24日」に入れます。私が、ここに来ていたときは、「11月1日~7日」でした。紅葉の時期にされたのでしょう。
ここから京都市街地が見渡せました。ここまで登ってきたことになります。それと遠くに五山の送り火「舟形」が見えました。
以前、来た時にトイレを借りたので、覚えてました😊。この「多宝塔」は1921年(大正10年)の建立だそうです。
こちらは「経蔵」です。1737年(元文2年)の建立で、中央に釈迦如来像、両脇に毘沙門天像と韋駄天像を安置。また多数の経典の版木を所蔵されてます。
この茅葺きの「山門」まで戻ってきたら、お二人入って来られました。早朝でも、ここでは3名と擦れ違いました。
6時50分に茅葺きの「山門」を出て行きました。ここに来た時から気になっていた、向かって左側にあるアート作品、何かなぁ・・・?。
ガラス造形作家の西中千人氏。法然院 ガラスの枯山水「つながる」でした。
リサイクルガラス瓶から作ったオブジェを配した枯山水アート空間。「循環する命とつながっていく宇宙」をコンセプトとした空間だそうです。
ここにも句碑がありました。松尾いはほ(松尾巌)「椿落ちて林泉の春動きけり」と書いてあるそうです。
総門に降りて来る手前、左手に行けば、谷崎潤一郎など著名人のお墓があります。ただ、今日は寄りません。
6時51分に「総門」を出ました。これからコインパーキングまで戻ります。
帰りも「哲学の道」通りました。写真はコインパーキング前です。
本当は、所用先に帰るつもりが、汗をかきすぎたので自宅に直行し帰りました。
ところで、栄華を極めた藤原道長の墓が何処にあるのか?。京都府宇治市の藤原氏に関係する皇族の陵墓群「宇治陵」がにわかに脚光を浴びているみたいですが、住宅街に囲まれた「宇治陵32号陵」が道長の墓という説があって、多くの参拝者で賑わっているようです。ただ、本格的な発掘調査がされていないため、全容は謎に包まれたままだ。果たして道長はどこに眠っているのか・・・?。
先ず、JR木幡駅の東側から南に向かって歩くと、すぐに樹木に囲まれた一画が現れ、「宇治陵1号陵」があり、宮内庁が管理事務所を置き、近辺の丘に点在する宇治陵全体の総拝所とされています。入口には、藤原一門の墓所がある区域を示す「藤原氏塋(えい)域」と記された小さな石碑が建ち、大河ドラマ「光る君へ」で登場した藤原兼家(段田安則)や藤原道隆(兼家の長男・井浦新)、藤原頼通(道長の長男・渡邊圭祐)らとともに、藤原道長(兼家の五男・柄本佑)の名が刻まれてるようです。宇治陵には大小37ブロックに分けられているが、誰がどこに葬られているのかは特定されてません。ただ道長の墓と言われてきたのが32号陵。松殿山荘(重文)の西側にある住宅1軒か2軒分ほどの小規模な区域で、現在は鬱蒼と草木が生い茂っているみたいです。「浄妙寺の位置からすると、道長の墓は別の場所にある。32号陵は明確なエビデンスがない俗説」。宇治の遺跡に詳しい京都芸術大の杉本宏客員教授はこう否定する。浄妙寺とは、道長が藤原一門を弔うために建てた菩提寺。かつてその位置は不確かだったが、1967年(昭和42年)以降の発掘調査で現在の木幡小辺りにあったことが明らかになったそうです。道長の息子・頼通の臣下が書いた日記によると、頼通は「浄妙寺の大門より東に行き、道長の墓所に参った」という。この記述を踏まえると、道長の墓は木幡小の東側にあった可能性が高いという。他方、32号陵は木幡小のほぼ南側で、やや離れた位置にある。木幡小の東側からは高貴な人物しか手にすることができなかった中国伝来の青磁水注(重文)が出土している。「青磁は骨つぼとみられる。道長を含めた藤原氏の墓はこの辺りに集まっていたのではないか」と杉本客員教授はみる。(京都新聞より一部抜粋)
源氏物語の舞台となった宇治市。頼道が建立した平等院。そして藤原氏一族の墓が点在している宇治市には、いつか行ってみようと思っています。京都新聞には地図も載っていたので参考にさせて貰います。
先日、28日(水)に「村上天皇 村上陵」に行きました。村上天皇は第62代の天皇で、その第2皇子が、この日訪れる予定の「冷泉天皇 櫻本陵」の冷泉天皇は、第63代天皇。その第二皇子が、第67代天皇になる三条天皇です。この日、訪れた段階では、まだ一条天皇(第66代天皇)の時代で、三条天皇は即位されてません。三条天皇は、俳優の木村達成さんが演じられます。
早朝に家を車で出て、鹿ヶ谷にある「フルーツパーク鹿ヶ谷西寺ノ前町」に車を6時23分に停めました。
事前に地図を見て、何処に車を入れるか入念に調べました。そして、調べた結果が、ここです。桜が咲く時期以外は、何処でも空いていたでしょう。
この、コインパーキングの前が「哲学の道」で、京都で屈しの桜の名所として知られています。桜が満開の「哲学の道」は、こちらです。
この「哲学の道」を銀閣寺の方向・・・北に向かって歩いて行くと、最短で「冷泉天皇 櫻本陵」に行けますが、少し遠回りして行きます。先ずは「鹿ヶ谷通り」に出て、北上すると、そこには・・・?。
最初に寄ったのは「冷泉天皇火葬塚」です。
ここは、手前の柵に鍵がかかっているので、奥に進めません。ここだけ写真を撮って、次に向かいました。
ここから鹿ヶ谷通りを北上し、最初の通りを東に進みます。地図では分からなかったことですが、ずっと登りなんですね。
東に登って行くと、再び「哲学の道」に出ました。コインパーキングから、ここまで遠回りしてきたことになります。
その「哲学の道」から、東に向かって突き当たりが、次の目的地です。
振り返ると、京都市街地が見えました。これだけ登って来たと言うことです。
この日の次の目的地が「冷泉天皇 櫻本陵(さくらもとのみささぎ)」です。
6時31分に着きました。「哲学の道」では早朝でも散歩の方が、数名居ましたが、ここには誰も居ません。冷泉天皇のことも知らなかったので調べると興味深いものがありました。
冷泉天皇(れいぜいてんのう)は、日本の第63代天皇。950年(天暦4年)~1011年(寛弘8年)。在位は、967年(康保4年)~969年(安和2年)。諱は憲平(のりひら)。村上天皇(第62代天皇)の第2皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘藤原安子(第62代村上天皇中宮)。円融天皇の同母兄。第2皇子であったが、異母兄の第1皇子の広平親王(ひろひらしんのう)を押しのけて(外戚の力関係)により、生後間もなく立太子される。967年(康保4年)、村上天皇(第62代天皇)の崩御を受けて18歳で即位。冷泉天皇には奇行の病があったので、長く置かれてなかった関白に藤原実頼が就任。同時に太政大臣に補任。冷泉天皇の「皇太子時代からの奇行が多い」という理由で、藤原氏の摂政関白が常設化し藤原氏全盛時代に入ることに。その後、後継者問題である、為平親王(左大臣源高明が推す村上天皇第四皇子)と守平親王(右大臣藤原師尹が推す村上天皇第七皇子)との皇太子をめぐる対立が起き、969年(安和2年)の「安和の変」により左大臣源高明が失脚。藤原氏の後ろ楯を受け皇太子に守平親王(圓融天皇)が立った。969年(安和2年)8月に在位2年で、同母弟の円融天皇に譲位し、太上天皇となる。以降譲位後は冷泉院と称される。62歳で崩御。
冷泉天皇の奇行についても記録が残っているそうです。(死後に書かれたもので真否は諸説あり)
足が傷つくのも全く構わず、一日中蹴鞠を続けた。(「元亨四年具注暦井裏書」)
幼い頃、父帝(村上天皇)に手紙の返事として、陰茎が大きく描かれた絵を送りつけた。(「元亨四年具注暦井裏書」)
清涼殿(天皇の住まい)近くの番小屋の屋根の上に座り込んだ。(「元亨四年具注暦井裏書」)
病気で床に伏していた時、大声で歌っていた。
退位後に住んでいた御所が火事になった折、避難するときに牛車の中で大声で歌った。
冷泉天皇も、その子花山天皇も奇行で知られています。ともに後世の創作とも言われていますが、怨霊説もありました。
御陵は西に向いています。この時、曇っていたので、逆行ですが撮れました。ここから遠くに愛宕山見えました。
今日は、もう一箇所行くつもりにしてました。早々にここを出て行きました。
こちらは帰りに撮ったものです。偶然でしたが、御陵の北東に辺ります。
ここから下って、「哲学の道」に出ました。その哲学の道を北に向かって歩きます。そして最初の路地を北に向かって登って行くと・・・?。
住宅街を抜けると、6時37分に着いたのが、洛東の鹿ヶ谷(ししがたに)にある法然院です。本当に久々に来て、以前は2005年(平成17年)4月9日、2010年(平成22年)8月1日、2011年(平成23年)4月5日に来てました。
13年振りの訪問です。毎年、4月1日~7日に堂内を公開されるので、4月に訪れたのは「春季特別公開」で来たのでしょう。
法然院の正式名は「善気山 法然院 萬無教寺(ぜんきさん ほうねんいん ばんぶきょうじ)」といい、浄土宗系単立寺院です。浄土宗の開祖で、専修念佛の元祖法然上人が弟子の安楽(あんらく)・住蓮(じゅうれん)とももに念佛三昧の修行をされた草庵を発祥としています。しかしその後、江戸時代の寛永年間(1624~1644)には草庵は荒廃廃絶していたのを、1680年(延宝8年)に、知恩院の萬無心阿上人によって再建を発願され、その弟子忍澂(にんきょう)和尚より現在の伽藍の基礎が築かれ中興したもです。この再建された和尚様にちなんで「萬無教寺」を寺名とされています。山号の「善気山」は、東山三十六峰のひとつで、法然院の背後にそびえる山の名。その名前からも、清々しい自然の力を感じられるようです。本堂には惠心僧都作の阿弥陀如来坐像と法然上人自作木像を安置し、直壇には毎晨朝(じんじょう)に二十五の生花を散華。方丈は桃山御陵の遺物を移建したものといわれ、襖絵十四面の「桐に竹図」「若松図」「槇に海棠図」及び屏風の松図は、いずれも重要文化財に指定されています。境内には池泉と「白砂壇(びゃくさだん)」があり、本堂北側の方丈庭園には京の名水として名高い清水「善気水」が湧出。墓地には谷崎潤一郎や河上肇ら著名人の墓が多い。
住宅街から風景が一変して、鬱蒼とした茂った木々の中に「総門」の石段が見えてきます。左側の石碑にある「圓光大師」とは、浄土宗の開祖法然上人のこと。
鎌倉時代に生きた法然上人ですが、江戸時代の1697年(元禄10年)に初めての大師号(高徳な僧に朝廷から贈られる尊称)が贈られました。大師号といえば、最澄の「伝教大師」、空海の「弘法大師」が有名です。法然上人は、現在までに8つの大師号を下賜され、生前の遺徳を讃えられています。参考までに、大師号は、東山天皇(第113代天皇)より「圓光大師」を賜ってより五百回忌の行なわれた1711年(正徳元年)以降、50年ごとに天皇より加諡され、現在、圓光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、明照大師、和順大師、法爾大師と8つの大師号を下賜されています。それは日本史上最大です。法爾大師は、現在の上皇陛下より下賜されました。
石段を上がり「総門」を入ります。久しぶりに来たので、所々思い出しながら歩いて行くことに。
ここから山門まで、長い参道を歩いて行きます。ここの開門は6時から。誰かと出会うかなぁ?。
鬱蒼として木々に覆われる参道を進むと、左手に歌碑がありました。「河野裕子・永田和宏の歌碑」だそうです。
戦後生まれを代表する女性歌人として活躍し、2010年(平成22年)に64歳で死去した河野裕子さんと、夫で歌人の永田和宏さん(75)の歌碑が9日、河野さんの十三回忌を機に京都市左京区の法然院に2022年(令和4年)9月に建立され、除幕式が行われました。刻まれた河野さんの歌は、「われを呼ぶうら若きこゑよ喉ぼとけ桃の核ほどひかりてゐたる」。永田さんの歌は、「きみに逢(あ)う以前のぼくに遭いたくて海へのバスに揺られていたり」。いずれも若き日に互いを思って詠んだ相聞歌だそうです。
茅葺きの山門の横に立つ石碑に記されるのは、「不許葷辛酒肉入山門」の文字。「葷辛酒肉(くんしんしゅにく)、山門に入るを許さず」とは、ニンニクやネギなどの臭みが強い野菜や、お酒・肉を山門内に持ち込むことを禁ずる、ということだそうです。
茅葺きの「山門」です。茅葺き屋根を覆う苔も綺麗ですし、ここは紅葉が大変綺麗です。
山門から境内を見ています。山門を入ると、両側に「白砂壇(びゃくさだん)」綺麗に見えています。こちらも見所の一つです。
「白砂壇(びゃくさだん)」と呼ばれる白い盛り砂です。砂壇の上に描かれるのは、水を表す紋様だそうです。現在は、真夏のため水流を表す砂紋などが描かれています。お坊様が数日ごとに砂をひかれていているそうで、アーティスティックな造形が目を惹きます。
この「白砂壇」は、やっぱり上から見る方が、模様が分かって面白いと思います。
本堂に向かいますが、その右手に「講堂」がありました。ここは内部を見たことはありません。禅寺の浴室に似ているような・・・?。
1694年(元禄7年)に建立された大浴室でしたが、当院第30世峰雄(ほうゆう)和尚の発願により、1977(昭和52年)に内部を改装し、現在は講堂として講演会・個展・コンサートなどに利用されています。
鯉が泳ぐ「放生池」に架かる石橋を渡ります。
次に、案内に従って「本堂」に向かいます。久々ですが、本堂の位置、思い出しました。
「花手水」でしょうか、「芙蓉の花」綺麗でした。
「十萬霊塔」と書いてあります。この石塔は、2018年(平成30年)9月4日の台風21号の強風により倒れたそうです。
現在、台風10号が、日本列島に向かって北上中です。前途した台風21号と同じコース、同じ勢力で近づいてて、少々と言うより、はっきり怖いです。それて欲しいけど、上陸は間違い無い情勢に。あの時の強風の記憶が蘇ります。
「本堂」です。堂内は暗いけど、2005年(平成17年)4月9日と2011年(平成23年)4月5日に堂内に入ってます。外からお参りさせて貰いました。
ご本尊の前の須弥壇には、阿弥陀如来坐像、観音菩薩像、勢至菩薩像が祀られてますが、ほぼ見えません。阿弥陀仏が“往生を願う者”を浄土に迎える際に伴う「二十五菩薩」にちなんだ“25の生花”が散華されています。こちらは堂内に入ったときの印象が強く覚えています。
本堂の向い側、石段の上に祀られる「地蔵菩薩像」です。別名は「祠の地蔵」と呼ばれ、本堂とほぼ時を同じくして祀られたそうです。
本堂前にあった句碑。俳人鈴鹿野風呂(すずかのぶろ)「鴬や今日の本尊にこやかに」にと書いてありました。
「放生池」に架かる、1本の大木。まさか真意は不明で想像ですが、台風21号の強風で倒れたのかなぁ。
次に玄関に向かいます。こちらの庭も苔が綺麗ですね。
普段は、堂内には入れません。毎年、「4月1日~7日」と「11月18日~24日」に入れます。私が、ここに来ていたときは、「11月1日~7日」でした。紅葉の時期にされたのでしょう。
ここから京都市街地が見渡せました。ここまで登ってきたことになります。それと遠くに五山の送り火「舟形」が見えました。
以前、来た時にトイレを借りたので、覚えてました😊。この「多宝塔」は1921年(大正10年)の建立だそうです。
こちらは「経蔵」です。1737年(元文2年)の建立で、中央に釈迦如来像、両脇に毘沙門天像と韋駄天像を安置。また多数の経典の版木を所蔵されてます。
この茅葺きの「山門」まで戻ってきたら、お二人入って来られました。早朝でも、ここでは3名と擦れ違いました。
6時50分に茅葺きの「山門」を出て行きました。ここに来た時から気になっていた、向かって左側にあるアート作品、何かなぁ・・・?。
ガラス造形作家の西中千人氏。法然院 ガラスの枯山水「つながる」でした。
リサイクルガラス瓶から作ったオブジェを配した枯山水アート空間。「循環する命とつながっていく宇宙」をコンセプトとした空間だそうです。
ここにも句碑がありました。松尾いはほ(松尾巌)「椿落ちて林泉の春動きけり」と書いてあるそうです。
総門に降りて来る手前、左手に行けば、谷崎潤一郎など著名人のお墓があります。ただ、今日は寄りません。
6時51分に「総門」を出ました。これからコインパーキングまで戻ります。
帰りも「哲学の道」通りました。写真はコインパーキング前です。
本当は、所用先に帰るつもりが、汗をかきすぎたので自宅に直行し帰りました。
ところで、栄華を極めた藤原道長の墓が何処にあるのか?。京都府宇治市の藤原氏に関係する皇族の陵墓群「宇治陵」がにわかに脚光を浴びているみたいですが、住宅街に囲まれた「宇治陵32号陵」が道長の墓という説があって、多くの参拝者で賑わっているようです。ただ、本格的な発掘調査がされていないため、全容は謎に包まれたままだ。果たして道長はどこに眠っているのか・・・?。
先ず、JR木幡駅の東側から南に向かって歩くと、すぐに樹木に囲まれた一画が現れ、「宇治陵1号陵」があり、宮内庁が管理事務所を置き、近辺の丘に点在する宇治陵全体の総拝所とされています。入口には、藤原一門の墓所がある区域を示す「藤原氏塋(えい)域」と記された小さな石碑が建ち、大河ドラマ「光る君へ」で登場した藤原兼家(段田安則)や藤原道隆(兼家の長男・井浦新)、藤原頼通(道長の長男・渡邊圭祐)らとともに、藤原道長(兼家の五男・柄本佑)の名が刻まれてるようです。宇治陵には大小37ブロックに分けられているが、誰がどこに葬られているのかは特定されてません。ただ道長の墓と言われてきたのが32号陵。松殿山荘(重文)の西側にある住宅1軒か2軒分ほどの小規模な区域で、現在は鬱蒼と草木が生い茂っているみたいです。「浄妙寺の位置からすると、道長の墓は別の場所にある。32号陵は明確なエビデンスがない俗説」。宇治の遺跡に詳しい京都芸術大の杉本宏客員教授はこう否定する。浄妙寺とは、道長が藤原一門を弔うために建てた菩提寺。かつてその位置は不確かだったが、1967年(昭和42年)以降の発掘調査で現在の木幡小辺りにあったことが明らかになったそうです。道長の息子・頼通の臣下が書いた日記によると、頼通は「浄妙寺の大門より東に行き、道長の墓所に参った」という。この記述を踏まえると、道長の墓は木幡小の東側にあった可能性が高いという。他方、32号陵は木幡小のほぼ南側で、やや離れた位置にある。木幡小の東側からは高貴な人物しか手にすることができなかった中国伝来の青磁水注(重文)が出土している。「青磁は骨つぼとみられる。道長を含めた藤原氏の墓はこの辺りに集まっていたのではないか」と杉本客員教授はみる。(京都新聞より一部抜粋)
源氏物語の舞台となった宇治市。頼道が建立した平等院。そして藤原氏一族の墓が点在している宇治市には、いつか行ってみようと思っています。京都新聞には地図も載っていたので参考にさせて貰います。
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