「白河天皇火葬塚」と「後朱雀天皇火葬塚」へ
台風10号が消滅し、少しだけ気温が下がったなぁと思いきや9月6日(金)が36.1℃、9月7日(土)が35.6℃と猛暑日が復活しました。私が子供の頃に、9月に入って気温が上がり「32℃になったわ」と親が騒いでいたことを思い出しました。9月に入ると30℃を超えるのが不思議でした。学生の頃は自転車で通学していたので、10日を過ぎると上着を着ていかないと寒かった・・・そんな時代でしたが、今の異常気温、京都では昨年の年間の猛暑日記録43日(過去最多)と並んだようです(9月7日現在)。記録更新は間違いないでしょう。昨年も暑かったけど、今年はそれ以上に暑かったということです。これでは、日中に出掛けることは無理ですね。
そくな暑い9月8日(日)でしたが、私は早朝に車で家を出ます。毎週日曜日に所用があるので7時頃には行かなくてはなりません。それで、当初は嵐電も考えましたが、時間的に無理なので車にしたわけです。車で向かったのは金閣寺の近くにあるコインパーキングです。デーデーパーク金閣寺第4に、6時21分に車を入れました。
車を停めて、先ずは「白河天皇火葬塚」に向かいました。こちらは火葬塚ですが、陵墓は京都市伏見区にある「白河天皇 成菩提院陵」で、2012年(平成24年)5月24日に行ってました。

この日、火葬塚に行ってみて思い出した次第です。すっかり忘れてました。たしか城南宮に行く前に寄ったと記憶しています。
白河天皇(しらかわてんのう)は、第72代天皇。1053年(天喜元年)~1129年(大治4年)。在位は、1072年(延久4年)~1087年(応徳3年)。諱は貞仁(さだひと)。後三条天皇(第71代天皇)の第一皇子。母は、大納言藤原能信(よしのぶ)の養女である藤原茂子(ふじわらのもし)。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。また、白河天皇が造営した里内裏のひとつ「六条院」にちなみ、「六条帝」とも称される。父である後三条天皇の即位に伴い、1069年(延久元年)に17歳で皇太子となり、1071年(延久3年)に女御として入内した藤原賢子(ふじわらのけんし)(太政大臣藤原師実の養女・紫式部の娘とは別人)を迎え入れる。1072年(延久4年)に後三条天皇より譲位され、20歳で第72代天皇として即位。父である後三条天皇は自身の思いを子の白河天皇に託し、実仁親王(さねひとしんのう)か輔仁親王(すけひとしんのう)への譲位を促す遺命を出していました。ところが実仁親王が急逝すると、白河天皇は輔仁親王に皇位継承させず、1086年(応徳3年)、白河天皇は善仁親王(たるひとしんのう)を立太子させ、これと同時に譲位して、わずか8歳の善仁親王を、第73代天皇として堀河天皇を即位させました。上皇となった白河は、幼帝を後見するために自ら政務を執り、いわゆる院政が出現。以後も引き続き摂政関白は置かれたが、その実態は次第に名目上の存在に近いものとなって行きます。1096年(永長元年)、白河上皇は出家して法皇となったあとも院政を続けます。その堀河天皇も29歳という若さで崩御。そして、1107年(嘉承2年)に堀河天皇の第一皇子を第74代天皇として鳥羽天皇をわずか5歳という幼さで即位させます。すると、白河法皇による院政は本格化し、白河法皇を中心とする政治体制が確立しました。さらに、1119年(元永2年)に鳥羽天皇の第一皇子顕仁親王(あきひとしんのう)が誕生すると、白河法皇はこの皇子への譲位を画策。この頃、関白藤原忠実(ふじわらのただざね)の娘が入内しようとしていることが原因で忠実を勅勘処分にして内覧職権を停止。内覧職権を奪われた忠実は事実上関白を罷免された「保安元年の政変」で、摂関政治の衰退は決定的なものとなり、白河法皇は国政を支配する「治天の君」として君臨。そして1123年(保安4年)に、鳥羽天皇の譲位により2歳の顕仁親王を第75代天皇の崇徳天皇として即位させます。またしても幼帝が誕生したことで、白河法皇の院政はますます本格的になり、堀河、鳥羽、崇徳と3代にわたって続く強力な政権を築き上げました。1129年(大治4年)、77歳で崩御。

住宅街の真ん中にありました。狭い路地の先にあって、入念に地図を調べて来ました。








火葬塚の周りを一周しようと思いましたが、柵があってできません。早々に、ここを出て行くことにしました。
NHK大河ドラマ「平清盛」では、白河天皇を伊東四朗さん、藤原忠実を國村隼さん、鳥羽天皇を三上博史さん、崇徳天皇を井浦新さんが演じてました。
再びコインパーキングまで戻り、きぬがけの路に出て、少しだけ西に向いて歩きます。
「権太呂 金閣寺店」の前を通りました。前方左手角がコインパーキングです。
前方の右手の路地を入ると正面が京都市立金閣小学校で、そこの右手が次の目的地で「後朱雀天皇火葬塚」です。御陵は 龍安寺 朱山七陵の「後朱雀天皇 圓乘寺陵」にあります。

小学校の手前から見ると、少し見下ろす位置にありました。降りる所を探しても無かったので再び、コインパーキングまで戻ってみると・・・?。
私が車を停めたコインパーキングの奥に細い路地があって、その先に行ってみると、この路地が・・・。この前方にあるのが「白河天皇火葬塚」でした。
その地点から前方が開けて、目の前に「後朱雀天皇火葬塚」が見えました。



ここは地図で見ても、この路地は載ってないので、来て見ないと分からないでしょう。ここも住宅街の真ん中にありました。
後朱雀天皇(ごすざくてんのう)は、第69代天皇。1009年(寛弘6年)~1045年(寛徳2年)。在位は、1036年(長元9年)~1045年(寛徳2年)。諱は敦良(あつなが)。一条天皇(第66代天皇)の皇子。母は藤原道長娘上東門院彰子(じょうとうもんいんしょうし)。同母兄に後一条天皇(第68代天皇)。一条天皇の次に即位したのは三条天皇(第67代天皇)でした。その三条天皇の皇子敦明親王が東宮を辞退したため、皇太弟となる。1036年(長元9年)に後一条天皇(第68代天皇)が没し第69代天皇として即位。翌年1037年(長暦元年)に三条天皇の娘禎子内親王(ていし ないしんのう)を皇后とし、ついで1038年(長暦2年)に関白藤原頼通の養女藤原嫄子を皇后とした。1045年(寛徳2年)に病気により皇子親仁(ちかひと)親王に譲位。親仁親王(後冷泉天皇)は第70代天皇として即位した。天皇の治世は疫病流行など災厄も多く、延暦寺僧徒の大規模な嗷訴、伊勢神宮禰宜らの入京上訴など寺社横暴の増大を感じさせる事件が起こっているが、1040年(長久元年)、荘園整理令に着手するが、結果的には権門擁護策に終わったが、天皇の政治への意欲もうかがうことができる。譲位した、その2日後に出家、同日崩御。37歳。
NHK大河ドラマ「光る君へ」では、まだ先でしょうけど、藤原道長(演:柄本佑)亡き後は、道長の嫡男で宇治平等院を造営した関白藤原頼通(演:渡邊圭祐)や、その弟である関白藤原教道(ふじわらののりみち・道長の五男)らが後朱雀天皇(第69代天皇)・後冷泉天皇(第70代天皇)に娘を入内させましたが、いずれにも皇子が生まれませんでした。藤原家による摂関政治は続いていくかに見えましたが、摂関政治の要たる男子には恵まれなかったことから、後冷泉天皇の後を受けて即位をしたのが、第69代天皇として後朱雀天皇(敦成親王・一条天皇の第三皇子)。その後朱雀天皇の第三皇子と禎子内親王(第67代三条天皇第3皇女)と子が後三条天皇(第71代天皇)だったんです。後三条天皇は、藤原氏と外戚(がいせき)関係のない、藤原氏を直接の母に持たない天皇は、宇多天皇(第59代天皇)以来170年ぶりのことでした。このことは藤原氏の権勢が下り坂となる原因となりました。ちなみに後三条天皇のあと即位したのが第72代白河天皇でした。
現在放送中のNHK大河ドラマ「光る君へ」では、一条天皇の第一皇子である敦康親王には、渡邉 櫂くんが演じてますが、敦成親王のちの後朱雀天皇は産まれてません😊。
よく晴れて厳しい残暑となった8日(日)。この日の最高気温は、35.3℃まで上がりました。年間猛暑日記録が44日となったので、昨年の記録を更新です。最低気温も25.6℃だったので、9月に入りましたが、真夏の気温が続いています。今夏は、上空高くまで高気圧に覆われる日が続き、厳しい暑さとなってます。京都市では、7月25日(木)から16日間連続で最高気温35℃を超える猛暑日となり、月平均気温は平年に比べ7月が2・1℃高い29・4℃、8月が1・6℃高い30・1℃でした。真夏の京都には来ないほうが良いかもですね、それでも海外の方は多く来られてましたが・・・。
そくな暑い9月8日(日)でしたが、私は早朝に車で家を出ます。毎週日曜日に所用があるので7時頃には行かなくてはなりません。それで、当初は嵐電も考えましたが、時間的に無理なので車にしたわけです。車で向かったのは金閣寺の近くにあるコインパーキングです。デーデーパーク金閣寺第4に、6時21分に車を入れました。
車を停めて、先ずは「白河天皇火葬塚」に向かいました。こちらは火葬塚ですが、陵墓は京都市伏見区にある「白河天皇 成菩提院陵」で、2012年(平成24年)5月24日に行ってました。


白河天皇(しらかわてんのう)は、第72代天皇。1053年(天喜元年)~1129年(大治4年)。在位は、1072年(延久4年)~1087年(応徳3年)。諱は貞仁(さだひと)。後三条天皇(第71代天皇)の第一皇子。母は、大納言藤原能信(よしのぶ)の養女である藤原茂子(ふじわらのもし)。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。また、白河天皇が造営した里内裏のひとつ「六条院」にちなみ、「六条帝」とも称される。父である後三条天皇の即位に伴い、1069年(延久元年)に17歳で皇太子となり、1071年(延久3年)に女御として入内した藤原賢子(ふじわらのけんし)(太政大臣藤原師実の養女・紫式部の娘とは別人)を迎え入れる。1072年(延久4年)に後三条天皇より譲位され、20歳で第72代天皇として即位。父である後三条天皇は自身の思いを子の白河天皇に託し、実仁親王(さねひとしんのう)か輔仁親王(すけひとしんのう)への譲位を促す遺命を出していました。ところが実仁親王が急逝すると、白河天皇は輔仁親王に皇位継承させず、1086年(応徳3年)、白河天皇は善仁親王(たるひとしんのう)を立太子させ、これと同時に譲位して、わずか8歳の善仁親王を、第73代天皇として堀河天皇を即位させました。上皇となった白河は、幼帝を後見するために自ら政務を執り、いわゆる院政が出現。以後も引き続き摂政関白は置かれたが、その実態は次第に名目上の存在に近いものとなって行きます。1096年(永長元年)、白河上皇は出家して法皇となったあとも院政を続けます。その堀河天皇も29歳という若さで崩御。そして、1107年(嘉承2年)に堀河天皇の第一皇子を第74代天皇として鳥羽天皇をわずか5歳という幼さで即位させます。すると、白河法皇による院政は本格化し、白河法皇を中心とする政治体制が確立しました。さらに、1119年(元永2年)に鳥羽天皇の第一皇子顕仁親王(あきひとしんのう)が誕生すると、白河法皇はこの皇子への譲位を画策。この頃、関白藤原忠実(ふじわらのただざね)の娘が入内しようとしていることが原因で忠実を勅勘処分にして内覧職権を停止。内覧職権を奪われた忠実は事実上関白を罷免された「保安元年の政変」で、摂関政治の衰退は決定的なものとなり、白河法皇は国政を支配する「治天の君」として君臨。そして1123年(保安4年)に、鳥羽天皇の譲位により2歳の顕仁親王を第75代天皇の崇徳天皇として即位させます。またしても幼帝が誕生したことで、白河法皇の院政はますます本格的になり、堀河、鳥羽、崇徳と3代にわたって続く強力な政権を築き上げました。1129年(大治4年)、77歳で崩御。











NHK大河ドラマ「平清盛」では、白河天皇を伊東四朗さん、藤原忠実を國村隼さん、鳥羽天皇を三上博史さん、崇徳天皇を井浦新さんが演じてました。


前方の右手の路地を入ると正面が京都市立金閣小学校で、そこの右手が次の目的地で「後朱雀天皇火葬塚」です。御陵は 龍安寺 朱山七陵の「後朱雀天皇 圓乘寺陵」にあります。








後朱雀天皇(ごすざくてんのう)は、第69代天皇。1009年(寛弘6年)~1045年(寛徳2年)。在位は、1036年(長元9年)~1045年(寛徳2年)。諱は敦良(あつなが)。一条天皇(第66代天皇)の皇子。母は藤原道長娘上東門院彰子(じょうとうもんいんしょうし)。同母兄に後一条天皇(第68代天皇)。一条天皇の次に即位したのは三条天皇(第67代天皇)でした。その三条天皇の皇子敦明親王が東宮を辞退したため、皇太弟となる。1036年(長元9年)に後一条天皇(第68代天皇)が没し第69代天皇として即位。翌年1037年(長暦元年)に三条天皇の娘禎子内親王(ていし ないしんのう)を皇后とし、ついで1038年(長暦2年)に関白藤原頼通の養女藤原嫄子を皇后とした。1045年(寛徳2年)に病気により皇子親仁(ちかひと)親王に譲位。親仁親王(後冷泉天皇)は第70代天皇として即位した。天皇の治世は疫病流行など災厄も多く、延暦寺僧徒の大規模な嗷訴、伊勢神宮禰宜らの入京上訴など寺社横暴の増大を感じさせる事件が起こっているが、1040年(長久元年)、荘園整理令に着手するが、結果的には権門擁護策に終わったが、天皇の政治への意欲もうかがうことができる。譲位した、その2日後に出家、同日崩御。37歳。
NHK大河ドラマ「光る君へ」では、まだ先でしょうけど、藤原道長(演:柄本佑)亡き後は、道長の嫡男で宇治平等院を造営した関白藤原頼通(演:渡邊圭祐)や、その弟である関白藤原教道(ふじわらののりみち・道長の五男)らが後朱雀天皇(第69代天皇)・後冷泉天皇(第70代天皇)に娘を入内させましたが、いずれにも皇子が生まれませんでした。藤原家による摂関政治は続いていくかに見えましたが、摂関政治の要たる男子には恵まれなかったことから、後冷泉天皇の後を受けて即位をしたのが、第69代天皇として後朱雀天皇(敦成親王・一条天皇の第三皇子)。その後朱雀天皇の第三皇子と禎子内親王(第67代三条天皇第3皇女)と子が後三条天皇(第71代天皇)だったんです。後三条天皇は、藤原氏と外戚(がいせき)関係のない、藤原氏を直接の母に持たない天皇は、宇多天皇(第59代天皇)以来170年ぶりのことでした。このことは藤原氏の権勢が下り坂となる原因となりました。ちなみに後三条天皇のあと即位したのが第72代白河天皇でした。
現在放送中のNHK大河ドラマ「光る君へ」では、一条天皇の第一皇子である敦康親王には、渡邉 櫂くんが演じてますが、敦成親王のちの後朱雀天皇は産まれてません😊。
よく晴れて厳しい残暑となった8日(日)。この日の最高気温は、35.3℃まで上がりました。年間猛暑日記録が44日となったので、昨年の記録を更新です。最低気温も25.6℃だったので、9月に入りましたが、真夏の気温が続いています。今夏は、上空高くまで高気圧に覆われる日が続き、厳しい暑さとなってます。京都市では、7月25日(木)から16日間連続で最高気温35℃を超える猛暑日となり、月平均気温は平年に比べ7月が2・1℃高い29・4℃、8月が1・6℃高い30・1℃でした。真夏の京都には来ないほうが良いかもですね、それでも海外の方は多く来られてましたが・・・。
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